「ねぇ、どうしようか?」
「なにが?」
「なにがって」

 祐一の気のない返事に、水瀬名雪は抱きしめていたけろぴーのぬいぐるみを脇に置き、不満げに嘆息をこぼした。非難めいた吐息は聞こえていたはずなのに、祐一の反応は鈍く、此方に見向きもしない。
 昨日、遊園地で予期せぬ自由落下に見舞われて気絶して以降、ずっとこの調子だ。一夜明けたにも関わらず、後遺症なのか今日一日腑抜けっぱなし。

「あゆちゃんと真琴だよ」

 床に寝そべったまま音楽雑誌から顔も上げず、祐一は「ああ」とも「うん」ともつかない唸り声めいた返事を寄越すだけだった。聞いているのかすら分からない。名雪はあまり返答を期待せずに先を続けた。

「今日ずっと変だったじゃない」
「……そうか?」

 こりゃダメだ。
 天井を仰ぐ。
 そりゃ、祐一が一番変だったけど。

「はぁ」

 脱力感を感じながら、名雪は昨日から今日に掛けての妹と居候である親友の様子を思う。
 一見普通にも見えなくないが、良く見ていると明らかに普段と違っていた二人。あゆはと言えば、何をするにも上の空といった感じで、昨日の夕食などおかずに手をつけずにお茶碗を空にしたと思えばお代わりをして、盛られたご飯をもう一度空にした後たくわんばかりをポリポリと齧り、それからようやく思い出したようにおかずの皿に箸を伸ばすという奇怪な行動を見せていた。他にも階段を登りきったにも関わらずさらに段を踏もうとしてつんのめってたり、トイレに入ったまま一時間近くも出てこなかったりと、どうにも見ていて危なっかしい。
 真琴は真琴で、めっきりと口数が少なくなってしまって、気が付けば難しい顔をして虚空を睨みつけている。毎週欠かさず見ているドラマも、TVの前に座ったものの頭に入っていないみたいだった。今朝なんか窓辺に腰掛けて外を眺めている始末。それを見たときは思わず口をあんぐりと開けてしまった。
 深窓の令嬢よろしく物思いに耽る真琴なんてギャグを通り越して不気味だ。
 まあ、決して似合ってないとは言わないけれど。

 ともかく、なんだかんだで水瀬家5名のうち一番煩いのが真琴であり、一番明るくお喋りなのがあゆであり、一番口さがないのが祐一であるからして、その三人があまり喋らないものだから、ついさっきの夕食の席などは日ごろと比べて随分と静かなものだった。
 尤も、これはこれで母・秋子は妙に楽しそうだったのだが。

 ともかく、水瀬名雪は悩んでいた。
 あゆと真琴に何かがあったのは間違いなかったし、それが昨日の遊園地で何かがあったからだろうことは容易に想像がつく。
 気に掛かって仕方がない。
 これが祐一や真琴だったらあまり深く考えずに、気に掛かるのならそれを晴らすように行動するだろう。あゆや舞ならば、果断をもって素早く相応の判断を下すはずだ。
 だが、名雪は慎重だった。
 幼少の頃、目の前で音楽雑誌を読み耽っている男との行き違いが原因で随分と辛い思いをした経験から、名雪は無意識にだが、何事にも考え無しに首を突っ込む真似は余程の事がないとしないようになっていた。無論、それは人間関係に深く踏み込むに消極的という意味ではなく、言わば拙速より巧遅を尊ぶといった類の性向の話だ。彼女の一見おっとりとしているように見える性格は、思慮深さの一側面と言えよう。
 だが、端から見ている分には、その慎重さは時にじれったく感じるものだ。
 祐一は横目でうんうん唸っている恋人を一瞥し、嘆息混じりに、

「おい、名雪」
「ふう。ん、なに?」
「気になるんだろ。だったらため息なんかついてないで、どうしたのか聞きにいけよ」
「……祐一、なんか他人事だね」

 唇を尖らせる名雪に、祐一は欠伸混じりに一言。

「めんどくせー」
「うー」
「その手の話は女同士でやってくれ。俺は知らん」
「……うーん」

 一応唸って見せているものの、名雪もいい加減此処で管を巻いているのも不毛だと思っていたのだろう。欲していたのはきっかけだ。

「……わたし、ちょっと真琴のところに行って来るね」
「おー、行け行け」

 雑誌から視線を外さずパタパタと手を振る祐一に背を向け、名雪はパタパタと部屋を出て行った。

「ったく、好きだよなあ、あいつも」

 自覚があるのかないのか分からないが、部屋を出て行く時の名雪の横顔。そこに浮かんでいたのは衒いのない好奇心だった。
 女はゴシップ――という程のものでもないが――好き、という偏見の内側に名雪も当てはまるらしい。
 祐一はさっきから痒みを感じていた鼻先をポリポリと掻いた。
 祐一も気にならないと言えば嘘になるが、女性ほど他人の色恋沙汰に興味津々とはなり難い。そりゃ小太郎が真琴にちょっかいを出すのは正直むかつくが、わざわざ邪魔なんかしたら自分が真琴のことで小太郎に嫉妬しているみたいなのでどうもしない。あゆの方は、あれで意外としっかりしているから、自分なんかが首を突っ込む余地などないだろう。
 だったら何故デートを密かにつけたりなんかしたのかと言えば、端から見物したりちょっかい掛けたりするのが楽しいからという意外の理由はない。
 結局、名雪の言ったとおり他人事なのだ。
 余程の事、どうしようもなく厄介で面倒なことにでもならない限り、恋愛なんてものは当人同士でやっていればいいものなのだから。

「ふぁぁ、風呂入ってもう寝よ」

 雑誌をラックに放り込み、祐一はダルそうに身を起こすと、名雪の部屋を出て一旦自室に戻り、寝間着を小脇に抱えて風呂場へと向かった。








 そこは雑然とした部屋だった。部屋の隅に積み上げられた漫画雑誌。乱雑に畳まれた布団。机の上には教科書やノートなどの雑貨が計画性もなく山となっている。目に付くコンビニのビニール袋や食べかけのスナック菓子。さすがに下着やスカートの類は見当たらないが、外出する際に羽織るジャケットなどが脱ぎ捨てられたままに放置されている。
 今はまだ生活臭が色濃いと表現できる範囲だが、あくまでギリギリの範囲だ。あと少し壁を乗り越えれば「雑然とした」から「猥雑極まりない」へと部屋の冠詞が変わってしまうだろう、そんな整理整頓がなっていない部屋だった。
 無論、水瀬家においてそんな部屋は次女真琴の自室以外に存在しない。
 その真琴の部屋で今、

「ぎゃー!」

 部屋の主が断末魔の悲鳴をあげていた。

「あうー、ろーぷろーぷ!」
「申請は却下します」
「あたたたっ、はっ、離せー」
「離して欲しかったらちゃっちゃと吐くんだよー」
「だから何をーっ?」

 逆エビ固めの苦痛に耐えながら、真琴は苦しげに頭を振る。
 部屋でぼけーっと寝転がっていたらノックがして、「どうぞー」と返事したらドアが開くと同時にいきなし飛び掛られて圧し掛かられて両足持たれてグギギギー、だ。そんで「吐けー」とか言われても、いったい何を吐けばいいのやら。
 普段はぽややんとしてる癖に、時々唐突に体育会系の顔を覗かせやがるのだ、この女は。訳がわからん。

「あっ、なかなか可愛いぱんつ穿いてるよ、この子」
「ぎゃーっ!」

 顔を赤らめ真琴は足をばたつかせた。プリーツスカート姿でエビ反りなんかさせられてたら丸見えになって当然だ。

「もーっ、名雪っ、なんのつもりよー!」
「うーん、あのね、ちょっと聞きたいことがあったんだけど、あらたまってこういうこと聞くのってなんか気まずいし、そもそも聞きにくいし、でも気になるしで、どうしようかなーって思ったんだけど、とりあえずまずは暴力に訴えてみようかなーって」
「訴えるなーっ!」
「いわゆる一つのスキンシップです、うにゅ」
「うにゅとか言ってごまかすなーっ、ってアタタタタ、ギブっ、ほんとギブっ」
「許してほしかったら、とっとと吐きなさーい」
「だからなにを」

 姉は待ってましたとばかりにほくそえむと、鋭くも穏やかな口調で言い放った。

「真琴、恋をしてるね」

 ビクッと刹那全身が震え、背に乗っかった名雪を落とそうと暴れていた動きが停止する。

「昨日、遊園地で何があったのかな?」
「――――ッ!!」

 正座して痺れた足を思い切り踏みつけられた時みたく、少女の身体は足先から頭頂部まで波が伝播するようにビリビリと痙攣した。
 身体を捻って背中の名雪を見上げた真琴は、目を丸くしてパクパクと金魚のように口を開いていた。

「ふっふっふ、さあお姉ちゃんに全部白状しちゃいなさい」

 肩越しににっこりと、それは愉悦としか言えない表情を浮かべて相好を崩した名雪に見据えられ、真琴はがっくりと床に顔を突っ伏した。ゴン、と額がいい音をさせた。






「そっか、キスまでしたんだ。真琴、えらいえらい」
「あうー」

 洗いざらい白状させられた真琴は、頭を撫でられ褒められても全然嬉しそうではなく、それどころか虚ろな目をしながら燃え尽きていた。

「で、どうするの?」
「……どうするって?」

 投げやりに応じて顔をあげた真琴は、そこにあった名雪の顔が微笑を湛えながらも思いのほか真剣だったのに驚き、居心地悪そうに居住まいを正した。

「小太郎くんとお付き合いするの?」
「…………」

 余計な枝葉のないシンプルで違えようのない直接的な問いかけ。
 答えず、こめかみの柔らかな小麦色の髪を弄りながら真琴は俯き、口を噤んだ。
 返答がないのを気にする風もなく、名雪は先を続ける。

「個人的には小太郎くん、可愛いから応援したいんだけど。真琴があの子のこと、どう思ってるかちょっと分からなかったんだよね。最近、ずっと小太郎くんに腰が引けてたみたいだったし」

 今年に入ってからの小太郎のアプローチは、名雪の眼から見ても積極的で果敢だった。
 メールや電話は欠かさずかけてきていたし、家の方にも度々遊びに来ている。それは執拗ではあったが不快感を周囲に与えるような粘着さはなく、ひたむきなその姿は健気ですらあり、名雪などは頑張るなあ、と微笑ましさすら抱いていたくらいだ。
 ところが対する真琴はと言えば、うろたえているようなあたふたしているような、どうにも落ち着かない態度なのだ。そこには、去年までのきっぱりと友達というレッテルを貼り付けて、取り付く島もなかった態度の残り香も見当たらない。
 最近では癇癪を起こして小太郎を追っ払うこともしばしばで、でもその癖、本当の意味で彼を遠ざけようとはしない。
 まるで散歩の途中で野良犬に懐かれてどうしたらいいか分からなくなってるみたいだ、と名雪はよく思ったものだった。
 それが昨日今日と、妙に肝を据えてみたいにして物思いに耽っている。
 これはつまり――――

「どうするのか、決めたのかな?」
「……あぅぅ」

 優しくも容赦の無い追求に、真琴は窮した。
 これでも名雪が自分のことを心配してくれているのはわかっていたし、それでもなお口を噤み続けることは、真琴には無理な話だった。
 実際、さほど切迫してダンマリを決め込みたいと思っていたわけではない。
 そして鬱々としたものを自分の中だけで溜め込むのは、真琴の性格的にキツいものがあった。
 観念した真琴は、諦観の滲んだ呻き声をもらすと、俯き、前髪に視線を隠したまま、恐る恐る口を開いた。

「あたしね、好きになった人がいたの」
「……うん」
「でもね、フラレちゃった」
「……そうなんだ」
「そのヒトには、他に好きな人がいたから」

 でもね、と真琴は訥々とした口調で、

「フラレちゃったけど、まだ好きなの。すっごくすっごく好きなの」

 名雪が余計な口を挟まず無言で自分を見守ってくれていることに勇気を得て、真琴は視線をもたげた。

「多分、あたしは小太郎のこと、好きなんだと思う。最初は認めたくなかったけど。でも、あいつに好きだって言われると胸が熱くなるし、笑いかけられたらあたしも笑いたくなる。傍にいてくれたら嬉しいし、鬱陶しいときも多いけど、他の女の子と仲良くしてたらなんか腹が立ってきて、むかついて」

 言ってるうちにそんな事を口に出している自分が恥ずかしくなったのか、ブンブンと首を振り、大きく鼻から息を吐いた。

「でも、そういうのってあたし、嫌なのよぅ。なんか、フラレたからって簡単に他の男に乗り換えるみたいで。嫌だったの」
「真琴」

 真琴の率直な言に、名雪は驚きと共に幾らかの得心も得ていた。
 そういう考え方は名雪には馴染みのないもので、真琴の気持ちは正直全部理解は出来なかったが、彼女がそんな風に思う理由は何となく分かることが出来た。
 真琴には、真琴なりの明確な女性像が存在するのだろう。それに背を向けるような挙を、自らに許せないのだ。以前から確かにそんな気配は感じていたが。
 名雪は内心、参ったなあと頭を掻いた。
 この子は傍目には何も考えていないあーぱー娘に見えるけれど、保母になりたいという将来の指針を明確に持っているように、実際はしっかりと地に足がついた一面を持っている。だけど、まさか内面にまでこんな風にきちんとした指針を置いているとは。
 純粋さの発露。無自覚の産物。指針の持ちようについてはなんとでも言えるだろう。でも、名雪は。気が付けば追い越されるどころか、遥か遠くに引き離されてしまいそうな、そんな予感を真琴に感じていた。
 不快ではない、喜びにも似た温かい予感を。
 そんな優しい目をした名雪の様子に気付くでもなく、真琴はポツポツと唇を震わせている。

「それに、まだあたし、小太郎よりあのヒトの方が好きだから。まだ胸が痛いから。だから小太郎のことどうすればいいか分からなくて」
「だから、邪険な態度とってたんだ」
「多分」

 真琴は低く唸り、酷く情けない顔をして、額に手の甲を押し当てた。

「あたしって、嫌な女よね」
「うーん、そうかもね」
「あうー」
「ああ、そうでもないかもしれないけど」

 笑って誤魔化す姉を萎れた上目で見やった真琴は、一息落とし、大きく息を吸い込んだ。
 ゴシゴシと額に当てた手の甲をそのまま擦り、手を下ろして上を向く。
 そして彼女は言った。

「悪いなあって自覚はあるの、自覚は。でもね、だからかな、だからあたし、開き直ったんだ」
「開き直ったって?」
「嫌な女でいいや、って」

 そう言って、真琴は口許を歪めた。
 それは、名雪が思わずハッとするような女の笑みだった。

「まだちょっと踏ん切りつかなかったんだけど、今お姉ちゃんと話してて腹が据わっちゃった。しばらく、小太郎とは付き合わない」
「付き合わないの?」

 ちょっと目を丸くして問い直す名雪に、妹は大きくはっきりと頷いて見せた。

「うん、付き合わない。恋人にはなってやんない。だって、まだ役不足なんだもん。俊兄からこのあたしが乗り換えてあげるには役不足。ダメなのよぅ、全然ダメ。このままだとあたし、妥協したって自分で思っちゃうもん」
「……うわぁ」

 思わず名雪は感嘆とも呆れともつかない声を漏らした。
 これはなんとも、大した言い草だ。

「でも、俊兄みたいに他の女に盗られちゃうのは嫌だから、近くに適当にはべらしとくの。キスはね、その餞別。このあたしの恋人候補に認めてあげた証なの。ほんとの恋人になりたいなら、もっとイイ男になんなさい、ってねー」
「でも、他の女の人のところに乗り換えられたらどうするの?」
「ありえないわよぅ」
「どうして?」

 真琴は、自信満々に莞爾と笑い、胸を張って言い放った。


「だってあたし、イイ女だもん!」


 一瞬名雪は呆気に取られ、次の瞬間――

「―――あはっ」

 頭のどこかの線が爆ぜた。

 止め処もなく笑いの衝動が溢れ返ってきて、名雪はこらえきれずにおなかを抱えて笑い転げた。
 いや、もうこれはなんと言うか。大したもんだよ。凄い。最高。

「い、いい女って、あはっ、ははは」

 そんな姉をニヤニヤと相好を崩して眺めていた真琴も、やがてこらえきれずに吹き出してしまい、爆笑の渦へと飲み込まれる。二人して、バカみたいに笑い転げた。
 何が可笑しいのか理由なんて全然見つからなかったけれど、とにかく笑わずにはいられなくて、だから笑って笑って、涙が出るほど笑いまくった。

「あはっ、あははは、真琴、まこと、それ最高っ、さいこーだよ」
「うぷぷ、そんなの、当たり前よぅ」
「ああっ、もういいなあ。すっごくいいよー」

 名雪は感情の赴くまま真琴に抱きつき、脇に頭を抱え込んでグリグリと撫で回す。

「あ、あうーっ、ちょっとやめてー」
「やーめーなーいー」
「ああもうっ、髪かき回さないでよぅ」

 一頻りじゃれついて満足した名雪は、笑いながら文句を言う妹の頭にそっと口をつけ、鈴を鳴らすように囁いた。

「ねぇ、自分で気付いてた?」
「あう?」
「真琴、すごく変わったよ」
「あたし?」
「うん、いつ頃からかな、よく覚えてないけど。ガラッと変わった。なんか子供っぽい部分が抜けちゃって凄く大人っぽくなっちゃった」
「…………」
「女の子は恋をすると変わるって、ほんとなんだね」
「……や、やめてよぉ、そういう恥ずかしいこと言うの」

 クシャクシャに相好を歪め、真っ赤に染まった顔を猫が毛繕いするように両手で掻き毟る。照れたらしい。無性にその仕草が可愛くて、名雪ははにかむ妹の首を改めてギュッと抱き締める。改めて思う。
 この子はきっと、もっともっと素敵な女性になっていくはずだ。自分などでは及びもつかないくらいの領域まで駆け上っていくに違いない。彼女の内なる光は輝きを増しつづけ、やがて収まりきれずに外まで滲み出し、人々を魅了せずにはいられなくなる。
 それはきっと、そう遠い未来の話ではない。
 まったく、あの可愛い少年の目は、本当に高いと思う。彼女の価値を一目で見抜いていたのだから。
 さあ彼は、果たして自分が見つけた宝石を、手に取ることが出来るのだろうか。
 狐の姫は、簡単には捕まってはくれる珠ではない。彼女は誇り高く素直ではなく、堅牢できまぐれだ。尻尾は掴めても、風車みたく振り回されるに違いない。それでもなお離さずに居られるか。彼女の眼鏡に適えるか。
 二人の道程は、まだまだ途についたばかりというわけだ。

 くすぐったいような心湧き立つような気分の中、水瀬名雪は認識を新たにした。

 やっぱり、この子のお姉ちゃんするのって、すごく楽しいや。










「あゆ? さあ、あたし達と一緒に居るときは何もなかったけど」

 しばらく小太郎をネタに言葉巧みに真琴から色々な話を引き出して楽しんでいた名雪であったが、もう一つ聞いておかなければいけなかったことを思い出し、遊園地であゆに何かあったのかと訊ねた結果、返ってきた答えがそれだった。

「途中から様子は確かに変だったわよぅ」
「ふぅん……真琴はどう思う?」
「どう思うって、てんちょーと何かあったに決まってるじゃない」

 何を当たり前のことを聞くのだとばかりに、真琴は鼻を鳴らして抱えていたクッションをぞんざいに放り投げた。

「どう見てもそうじゃないのよぅ」
「あははは」

 言い切る真琴に名雪も苦笑を浮かべざるをえなかった。

「でも、てんちょーがあゆのこと好きだって言うのはちょっと意外かも。全然そんな素振りなかったし。でも、あゆのあの様子は絶対向こうからよねえ」
「わたしは意外でもないかな」

 それは泉に小石を投げ入れるかのような一言で、真琴はいきなり響いた水音に反射的に顔を向けるみたく名雪の双眸を窺った。

「だって、うーんなんて言ったらいいのかな。あゆちゃんって、こういうと悪いんだけど、やっぱり子供っぽく見えるでしょ」
「あー、そんなこと言うとあゆ、泣くわよぅ。あたしも同感だけど」

 あゆちゃんには言わないでね、と半笑いで口止めして、名雪は先を続けた。

「雰囲気とか言動が、元気というか可愛いというか。だから祐一とか北川くんとか、わたしもだけど、どうしても普段は年下みたいに扱っちゃう面があるんだよね」

 少し反省を混じらせながら言う名雪に、真琴はそれが当然とばかりに頷く。そんな態度の妹に小さく苦笑を浮かべながら、

「でも、あゆちゃんって子供っぽいのは外面だけで、中身ってすごく大人っぽいでしょ」
「うーん、そうかな。まあ、認めたくないけど、そうかもね」
「それでね。わたし、よくお店に入り浸ってるから二人のことけっこう長く見てるつもりなんだけど、雪村さんだけは、あゆちゃんのこと普段から全然年下扱いどころか子ども扱いもしないんだよ」

 ああそういえば、と言った感じで真琴が目を瞬く。

「雪村さんが元々年齢とか性別とか外から見える部分を全然気にしない、というかあれは認識しようともしていないのかな? ともかく、そういう人だからかもしれないけど、あゆちゃんのこと、雪村さんが一番大人の女性として見てて、扱ってると思うんだ」
「あうー、でもそれがどうつながるわけ?」
「つまりね、それって雪村さんはあゆちゃんのなかなか分かりにくい大人の女性としての魅力に一番気付きやすい人ってことでしょ」

 微かに勢い込んでいる姉上に、真琴は半眼を向けた。

「……名雪、さり気に酷いこと言ってる」
「こほん。問題発言はさておきます、うにゅ」
「誤魔化すときにつかうんだ、うにゅって」
「えっと、だから、今雪村さんが一番一緒にいる時間が長いのはあゆちゃんなんだし、好きになっても全然おかしくないよ」
「あう、スルーされた」

 厳しい一言を名雪は強引に無視して、

「雪村さんって神経質そうに見えて、大らかだし捻くれたところがないでしょ。性格的に駆け引きできない……じゃなくて駆け引きなんてまるで頭にない人だと思うんだ」
「さりげなく単細胞とか言ってない、それ?」
「だから、基本的に純粋で裏表がなくって、さっぱりしててしっかりしてるあゆちゃんなんか、絶対雪村さんの好みのタイプだと思うんだけど」
「つまり、単純バカは惹かれあうって言いたいの?」

 ――ぶち

 名雪はにこやかに、この間祐一から無理やり身体に教え込まれたさそり固めを、真琴相手に試してみた。

「いい加減にしないとお姉ちゃん怒っちゃうよ〜」
「ギャァァァッ、ギブッ、ギブギブっ! ごめん、謝るから、ごめんなさい!」
「まああゆちゃんも雪村さんもわたしなんかよりよっぽどしっかりしてるし、首を突っ込んでも引っ掻き回して邪魔するだけだよね」
「あ、うう、あたしも、そう思う。放っておいたほうが」
「だから次はアキレス腱を固めてみようと思います、うにゅ」
「脈絡が全然ないじゃないのよぅ、ってギャァァァァ! 痛い、イタタタタタ! 痛いってぇ!」
「うん、知ってるよぉ。痛いんだよねえ、これ。でも、次の方が痛いんだよ、やってみるね」
「当たり前のように次とか言うなぁぁ、ってほんとにするな、イギャァァァァ!!」
「どんどんいくよ〜」
「いやぁぁぁぁ!」











「……なにやってるの、あの二人?」
「俺が知るか。姉妹喧嘩かなんかだろ?」
「真琴ちゃんの悲鳴ばっかり聞こえるんだけど」
「あれで名雪は体力バカだからな。食っちゃ寝の真琴じゃ敵わないだろう」

 実際はあながち食っちゃ寝でもない、というか一番食っちゃ寝なのは祐一の方なのだが、それはともかく、丁度風呂から出てきた祐一と部屋を出たところで行き会ったあゆは、階上から途切れ途切れに聞こえてくる真琴の聞いてるだけで痛そうな悲鳴に、やや唖然としながら小首を傾げた。

「それであゆあゆさんや」
「な、なに。って、あゆあゆって言わないでよ」

 むくれるあゆを、ひらひらと手を振っていなし、祐一は何気ない口振りで、

「コクられた気分はどうなんだ?」
「…………なっ」

 ボン、とあゆの顔が音を立てて上気した。

「ななななんで祐一君、そんなこと知ってるんだよ!?」
「いや、知らん。ちょっと言ってみただけだったりして」
「うぐぅ!?」

 ニヤリ、と悪戯っこそのままの笑みを見せる祐一に、あゆは頭を抱えた。
 あゆは自分の首を絞めて、思いっきり揺さぶりながら「なんでそんなに毎回あっさり引っかかるんだよ!?」と問い詰めたくなる。

「いや、名雪の奴が随分気にしてたからな。お前、様子変だったし」
「そ、そうなんだ。心配かけてごめん」
「大丈夫だ。俺は全然心配してない」
「うぐぅ」
「してないが、まあせっかくだし一応聞いておいてやろう。それで、どうするんだ?」
「ど、どうするんだって」
「コクられたんだろ? 付き合うか断るかじゃないのか?」

 不思議そうな顔をする祐一に、あゆは知らず言葉を詰まらせた。
 それは……確かにその通りだけど。
 途方に暮れる。それをどうすればいいのか分からないから、こうやって頭を悩ませているというのに。能天気で他人事な祐一の言い草に、あゆは若干恨めしさを抱きながら、でも縋るように訊ねてみた。

「……祐一君は、どうすればいいと思う?」

 俯き、掠れてすらいる声で呟くあゆの面差しは見るからに重たげで、祐一は呆れかえってしまった。

「あのなあ、あゆ。お前、そんなこと人に訊いてどうするんだよ。俺に分かるわけないだろうが。だいたいだな、そんなの、お前が相手のやつを好きか嫌いかだろう? なにか複雑な事情でもあるんなら別だけど、他人にお伺いたててどうするんだ」
「――――っ!」

 何やら虚を突かれたように目を瞬いているあゆに、さすがに投げやりに過ぎたか、と祐一は気まずいものを感じて、取り繕うように続けた。

「まあなんだ。相談して欲しいことがあるなら聞いてやらんでもないぞ。なにしろ俺は全世界でも有数の頼りになるナイスガイらしいからな」
「……祐一君が頼りになるなんて初めて聞いたよ」
「……あからさまに頭の中は他の件で一杯ですって態度で、適当にそういう返事されるのってスルーされるのより傷つくぞ、うん」

 とは言いながらも、言葉とは裏腹に祐一の表情は平然としたもので、何やら考え込んでいるあゆの頭に軽く手を置く。

「ああそうだ、風呂、今のうちに先入っておけよ。秋子さん、まだ片付けしてるし、上のバカ姉妹はしばらく遊んでそうだからな」
「あ、うん」
「んじゃ、おやすみ」
「あ、祐一くん」
「なんだ?」

 階段を上がりかけたところで呼び止められ、茹ってやや上気している顔を手で仰ぎながら、祐一はあゆを振り返った。

「ありがとね」
「……俺、なんかしたっけ?」
「うーん、微妙」

 えへへ、とあゆははにかんでみせた。

「微妙かよ。まーなんだか良く分からんが、貸しにしておいてやろう。今度返せ」
「じゃあ今度お店に来たとき、コーヒー10円割引してあげるよ」
「……ほんとに微妙だな、おい」
「だって微妙だし」
「へいへい、どうせ微細にしか頼りにならん男ですよ。じゃあな、また明日」
「うん、おやすみ。って、まだ八時なんだけど」

 聞こえなかったのか聞こえない振りなのか、祐一はスタスタと二階へとあがっていってしまった。
 なんとなくその後姿を見送ったまま、あゆはその場でぼんやりと佇んでいた。

「好きか、嫌いか、か」

 確かに、複雑なことは何もない。

「……お風呂、入っちゃおう」

 栓を抜くように息を吐いて、あゆは踵を返した。
 台所に顔を出し、秋子さんに先に入る旨を伝え、寝間着を携えて風呂場へと向かう。
 脱衣所で服を脱いでいるうちに、不意にこの家に住み出した頃のことを思い出した。最初は、祐一と同じ風呂を使うことが妙に気恥ずかしくて、入るたびにドキドキしていたものだった。
 尤も、そんなのは慣れてしまえばどうというものでもなく、半月もすれば何も感じなくなっていたけれど。今となっては、洗濯籠の中に放り込んである祐一のトランクスを目にしてもまったく動じなくなってしまった。勿論、自分の下着は祐一の目に入らないように気をつけてはいるが。

「ふぅ」

 自然と漏れ出る吐息をこぼしながら、湯船に肩まで身を沈める。
 じんわりと内側にまで染み込んでいく温もりが、甘い痺れとなって全身へと伝播していった。
 水瀬家のお風呂は今流行りのユニットバスではなく、足を伸ばして寛ぐというわけにはいかなかったが、あゆ程度の体格ならば充分な大きさの湯船で、あゆは結い上げた髪が湯に浸からないようにだけ注意しながら、ブクブクとさらに体を沈めていく。
 ポワポワと、段々意識が曖昧模糊としてきて、あゆはうっとりとお湯の浮力に身体を委ねた。そうしてぼんやりと物思いに耽る。
 考え事をするには、やはりお風呂が一番最適だ。心身ともにリラックスした状態で余計なものに紛らわされず、思索に耽溺できる。エウレカエウレカ。

「数学は苦手だよ」

 算数と言わなくなっただけ成長だろう。
 最近はレジだって任せて貰えるし、いずれ財務諸表の記帳の仕方も教えてもらう約束だって取り付けている。

「……財務諸表ってなんだったっけ?」

 雑談の中で簡単に教えてもらったような記憶があるが、物覚えの悪さにはこれでも自信がある。それだけだとただのダメ人間に見えるが、これでも一度覚えたものは絶対忘れないから、きっと差し引きはゼロだ。

「じゃなくて」

 ゴツンと後頭部を湯船の縁にぶつける。
 思考が横道に逸れていた。そうじゃない。問題は数学でもエウレカでもなく、好きか嫌いか、そういう事なのだ。
 月宮あゆは、雪村要を好きか否か。
 そもそも自分は、あの人を一人の男性として見ているのだろうか。
 そう、思った瞬間、あゆの脳裏にあるシーンが浮かんだ。
 そこは朝靄が焚ける駅の構内。重厚な列車の走行音、駅の発車ベルや駅員の吹く笛の甲高い音色、通勤や通学でごった返す雑然とした空気のざわめきと、かき混ぜるような大量の靴音。そうした様々な音たちに満ち満ちていたはずなのに、あゆの記憶には音声がまるで残っていない。
 真空のような静謐さの中、あの人は、声もなく泣いていたのだ。
 歯を食いしばるように引き結ばれた唇と、耐えがたい衝動をじっとこらえるように強く閉ざされた瞼。時間の感覚はまるでなかった。ただ、魅入られたように、じっとその横顔を見つめていた。いつまでも、いつまでも。
 あんなに広い肩幅が、あの時ばかりは小さく思えた。その肩に手を置いたときの感触を、今でもありありと思い出すことが出来る。

「……ボクは」

 多分、あの日からだったのだろう。月宮あゆが、雪村要をただの上司、ただの年上の友人として見なくなったのは。
 それは好意を抱いたとか、惚れてしまったとか、そういうことではない。断言しても良いが、自分が彼に対して好きという感情を抱いていたことは無かった。あの時、彼に感じたものは、そういった類のものではなかった。
 敢えて言うなら共感、そして親愛だ。
 あの日、雪村要は、あゆに偽らない本音と素顔を見せてくれた。あゆにだけ、見ることを許してくれた。彼が自分という人間に抱いてくれている信頼の大きさを、あゆは身が震えるほど感じた。あゆという人間に、自身の一番奥底の感情を曝け出しても構わないと思ってくれたことが、とてつもなく嬉しかった。

「そうだ。ボクがあの人のこと、要さんって呼ぶようになったのは、あれからだ」

 それは秋子や真琴に感じているような、家族の情とは違った。名雪や栞たちに抱く親友としてのものとも違う。かつて祐一に対して抱いていた甘く切ない思いとも異なっていた。
 不思議で、穏やかで、安堵にも似た感覚。
 皆とはまた別の意味で、雪村要は月宮あゆにとっての特別な人だったのだ。

 でも、それはあくまでこの間までの話。
 前と変わらないのなら、こう言えば済む。

『ごめんなさい。要さんはボクにとって凄く大事な人で、大きな存在なんだけど、異性としては見れないよ』

 簡単だ。
 こう言えば前の通り。
 いや、向こうは別に返事は必要ないと言っていたのだから、別に口に出して言うこともない。自分がそう考えているのだと認識すれば、気持ちは片付く。
 片付くはずなのだが。
 全然、気分は優れなかった。
 もやもやは晴れない。胸に出来たしこりは、異物感を発揮し続けている。
 つまり、これは月宮あゆの現在の気持ちとは異なっていることを意味する。
 だから、すなわち、つまり…………えーっと。

「ああもうっ、どうせボク単純なんだから、クドクド考えててもダメなんだ!」

 いい加減煮詰まって、あゆはパシャンとお湯をすくって顔にぶつけた。
 朝の洗顔のようにすっきりとはいかなかったものの、なんとか気分は切り替わった気になる。
 そう、改めて自分を振り返る。
 躊躇い、逡巡、怖れ、戸惑い、それらが問題の本質に手を掛けることを制止していた。
 その周りばかりをグルグルと歩き回っている。
 そんなことじゃ、何処にもたどり着けないに決まっている。何時までも、何も終わらず始まらないままだ。

「……くっ」

 あゆは、さらにお湯をすくって掌で何度も何度も頬を張りつつ、自らを奮い立たせた。
 勇気を出せ、月宮あゆ。びびるな、逃げるな、背を向けるな。ちゃんと目をかっぽじて自分の胸の中に敢然と胡座をかいて据わってるものを直視しろ。
 問題は以前の感情ではなく、今、今、今この時の、この瞬間の、自分の気持ち。
 さあ、制限時間は5秒間。速やかに滞りなく、率直に、頭を真っ白に答えてください。
 準備はいいですか? いいですね?
 では、問題です!


 月宮あゆさんは、雪村要が好きですか!?


「…………」


 答えは。


「――――――――ッッ!!」

 答えは、笑ってしまうほどあっさりと、そしてくっきり明確に、出てきた。
 その瞬間、あゆは目をまん丸に見開き、全身を戦慄かせた。

「うわっ、わわわわわーーー」

 たまらず声が漏れる。動転する。慌てふためく。その挙句、お尻を滑らせ、素ッ転び、お湯の中でおぼれそうになった。
 いささかお湯を飲みながら、必死に湯船の縁にしがみ付き、咽て、息を荒らげ、

「――――――――――っっ!!」

 両手で顔を覆った。
 心臓が馬鹿みたいに行進曲を歌いだした。歌にあわせて鼓動が爆発し、血液が踊りながら頭へとのぼっていく。顔が逆上せたどころか沸騰したみたいに熱い。
 肉体と精神が手を取り合って、全身全霊を掛けて、歓喜の歌を合唱する。
 世界が弾けていた。爆発していた。周囲を覆っていた壁が吹き飛んで、目の眩むぐらい広大で、想像を絶するほど色鮮やかな世界が目の前に広がっていた。

「どうしよ、どうしよう、どうしよう」

 わなわなと震え、自らの身体を抱きしめながら、あゆは繰り返した。
 どうしよう? どうすればいい? そんなの、どうしようもないに決まっているじゃないか。
 どうすることも出来ない。どうしようもない。どうもこうもない。
 あゆは、擾乱する心の奥で、燦然と輝きつづけていたものに気付いた。
 それは、彼から渡された魔法の鍵。

「ボク、ボク……」

 目の前には、もう扉がある。
 鍵を渡されてから、見つけることの出来なかった扉が。

「ボク、要さんのこと、好きだ」

 もう躊躇うことなく差し込まれた鍵は、新たな世界の扉を開くのだ。

「こんなにも、大好きだったんだっ」

















 静かな店内に、コーヒーメイカーが奏でる小気味良くも心地よい音が響いている。
 雪村要は、これまで使った事の無いとっておきの陶磁器のカップを丹念に磨きながら、音色に耳を傾けていた。
 開店時間には程遠い、透き通るような朝の時間。普段なら、現在唯一の店員の通勤を待って開店準備に取り掛かりはじめる時間帯。
 そんな時間に、雪村要はコーヒーが奏でる音色を聞きながら黙々とカップを磨いている。

「そろそろ、か」

 時計を見やり、彼は作業の手を止めた。
 カップを皿の上に置き、沸かしたお湯を注ぐ。そうやって、カップを温める。
 いつでも、コーヒーを注げるように。もうすぐ店へと駆け込んでくる彼女に飲んでもらえるように。
 今、音色を奏でているコーヒーは、今度メニューに並べたいと思っている新作のブレンドだ。自信はある。是非、最初に彼女の意見を聞いてみたい。

 最初の一言はまず間違いなく『アチっ!』だろうがな。

 鮮やかに脳裏に浮かぶその光景に、口許を緩めつつ、雪村はドアを見やった。
 まるで彼女の駆ける足音が聞こえてくるかのようだ。
 いつに無く心浮き立つ自分を見つけ、店主は緩みきってしまった口許を隠した。

「まったく、我ながら」

 それ以上の言葉を遮るようにして、カウベルが鳴り響く。
 そして、溌剌とした彼女の声が。

「あ、あの、おは、おはよう、ようございます!」
「おはよう、あゆ君」

 この上なく元気よく、盛大にどもりまくっている挨拶を輩に。

「要さん、ボク、ボクね!」

 あまりにも眩い朝日を背にして、息を切らせて飛び込んできた愛しき少女に目を細め、

「まあ待ちなさい」

 勢い込む彼女を宥めながら、雪村要は用意していた台詞を、いつもの如く愛想の悪い口振りで、
 告げた。


「その前に、コーヒーでもどうだろう。君のために淹れておいたんだが」





Innocent Kiss fin


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