―――― 今日 水瀬さん宅『あゆの部屋』


 そっと手を広げ、見つめる。
 その小さく白い左手には、だが何もない。だけど、月宮あゆはその掌の上に確かな重みを感じていた。
 そこには魔法の鍵がのせられているのだ。
 見えない魔法の鍵を、月宮あゆはじっと見つめていた。
 その鍵は、重く、そして灯火のようにジリジリとした熱を発している。伝わるその熱は、風邪を引いたときのように頭の中を曖昧にさせた。
 あゆは片膝を抱き寄せると、顔を横にして膝頭に頬を乗せる。そして、不可視の鍵を持った左手をギュッと握り締めた。同時に目を閉じる。
 鍵は、視界を閉ざすことでより鮮明にあゆの意識のその姿を焼き付けてきた。
 ストーブをつけていないせいか、部屋の中はたゆたうような冷気に満たされている。だけどその冷たさは、この鍵から伝わる熱を冷やしてはくれない。
 思考が停滞している。昨日から、何も考えられない。いや、考えようという意思が湧き立たないのだ。
 考えてしまえば、昨日を境に自分の世界が変わってしまったことを認めざるを得なくなる、そう感じていたから。
 もう少し、もう少しだけ、この鍵に意味を持たせず、感じていたかったから。
 純粋に、感じていたかったから。

 小指を唇に添え、そっと撫でる。ゆっくりと瞼を開く。

 昨日は既に遠ざかり、今日が終わり、明日が来ようとしている。
 そろそろ時間切れだ。明日は仕事に行かなければならない。あのヒトと会わなければいけない。
 だから、決めておかないと。
 彼から手渡されたこの魔法の鍵を、どうするのかを。
 あの人は答えはいらないと言った。多分、本当に必要としていないんだろう。
 だが、あゆはこの鍵をどう使うかを決めなくてはいけなかった。自らに問い、その答えを得なくてはならなかった。
 この鍵は、新たな世界を開く鍵。扉は提示され、鍵はあゆへと預けられた。
 開くか否かはあゆの気持ち次第。急がずともいいのだろう。時間の制限はないのだから。時期を待つ、という選択肢も在りえる。
 だが、鍵を握り締めたまま立ち尽くすのだけはダメだった。選ばず、ただ狼狽しているだけでは、鍵を手渡してくれた彼に対して、どう接すればいいのか判らなくなる。
 あゆは自分が不器用なのだと自覚していた。不器用だから、曖昧模糊とした状態のままでは竦んで身動ぎも出来ないのだと判っていた。
 だから、考えないと。
 でも、頭が動こうとしなくて、ただぼんやりと虚空を眺めているばかり。

「はぁ」

 思わずこぼしたため息と重なって、

 トントン、と。

 ドアをノックする音が響いた。








 ―――― 一日前 テーマパーク『エネミーランド』


 漆黒であった視野が唐突な光の氾濫に晒されて、混乱する。頭が揺さぶられたみたいにグラグラ。
 お陰で、あゆはようやく我に返ることが出来た。
 気が付けば、ホラーハウスの出口を出たところ。
 思わずキョトキョトと首をめぐらし、あゆは傍らに立ち人を見つけた。
 もう必要ないはずなのに、しっかりと繋がれた手。見上げた彼のその時の表情は、ちょうど陰になって窺えず、ただあの時の感触を思い出し、あゆは空と同じ色に顔を染めて俯いたのだった。
 頭の中はパニック寸前だったけれど、まだ放心が抜けきれていないような感触で、表向き取り乱すことはなかった。取り乱せるほど意識が現実に追いついていなかったのかもしれない。だからあゆは一旦考えるのは止すことにした。これはきっと、とても重要な問題で、安易に答えを出してはいけないものだと思うから、今中途半端に頭を働かせるべきじゃないと思った。慌ててはいけない。焦ってあの行為の意味を変な風に位置付けてはいけない。あとでゆっくりと、落ち着いて、考えるべきものなのだ。

「あ、出てきましたよ」
「ほんとだ。あゆー、生きてる!?」

 ベンチに腰掛けていた真琴と小太郎が、早足に近づいてくる。

「あっ、うん、なんとか」

 慌てて繋いだ手を振り払いながらあゆはコクコクと頷いてみせる。
 思わず乱暴に手を払ってしまったのに気付き、あゆは恐る恐る傍らの人の横顔を窺った。
 出口から歩いているうちに太陽の位置が変わったため、その横顔は西の空に消えかけている日差しに照らされてはっきりと見ることが出来る。
 ものすげー不機嫌そうだった。

「うぐっ」

 一瞬怯みかけたものの、雪村要にとってはそれが地顔なわけで。
 今ではだいぶ彼の表情を読み取れるようになっていたあゆの見る限り、どうやら何も気にしてはいないような様子で、思わず彼女は安堵した。相変わらず、傍目と違っておおらかというか細かいことは気にもしないというか。
 ただ、自分がそんな風に彼に気を使うのが、単にいつもの自分の性格ゆえなのか、それともまた別の要因があるのか分からなくて、あゆは頭を振った。
 今は、まだ考えてはいけない。

「で、どうだったのよぅ?」
「う、うぐぅぅ、思い出させないでぇぇ」
「実に怖かった」
「てんちょー、怖かったんならもっと怖かったんだーって顔しなさいよぅ。見てるこっちがわかんないんだから」
「していないか? ふむ、怖かったという顔か……こうか?」
「あうぅ、こ、怖い顔をしろとは言ってないでしょ!」
「?」

 怯えられてしまい、片眉を傾けて、自身の頬を撫でる雪村。
 触っても判るまいに。
 ちょっと呆れながら自分の顔を撫でまわす傍らの人を見上げていたあゆだったが、真琴たちの方を見やった拍子に、真琴の隣でにこにこと笑っている少年の顔を見て、あれっと声をあげた。

「小太郎くん、それどうしたの?」
「はい?」
「頬っぺた」
「ああ」

 左の頬を赤く染めた小太郎は、何故かにっこりと笑って嬉しそうに言った。

「ぶん殴られました」
「……?」

 キョトンと目を瞬くあゆ。
 誰に? なんで?

「不埒な真似をしてしまったので、はい。こう、ガツンと」
「なに嬉しそうに言ってるのよぅ。マゾか、あんたは」
「いやあ」
「照れるなっ」

 ピシャンと少女の張り手が少年の額で小気味いい音を立てた。
 女の子めいた悲鳴をあげて蹲る小太郎を捨て置き、何事もなかったかのように真琴はご機嫌に声を弾ませた。

「じゃあ、次どこに行こうか!」
「パターゴルフ」

 即答する人が一人。

「……うぐぅ」
「……あう」
「あたたた」

 決然たる自分の提案に対する他三名のコメントを聞き、雪村要は満足げに頷いた。

「では、それで決定だ」
「って、勝手に決めるなー!!」



 提案者は下手の横好きだったとだけ記しておく。










 秋の日の釣瓶落としほどではないものの、春とはいえど日が陰るのは早い。
 世界は夜へと沈み、ライトアップされた園内は昼間とは違った容姿を訪れた者たちに垣間見せている。
 ホラーハウスを出た後も、幾つかのアトラクションを回った四人だったが――主にパターゴルフに時間をとられたのだが――、そろそろ帰途へとつかねばならない時間へと差し掛かっていた。一応、少し遅くなると事前に家長である水瀬秋子には伝えていたものの、程度というものがある。
 楽しい時間の終わりを目前にした時に特有の忙しない気分に背を押され、四人は少し足早に園内を闊歩していた。

「最後、どれか乗ります?」

 次のアトラクションでタイムアップだろうと判断した小太郎は、パンフを開きつつ皆を振り返った。
 ぴょこんと飛び跳ねるようにして、真琴が手を挙げ、指を差す。

「あれ!」
「真琴さん、ほんとに定番好きですね」

 迷いもせずに指差した方を見て、小太郎はなんとも不思議な笑みを浮かべた。

「なによぅ、文句あるの?」
「いえいえ、そんなお約束な真琴さんも好きですよー」
「あーはいはい、勝手に言ってろ」

 じゃれ合う二人の前に聳え立っているのは、眩くも上品なライトアップに浮き上がる巨大なリング。大観覧車だ。

「お二人もそれでいいですか?」
「自分は構わないが」
「ボクもいいよ」

 特に反対する理由もなく、あゆと雪村も同意する。
 あゆからすれば、いささかスリルがありすぎる絶叫マシンよりも観覧車のような落ち着いた乗り物の方が好みだった。
 下から見上げると、眼の眩みそうな高さまでゴンドラがあがっていく。
 夜景、綺麗なんだろうなあ、とあゆは目を細めた。
 幼い頃から高い場所から眺める景色が好きだったことを思い出す。

「じゃあ、先に行くわね」
「お先にですー」
「あ、うん……え、ちょっと」

 真琴と小太郎はさっさとあゆたちを置いてけぼりにして先に駆けていってしまった。少し呆気に取られて見送ってしまう。
 ゴンドラへと乗り込んだ真琴は、何やら楽しげにはしゃぎながら身体を揺すってゴンドラ自体を揺らし始めた。慌てて外から扉を閉めようとした従業員の若者が真琴に何か注意している。

「あーあ、真琴ちゃんたら」

 怒られてシュンとなってしまった真琴の様子に思わず苦笑してしまったあゆだったが、不意に首筋を撫でた夜特有の冷やりとした風に自分の状況を思い出した。また、雪村と二人きりになってしまったことを。
 まさか此処でいきなり二人きりにされてしまうとは想像もしていなくて、心の準備を整えていなかったために、何をどうしたらいいのかわからなくなる。意味もなく動揺している自分に、あゆは頭を抱えた。

「いまさらなんだが、高いところは大丈夫なのか?」
「え?」

 唐突に降ってきた声に、あゆは我に返った。

「ジェットコースターに乗れたのだから大丈夫だとは思うが、これは長時間高所に滞在する乗り物だからな」

 以前、自分の口から事故のことは話している。
 あの事故の所為で、高いところが苦手になっているのではと気遣ってくれているのだと気付いた。

「あ、うん。大丈夫。というか、ボクは高いところは今も全然平気なんだよ。見てた祐一くんの方はまったくダメになっちゃったみたいなんだけど」
「ほう」

 気が付けば、地面に倒れ伏していたからだろうか。高所や落下に対する恐怖感は今も殆どなかったりする。あっても人並み程度のものだ。なまじ、落下から激突までの一部始終を目撃してしまった祐一の方がショックが大きかったのだろう。元々高所恐怖症の卦はあったところにその経験が致命的になってしまったと言える。
 そういえば、先ほど『マラッカ海峡の海賊』という仮想体感アドヴェンチャーのアトラクションの横を通った際、何やら失神した人が出て騒ぎになっていたのを思い出す。
 真琴の話によるとあそこは最後に唐突にフリーフォールとなっている、知らないヒトには凶悪極まりないアトラクションなのだそうだ。それでも失神する人は滅多にいないだろうに。極度の高所恐怖症という人は世の中にはけっこう沢山いるらしい。

 それにしても運ばれていく人は良く見えなかったけど、付き添っていた女の人の格好はなんだか変だった。キャップを目深に被って眼鏡を掛けて。

「芸能人だったのかな」

 あまり有名人には興味がないので、どうでもいいのだが。

「あゆ君、呆けていると乗り遅れるぞ」
「あっ、わわわ」

 思いに耽っているうちにいつのまにか次のゴンドラが来ていた。従業員の若い男性がドアを開けて待っているが、既にゴンドラは上昇へと掛かろうとしている。

「乗ります乗ります!」

 バスを追いかける人のような声をあげながら、あゆは慌てて先に乗った雪村の手を取り、ゴンドラへと乗り込んだ。ドアが威勢良く閉められ、鍵が掛かるあの不思議な金属の音が鳴る。その音が否応なく此処が個室であることを思い出させ、あゆは慌てて強く握っていた手を離した。

「あ、えっと……今日はいい天気ですね!」
「まだ乗って何秒も経っていないのだが」

 思わず間が持たない時の典型的な話題を振ってしまい、あゆは赤面した。まだ乗って数秒も経ってないのに間が持たない云々は気が早すぎる。
 かすかに喉を鳴らして笑い、雪村はあゆにとりあえず腰掛けたらどうだ、と勧めた。

「あ、うん」

 雪村の対面に、あゆは腰を下ろす。
 雪村はあゆが座ったのを確かめると納得したように頷き、顔を外へと向けた。

「観覧車か、随分と久しぶりだ、乗ったのは」
「ボクは……はじめてだよ」
「そうか、遊園地自体がはじめてだったな」
「うん」

 微かに目を細めてあゆを見、雪村は口許を歪めた。それが微笑しているのだと気付く人は少ないだろう。

「こうして観覧車に乗っていると思い出す」

 何処か遠い口調。懐かしい記憶を思い出し、かみ締めている静かな音色だ。
 自然と優しい気持ちに満たされ、あゆは引き込まれるように問う。

「なにを、ですか?」

 雪村はゆっくりと背もたれに身体を預け、しばし沈黙に浸ると、かつて夢で見た出来事を語るような口振りで言った。

「はじめて銭湯の女風呂を覗いた時のことをだ」
「……は?」

 月宮あゆはまず自分の耳を疑い、次に自分の正気を疑い、最後に雪村の狂気を疑った。
 生憎と耳は良く聞こえ、残念ながら自分は狂っている様子もなく、幸いなことに雪村は常に変だった。
 つまり、いつもの通りだ。
 それでもぽかんと呆けてしまったあゆを他所に、雪村はコンコンと傍らの窓を拳で軽く弾きながら、徐々に遠くなる下方を見つめている。

「うむ、屋根に攀じ登って天窓からな。この地上との高低差がちょうどあの時と同じで…………ああ、もう上昇しすぎてしまった」

 心なしか残念そうな響きの雪村の声に、あゆのドスの効いた言葉が重なる。

「…………そんなことしてたの?」

 神経質そうな青年は、動きの一切を停止して沈黙した。失言に気づいたらしい。
 そしてわざとらしく咳払いしてあゆに向き直り、一言。

「中学にあがる以前のことだ」
「うぐぅ……」
「他愛無い子供の……むう。その、すまない」
「……もう」

 なんだかなあ、と額を押さえる。
 自然と漏れる溜息はどこか心地よく、あゆは無意識に口許をほころばせている自分に気づいた。

「変なひとだね、要さんは」
「それは……心外な評価だ」
「褒めてるんだよ」
「……そうなのか?」
「多分」

 自信はないけれど。でも、そんな気分なのだ。

「凄く分かりやすいようで、何を考えてるか全然ボクには分からない。さっきだって」

 そう、さっきだって。
 あゆは口ごもり、口許を押さえた。再び鼓動が早鐘を打ち出す。灼熱のような血液が頭に昇っていく。火照りが、体中を駆け巡り、じっとしていられなくなっていく。
 それでいて、意識は地平しか見えない雪の平原で迷子になったように立ち尽くしている。

「ねえ、要さん」

 内側で膨張し続けていた熱が、もう枠に収まらなくなってしまっている。あふれ出す。止められはしない。
 意識が呆然と目を見張っている前で、あゆの口は勝手に言葉を紡いでしまった。

「さっきの、あれは。あれってやっぱり、ただのおまじないだったの?」

 固唾を呑んで答えを待つ。自分は何かを期待しているのだろうか、とあゆは自問した。でなければ、こんな事を訊ねたりしない。そのままあれはおまじないだったのだと、流してしまえば済む話なのに。それで何もかも変わらずに済むというのに。
 ああ、でも平静でいられるはずがないじゃないか。だってあれは生まれて初めてのキスだったのだから。少女の口づけが、そんな理由で奪われるなんて、やっぱりすんなり納得できるはずがない。
 でも、雪村要という人は、そういうデタラメなことを平然と仕出かしてしまいそうで。だから改めて確認せずにはいられなかった。そうだ、ただこのモヤモヤとした気持ちを払拭したかっただけなのだ。どうせ、彼はこう言うに違いないのだから。
 ごく当然のように、何を言っているのかと不思議そうにすら表情を僅かに動かして「そうだが、それがどうかしたのか」と――――

「いいや、あれは嘘だ」
「――え?」
「そんな理由で女性の唇を無断で奪うほど、無思慮な人間ではないつもりだ」

 まったくどうしてこの人は、こんな風にヒトの想像を簡単に跨いでいってしまうのだろう。
 あゆはもうどうしようもなく呆然とするほかなかった。
 その時の気持ちを言い表すなら、胴体の一つをトンカチで打ち抜かれた達磨落としとでもいうのだろう。一瞬、余りにも自明な重力という存在すら忘れてポカンと宙に浮いてしまうような、そして否応なく落下し始める為すがままの自身。
 やや常人より細い眼差しは、鋭く、だが真摯に自分の瞳を見据えている。
 その視線こそがあゆにとっての重力だった。
 我に返る。だが落下した先の地面はあまりにも狭くあやふやで、あゆはよろめき狼狽した。

「だ、だって、じゃあ、でも、そんな……なんで」

 知らず、わが身を抱きしめていた。
 怖かった。想像上の怪物が、目の前に現れたみたいな、怖れ。
 それは自分にとってはフィクションの産物だった。ブラウン管や緞帳の向こう側や書物のページの隙間に存在する自分とは縁のないもの。それは親愛なる友人達にこそ起こり得ることで、自分には関わりのないもののはずだった。そのはずだったのに。
 あゆは恐怖にも似た感慨に、全身を震わせた。
 雪村は、淡々とした口調で言う。

「騙まし討ちのような真似をしてすまない」
「どうして」
「しなくてはならないと、思ったんだ」

 あゆは、唖然とした。なんて、理由になっていない理由だろう。傍若無人にも程がある。
 だけれど、あゆは知っていた。この人は誰彼と見境もなくあんな事をする人ではない。あゆの先輩であり、雪村の姉である人がこの街から去ったあの日、彼が自分にだけ見せてくれたあの涙が、その証だ。好きになった女性を思い涙を流せる人が、そんな事をするはずがない。
 じゃあ何故、自分なんかにあんな真似をしたのか。気づかない振りをしたかったけれど、無理な話だった。月宮あゆは感情の機微については鈍いどころか聡明な方なのだから。そして、その聡明さを意図的に鈍化させるような器用さを持ち合わせていない。
 キスされた瞬間の、あの怒涛のような惑乱が、いまさらのようにぶり返してくる。
 先送りにしていた感情が、倍返しになって返ってきた。
 言葉を発する機能を一時的に喪失し、ただ唇を震わせているあゆに、彼は言う。

「明日奈姉さんを俺がどう思っていたのか、覚えていてくれているだろうか。そして俺が、その気持ちをどうしていたのかも」

 あゆは、やや自失しながらも辛うじて首を上下させる。

「俺が、そのことを後悔していたということも」
「……要さん」

 次の台詞を口にしたとき、淡々とした彼の声音の奥底に、身を切られるような痛切な思いを、あゆは感じた気がした。

「同じ後悔は、御免だ」

 そして、彼の言葉の意味するところは明白だった。

「あんな最低な気分はもう味わいたくない」
「…………」
「答えは求めていない。ただ、自分の気持ちを知っておいてもらいたい。それだけだ」
「まって、よ。ボクは」
「待てない。待つという選択を俺は自分に許すことが出来そうにない」

 あゆの掠れた声は、深々と積もる雪のような彼の声に塗りつぶされた。

「あゆ君、聞いてほしい」
「…………」
「どうやら俺はいつの間にか君にある種の感情を……いや、つまりだ」

 ゴンドラが軋む。彼ら二人の乗るゴンドラが頂上へと達し、降下をはじめた音だった。
 縮図と化していた外界が、やがてゆっくりと元へと戻っていく。回帰していく。
 隔てられ、孤立し、浮遊していた時間と空間は、もう間もなくもとの世界と繋がろうとしている。
 そんな一時の別世界が終わろうとする中で、雪村要は最後にただ一言。
 新たな世界を抉じ開ける、魔法の鍵をあゆに渡した。

「俺は君に、異性に対しての好意を抱いている」











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