天野小太郎が初めて女性とキスをかわしたのは、齢八つのときだった。
 相手は三つ年上の女の子。何故か年上の女性にモテる傾向はこの頃から既に顕在していたと言える。
 結局、この街に来るまでに小太郎は片手の指の数だけの女性と交際を重ねた。その総てが二歳以上年上で、しかも向こうから申し込まれていた。
 今の彼しか知らないヒトならば意外に思うだろうが、以前の小太郎は多分に女性に対して随分と醒めた見方をしがちな少年であった。一方的に相手に熱を上げられるばかりであった彼にとって、異性とは面倒としか感じることの出来ないものだったからなのかもしれない。
 小太郎には生来ヒトの良い所があるから熱心に交際を申し込まれて断ることはなかったし、女性に対しては親切にするものだという信念の持ち主でもあったから相手を蔑ろにすることもなかったけれど、そのどれもが長続きはしなかった。相手の熱がさっさと冷めてしまうこともあれば、将来継がなければならない家業の件で関わりを絶ったこともあった。だが、結局のところ小太郎自身に相手に対する想いがなかった事が原因だったのだろう。自身の空回りに耐えられる女性は少ない。

『あんたって、ホント女の敵だねぇ』

 後に小太郎が自身の将来を自分で選ぶきっかけになった友人は、如才なく女性と付き合う小太郎を事あるごとにそう評してケタケタと笑ったものだった。
 その評価は小太郎にとって不本意極まりないものだったが、辛そうに笑って女性達が自分から離れていく度に、その通りなのかもと納得するほかなかった。

 この街に来たのは、いい加減、異性に対して忌避感めいたものすら抱きはじめていた時期だった。
 幼い頃良く面倒を見てくれた従姉の美汐には憧れにも似た敬慕を抱いていたし、家業に属する女性術師たちにも随分と可愛がってもらっていた。それなりに居た同年代の女友達と喋ったり遊んだりするのは気楽に楽しかった。
 でも、恋愛の真似事に付き合うのは、本当に滅入りすらしていた時期だったのだ。

 そして、小太郎は初めて恋というものがどれほど衝撃的なものかを知った。
 水瀬真琴に出会うことで、天野小太郎は初めて本物の恋にめぐり合ったのだ。

 それは多分、彼にとっての初恋で。
 恐らくは生涯にただ一度の、一世一代の恋愛だった。
 理屈もなく言葉に出来るような理由もない。だけど、彼は確信していた。この機会を逃すなら、もう二度と自分は異性に対して本気になることはないだろうと。
 確かに、それは若さが抱かせる過剰な思い込みなのだろう。だがそれだけでなかった。自分自身の性向を醒めた眼で見切った分析の結果でもあったのだ。

 天野小太郎にとって、水瀬真琴とはまさに運命の人だったのだ。










§  §  §  §  §










 天野小太郎はベンチに腰掛けていた。
 さっきまでいたホラーハウスの出口付近に設置してある小奇麗な薄桃色のハイカラなベンチだ。ちょうどお客の流れからは外れていて落ち着くことが出来、それでいてホラーハウスから出てくる客を見逃すことのない絶好のポディション。
 ややぐったりと背もたれに身体を預け、小太郎は天を仰いでいた。さすがは東洋一と謳われるだけあって、精神的疲労が激しくこうやって休めている最中だ。真琴の方はと言えば、途中から目を塞いで小太郎の腰にしがみついていたお陰か、彼に比べると元気だった。今は飲み物を買いにいっている。叫ぶだけ叫んだから喉がカラカラなのだ。
 小太郎は手の甲を眼に当てて、瞼を閉じた。こんな風に疲れたとき、何も見えない世界は酷く心地よい。しばらくそうやってぼうっと疲労を拡散させる。

「――んわ」

 唐突に額に冷たいものを押し当てられ、小太郎は――寝てはいなかったが――寝ぼけたような声を漏らして、翳していた手の甲を退けた。
 青と緑に彩られたジュースの缶、その向こう側に何処か不貞腐れたような真琴の顔が覗いていた。

「ほら、ジュースよ」
「あー、あんがとございます」

 受け取り、プルタブを引っこ抜き、小太郎は騒ぎすぎて随分と乾いていた喉へとジュースを流し込んだ。冷たくも刺激的な感触が胸へと落ちていく。
 むせた。

「炭酸」
「なによ、嫌い?」

 せっかく買ってきてやったのに文句あるか、と言わんばかりの真琴に、小太郎は至極真面目な顔をして告げた。

「歯が溶けちゃいますよ」
「あう? そんなの、飲みすぎなきゃ大丈夫よぅ」

 小太郎が腰掛けるベンチの隣に、弾むように腰を落とした真琴は、自分も一口手にしたジュースを飲み、不意に思い出したようにじんわりと顔を笑みを滲ませる。

「なんですか?」
「あう? んん、そう言えばおんなじこと美汐にも言われたなぁって」
「歯が溶ける?」
「うん、それそれ。あんたと美汐って、時々似てるよね」
「そうですか?」

 従姉弟なんてものは、幾ら血が繋がっているからといってそう似かよるものではないはずだが。
 そう告げると、真琴は首を傾げて呟く。

「でもさ、祐一と名雪って、時々ドキッとするほど似たような仕草したりとかするわよぅ」
「そうなんですか?」
「ときどきだけど」

 それっきり会話は途切れ、二人は黙々と手にした缶の中身を減らしていった。
 あゆと雪村はまだホラーハウスから出てきていない。
 もしかしたらもう二度と出てこないのかもしれない。と、そんなくだらないことを考えてしまうくらい、

「怖かったですね」
「うん、怖かった」

 なんとなしに口にした台詞で、薄幕のように広がっていた沈黙が破れる。
 小刻みな笑い声が二人の間の空気を震わせた。散々おどかされた余韻のようなものが逆流して弾ける。
 二人は突然興奮気味に捲くし立てはじめた。

「でも、小太郎ってばもうちょっとあれなんとかしなさいよぅ。ピーピー泣き喚いちゃってみっともなさすぎっ」
「なっ、なに言ってんですか、その泣き喚いている奴の腰にへっぴり腰でへばり付いて離そうとしなかったの誰です!?」
「あ、あたし、そんなことしてないわよぅ」
「いーえ、思いっきりしてました。だいたい、中入ってから真琴さん「あうー」しか言ってなかったし」
「あうっ、なによ、それ。だいたい小太郎だって、中の暗いところで変なことあたしにするつもりがそれどころじゃなくなっちゃってたくせに。ふーん、このチキンチキン!」
「そ、それはそれ、これはこれでしょう。だいたい僕は腰抜かして半べそ垂れてる女の子に変なことするほど落ちぶれてません。何もしなかったのはそれだけが理由で」

 不意に何もかもが遠ざかったような感覚が吹き抜け、力の抜けた小太郎は口を噤んだ。
 興奮が冷めたわけではない。ただ、余分なものが抜け落ちて、ただ純粋な熱量だけが身体の中に残ってしまったような感触。
 真琴もまた「泣いてなんかいなかったもん」とだけ呟き、それ以上言い募ることもなく唇を引き結んでいる。
 口喧嘩というには微笑ましすぎる先ほどまでのそれは、まるで風に吹き消されてしまったかのように雰囲気の欠片も残さずなくなってしまった。
 このベンチだけが喧騒から切り離されたような、それは張り詰めた静寂。
 唐突に、小太郎は自分が真琴と真正面から向き合っていることに気付いた。
 ほんの、三十センチほどの距離。
 うなじで切りそろえられてしまった小麦色の髪の毛が眩しい。
 そういえば、彼女とこんな風に向き合ったのは随分と久しぶりだった。ここしばらくの小太郎の記憶にある彼女は、横顔や後姿ばかりで。正面から向き合っても彼女はちゃんと此方を見ようとはしてくれていなかったから、こんな風に本当に近くから視線を交わすことなんて本当に久しぶりだった。

「…………」

 そして、なぜか、今日の真琴は目を逸らさない。その黒い瞳に揺らぐものは無い。浮ついたものも無い。醒めているというには冷たくなく、興奮しているような熱さもない。
 真琴という少女には似合わない、いや彼女だからこそ似合うのかもしれない、それはひどく落ち着き払った黒い瞳。
 その瞳の色は、小太郎が彼女と初めて出会ったあの瞬間と何も変わらない穢れの無い透明な色で……。

 わっ、わわわわわ!?

 小太郎は突然動悸が激しくなった心臓に慌てふためいた。体中の毛穴がぶわっと広がり、感電したかのように全身が痺れる。油を撒き散らした地面にマッチの火を放り投げてしまったみたいに、頭の中がカッとなった。
 気が付けば、真琴の肩を掴んでいた。

「キス、していいですか?」

 ガンッと内心、小太郎は頭を壁にぶつけた。
 ななな、なに言ってんですか、僕は!!
 これじゃあ段取りやら何やらが全部台無しだ。こんなに唐突に、前触れもなしに、前後左右の展開も場の雰囲気も考えずに、感情に任せてこんな事を言ってしまってどうしようというのか。
 そりゃ、何もしないつもりじゃなかったし、さらに言うなら真琴が拒めないような状況を仕立て上げて迫ってやろう、くらいは企んでた。でも、これはない。無茶苦茶だった。今日一日の積立てがパーになってしまうだろう暴挙だ。
 案の定真琴は真琴は少しだけ視線を上に向け、すぐに真っ直ぐ前に戻すと、きっぱりとした口調で小太郎に告げた。

「ダメ」

 きっぱりにもほどがあるだろうと言いたくなるくらいきっぱりとした拒絶だった。
 あまりの威力に、思考が背後からドロップキックを喰らって場外へとぶっ飛ぶ。
 後に残ったのは轟々と燃え盛って煮立っちゃってる空っぽの脳みそだけ。
 ああ、もうだめ、知らない。
 小太郎は考えるのを放棄した。
 正直、もう止まらない。だって、真琴がすぐ目の前にいるのだ。自分を真っ直ぐ目の前から見つめていたのだ。それ以上の理由が何処にある。
 小太郎は身を乗り出し、右手で真琴の肩を掴んだ。左手を頬に添える。
 顔を近づけて、熱にうかされた声で囁く。

「したい、です」
「絶対、ダメ」

 小太郎の顔が間近に近づいているのに、真琴は焦った様子もなく、路上で配るチラシを受け取るのを断るような素っ気無さで、そう言い切った。
 そう言い切りながらも、何故か真琴は瞬きを途中で中断したかのような自然な仕草で瞳を閉じる。

 小太郎は、むしろ吸い寄せられるようにして、二人の間の距離を無へと帰した。





 彼女の唇は、とてもかぐわしい花の香りがした。


 


「えーっと」

 あれぇ???

 多分、十秒もなかったであろう接触。再び元の距離へと戻った小太郎は、どうしたものかと頭を掻いた。おかしい。確かダメとか言われたはずなのに。それはもうきっぱりと。ギロチンみたくすっぱりと。
 なのに彼女は拒絶どころか抵抗もしなくて。
 あっさり、やってしまった。出来てしまった。

 ……あれれ??

 混乱。というか惑乱。
 先ほどまでより今の方が頭が真っ白になってしまった。
 何がどうしてどうしたらいいのかわけがわからない。
 胸だけがやたらと元気の動悸している。いきなり絶叫しながら全力疾走したくなった。中学生じゃあるまいし、バカみたいなんだけど、でも自分という存在の何もかもが張り裂けそうで。
 恐る恐る見ると、真琴は冷たい目をして此方を睨んでいる。怒りやら軽蔑といったものではなく、口をへの字に結んだ、何やらムッとしているような顔つきだった。

「いまの」
「え?」
「いまの、あたしのファーストキス」
「あ……と、それは、ごちそうさまでした」
「歯」
「は?」
「歯、食いしばりなさいよぅ」
「……へ?」

 ガン、と勢い良く視界がぶれ、頬っぺたに焼けるような痛みを感じながら、小太郎はベンチから転がり落ちた。
 容赦のないグーパンチだった。
 ぽかーんと空を見上げる。端っこに茜色が滲んで見える、高くて青い空。
 その壮大なパノラマの隅っこで、隣に座った時に戻ったみたいに不貞腐れた表情になってジュースをコクコクと飲んでいる真琴が逆さまに映っている。
 小太郎は酷く熱い頬っぺたをさすり、そしてまだ感触の残る唇をそっと指先で撫でた。

 ……わは〜

 小太郎は耐え切れずに両手で顔を押さえ、だらしなく緩みきった顔を隠しながら、辺り構わず転がりまわりたいのを我慢しながら訴える。

「真琴さぁん」
「なによ、変態」
「らぶー」

 ふん、と鼻を鳴らし、少女は牙をむくように歯を見せつけて、とてもとても不服そうに言い放った。

「あたしは、だーいっきらいっ、よぅ!」
「あはははー」
「ばーか」

 ――カン、と。
 振り返りもせず真琴の放った空き缶が、ゴミ籠の縁にあたって甲高い音を立てた。









§  §  §  §  §











 昔から、暗いところが苦手だった。
 この手の話に理由なんてものはないのが当たり前。生憎とこれといったトラウマの原因となるようなこともなかったし、単に生来の性格的なものなのだろう。
 良くからかわれるネタにされるが、普通に生活する分に困ったことはないのだから別に気にしているわけでもなかった。日が暮れてから独りで夜道を歩けるし、真夜中にトイレだって行ける。生きていくにはそれが出来れば充分なのだから。
 別に極端に怖がりな性格を気にしたことはなかった、のだが。

「ーーーっ! ーーーっ!!」

 可聴域を突き抜けた高音の悲鳴。もはや「うぐぅ」ですらない。
 雪村は袖を引き裂かんばかりに腕にしがみついてくるあゆの顔を見つめ、その真っ青に震え上がった彼女が必死に訴えているものを察して、視線を足元に落とした。

「ああ、これは大変だ」

 慌てず騒がず、されどことさら深刻そうな――インフルエンザの発症を告知する無愛想な医者のような――口調で雪村は呟いた。

「地中から手が生えて君の足首を掴んでいるぞ」
「――――ッ!!」

 パクパクと開く口からは風船から空気が抜けてるような音が聞こえてくる。
 と、その瞬間。

 ――――バリバリッ!!

 紙を突き破るような破音。わらわらと、二人の歩いていた狭い通路の上下左右の壁天井から、それは生え出してきた。無数の、青く小さな子供の手。
 それも届かない場所で蠢いているだけではない。
 無数の手たちはあゆの両足首を捉え、服の裾を掴もうとし、素肌を覗かせる首元を撫でていく。恐ろしく艶かしく、それでいて氷と間違えそうなくらいに冷たい感触。

「いっ、いやぁぁぁぁぁぁ!!!」

 劈くような悲鳴。だがそれはあゆのものではなかった。
 雪村は、気が遠くなりかけていたあゆさえも、あまりの恐怖に満ち満ちたその叫びに反射的に背後を振り返った。
 さっきあゆが通ってきたその通路には、後から入った客と思われる二十代半ばの女性がいた。絶叫している。彼女はあゆの見ている前で無数の手に引きずり倒されてしまった。無数の手は、逃げようと暴れる女性を奥の方へとゆっくりと、ゆっくりと引き摺っていく。
 ガタン、と音を立てて壁に穴が開いた。
 奥がまるで見えない、本当に暗い、真っ暗な闇の穴。
 女性は、その穴へと、着実に引きずり込まれていく。

「これは凄い」
「あわわわ」
「いやっ、いや、助けてぇぇぇぇ!!」

 半狂乱になって髪を振り乱し、涙や鼻水で顔をグシャグシャに濡らしたその人の顔は、目を背けたくなるほど恐怖に歪みきっていた。
 あゆが言葉も無く瞬きも出来ずに見守る先で、その女性の脚が消え、下半身が闇に飲まれ、胸の上まで消えていき、徐々に顔が見えない何かに塗り潰されて、唯一現世にしがみ付くように床に爪を立てた右腕だけが……、

「ぎやああああああああああああああああああああああああああああ――」

 あゆは茫然と耳を塞いだ。女のものとは思えない絶叫、絶叫、絶叫。そして重なるように聞こえてくる音。

 ――ぐちゃっ、ぐちゅっ、ぐちゃっ

 なにか水気を多く含んだ塊を丹念に、端から順繰りに押し潰していくような音だ。時折ボキボキと圧し折れる音も混じっていた。その音が鳴るたびに、絶叫は高まり、唯一闇から外へと残されていた女性の右腕が何度も何度も狂ったように床を叩く。
 やがて、女性の右手はクワッと虚空を掴むように開かれ、

「――ひっ!」

 ポン、と跳ねた。
 闇に叩き切られたかのように。右手だけが。
 クルクルクル、と勢い良く跳んだ右手は、動けないあゆの前に落ちる。
 右手は小刻みに痙攣を繰り返し、そして動かなくなった。
 と、思った瞬間。

「―――――!!!」

 右手が生き物のように素早く動き出し、縋りつくようにあゆのふくらはぎをギュッと掴んだ。
 全身総毛立ち、声無き悲鳴を絶叫するあゆの耳に、あの女の声が――――

『痛い、痛い、痛いイタイイタイイタイイタイイタイタイタイタイタイタイタイタイタイぎゃ嗚呼あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!』

 通路の奥で、いつのまにかあの女が闇から首だけを覗かせ、人ではありえないくらいに口を開いて絶叫していた。
 叫びが唐突に途切れる。そして首は、闇の奥からゴロリと生首となって転がり出て、横倒しになって止まりニタリと嗤った。

『あなたも、一緒にいかが?』

 その声に合わせて、女の右手が、グイと、あゆの脚を引っ張った。

「……ぐぅ」

 たまらず月宮あゆ、ブラックアウト。











§  §  §  §  §











 恋とは宇宙に匹敵する謎に満ち溢れた事象だ、なんてことは良く言われる話だ。
 天才的な数学者にも稀代の科学者にもこの世と異なる法則を知る魔法使いにも、そして悠久を生きる物の怪や精霊ですらも解き明かすことの出来ない深遠の神秘。
 あやふやで心もとなく複雑でふとした拍子に掻き消えてしまうか細いもの、それでいてこの世の何よりも明快で頼もしく、強固で確かなもの。
 そんな矛盾した意味不明な事象が、どうして発生するかという命題を解くのはひどく簡単な場合もあれば、極めて困難な場合もある。
 そう考えると、古来恋を病の一種と類した人はなるほどたいしたものだった。
 病のように、恋は気がついた時には既にもう手遅れなほどに全身を蝕んでいる場合もあれば、罹患した瞬間を自覚できる場合もある。
 例えば、相沢祐一は前者の症例だ。水瀬名雪と日々積み重ねていった交流が、いつしか彼女への恋慕を生んでいた。気が付けば、彼女を好きになっていた。それは祐一を好いた水瀬名雪も同様で、また久瀬俊平に惹かれた水瀬真琴も同じだろう。
 対して、明確な区分きっかけを経て、恋をした瞬間を自覚するヒトもいる。
 それまで、何も思っていなかったヒトに、心奪われてしまう契機が。
 例えばそれは、真琴に一目で惚れてしまった天野小太郎だったり、親友を見つめるそのヒトの横顔に垣間見てしまった想いに気付いた瞬間胸を締め付けられるような切なさを感じた川澄舞だったり、酷い罵声を浴びせたのに何も言わず抱きしめられて泣いてしまった物部澄だったり。

 月宮あゆの一度目の恋は、前者だった。
 母を亡くして傷ついていた自分と、毎日のように一日の大半を過ごし、笑顔を与えてくれた少年に、あゆはいつしか恋をしていた。
 それは幼くて、また結局叶わぬ恋だったけれど、あゆにとっては大切な思い出になっている。
 そして、あゆにとっての二度目の恋。
 それは間違いなく、後者だった。




「ダメ、もうだめ、もう一歩も歩けないよーっ」

 別に疲れて歩けないわけじゃない。月宮あゆのキャッチフレーズは元気溌剌だ。
 だが今は、此処、学校の教室を模したホール――イベントのないセーフティルームらしい――の床にへたりこんで、泣き喚いている始末。
 無理もない。ここに来るまで恐怖イベントは既に七つ。そのどれもが凶悪などという言葉が生ぬるいくらいのデッドエンド七連発。ホラー映画やゲームの世界に紛れ込んでしまったと言われても疑えないくらい真に迫った恐怖体験の連続だ。正直言って、今後本物の幽霊と出くわしても「あはは、ごきげんよー」と朗らかに挨拶ぐらいやってのけれるだろう。これと比べたら本物なんて可愛いものだ。

「あゆ君、とにかく進まないことには出られないぞ」
「いやだいやだいやだいやだぁぁぁ!」
「もうあと半分だ」
「まだ半分も残ってるなんてボク死んじゃうよー! 脅しじゃないからね! これ以上こんな眼にあわされるくらいなら死んでやる! ここで死ぬぅ! 死なせてぇぇ!」

 喚きながら、あゆは椅子の上に立ち上がると「うわぁぁ」と叫びながら投身自殺を図った。
 ――トン。
 見事に直立着地を決めるあゆ。
 とりあえず拍手してみる雪村。

「なんで邪魔するの! 邪魔しないでよぉぉ!」
「特に邪魔などしてないが」
「だったら何で死ねないんだよぉ!!」
「椅子から飛び降りて死ぬにはコツが必要なのだろうな」
「へりくつばっかりこねないでよ!!」
「怒られても困る」
「八つ当たりだよ!!」
「開き直られても困る」
「困ってばかりじゃないか!」
「うむ」

 それはまあその通りだ。
 雪村はどうしたものかと、教壇の隙間に潜り込んでしくしく泣きはじめたあゆを見ながら腕組みした。

 ふむ、これがいわゆる引きこもりか

 違う。

 わき道にそれかけた思考を元に戻し、雪村はやや自嘲の混じ入った小さな吐息をついた。
 まさか此処まで錯乱するほど怖いものが苦手とは。
 単に普通の女の子らしい怖がりだと雪村は思っていたので、此処までの反応を見せるとは考えていなかったのだ。もし知っていたら、普通の人でも卒倒させると評判のホラーハウスに連れて入るなどといった極悪非道な真似はしていなかっただろう。
 雪村要、彼は天然でいささかずれた面は持ち合わせているが、とりあえずは健全な良識を持った青年である。女性を怖がらせて楽しむ性癖など、良識の範囲内でしか持ち合わせていない。況してや女性を泣かせて喜ぶ性癖など、これも良識の範囲内でしか持ち合わせていない。ちなみに持っていないわけではないので悪しからず。

「ううっ、怖いよ、暗いよ、狭いよ」

 教壇の隙間に潜り込んだあゆは、膝を抱えた格好で蹲り、子供のように泣きじゃくっている。

「狭いのは其処から出れば解決するのだが」
「ふぇぇぇん」

 聞く耳は持ってくれそうになかった。
 さあどうしようか、と雪村は薄く目を閉じ考え込んだ。
 このアトラクションは、途中でリタイアする客が珍しくないために、此方さえ望めばその場で出してもらえる。本来ならそうするのが当然なのだろうが。
 雪村は片目を細く開き、あゆを見やった。
 この尋常ではない怖がりよう。今、外に出ても回復するかどうか。このままだと、一週間やそこらは毎晩魘されそうな雰囲気である。かといって、このまま出口まで吶喊しても状態は悪化するばかり。

「…………」

 じっとあゆの泣き顔を見ているうちに、じんわりと、滲むようにしてその図は浮かんできた。思わず胸のあたりをトントンと拳で軽く叩き、瞼を閉じる。
 いやまて、それはどうだろう。
 雪村は浮かんだその図をかき消そうとして、だが脳裏をよぎったものにその手を思わず止めてしまった。
 よぎったもの。それは、かつて自身を穿った後悔。

「……まいった、な」

 そんなものを思い出してしまえば、もう後退りは出来なくなってしまった。
 雪村は、僅かに呼気を吐き、胸に凝った澱を吐き出した。
 吐いてしまえば、気分は素敵なくらいに爽快だった。
 いいだろう。時には。

「あゆ君」
「ぐすっ、ひえっぐ」
「そこから出てきてはくれないか」
「ううっ、ぐすっ」

 恐らく泣くだけ泣いたことで少しだけ内側に縮こまっていた理性が顔を覗かせたのだろう。自分が迷惑をかけていることも自覚していたに違いない。あゆは思いのほか素直に教壇の下から這い出てきた。

「な、に? 進むって話なら、ボク、やっぱりだめだよ。怖くて、ごめん、なさい」
「なぜ謝る?」
「だって、だってボク」

 ゴシゴシと止まらない涙を袖で拭くあゆの腕を掴み、雪村はやや腰を屈めて、手にしたハンカチを彼女の頬に当てる。

「目を閉じて」

 子供へと退行を起こしているのか、あゆは言われるがままじっと目を閉じた。
 されるがまま、雪村にハンカチで涙を拭って貰っている。
 むっつりと厳しい面差しをした青年は、その表情に似合わぬ優しい手つきで濡れた彼女の顔を拭いながら告げた。

「実は良いまじないを知っている」
「おまじない?」
「ああ、何も怖くなくなるまじないだ」
「ほんとに!? お化けも怖くなくなるの!?」

 元気のなかったあゆの声に喜色が混じる。

「ああ、おそらく効くと思う。そう信じたいな」
「うぐっ、要さんお願いだよ! それやって!」

 あゆはくわっと目を見開き、切羽詰った様子で雪村の両の二の腕を掴んで迫る。
 この際、この恐怖が取り除かれるなら、どんな胡散臭い壷にだって全財産をつぎ込んでもいい心境だった。なんだったら新興宗教に入信しても構わない。
 雪村は、そんなあゆに普段と変わらぬ淡々とした口調で告げた。

「いいだろう。では、もう一度目を閉じなさい」
「うん!」

 あゆは頷き、言われるがままもう一度眼を閉じた。
 おとがいに雪村の手が添えられ、顔を上に向かされる。

 ……ふえ?

 自身の唇に重ねられる、酷く熱を帯びたやわらかいもの。
 それは、違う余地もなく、雪村要のくちびる。
 そして、今自分は、彼と、キスを…………

「…………」


 初めてしたキスは随分と塩辛くて、それが自分の涙の味なのだと思い至ったのはそれなりにあとの事だった。









「ほけ〜」

 眼から焦点が消えうせ、ぽかーんと半開きに口をあけたまま放心しているあゆを見て、雪村は満足そうに頷いた。

「うむ、ちゃんと効いたな。では先に進もう」

 そう言ってあゆの手を握ると、雪村は次のフィールドに向かって歩き出した。手を引かれるがまま、あゆも大人しくついていく。
 結局それ以降、あゆの悲鳴や絶叫は一つも聞こえる事無く、二人はホラーハウスを見事に完走し、正当な出口からの脱出に成功した。








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