「あゆ、準備は出来た?」
「うん、バッチリだよ」
「それで、祐一は?」
「さっき名雪さんと一緒に出て行った」
「あう、計算通り」
「計算?」
「ふっふっふ、昨日の夜、祐一を騙して名雪とデートに行かせるように仕向けたのよぅ。これで祐一のばかに邪魔されることはなくなったわ」
「へ、へぇ」
本当か?
「さて、もう一度確認するわよぅ。手荷物、服装などの準備はOK?」
「OK」
「時間は?」
「ちゃんと待ち合わせに五分遅れるタイミング」
「よしっ、じゃあ出発!」
「うん♪ 行ってきます、秋子さん」
「行ってきまーっす!」
「はい、いってらっしゃい」
元気良く飛び出していく娘二人を見送って、秋子は苦笑気味に頬に手を当てた。
「うふふ、デートというより遠足みたいね」
§ § § § §
――デート当日 その三日前。
デート。日本語で言う所の逢引。
それは真琴とあゆにとってはまさに未知の領域であった。
デートと言われても、実際何をどうしたらいいのか分からない。何を準備したらいいのか分からない。何を着ていけばいいのか分からない。どんな話をすればいいのか分からない。分からない尽くしの霧の中。伊達にちょっと前まで野生の狐だったり昏睡状態だったりしていない。
この手の未経験な事柄に関しては、意外にもあゆより真琴の方が慎重であった。とりあえず経験がないなら経験してみよう考え方のあゆに対して、真琴は経験がないなら経験のある人に色々と教えてもらうべきだと主張したのだ。
昔の真琴なら、考え方以前に何も考えていなかったのであろうが、そこはそれ、真琴なりに成長しているのである。分からない事があれば兎角先達から教えてもらわなければならない保母のアルバイトから学んだ考え方であった。
「備え在れば憂いなしってね」
斯くして、デート予定日の三日前。真琴の先導にて指南してくれるという先生の待ってる甘味処へと出向く道中の事である。
先だってどうやってデートに立ち向かうべきかの指導を仰ぐ必要性を一頻り力説した真琴は、小鼻を膨らませながらそう言って締めくくった。
あゆは真琴の主張の内容とは別のところに「ふぅん」と感銘した。
「真琴ちゃんもなんだかんだ言って気合入ってるんだ」
「ち、違うわよ! こ、小太郎なんかに主導権握られるのが嫌なの。それと、このあたしがデートの一つくらいちゃんとこなせないようじゃ、世間に示しが付かないじゃないのよぅ」
顔を真っ赤にして憤慨する真琴に、あゆは思わずはにかんで小さく独りごちた。
「……わりと見栄っ張りなんだよね、真琴ちゃんって」
実際は見栄っ張りというより隙を見せたがらないという所だろうか。
普段から心底が開けっぴろげなだけに、こういう時だけ繕っても仕方ないというか滑稽なのだが、それでもここぞという時に女性としての隙を相手から見えなくさせようという心根は、同じ女の子としてあゆは可愛いな、と思ってしまう。
「それで、誰のところに行くの? 一子ちゃん?」
あゆの口から飛び出した名前に、真琴はいやぁな顔をした。
「あゆぅ、あんたバカぁ? 一子なんかにこんなこと喋ったら、新学期の学報一号に『熱愛発覚!?』とか『ついに真琴ちゃん陥落か!?』とか『相思相愛バカカップル誕生!』とかあることないこと書き殴られて、晒し者にされるに決まってるじゃないのよぅ」
「……そ、そうなんだ」
「そうなのよぅ!」
悪寒でも感じたのかブルッと背筋を震わせる真琴。
例にあげた紙面の表題を見ると、真琴もそれなりに周囲から見た自分たちの様子を心得ているらしい。それでいて、その状況を何とかしようとしないのは、やはり内心満更じゃないのかもしれない。
若い身空を昏睡状態で過ごしたお陰で男の子にモテた覚えのないあゆなもので、付きまとわれる女の子の気持ちは分からないのだけれど。
「一子ちゃんじゃないとすると。やっぱり栞ちゃん?」
「違うわよ。栞もからかうからヤダし」
「うぐぅ」
確かに栞のゴシップ好きは今なお健在。基本的に口は堅いが、軽いときは綿毛のように軽いので、なるべく避けたい相手ではある。
と、なると。あゆは真琴の交友関係を思い浮かべて、だいたいの当たりをつけた。
木乃歌さんて人かな。あまり知らない人だけど、カレシさんもいるらしいし。
「この手のことにはベテランの人よぅ」
「ふーん」
まあ、会ってみれば分かるだろう。
§ § § § §
「……うぐぅ」
「ん? なにかしら?」
「いえ、なんでもありません」
此方の方が年上なのだが、思わず畏まって敬語を使ってしまうあゆ。
だが、それも無理ないのかもしれない。対面に腰掛けている女性は容姿は大人びて、スタイルは抜群。背も高く、切れ上がった目尻は得も知れぬ迫力のようなものを醸し出している。一年前より多少女性として見栄えがよくなったとはいえ、まだまだお子様っぽさの抜けていないあゆでは、ちと女として太刀打ちし難いものがある。
あゆは、コソコソと隣に座る真琴に小声で訊ねた。
「ね、ねぇ。なんでこの人なの?」
「あう? なんでってデートの経験豊富じゃない」
「木乃歌ちゃんって子は?」
「このか? 家族旅行でいないわよぅ」
「うぐぅ」
だからと言って、まさかこう来るとは。
「ねぇ、水瀬。どれ頼んでもいいのかしら」
「いいけど、おかわりはなしよぅ」
「しないわよ、おかわりなんて」
「うちのお姉ちゃんはよくするわよ?」
「……一緒にしないで欲しいんだけど」
無愛想に首を竦めると、彼女は店員を呼びつけて、お品書きを三箇所ほど指差して注文した。
「あ、あうぅ、い、一品だけ……」
「なに? おかわりなんかしないわよ」
「あ、あぅぅ、そ、そういう事じゃ……なんでもない」
「あ、これも追加ね」
「あ、あうぅ」
容赦がなかった。
「それで? なんだったっけ?」
「だからっ、デートよ、デート」
「私と?」
「違う!」
「あ、そう。分かったから怒鳴るな。キンキンうるさいのはうちのバカだけで充分よ、ったく」
光の加減次第では白銀色のようにも見える髪を、物憂げに梳き流す。
「あぅぅ、だったらちゃんと聴きなさいよぅ、おスミ!」
「おスミ言うな」
ギロリと真琴を一瞥し、彼女――物部澄は仕方なさそうに居住まいを正した。
「やれやれ。まっ、報酬は注文し終えたわけだし、その分くらいは力になるわよ。ホントはあゆさん所の店のケーキの方が良かったんだけど。美味しいから」
「あ、どうも」
「今度行った時マケてくれない?」
「ダメです」
「残念。そう言えば、今度新作のケーキ出来たって聞いたんだけど」
「う、うぐぅ、あれはちょっと微妙かも」
「モニターなら引き受けるわよ」
「だからー、聴けぇ、おスミぃ!」
「うるさい。喚くな。おスミ言うな」
パタパタと羽虫を払うように手を振って真琴の大声をいなし、澄は醒めた目を細めた。
「大声出さなくても聞こえてるわよ。内容も最初に聞いた。デートの心得を教えて欲しいんでしょ?」
「うん」
「簡単よ」
澄は店員が運んできたクリーム餡蜜を受け取って、箸立てから割り箸を抜き出し、綺麗に二つに割りながら淡々と弁じた。
「とりあえず暗い所に引っ張り込んで、押し倒せばいいのよ」
「…………」
「…………」
「ん? なに?」
「そ、それは男の人の論理じゃないのかな?」
しかも、デートの話じゃないし。
「莫迦ね。デートなんて結局其処に帰結するのよ」
「うぐぅ、だから帰結する前段階の話を」
「……ああ、いいホテル紹介して欲しいのね?」
「も、もうちょっと前」
「ゴムならコンビニで売ってるわよ」
「……うぐぅ」
ダメだ。文明レベルの断裂がある。
真琴ちゃんなんて口をおっぴろげて放心してるし。
「ふっ、冗談よ冗談」
進退窮まった二人の様子に満足したのか、澄は口許についたクリームをペロリと舐め取り、濡れた唇を僅かに緩めた。
「水瀬にはまだ早い話だったわね。月宮さんはどうか知らないけど」
「ぼ、ボクも初心者です」
「そう?」
真贋を見極めるような視線でジロリとあゆの面を舐めて、すぐに興味が失せたように餡蜜へと意識が戻る。
「それで、行く場所は決まってるの?」
「あう、エネミーランド」
ようやく魂が戻ってきたらしい真琴が、地に足が着いてないような口調で応じる。
「テーマパーク? それってデートに行く所じゃなくて遊びに行く所じゃない」
「うぐっ、で、でも今回は遊びに行くようなものだし」
「ふん、天野弟も意外に堅実なのね。もっと斟酌しないタイプなのかと思ってたけど」
澄は見直したのか嘲ったのか良く判別しがたい面持ちで呟いた。
ちなみに『天野弟』とは物部澄独自の小太郎の呼び方である。天野美汐と呼び方が同じになってしまうからだそうだ。だったら美汐と名前の方で呼べばいいと思うのだが、どうやら他人は須らく苗字か肩書きで呼ぶのだと規定しているのだそうだ。唯一の例外が恋人の此花春日である。
「まあ、そういう事なら着飾る必要はないわね。普段着。それも動きやすい服装にしなさい」
「オシャレはしなくていいの?」
「必要なし……と、言いたい所だけど」
澄は、厨房から運ばれてくる磯辺巻を目で追いながら、少々逡巡した。
わざわざこうやって甘いもので釣ってまで訊ねてくるわけだから、相手の男に気があるかどうかは別として、彼女達も女の子らしく初めてのデートというものを経験してみたいのだろう。これは楽しみたいとか相手の気を引きたいといった類の話とは少し種類が違う。女としての見栄とかプライドの問題なのだ。
「ふふん、可愛いじゃない」
「あう?」
「こっちの話よ。そうね、目立たないところでいいわ、自分なりのアクセントを入れてみなさい。相手の目をそれで確かめるの。気づくか気づかないかは相手次第」
「わ、分かった。気付かなかったら粛清するのねっ」
「それは人それぞれじゃないの。人によっては気付かない鈍感さがいいって人もいるんだし」
「あうぅ」
「あのね、水瀬。デートっていうのはね、相手を見定める手段でもあるのよ」
「うぐっ、見定めるって」
「品定め、ランク付け、鑑定、そういう事よ。デートなんてものに対する幻想は男に任せなさい。女は常に心のどこかでクールじゃなきゃダメよ」
「だ、だめなの?」
「決まってるじゃない」
物部澄は鮮やかなほどきっぱりと断言して、憫笑を浮かべた。
「たかがデート如きに頭ん中全部のぼせ上がるようになったら、女はお仕舞いよ。そうなったらもう手遅れ。そいつはもう相手にどうしようも無いほど溺れてるって事だからね。それは堕落よ、女としての堕落」
何とも言えずに絶句している二人に気付き、澄は憫笑を収め、代わりに浮かびあがった微苦笑を誤魔化すように前髪を指に絡めて弄り出す。
「つまり、そう簡単に気持ちの安売りをするなって事。女の気概と心構えを忘れるな。惚れたら負けだ、惚れさせろ、よ。男にとってはデートは目的だけど、女にとっては手段に過ぎない。それが基本ルール。よろしいかしら?」
「わ、わかった」
「う、うん」
思わず背筋を伸ばしてしまう真琴とあゆであった。
「あうっ、参考になったわ。ありがとよぅ、おスミ」
「おスミ言うな」
一通りの講釈を聞き終え、真琴とあゆはまだ三品目のさつまいもケーキとアイス抹茶セットを食べている澄を残して立ち上がった。あゆはこれから抜け出していた喫茶の仕事に戻らなければならない。真琴ももうすぐアルバイトの時間だ。
「ねぇ、おスミさん」
「だからおスミ言うな。私は江戸の町娘か。で、なに?」
チラリと、レジの所で哀しげな顔で財布からお金を取り出してる真琴を横目で見やり、あゆはこっそりと小声で澄に訊ねた。
「あなたは、どっちなの?」
一瞬怪訝そうに眉根をしかめた彼女は、その意を悟って凄く嫌そうな顔をした。そして、その醒めた容貌に自嘲とそれ以外の何かを入り混じらせ、微笑とも不快に顔をゆがめているとも取れる面持ちで、一言素っ気無く囁いた。
「私は、負け組。見習っちゃダメよ」
「……うん、分かったよ」
クスリとはにかむような笑顔を残して、月宮あゆは真琴の後を追っていった。
「遊園地ね。春日と一緒だと私が引率みたいになるから気乗りしなかったんだけど」
二人の姿を見えなくなるまで見送った澄は、ケーキの最後の一欠けらを口へと放り込み、心の中で呟いた。
偶にはいいのかもね。今度、連れてって貰おうかな。
§ § § § §
――デート当日
「で、わざわざ五分ほど待たせて焦らしてやるという乙女心が心憎い計画だったのに」
駅前のロータリーにて、水瀬真琴は頭を掻き毟って吠え立てた。
「なんであたしらが待たされてるのよぅ!!」
「えっと、待ち合わせは此処で合ってたよね、違った? うぐぅ、自信なくなってきたよ」
「あたしらが焦らされたらダメでしょうがっ」
「そんなこと言ったって」
初っ端から前途多難の二人であった。
ちうか、携帯使えよ、二人とも。
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