不穏当。当てはめるなら、そんな表現が適当か。
ここ数日、水瀬家はなんだか怪しい雰囲気に包まれている。
ぶっちゃけて言うと、真琴とあゆの様子が奇妙で奇天烈。
「変だ。絶対あいつら何か変だ」
場所は名雪の寝室であった。
卓袱台をゴンと叩いて――壊れちゃうよ――力説する恋人に、ベッドに腰を下ろした名雪は「そうかなぁ」と一応疑問のニュアンスを伝える。が、実のところ彼女自身も変だなあとは感じていた。上の空なのだ、あゆも真琴も。
何時も夕食の時には学校で何があったバイト先でこんな事があったと食べるか喋るかどちらかにしなさいという状態の真琴が、ぽけーっとしたまま一言も喋らなかったり。
毎週欠かさず観ているドラマを前にして、普段ならドラマの中の人に向かってあーだこーだ違う違うそうじゃないよっ、とひっきりなしに説諭を垂れるあゆが、これまた一言も発さずに黙ったままドラマに見入ってたり。
普段は何時もと変わりないのだ。それが時々思い出したように上の空になる。いや、実際思い出しているんだろうか。そんな感じがする。何か悩みがあるのなら、問い質してみるのだけれど、悩んでいるというにはちょっと違うくて。
突然ニヤニヤとほくそ笑み出したり、かと思えば眉根を寄せて冷や汗ダラダラ垂らしながら唸り出したり。
ゴロゴロとカーペットの上を転がり出したと思えば、テーブルに突っ伏して深々と溜息を吐いたり。
見ていて飽きな…………じゃなくて。
「そりゃ、ちょっと様子は可笑しいけど。別に心配するようなことじゃないと思うけど」
名雪がそう言うと、祐一は心底莫迦にしたような目をしてきた。
「心配? お前な、いつ俺があいつらの心配なんかした?」
「……違うの?」
「違う!」
「……きっぱり言うことじゃないよ」
何故か誇らしげに胸をそらしている祐一に呆れながらホットココアを一口。
「それで? 私の恋人さんは何を考えてるのかな?」
「まあ待て。結論を急くではないぞ、マイ従姉妹。何事もインテリジェンスが重要だ。それで、名雪は何も知らないんだな?」
「うん」
知らないのは本当だ。
「そうか」
腕を組んで首肯すると、祐一はおもむろに立ち上がる。
「どこに行くの、祐一?」
祐一はにんまりとほくそえみ。
「トイレ」
「……い、いってらっしゃい」
「おう」
祐一は意気揚々と部屋を出て行った。
「……ほんとにトイレだったら嫌だなぁ」
あんなに楽しそうにトイレに行く人はちょっと危ない人だと思うので勘弁して欲しい名雪であった。
§ § § § §
「…………ふう」
気がつけば、溜息ばかりついている。
あゆは、読んでいたハードカバーを膝の上に置くと、ぼんやりと天井を見上げた。
天井は幾つか染みが見受けられる程度で、汚れはさほど見られない。
あゆが来るまで納戸として使っていた一階のこの部屋は、あまり人の出入りがなかった所為か、掃除さえしてしまえば傷みも無く、真新しさすら感じられる。一年間此処であゆが寝起きしているが、今もその印象は変わらない。
本棚に衣装棚。あとは組み立て式の勉強机があるだけのシンプルな部屋模様。女の子らしく淡い色合いのカーテンと小物が並んで素っ気無い雰囲気はないが、それでも質素な印象を覚える。ただ、遠慮の結果というわけではなく、あゆの趣向の反映と言った方がいいだろう。本棚の中身は漫画ばかりの真琴と違って、小説類が中心だった。意外にも、その数は多い。七年の学力・知識のブランクを少しでも埋めるためにと始めた読書だったが、思いの他これが面白くて……。今では、水瀬家一番の読書家は彼女と言っても良かった。
週に一、二度は、こうやって食後に独り、チビチビと150ml缶に入った大麦から作った液体を舐めながら読書に耽るのが習慣になっている。
「変なこと、引き受けちゃったなぁ」
傍らに置いた缶を一口呷り、あゆは複雑な感情のまま、頭を掻いた。
デートというのが方便なのは分かってる。あくまで自分達は真琴が誘いを受け易い気分になるための撒き餌のようなものだ。つまりはオマケ。別に、本当に彼とデートをしようということじゃない。向こうもそんな気はないだろうし。だいたい、あの人は自分と違ってちゃんとした大人で、しかもその関係は店主と従業員でしかない。いや、さすがにそんなドライな関係じゃなくて、もうちょっと……そう、歳の離れた友人ぐらいの親しさはあるんだけれど。ともかく女性として見られていないのは確かで。
だったら、単に遊びに行くって事で楽しみにすればいいんだけれど……。
あゆだって、物心つくかつかないかの小さい頃に家族と行っただけで、真琴と同じで遊園地なんて全然未知の世界なんだから、実際楽しみで仕方ないのだ、これが。
ただ、それが名目だけだとしても、これがデートだというのが、何ともあゆに複雑な気分を味わわせていた。
なぜなら、月宮あゆがデートなるものを経験するのは、これが初めてなのだから。
「……あれ? 初めてだよね」
一瞬、誰かと映画に行ったことがあるような記憶が過ぎったが、すぐさまバラバラになったジグソーパズルのように散在してしまう。
気のせいか。
「うぐぅ、もやもやしてるな、ボク」
そんなに、デートなのが嫌なのか。名目かそうでないか、そんな些細なことに拘るような性格なんかじゃないと自分では思っていたけれど、違ったんだろうか。そりゃ、嫌いな人とデートなんでゴメンだけど、要さんと一緒なのは嬉しくはあれ、嫌なんて事は絶対ないわけだし。
「うぐぅ」
頭がこんがらがってきた。なんで、悩んでいるんだろう。莫迦みたいだ。
あゆは膝の上の本を放り出し、缶に残っていたビールを一気に飲み干し、布団の上にばったりと倒れこんだ。
「あーもうどうでもいいや!」
楽しみで仕方ないんだから、純粋に待ち焦がれればいいだけの話じゃないか。うん、そうだ、そうしよう。余計なことは考えないで。
「そうだよ、デートなんて考えるからいけないんだ。うん、みんなで遊びに行くって思えばいいんだよね、うんうん」
自分で言い聞かせるようにそう言って、あゆは枕を胸に抱き寄せ、ゴロゴロと布団の上を転がった。
そう考えると、急にワクワクしてくる。何処をどうやって回ろうかと色々な計画が浮かんでくる。
「う、うわっ、うわっ、なんか興奮してきた。明日かぁ……うぐぅ」
わりと切り替えた時はきっぱりしているあゆであった。
§ § § § §
「明日ねぇ。ふんふん」
と、月宮さんの部屋のドアにヤモリのようにへばりついて独りごちる男が一人。
「ふふっ、情報を制する者は世界を制す。さて、あとは確認作業だ」
§ § § § §
「だいたい、あゆもあゆよぉ」
うつ伏せに寝そべり、足をぶらぶらと揺らしながら、ぶつくさと真琴は愚痴めいた呟きを漏らしていた。
「なんで小太郎なんかの口車に乗っちゃうんだろう。お陰であたしまで行く羽目になっちゃったじゃない」
と、言いつつ頬杖をついて彼女がさっきから熱心に眺めているのは、明日行くエネミーランドのパンフレットである。
小太郎から貰った一昨日から、暇さえあれば噛り付くように覗き込んでいる始末。
「別にこんなとこ、行きたくもなかったのに。面倒くさいなぁ」
大嘘つきめ。
「はぁ、あたしって付き合い良すぎよぉ」
まだ言うか。
「おい、真琴」
「ぎゃぁぁぁぁ!!」
いきなりドアを開け入ってくる祐一。そしてとどろくいささか乙女らしくない叫び声。
真琴はバネ仕掛けの人形のように跳ね起きた。よほど驚いたのだろう。小麦色の耳が飛び出している。
思わず上空へと放り投げたパンフを掴んで、慌てて尻の下に隠しながら、真琴は不法侵入者を睨みつけた。
「か、勝手に入ってくるなぁぁ!」
「失敬だな。ちゃんと入るぞって伝えたぞ」
「き、聞こえなかったわよ」
「……おかしいな。確かにテレパスィで『どうぞ』と応答があったんだが」
「勝手に電波で会話なんかすんなぁぁ!」
「電波じゃない。テレパスィだぞ」
「拘られても、あたしはどっちも使えないわよっ!」
「じゃあ、俺に『どうぞ』と淑やかな電波で応じた相手は誰なんだぁぁ!?」
「知らん! ていうか、電波かテレパシーかどっちなのよ!」
「だからテレパスィだって言ってるだろうが」
収拾がつかなくなってきた。
「そ、それで、何の用よぅ」
耳を引っ込めるのも忘れて警戒し捲くってる真琴の様子を気にする風もなく、祐一は普段通りの態度で言った。
「お前、明日なんか用事あるか?」
「あ、明日!?」
かすかに声が上ずり、耳がピンと痙攣して立つ。
「おう、あゆも休みだし、みんなでどっか遊びに行こうかと思ってな」
「あ、あうぅ」
今度はピトンと耳が垂れる。
「あ、明日はちょっと」
「なんだ、暇じゃないのか?」
「う、うん。すっごく忙しいのよぅ」
バタバタと手を振ってそう主張すると、祐一は「そうか」と心なしか残念そうに呟いて首筋を指で掻いた。
「しゃあない、あゆ誘って買い物にでも行くか」
「あう!」
「なんだよ」
あのその、と視線を泳がせ、最終的に顔を背けてあらぬ方向に視線を逸らしながら、真琴は小声で囁いた。
「あゆも忙しい……かも」
「……なんで?」
「え……っと、えと、えと……な、なにか用事があって遠くに行くって言ってたのよぅ」
「……遠くって何処だ?」
「し、知らないけど」
「ふぅん……あ、もしかしてデートだったりしてな」
「――ッ!!」
核心を突かれ、呼吸困難になる真琴。
「あはは、それはないか。男っ気ないしな、あゆは」
「……ぷはぁ」
た、助かったぁ。と、真琴は安堵の吐息を――――。
「しかし、あゆがデートするとして、場所は何処を選ぶんだろうな。おい、真琴、お前どう思う」
「へばらっ!?」
「へばら?」
「じゃなくってっ、あ、あぅぅ、わ、わかんないわよぅ、そんなのぉ」
「例えばだよ、例えば。想像力を発揮しろ」
そそそそそそんな事を言われても。どどどうしよう。こ、ここは何とか話を逸らさなくては。
真琴は必死に頭を働かせた。それはもう、高校の入学試験の時に引けを取らないくらいに真剣に考えた。その白煙を上げながら高速回転する思考回路に、まさに天啓の如く名案が――――!
「え、えと、えと……遊園地…………は、絶対行かないと思うのよう!!」
…………所詮は真琴であった。
祐一は心底から感嘆したように声をあげる。
「そうかっ、遊園地には絶対行かないのか!」
「う、うん! 絶対行かないんだからっ!」
「そうかそうか。わはははは!」
「あはっ、あはははは!」
やや躁の入った笑い声が真琴の部屋に輪唱する。
一頻り笑った祐一は、アゴに手を当てて思案を巡らしているかのような仕草を見せて、真琴のやや上斜めを見つめながら言う。
「まあ、二人とも用事があるんじゃ仕方ないよな。名雪とどっか二人でデートに行くことにするか」
「それ、うん、あたしもそれがいいと思う」
「そっか。じゃあそうしよう。で、真琴。どこに行ったらいいと思う?」
「遊園地以外!」
「はっはっはっは、そうか、じゃあそうしよう。アドバイスありがとうな、真琴」
「う、うん、どういたしまして。あう、いつでも相談しなさいよ」
ドンと真琴は胸を叩いた。
「おう。まあ、偶にはな。さて、それじゃあそろそろお暇するか。おやすみ〜」
「おやすみなさーい」
後ろ手でドアを閉めた祐一は、その足で斜め向かいの名雪の部屋に向かった。
そして、中に入るや否や開口一番、春の太陽のような笑顔でこう言った。
「名雪、明日デート行こうぜ、デート」
「え? デート? 何処に行くの?」
「ゆうえんち〜」
明日一日の天候予報。
天気明朗にして波高し!?
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