大英帝国の首都である倫敦の周辺には三つの空港が存在する。その中で、日本からの直通便が就航しているのはただ一つ。それがヒースロー国際空港だ。
 倫敦の郊外、西に25キロの位置に存在するこの空港へと降り立った三人は、入国審査を無事終えて、ようやくロビーへと辿り着いた。さすがはロンドンの玄関口。空港ターミナルには多種多様にして大量の人間たちが行きかっている。飛び交う言語も英語のみならずフランス語、ドイツ語、スペイン語にイタリア語などなど様々だ。
 佐祐理たちは、そんな喧騒の中で、ボードを掲げて乗客を待ち構えている人垣に目を凝らしていた。
 一応、空港にまで迎えを寄越してくれるという話になっているはずだったのだが。

「……っ」

 最初に気づいたのは、やはり川澄舞だった。
 しばらく怪訝そうにその人物の様子を見つめていた舞だったが、どうやら間違いないと判断して、佐祐理のカーディガンの裾をクイクイと引っ張る。

「あ、見つかった?」
「……ん」

 佐祐理は舞の指差す方に目を細めた。眩い赤色が眼に飛び込んでくる。
 それは二十四、五ほどの年頃の若い女の人だった。
 シャギーな赤髪に暗紅の鋭角なサングラス。朱色のジャケットに真っ赤なシャツ、鮮紅色のチノパンという派手な、だが決して下品ではない格好をした女性が、物凄くだらけきった立ち姿で『倉田様ご一行云々』と日本語で書かれたボードを片手で掲げていた。

「俊平さん、あの方ですよ、迎えの方って」
「…………あれ、ですか」

 その女性を見た瞬間、思いっきり腰の引けた様子を見せた久瀬だったが、嬉々とそちらに近づいていく佐祐理と舞に、しぶしぶと後を追う。

「Excuse me」

 ボケーっと突っ立っていた赤い女は、声を掛けられると、ビクリと身体を痙攣させて、驚いたように声の主の方へと顔を向けた。サングラス越しだったので定かではないが、もしかしたら立ちながら寝ていたのかもしれない。
 彼女――リュクセンティナ・リンフェーフはサングラスを外すと、やや赤みを帯びた瞳で東洋人三人組の姿を見つめ、口を開いた。飛び出したのは、滑舌の良いハッキリとした日本語だった。

「あんたたちが、群青色に弟子入りしようっていう物好き三人組かい?」
「はい、物好き三人組です」

 何の衒いもなく笑顔で応じる倉田佐祐理。
 眼をぱちくりとさせたリュカだったが、次の瞬間面白そうに口許を歪めて、握手を求めた。

「リュクセンティナ・リンフェーフだ。リュカって呼んでくれると嬉しいね。群青色とは古い友人さ。今日のところは単なるパシリだけどね」
「倉田佐祐理です。よろしくお願いします、リュカさん」
「川澄舞……です」
「久瀬俊平です、世話になります」
「お世話するのはあたしじゃないけどね」

 肩を竦めて猫のように笑うと、彼女は腕組みをしてフムフムと三人の顔を順繰りに覗き込んでいく。

「あの〜」
「ああ、ごめんごめん。魔術師なんてヤクザな商売に足突っ込むようなスレた人間にゃ見えないなぁって思ってさ」
「そうですか?」
「…………」
「当然です。真人間ですから」

 真顔でコメントする久瀬。割と厚顔な男である。

「はははは、云うね、あんた。まっ、死なないように頑張りな。あいつらにくっ付いてる分には、そう悪い事にはならないだろうさ。でも、群青色は性格歪んでるから気をつけなよ」
「はぁ」
「ありゃ、相手を困らせて喜ぶタイプだからねぇ。あたしなんかもうしょっちゅう…………コホン、さて、それじゃあさっさと行こうか。車を回してくるから、荷物揃えて正面の方で待ってな。あっちだよ、あっち。荷物はちゃんと見張っておきなよ。ぼんやりしてると置き引きされるから。じゃあ、ちょっと待ってて」

 軽快にそう捲くし立てるや、リュカは颯爽と駐車場があると思しき方へと歩き去って行ってしまった。

「慌ただしい人だな」

 ボソリと率直な感想を漏らす久瀬。

「そうですか? 何だか凄く格好の良い女性だと思いましたけど。ねぇ、舞」
「うん」
「……そうですかね」

 あれはきっとおっちょこちょいだな。
 鋭い観察眼を発揮している久瀬だった。

「でも、先生になる魔術師の人、悪い人じゃないみたいで安心しました」
「……ん」
「そうでしょうか……僕はなんだか嫌な予感がするんですがね」

 渋面、というか半眼で口をへの字に曲げている久瀬を、舞は不思議そうに見つめた。

「ともかく、ターミナルの表に出て待っていましょう。荷物は全部持っていますね」
「はい、ありまーす」
「ん」
「さて、出口はあっちだったか」
「人の流れに付いていけば――――」

 先だって歩いていく久瀬と佐祐理に、舞はスーツケースを押して付いて行く。
 周囲には、雑然と行き交う人の波と、空間をかき混ぜるような喧騒が満ちている。
 擾乱する世界。
 それは不快ではなかった。むしろ、心が浮き立つ要因にもなっていた。
 初めて訪れた異国に、川澄舞は無表情ながら、確かに胸を躍らせていた。

 だから、それは余りにも唐突で、まるで予期なんかしていなくて。
 だが、川澄舞の、その場に居た誰よりも優れていた五感、そして第六感は、ハッキリとそれを捉えてしまった。


 ――――――ゾクゥゥ!!

「――ッ!?」

 直接背筋を舌で舐められたような、そんな悪寒が全身を駆け巡った。
 聴覚からすべての雑音が抹消され、静寂に満たされる。
 視界に映るすべてが、モノクロの背景と化す。
 舞の全感覚神経は、その瞬間、確かに、ただ一つの存在以外への作用を停止していた。


 ――――視線。

 視線が、私達三人を捕らえている。

 舐るように。
 愛しむように。

 視線が、私の魂に絡み付いてくる。


 硬直していた舞は、弾かれたようにそちらを見た。

 モノクロの世界の中に、鮮やかな程の原色があった。
 二つの、赫。
 赫い、双眸。

 赤い目をしたその東洋人は、舞の視線に気づくと、にっこりと笑った。
 胸が高鳴るような笑みだった。
 そして、軽く右手を振る。
 挨拶のように。
 もしくは―――招き寄せるかのように。


「舞、どうしたの?」

 ハッと舞は我に返った。
 何時の間にか景色には色が戻り、うるさいほどの喧騒が耳朶を打っている。
 見れば、ついてこない舞を、佐祐理が不思議そうに見つめていた。
 恐る恐る、先ほど男が手を振っていた方に顔を向ける。
 案の定、彼が立っていた場所にはぽっかりとした誰も居ない空白しか残されていなかった。

「おい、早くしろ。迷子になるでもなるつもりか」

 ムッツリと久瀬が促してくる。舞は、頷き、スーツケースを持つ手に力を込めた。
 今のは何だったのだろう。舞はまだ覚めぬ夢の中にいるような気分を払おうと頭を振りながら、自問自答する。
 白昼夢というやつだろうか。それとも、ただ目線があった人が気安く挨拶をしてくれただけ?
 歩きながら、周囲を眺める。当然のように、あの赤い目をした青年の姿は見えない。
 そう、あの男は、赤い目をしていた。通常在り得ない色の眸を。モノクロの世界の中で、ただ一色、真実であるかのような赫い目を。
 赫は、瞼の裏に焼きついて消えようとしない。

 魂へと、刻まれてしまったかのように。
 烙印を押されたかのように。
 魅入られたかのように。

 ただ一つ、確かに感じたことがある。
 その眼の奥に渦巻いていた、あれはきっと飢餓と虚無。

「……似ていた、かも」

 無限回廊にも似た夜の中で、彷徨っていたかつての自分と。
 ただ一瞬、視線が交錯しただけの相手なのに、そんな事を思う自分がおかしく思えて。
 でも、あの眼をどうしても忘れたくなくて。

 川澄舞は魂から来る凍えに、背筋を震わせた。

 握り締めたスーツケースの取っ手が、微かに悲鳴をあげて軋んでいた。





 この世には、決して避けられず、覆すも(かな)わず、逆らうも(あた)わず、何人(なんびと)にも変える事の出来ない運命(うんめい)が、ただ一つだけ存在する。


 その運命(うんめい)の名を―――≪出逢(であ)い≫と云う。








§  §  §  §  §









 空港ターミナルを出た三人は、五分と経たずして現れたリュカの運転する乗用車――赤いミニクーパーだった――に荷物を載せて、自身たちも乗り込むと、一路倫敦中心部へと向かった。
 広いとはお世辞にも云いがたい車内では、市街に付くまでの間、絶えずリュカの機嫌良さげなトークが響いていた。声を掛ける前は、その出で立ちなどから強面の無愛想なタイプにも思えたのだが、どうしてどうして。むしろ、人懐っこい猫科とも面倒見の良いお姉さんタイプともとれる取っ付き易い明るい女性であるようだった。
 空港から何処か物思いに耽っている様子だった舞も、車が市街に差し掛かる頃には引き込まれたようにリュカの熱の入った歴史経緯を織り交ぜた倫敦名所案内に対して一々感心したようにコクコクと頷いていた。

「さーってと」

 そう、仕切りなおしのようにハンドルを握るリュカが張りのある声を発したのは、空港から約一時間。トラファルガー広場を横切った際に始まった、リュカが見てきたように語るプロレス中継的英仏大海戦ダイジェストがホレイショ・ネルソン提督の涙の逆転勝利に終わった時の事だった。
 佐祐理たちが乗るミニクーパーは、英国国立図書館と思しき建物の敷地内へと入り、関係者専用と思しき通路に入ると、人気の無い奥の方へ奥の方へと進んでいっている。
 リュカはサイドウィンドゥを開けながら云った。

「ちょっと頭がクラクラっとするかもしれないから、グッと下っ腹に気合入れて意識集中してなさいよ」
「なにかあるんですか?」

 キョトンと運転席の後ろに座っていた佐祐理が訊ねる。

「境界面をくぐるのさ。体質的に苦手な人もいるみたいでさ。慣れないと酔っちゃう場合もあるみたいでね」
「境界面、ですか」
「結界、というものがあるんですか?」

 付け焼刃の知識を許に久瀬が問うが、リュカはあっさりと首を振った。同時に、車は四方を生垣で囲まれた行き止まりのような場所に停車する。

「結界で遮ってるんじゃないんだ。空間的に隙間に押し込んでいるっていうか。日本人には隠れ里って言ったほうが分かりやすいんだったっけ。とにかく、今居る空間から少しずれた場所――つまり今日からあんた達が通う学校の建物がそっちにあって、此処から行けるようになってるんだ。他にも何箇所かあるんだけど、自動車用の出入り口は此処だけだな、確か」
「……自動車用?」
「学生寮とか教職員用の居住スペースもあるからね。市街に出る時に一々図書館の駐車場まで来て車に乗るのも面倒だろう。けっこう歩かないといけないし。それにそこそこ人数も居るから、図書館の駐車場だけじゃスペースが足りないという切実な問題が……」
「……は、はぁ」

 此れからいざ神秘と魔法の世界へ、という寸前に駐車場問題について語られるというのは、現実主義者の久瀬からしても、なんだかなあと思わないでもない。
 助手席から斜め後ろを盗み見れば、佐祐理の笑顔が微妙に引き攣っているのが見えた。

 リュカはといえば、自分が後ろに座っている女性の幻想やら期待やらに後ろ足で砂を引っ掛けたのにも全然気づかずに、内ポケから取り出したカードを、運転席から差し出して、傍らに生えているモミの木に翳していた。

「なにを……」
「え? なにって、通行証見せてるんだけど」
「そ、そうですか」

 図書館の関係者用通路に入る時と同じ行為にしか見えないのだが――通行証も同じだ――。
 さっきは機械が認識してゲートが開いていたが、今度は―――。

「……え?」

 舞が不思議そうな声をあげる。
 久瀬や佐祐理もキョトキョトと車外の様子に目を瞬いた。
 特に劇的な視覚効果もなく、気が付けば前方を塞いでいた生垣が消えていて、舗装された二車線の通路が伸びている。後ろを見ると、今来た道は消えていて、今度は生垣が其方に生えて、行き止まりになっていた。

「えっと、リュカさん、もしかしてターンしました?」
「あたし、そんなにドライビングテクニック大した事無いわよ」

 装輪車で超信地転回は事実上不可能である。

「ふぇぇ、じゃあその境界面というものをくぐったんですね。……もっとドバァァァとかグワワワァァン的な物凄いものを期待していたんですが」
「な、なに? グワワワァァン?」

 落胆した様子の佐祐理に、リュカが眼を白黒させている。

「ま、まあ、三人とも何ともないみたいだね。三半規管は丈夫な方?」
「三半規管は丈夫や丈夫でないで表現する器官ではないのでは……」
「あんた、細かいねぇ」

 呆れたように云って、リュカは再びアクセルを踏んで車を発進させた。別の空間とリュカは云っていたが、傍目には異様さはない。空はさっきまでいた場所と同じように青く、太陽も輝き雲の合間から日差しを地上へと送り込んで来ていた。ただ、傍らに聳える建物が古びたコンクリートのものから明媚な赤レンガ仕様のものに変わっており、周囲は鬱蒼とした森に囲まれているようだった。確かに、都市の只中とは思えない。
 一分と経たずに建物の並びの奥にある駐車場へと、車は停車した。何台もの大衆車と、数台の高級車が駐車してある様子は、そこらの施設にある駐車場となんら変わった所もなくて、やはり此処が欧州でも随一と謳われる魔法学校という実感は湧いてこない。

「あの、あの、魔法の絨毯とかで移動はしないんですか?」
「なんで? 車の方が便利じゃないの」
「ふぇぇ」

 身も蓋もない切り返しにへこむ佐祐理。

「絨毯じゃ車検通らないしねぇ」
「そういう問題か?」
「……さあ」
「はいはい、到着したからさっさと降りて……って、あたしらが降りないと後ろが降りられないか」

 ミニクーパーは2ドアである。
 助手席に座していた久瀬は、一足早く車外に降り立ち、大きく深呼吸した。本当に森の奥なのかと思うような静けさ。緑の発する清浄な大気が肺腑を洗う。青年は眼鏡の位置を直し、校舎か宿舎と思しき赤レンガの建物を仰ぎ見た。
 古風な佇まいからは欧州特有の歴史が漂ってくる。だが、あまり魔術的なオドロオドロしい雰囲気はない。陽光の下だからだろうか。夜ともなれば、もっと幻想的な雰囲気をかもし出すのだろうか。
 目を細めて建物に見入っていた久瀬は、出入り口と思しき扉の前に、少女が一人此方をじっと見つめているのに気がついた。

「……あの娘は」

 肩口で毛先をウェイブさせた金髪。ブラウンのゆったりとしたワンピースに包まれた華奢な身体。確かに此方を見ているのに、何処を見ているのか分からないようにも思える翡翠の双眸。
 アンティーク人形のような少女は、久瀬が自分に気づいたと知るや、スタスタと彼の方へと近づいてくる。

「あ、リーエ、お客さん連れてきたってヤツに……ってオーイ?」

 路傍の石のように完璧にリュカを無視して、少女は久瀬の前まで歩いてくると、そのまま飛び掛るように抱きついた。

「こんな所まで追いかけてきてくれるなんて。嬉しいです、ダーリン」
「……だーりん?」
「ふぇぇぇぇ」
「…………」

 何とも形容し難い視線がビシバシと背中に突き刺さるのを感じて、久瀬は恐る恐る肩越しに背後を伺った。
 何を勘違いしたのか真っ赤になって口許を手で覆っている佐祐理と、唾を飲み込んでいる川澄舞。

「と、俊平さんに現地の隠し妻がっ!?」
「……違います」

 現地ってなんだ?

「……ほ、他に何人いるの?」
「一人もいない」

 重婚前提ですか。

「はぁ。おい、お前。いい加減に離れろ」
「……つれないですね」

 ヒシッと抱きついていたのが嘘のようにあっさりと彼女は後ろに下がった。
 その姿を見て、佐祐理は目を丸くした。

「あら、貴女は」
「お前ら、知り合いなのか?」

 周囲から無視されて寂しそうにしていたリュカが、横から会話に入ってくる。
 なんだ居たのか、という眼でリュカを見たリーエが淡々と答えた。

「以前マムのお供で日本に赴いたときに少し縁がありました。今度いらっしゃる方々は日本人とは聞いていましたが、まさか貴女方だったとは。奇縁ですね」

 彼女の名前はリーエ・リーフェンシュタール。正月に、佐祐理たちが遭遇した異国の少女。
 何処と無く浮世離れした雰囲気はあったが、まさか――――。

「……あなたは、此処の学生だったの?」と舞が驚いたように訊ねる。
「この場に居るという事はその通りだという事になりませんか?」
「先生という場合もある」
「……そういう連想は予想していませんでした」

 ちょっと待ってくださいよ。
 佐祐理はある事柄に気がつき、愕然とした。
 彼女が此処の学生であるという事はつまり……。

「おーい、リーエ。ちょっと透夏の……なんだ、もう着いていたのか、リュクセンティナ」

 廊下のガラス戸を開けて、また一人、妙齢の女性が顔を覗かせる。

「なんだとはとんだ言い草だね。ほら、あんたたちの新しい生徒、連れて――」
「あ、秋子さん!?」
「……?」

 その女性の顔を見て、久瀬が仰天する。
 不思議そうに唖然としている久瀬を見ていた女性は、もう二人、来客がいるのに気づき、佐祐理と舞に目をやった。
 キョトンと目を凝らす。そして、次の瞬間驚いたように破顔した。

「なんだ、資料の写真、どうも見覚えがあると思っていたが、正月に秋子の家まで案内してくれた娘たちではないか」

 そう、相沢奈津子は声を弾ませる。
 なんで、どうしてという疑問を脳裏一杯に埋め尽くしながら、佐祐理はカラカラに乾いた声で呟いた。

「やっぱり、祐一さんのお母様」
「…………な、なんだとぉ!?」

 一拍の間をおいて、久瀬の腰を抜かしたような驚声が響いた。









§  §  §  §  §








(えにし)が結ばれておったのだろうな。さもなくば、このような形での再会などあり得んわ」
「縁、ですか」

 石造りの建物の廊下、その特有のひんやりした空気の中、リーエと奈津子。そして、佐祐理たち三人は歩いていた。
 リュカの姿はない。彼女はさっさとミニクーパーに乗り込み、明るく別れの言葉を残して学院より去っていった。本人曰く、此処は立場上彼女はあまり長居すべきではない場所なのだという。実際は、仕事が済んでまで群青色に会いたくないから、と小声で零していたので此方が本音なのだろう。

「偶然出会った者同士がこのように路を交わせる。縁が結ばれたと考える方が心地よかろう」

 そう言って奈津子はカラカラと笑う。

「それにしても、祐一さんのお母様が魔術師だったなんて」

 しみじみと呟く佐祐理。祐一や秋子にそのような気配をまるで感じていなかっただけに以外の感だけが募っている。

「ふふふ、これでも昔はブイブイ言わした美少女退魔師だったのだぞ」
「胡散臭さ大爆発ですね」
「そなたは黙っておれ」

 日本で出会ったときと変わらぬやり取りに佐祐理は思わずクスリと笑った。未知の世界に対する緊張と予期せぬ事実への驚愕と で浮き足立っていた心が、何となく地に足を付けたような気がした。

「でも、群青色さんが祐一さんのお父様だとは気がつきませんでした。ねぇ、舞」
「……ん」

 天野愁衛から口頭で名前と人物像は教えられていたものの、相沢という苗字はさほど珍しいものではないだけに、全く祐一と重ならなかったのだ。祐馬の漢字を目の当たりにしていれば、共通点を見出していたのかもしれないが。
 その時、先ほどから渋面で黙りこくっていた久瀬が口を開く。

「相沢は……祐一君は、彼もそうだったのですか?」
「そうだった、とは術師かという事か? それなら否だ」

 何でもない事のように奈津子は言った。

「というよりアレは私達の事は何も知らぬよ。貧乏学者か何かと思っているのではないか?」
「……教えてなかったの?」
「色々理由もあってな。なるべく此方とは関わらせたくなかったのだ。それに、うちは術だの知識だの、息子に継承させなければならないような連綿とした歴史がある魔術の家系、などと言ったものではなかったしな」
「そうなんですか?」
「私の実家はその手の家とも言えなくもないが、私も秋子もドロップアウトした口だ。継がせるようなものは何もない」
「じゃあ、名雪さんも知らないんですね」
「秋子自身、名雪が生まれた時にこの仕事から足を洗っておるからな」

 そんな会話を続けているうちに、一行は古びたドアが嵌め込まれた研究室と思しき部屋の前に辿り着く。
 佐祐理は思わず喉を鳴らした。
 何の変哲もない木製のドアだ。だが、此処に来て急に実感が湧いてきて、鼓動が高鳴る。

「群青色とは」

 部屋の前に立ってからしばし沈黙していた奈津子が、ドアノブに手をかけて、不意にそんな事を口にした。
 そこに、先ほどまでの親しみに溢れた女性の姿はない。
 この世のものとは思えない闇色をした黒瞳が、揺らぎもせずに三人を見据えていた。

「群青色とは夜の色。彼奴はまったき夜の名を冠する事を許されたウィザードだ。それは、彼奴の歩んできた道を表し、同時にそなたらが此れから進むであろう路でもある。明けぬかもしれぬ夜に足を踏み入れる覚悟は出来ておるか、子供たちよ」

 厳粛とすら言えるその声音に、返る声は無い。
 だが、彼らの逸らさぬ視線が、言葉以上の答えを示していた。
 満足そうに頷き、奈津子は口ずさむ。

「よかろう、ならば入るが良い」

 そして、扉は開かれた。

 仄かに燈る七つのランプ。揺れる光が、押し黙る暗闇との逢瀬を重ねている。
 部屋は雑然と積み上げられた厚みのある書物に埋もれ、侵しがたい重厚な気配に満ち満ちていた。その中心には、やはり本に埋もれたマホガニーのデスクが鎮座している。そして、此方に背を向けて椅子に腰掛けている男が一人。
 ランプの灯が揺れる。
 本を閉じる音が、静謐の奥から響いた。

群青色(フィア・ブルー)】相沢祐馬は、クルリと椅子を回転させ、来訪者にして新たなる弟子となる子供達に向き直ると、眼鏡を置いて莞爾と微笑み、歓迎の言葉を口にした。


Welcome(ようこそ). To the Wizardry world(魔法の世界へ).」



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