その夜、舞が取った電話は父からのものだった。
 舞から手渡された受話器からは、くぐもったエンジン音が聞こえていた。
 恐らくは車内からであろう電話で、父は珍しく少し躊躇ったように沈黙すると、明日自宅の方に帰ってきて欲しいと云う。
 どうしてですか、と訊ねると父は、大事な話があるんだ、と云った。
 少しの間予定を振り返り、「分かりました、夕方頃に帰ります」、と伝え、受話器を置くと舞にその旨を伝えた。
 分かったと頷く舞の、どこか困ったような表情が、何故か心に残った。















【家族の肖像】













 二ヶ月ぶりの自室。いや、この二ヶ月間実家の方へ帰った事も、自室に入った事も何度かあったのだが、こうやって腰を落ちつけるのは二ヶ月ぶりだった。佐祐理はゴロンとベッドに横になると、ぼんやりと素っ気無い色合いの壁紙を見つめる。主のいなくなった部屋だが、どうやら父は変わらずお手伝いさんに部屋の手入れを頼んでいるのだろう。部屋の様子は家を出る一年前とまったく変わっておらず、清潔さも保たれており、またこのベッドも真っ白なシーツが敷かれている。柔らかなお日様の匂いが鼻を擽る。
 正直、自分の部屋と言う印象を、佐祐理は自室には抱いていなかった。18年を過ごした部屋だったが、親しみなどない。ただ、自分が収まるように定められた空間と言う認識に過ぎなかった。だから、今も帰ってきたという思いはない。
 無関心――それがかつての倉田佐祐理の在り方。

 かつて。その冠をもう被せてもよいのだろうか。未だ、無関心という在り方を固持し続けている自分を佐祐理は知っている。だが、もう被せてもいいのだろう、と佐祐理は思った。少なくとも、もう自分は無関心のみで構成される存在では無くなっている。その確信を抱いていたから。今の自分は他人に興味を抱き、物事に関心を抱いている。他人の意思を慮り、思慮を操り、外界からの情報に、喜怒哀楽を以って反応を示している。通常よりそれが乏しいとしても、無ではないのだ。
 なにより、自らの意思で新たな道を選んだ事が、それを証明している。
 いや、今この瞬間、こんな事を考えていること自体、それを証明しているのだろう。先ほどの父との会話、それがこんなにも自分に影響を与えている。端的に云うなら、どうやら自分は些か動揺しているらしい。動揺、とても人間らしい情動じゃないか。
 佐祐理は枕を額に当てると、苦笑めいたものを浮かべた。


「実はな、再婚しようと思っている」

 神妙な顔をしてそう云った父に、佐祐理は自分がどう反応したのか上手く思い出せないでいた。
 はあそうですか、などと酷く愛想の無い対応をしたような気もする。多分、父が落ちつかない様子になったのはその所為だろう。
 勿論もろ手を挙げて歓迎してくれるとは思っていなかっただろうが、やはり娘にそんな無愛想な対応をされれば、動揺するのも当然だろう。普段、不必要な程に愛想のいい娘だから尚更だ。実際は、単にあまりに吃驚し過ぎていただけだったのだが。
 そう、父が再婚をしようと考える人だとは思いもしなかったから。

 何故、思いもしなかったのか。今考えると、まったく根拠がないようにも思う。勝手に当てはめていたのだろうか、父の在り方と言うものを。思えば、長らくまともに向き合った事もなかった人なのだ、父とは。だから、多分独り善がりな印象でしかなかったのか。それとも、そもそも他人をちゃんと認識しようとしてこなかった自分が、他人の在り様を理解した気になっていたのがおかしいのか。
 そうだ、かつて一度たりとも自分は他人を理解したことなどなかったというのに。得意なのは、わかった気になる事だけだ。
 自分は同じ事をずっと繰り返している。はたして、本当に自分は前に進んでいるのだろうか。


 二人ともが動揺していた所為だろうか。この一年では珍しく噛み合わない、しどろもどろの会話を続けた父と自分だったが、父の「明日、その人と逢って欲しい」という台詞を区切りとして、何とか収拾をつけたのだった。
 そして、そのまま自室のベッドで転がっている自分。

「ああ、そういえば」

 相手の人の名前を聞き忘れていたのを思い出す。普通は聞かれずとも向こうから告げてくるのだろうけれど、やはり父も落ちつきを失っていたという事か。ただ、それだけ、父が真剣なのだと肌で感じる。それだけ、自分の選んだ人を娘に認めて欲しいと思っているのだ。
 そして、ふと気付く。擽ったくなった。気付いたのだ。それは結局、つまるところ、自分もまた父に大事にされているという証なのだと。どうでもいいのなら、自分の選んだ人を認めて欲しいなどと、思わないのだから。
 父が自分を大事に思っている事は勿論前から識っていた。でも、こうやって具体的なカタチとして示されるのは、やはり嬉しいものだ。

 そして――――

 それを嬉しいと感じられるのだから、やはり世界は色を帯び始めているのだろう。あの、陰影でしかなかった世界に、また再び。
 ただ、でも……

「母……か」

 新しい母が出来ると言う。
 それは、佐祐理には異物感を感じさせるものでしかなかった。
 自分の中の、未だ人間ではない部分の領域でしか把握できない母という存在。
 かつて、母は倉田と名の付くものすべてを断ち切り、振り切って、佐祐理の前から立ち去っていった。それは完全な断絶。
 だから、佐祐理にとっては、母という存在はプロフィールでは語れても、情感で以っては何一つ認識できない存在でしかない。母という記号でしかない。
 そんな母という存在が、今更出来るという。やはり、異物感だけだ、感じるものは。

「お母さま」

 リアリティの無い存在。いや、そうでもないか、と佐祐理は思いなおした。倉田佐祐理の母親、という括りさえ付けなければ、別に母親というものがリアリティの無い存在という訳でもない。例えば秋子さんや、佐奈子お母様。他人様の母親だけれど、彼女たちは佐祐理の目にも、ああこれが母親なんだ、と知らしめてくれる素敵な女性たちだった。少なくとも、自分は彼女たちの姿を通して、母親というものを以前よりは実感しているはず。
 そう、考えると。不意に、自分に新しい母親が出来るという事実が、色彩を帯び始めた。

「うー」

 佐祐理は頭に枕を被せて咽喉を鳴らした。
 急に胸が苦しくなりだしたのだ。手酷い焦り、焦燥が胸を焦がす。先ほどまでとは比較にならない激しい動揺が襲い来る。
 考えて見れば、唐突過ぎる。いきなり明日に会えと云われても、此方にも心の準備があるじゃないか。だったら、いきなり呼び出した時にいきなり会わせてくれた方がまだ何も考えずに会えたのに。
 愚痴めいたものが溢れ出す。参った、ほんとにどうしよう。

「……慌て出すのが我ながら遅いよ〜」

 自分の情動の鈍さ加減に呆れながら、佐祐理はぐったりとベッドに大の字になり、意味もなく天井を見つめた。
 見なれた天井の模様が、昔のまま自分を見下ろしていた。











 翌朝、良く眠れぬまま目を覚ますと、既に自宅には父の姿はなかった。
 家人に聞くと、急な用事が出来たという。ただ、昼前までには戻るのだとか。相変わらず忙しい人だ。
 父の再婚相手という人は……昨日父は午後に来ると云っていたけれど。

「すみません、出かけてきます。お昼前までには戻りますので」

 じっと家で午後になるのを待つ気になれず、佐祐理はコートを羽織ると自宅を後にした。
 家を出た後に、朝食を食べていないことを思い出す。多分、家人が用意してくれていたのだろうけれど。
 悪かったな、と少し反省する。帰宅したら一言謝っておくべきだろう。
 まったく、呆れるほどに落ちついていないようだ。少し、恥ずかしくなる。
 さて、それはともかく朝食はどうしようか。別に食べなくてもいいとも思うのだが……

「舞に怒られるよね」

 意外と生活習慣には厳しいのだ、彼女は。わりと鷹揚、もしくはいい加減な所のある自分と違い、舞はすべき事には大体キチッとしている。不必要に何もかもを押し付けてくるような事は勿論ないのだが、最低限のルールを逸脱すると、黙ってじぃっと見つめてくるのだ。咎めるでもなく怒るでもなく、ただ少し哀しそうに。
 これがまた実に凶悪で、佐祐理は逆らえた例がない。お陰様で健康かつ清潔に日々を過ごせているのだけれど。

 それに、舞が云うには朝食を取らないと頭がシャキッとしないのだそうだ。そして今は何となく、思考を明瞭にしたい気分。なら、朝食を取るべきだろう。
 そうと決まれば、このフラフラとした流離いにも目的地が出来る。

「もう、開いてる時間だよね、あゆさんの所」

 昼間での時間を潰すにもうってつけだろう。しばらく、腰を落ちつけて気持ちを整えたかったのだし。
 家に――舞と暮らしてるマンションの方だ――一度帰ろうかとも思ったのだが、昨晩舞に電話をした時に向こうは向こうで佐奈子お母様と予定を入れたと云っていたので、多分朝から自宅の方に戻っているはず。ショッピングか何かに出掛けるのだろう。もうイギリスに向かうまでそんなに時間は無いのだから、数少ない母子水入らずの時間だ。邪魔するつもりもない。

「……ふう」

 舞のことを思うと、心なしか重たげな吐息が零れた。
 少し本音を漏らすと、佐祐理は舞の同行にまだしこりのようなものを抱いていた。散々二人で話し合って決めた事だけれど、心の底から納得できたわけではない。英国行きが舞の意思だというのは認めている。だけれど、舞がこの道を選んだのは自分が原因である事には間違いが無く、自分が言い出しさえしなければ舞が果たして魔法に関わろうと思ったかどうかを考えるなら、確信を持って否と言える。どう言い繕おうとも、舞の道を踏み違えさせてしまったのは自分なのだ。
 確かに付いてきてくれるのは嬉しい。同じ道を選んでくれるのは心強い。だけど、英国に行くという事は舞が佐奈子お母様と離れ離れになるということ。自分たちが同居する際にも舞が母と別れて暮らすことで悩んでいたのを知っている佐祐理としては、どうにも自分が二人を引き離してしまったように思えて仕方が無いのだ。

「これも、結局舞のこと……」

 子供扱いしているのかな、と佐祐理は憂鬱な気分になる。
 あの舞と喧嘩をした日、久瀬に怒鳴られたことは、佐祐理の中に未だ衝撃となって残っている。それまで、舞との関係だけでなく、他人との付き合い方に佐祐理は深く考えをめぐらしたことがなかった。何も考えていなかったと言ってもいい。自分の態度が他人にどんな影響を与えるのか、言動がどう思われるのか、表面的な反応を拾っていただけで、相手が何を感じてどう思うのかなんて想像しようとも思っていなかった。もしかしたら、自分は人間関係が双方向性だという事ですら、知ってはいても理解していなかったのかもしれない。弟のことで思い知らされたはずなのに、結局わかっていなかったのかもしれない。
 はっきり云って、実際のところ今もよく理解していない。
 相手が何を考えているか、どう思っているか、何を感じるか、想像するのは容易い。でもそれは、自分の中で構築した独自の方程式から導き出される答えのようなもので、それが自分の思いこみでしかないという可能性を否定できない。人の感情は一律一定ではないのだ。人間関係と言うものがそんなに簡単なものだったら、彼に貴女は独善的だなどと罵倒される事もなかっただろう。多分、自分は他人より人の気持ちを慮るのが飛び切り不得手なのだ。

「難しいなあ」

 そういう事に気付かされると、途端世界は複雑怪奇な様相を呈し始めてきた。シンプルな構成でしかなかったはずの世界は、解析不能なロジックで捩れだし、佐祐理はもう何が何だか訳がわからなくなってきている。最近では自分の気持ちですらはっきりと把握し切れなくなってきている始末だ。例えば、何だか最近、今まで別に特別どうこうと思っていなかったあの人が……少し気になるというか、引っかかるというか、腹が立つというか、むかつくというか、気に障るというか……

「………うー」

 佐祐理は少し立ち止まると、額を抑えた。
 そういう風に考え出すと、何だか自分がその人のことを嫌いになってしまったかのようにも思えるが、そんなはずは無い訳で。だって、彼が自分たちと英国に同行してくれると聞いた時には素直に嬉しかったし、頼もしかったわけで、正直得体の知れない世界に女二人で足を踏み入れる事に不安を抱いていたところでのその申し出は、本当に心強かったのだ。
 そんな相手が嫌いというのはちょっと変だろう……いや、変じゃないのだろうか。やっぱりよく分からない。
 とまあ、こんな風にして、自分自身の気持ちですら、不明瞭で不可解で不自然で。
 まあ、自分の気持ちやその人の事は兎も角として、今回の父の再婚だって佐祐理には訳のわからなくなった世界の出来事の一つだ。父がどうして再婚なんか考えたのかさっぱり分からないし、だったら今まで何故再婚しようとしなかったのかも分からない。
 政治家という仕事は独り身だと不都合を催す事が多々ある。政治活動において配偶者の役割は決して軽いものではないのだ。だから、母と別れた後父が再婚しようとしなかったのをずっと不思議に思っていたと同時に、父はもう配偶者を得るつもりははないのだと思いこんでいた。それが、父の負った傷の表れなのだと。
 それが今回あっさりと――本当にあっさりなのかは分からないけれど、印象としてはあっさりと――再婚すると言う。全く以って、不可解極まりない。やはり、それが父だとしても他人の心を想像するのは難しいという事なのか。それとも、単に想像しようとも思っていなかっただけなのか。今回に関しては後者の方が正しそうな気もする。
 そう考えると、少々自分が情けなくなった。父は大切な人なのに、その人の事を自分は何も考えようとして来なかった事になるわけで。気分がへこむ。
 そして、思いは再び父の伴侶となる人の事へ。
 お父様と結婚する人、どんな人なんだろう。
 結局、朝からグルグルの色んな方向へと迷走している思考の根本の所は、それだった。
 父の妻になる人で、自分の母親になる人。それをどう受けとめていいか分からないから、こうやってブラブラと当ても無く歩きまわっているわけで……

「……ああっ、行きすぎちゃった」

 そういえば当てが無いわけではなかった。目的地である喫茶『雪村』の入り口を何時の間にか通りすぎてしまっていた佐祐理は、慌てて元来た道を戻って、店に戻る。入り口のドアには『OPEN』の札が掛かっている。

「おはようございまーす」
「いらっしゃ…あっ、佐祐理さんだ。おはよー」

 つい数週間前まで自分も着こなしていたシックな藍色の制服を着た月宮あゆが、パタパタと駆け寄ってくる。奥のカウンターを覗くと、何時ものように無愛想で不健康そうな表情の雪村が無愛想なまま手を挙げて挨拶してくれた。

「今日はどうしたんですかぁ?」
「あっ、ちょっと朝御飯を食べに、ね」
「舞さんは?」
「今日はお母様とお出かけなんですよ」
「ああ、それで。じゃあ、えっとどこに」

 促されるまま、店内をグルリと見回した佐祐理は「あら」と見たことのある顔ぶれをお客の中に見つけて声をあげた。
 カウンター前のテーブルで、此方に気付いて何やら一生懸命口に頬張ったものを飲み下そうとしながら必死にパタパタと手を振っている一つ年下のピョンと跳ねた一房の髪が特徴的な少年と、その彼の真横らへんに位置するカウンターの隅の席に腰掛けて、一見気の無い様子でそっぽを向いて、モソモソと朝食を取ってる眼鏡の青年。
 忙しそうなあゆに断って、佐祐理は二人の方へと向かった。

「おはようございます、北川さん。それと……」

 チラリと此方を窺って「どうも」と素っ気無く挨拶する久瀬に、佐祐理は何故か少し慌ててしまって、口早に「おはようございます」と頭を下げた。そこに、ようやく口の中のものを飲みこんだ北川が喜色満面で声をあげる。

「ども、佐祐理さん。いや、奇遇ですね、こんなところで会うなんて」
「こんなところと云うな、馬鹿者。それに、それほど奇遇でもないだろう」

 不機嫌そうに、彼女はここの常連なんだから、と久瀬が口を挟む。

「ああ、それもそうか」

 へこへことマスターに謝りながら北川も納得する。
 少し迷ったものの、佐祐理は北川の対面に腰掛けた。チラとすぐに正面を向いてしまった久瀬の方を窺いながら、カウンターの奥にいる雪村にモーニングセットを頼む。
 それでする事を無くしてしまった佐祐理は、目の前でガバガバとアメリカンコーヒーを飲んでいる北川に小首を傾げてみせた。

「そういう北川さんこそ、佐祐理がここで働かせて頂いていた時には、こんな早くにいらっしゃってた事はなかったんじゃないですか?」
「そりゃ、学校があったわけっすから」
「ああ」

 それはそうだ。

「最近学校サボった時には、こうやってここで飯食わせてもらってるんすよ」

 栞ちゃん所で食わせて貰ったりもしますけど、と北川が付け加えるのを聞きながら、そう言えばもうそんな季節なのかと思いを馳せる。

「北川さんたちももう卒業なんですねえ」
「ええ、まあ、なんとか無事に」
「だったら最後までちゃんと出席ぐらいしろ。僕は卒業まで授業は全部出たぞ」
「オレだってそんなに云うほどサボッてないって」

 口を尖らせ久瀬の横槍に反論した北川だったが、すぐさま表情を笑顔に変えて佐祐理の方に向き直る。そんな所が、彼を周囲にお調子者と呼ばせる所以なんだろうな、と佐祐理は小さな可笑しみを感じた。

「佐祐理さんも良くここで朝飯食べに来るんすか?」
「いえ、そうですね、まあ偶に、でしょうか」

 朝食の当番が寝坊したり、朝御飯の材料などを買い忘れていたりした時など、ここにはお世話になっている。

「俊平さんは頻繁に来てらっしゃるみたいですけどね」

 佐祐理が居た時は週四日ペースでしたし、と言うと、不意に雪村が顔を出し、

「君と川澄さんが居なくなってからは週二日ペースだ」

 とだけ云って、作業へと戻っていった。
 ぽかーんとそれを見送り、愕然となっている久瀬を見やる。

「はぇ、そうなんですか」
「……う、くっ」
「旦那、あんた意外と分かりやすいよな」
「うるさい、黙れ」
「えっ? あの」
「たわ言です、お気になさらず」
「はぁ」

 何がどういう意味でたわ言なのだろうと首を傾げながらも、久瀬の必死な目つきに佐祐理は口を噤んだ。

「それで、今日はお独りなんすか?」
「え? あ、はい。ちょっと今日は実家の方に帰ってたんですけど、ここには……まあ気分転換のようなつもりで」
「気分転換?」

 キョトンと不思議そうな顔をした北川に、佐祐理は別に黙っているような事でもあるまいと、今日父親の再婚相手と顔を合わせしなければならない事実を告げた。
 尤も、それに大きく反応を示したのは、興味無さげに後ろを向いていた久瀬の方だったが。

「再婚? 倉田先生が?」
「は、はぁ」
「そうか、それで」

 最近妙に頻繁に連絡を取り合っていたのはその所為か、と久瀬は独り納得したようにブツブツと呟いている。

「ふーん、そっか再婚ねえ。やっぱり相手の人って若いのかね」
「おい、北川」

 失礼な妄想を口にするな、と咎める久瀬に、北川は口にスプーンを咥えてブラブラさせながらのたまう。

「でもさ、男ならおっさんになってから若い女の子と結婚するのって一つの夢じゃないか?」
「ふぇぇ、そういうものなんですか?」
「……し、知りませんよ、そんなこと」

 慌ててそっぽを向く久瀬。

「いや、結構そんな夢と言うか妄想と言うかありますって、男って」
「はぁ」
「うちの伯父貴だって四十過ぎてから、19歳の女性と結婚したんすから」
「ふえぇ、年齢差二十歳以上ですか」

 それは凄いと感嘆する佐祐理を他所に、久瀬が軽蔑したように呟く。

「どうせ節操の無いスケベな親父なのだろう、お前の伯父というのは」
「あんたも大概失礼だよな。いや、それがさ、うちの伯父さん、これがすっげー堅物なんすよ。女とは丸っきり縁がなさそうな。オマケに刑事。それが前の年まで女子高生だった人と結婚しちゃうんだから、分からないっすよー」

 はぇぇ、と感心しながら佐祐理は、その女性は年上好きだったのだろうかと頭を悩ませた。自分に照らし合わせて考えてみても、ちょっとそれほど年上の人と恋愛関係になるというのは想像できない。チラと見ると、久瀬が眼を白黒させていた。思わず可笑しくて笑ってしまう。

「だから、佐祐理さんの親父さんの相手、結構若いかもしれませんよ」
「わ、若いんですかぁ」
「もしかしたら、佐祐理さんと同い年とか、年下とか」
「ふ、ふぇぇ!」

 さすがにその展開は想像していなくて、佐祐理は泡を食った。漠然と、別れた母と同じような年頃の人を連想していただけに、いきなり新しい母親が自分と同世代などと言われたら、さらにどうしていいか分からなくなる。もし年下だったりしたら、相手をお母さんと呼んでいいかどうかという点から悩まなければならなくなるではないか。

「で、でも父の職業柄そんなお若い女性とお知合いになるような」
「いや、出会いってのはどこであるか分からないっすからね。伯父さんと功刀ちゃ…伯母さんがあったのも事件で偶然だって云ってましたし。あっ、もしかしたら佐祐理さんの知ってる人かもしれないっすね。会うまで誰か教えてくれないっていうのは」
「し、知り合いですか?」
「例えば……あはは、川澄先輩とか」
「ふぇぇぇぇ!?」

 店内に佐祐理の悲鳴と、久瀬がコーヒーを吹き出す音が轟く。佐祐理の前では北川が眼を白黒させて椅子からずり落ちていた。冗談で言っただけなのに、こんなに反応されるとは思っていなかったのだ。
 でも、佐祐理からすれば冗談では済まなかった。
 舞――川澄舞。
 云われてみれば、父が知り合えるような自分と同世代の女性といえば舞だけのような気がする。実際、何度も自宅に連れて行って紹介したり、一緒に食事をしたりもしているし。ああっ、そういう展開って友達に紹介されてお付き合いを始めましたと良く雑誌やテレビで言ってる恋人と知り合った理由と同じじゃないだろうか。いや、まったく同じだ。そういえば、一昨日父からの電話を取ったとき、舞ってば妙に困ったような顔をしていた。あれって、つまり自分が父に呼ばれた理由を知っていたからなのだろうか。
 という事は、今日父に紹介されるのは舞!? え? つまり新しく私の母親になるのは舞!?

「お、おーい佐祐理さん?」

 椅子から立ちあがるや物凄い形相になって何やらブツブツと呟き出した佐祐理に、北川、テーブルから半分顔を覗かせながら恐る恐る声を掛ける。何事かと店中の視線が集まる中、平然と注文のモーニングセットを作っている雪村が北川には印象的だった。あれぐらい動じない性格でないとマスターなんて出来ないのかもしれない。とりあえず、将来の進路から喫茶店のマスターは除外する北川であった。
 と、一方の佐祐理はといえば、仁王立ちしたまま猛然とポケットから携帯電話を取り出し、舞の携帯へと電話を掛ける。
 数回のコールの後、舞の携帯電話と繋がった。

『はい、もしもし、どうしたの佐祐理?』
「まいー! まいー! ねぇ、舞!」

 突然の電話越しの絶叫に怯む舞。

『な、なに?』
「舞っ、あなた近々結婚する予定あるの!?」
『け、結婚? 私?』

 電波の向こうで舞の面食らったような息遣いが聞こえた。

『わ、私は結婚なんてしない、けど』
「……結婚、しないの?」
『う、うん』

 携帯を耳から離して、だはぁぁ、と佐祐理は大きく息を吐いた。

「そっかー、そうなんだ。ごめんね、早とちりしちゃって」
『さ、佐祐理?』
「ごめんね、舞。それじゃあね」
『あっ、さゆ』

 ――プチ。

 通話を切り、佐祐理は徐に携帯電話を畳むと、ポケットに仕舞い込んだ。そのままお嬢様然としたしなやかな動作で腰を下ろすと、目の前に置かれた冷や水を一口飲み干す。
 そして、対面の席で茫然と此方を見つめている北川にニコリと柔らかな微笑を投げかけた。

「もう、北川さんたら、嘘をつくならもうちょっと真実味のある嘘を付いてくださいよ」
「……いや、あんた思いっきり信じてたじゃないっすか」
「ふぇ?」
「いや、もういいです」

 単に冗談で言っただけなのに。
 何だか重い疲労感を感じて、北川は――あんた、良くこの人に付いていく気になったよな――と横目で告げる。久瀬は無言で顔を背けた。

「まあ、相手が若い女性かどうかってのは抜きにしても、新しい母親が出来るって気分が重いんじゃないんすか?」

 気を取り直したように云う北川。佐祐理はかすかにコクンと頷いて見せる。

「気分が重いという訳じゃないんですけど、やっぱり複雑です。どう、受けとめていいのかわからなくて」

 もう一口、冷水に口を付け、続ける。

「佐祐理の実の母は、色々あって佐祐理が小さい頃に家を出ていって、それっきり会っていないんです。だから、そもそも母親というものをどう考えていいか分からなくて、そこにいきなり新しく……と言われても」

 何だか、訳が分からなくて、と呟くように云う佐祐理に、北川は「ふぅん」と気の抜けたような声で相槌を打った。

「まっ、そう云われると気持ち、分からないでもないかな」
「分かり、ますか?」
「いや」

 ヒラヒラと手を振って苦笑しながら、彼は照れたように云った。

「オレもですね、ガキの頃に母親、家出て行っちまったっすから」
「あっ、そう…なんですか」

 咄嗟に何と行っていいか分からず言葉を濁す佐祐理に、気にした風も無く北川はベラベラと喋り出す。

「他に好きな男が出来たらしくって、まあ親父のやつ女房に逃げられたってヤツっすね。もう、親父のやつ母親のことマジに好きだったみたいで、もうへこんでへこんで、これがもう大変で。オレがあんな女忘れろよ、っつったら泣くわ暴れるわ、もうどっちがガキだか」
「は、はぁ」
「この話、美坂にしたら、あんた見てたらその頃のお父さんの様子大体想像付くわって云われたんすけど、どういう意味なんでしょうね、これ?」
「さ、さあ」
「いやまあ、それは兎も角、オレも小さい頃から母親いなかったっすから、いきなり新しい母親が出来るって云われても困るというか、どうしたらいいか分からなくなるってのは、何となく分かりますよ」
「下らない」
「なんだよー」

 鼻で笑うかのような一言。北川はブーたれながら久瀬を睨む。

「別に悩むような事じゃないでしょう。どうせ、来月にはこの街を出るんだ。気に入らない相手でも、会わなくて済む」
「それは……そうなんですけど」
「旦那さあ、それで済む問題か?」
「うるさいな、君は。そもそも僕は母親なんてものは嫌いなんだ。どうだっていいじゃないか、そんなもの」

 吐き棄てるように云う久瀬。おいおい何か鬱屈してるな、と北川が眉間に皺を寄せる。
 ふんと鼻を鳴らし、久瀬は素っ気無く口を開いた。

「うちの母親は浪費癖が原因で家を出た口だからな。はっきり云って母親などというものには虫唾しか走らない。そんなもののためにグダグダと悩むのは労力の無駄だと僕は思いますよ」
「母親が嫌いねえ……でも久瀬の旦那、秋子さんにはえらい愛想が良かったじゃないか」

 一瞬、魚の骨が咽喉に刺さったみたいな顔をした久瀬は、次の瞬間こほんと咳払いをして誤魔化した。

「あの人は……まあ、別だ」

 何故か顔を赤らめている久瀬の横顔に、自然と佐祐理の目つきが細まる。

「ふぅん、はぇぇ、そうですかぁ、別ですかぁー」
「…………あ、う」
「あははーっ♪」
「べ、別です」

 何だか微妙な雰囲気を醸し出す二人に、ポリポリと頭を掻く北川であった。


「はい、遅れてごめんなさい。モーニングセットだよ」
「あっ、ありがとう、あゆさん」

 他の客へと掛かりきりになっていたあゆが、注文の品を持って現れる。
 こんがり焼けたトーストにハムエッグ、サラダにオレンジジュースというオーソドックスなセットが手際良く佐祐理の前に並べられていった。

「おー、美味しそうだなー」
「北川、お前はもう食べただろうが」
「お代わりしようかね」
「……勝手にしろ」
「あははー」

 他愛もないお喋りをしてる間で、皿を並べ終えたあゆがお盆を胸に当てて、ニコリと笑った。

「そうだ、佐祐理さん。お父さんが結婚するんだって?」
「え? あ、はい、そうなんですよー。それで、今日その再婚相手の人と会わないといけなくって」
「そっかー、良かったね」
「……え?」
「新しく家族が出来るんでしょ? 素敵だなァ……………あれ? う、うぐぅ、ボク、変なこと云ったかな?」

 何故だか愕然とした表情で、自分を瞬きも忘れた様子で見つめている佐祐理たち三人に、あゆは思わずたじろいだ。

「ははっ、はははは」

 どこからともなく、笑い声が響く。見ると、カウンターの向こうで、雪村が愉しげに声を立てていた。

「えっ、えっ? やっぱりボク変なこと云ったの!?」

 普段は滅多に表情すら変えない雪村が、こんな風に声を立てて笑うのを初めて見たあゆは、オロオロと佐祐理と雪村の間で視線を泳がせた。
 だが、雪村は不健康そうな貌を不気味な笑みに歪めたまま、首を振る。

「いや、何もおかしいことはない」
「で、でも」
「あゆ君」
「は、はい」
「やはり君は、素敵な女性(ヒト)だな」
「えっ、ええーーっ! あ、あの、そんな、う、ぐぅ」

 しみじみと何だかとんでもない風に評されて、あゆの顔色が茹でられたみたいに真っ赤になった。
 そんなやり取りに、呆気に取られていた佐祐理たちもペースを取り戻す。

「あははーっ、佐祐理も同感ですよ」
「なんつーか、月宮は一味違うよな」
「……ふん」

 赤い顔であたふたしているあゆを皆でからかいながら――雪村氏は徹頭徹尾真面目だったようだが――、佐祐理は改めてあゆの台詞をかみ締める。
 新しい母親が出来る事を、新しい家族が出来ると表現し、それを何の疑いもなく喜ばしい事なのだと云い切ったあゆ。
 家族が出来る、それは佐祐理が思いもしなかった方向からの今の状況への焦点の当て方で。
 ただ、そんな風に考えるだけで、鬱屈した気持ちがスゥと晴れたような気になった。それは一時の気持ちの問題に過ぎないのかもしれないけれど。
 何となく、敵わないなあ、と思う佐祐理であった。











 しばらく店でお喋りに興じてから、あゆたちに別れを告げて自宅に戻ると、もう正午に差しかかろうという時刻だった。
 慌て気味に家に駆け込むと、既に帰宅していた父が咎めるような視線を寄越してくる。

「ごめんなさい、遅れました」
「いや、あちらもまだだ」

 着物姿でまんじりともせず座りこんでいる父。傍目にも緊張しているのが窺える。その様子を見て少し気を楽にした佐祐理は部屋に戻って衣装を着替える。さすがに、こういう場面では他所行きの服で飾らねばならないわけで。
 明るい色のスーツを着込んだ佐祐理は、櫛を通して髪を整えると、急いで父が待つ応接室へと戻った。父は、先ほどとまったく変わらぬ姿勢のまま、じっと座りこんでいた。どうやら、本当に緊張しているらしい。これほど身を堅くしている父を見るのは初めてで、佐祐理は一旦ほどけた緊張がまたぶり返してくるのを感じた。

「あの、お父様?」
「……うん?」
「あの……」
「……うん」
「……な、なんでもないです」
「……うん」

 やりにくいったらありゃしない。相手がどんなヒトなのか、せめて断片の情報でも仕入れておこうと思った佐祐理だったが、この調子だとまともな返事が返って来るのは望めない気がして、深深と吐息をついた。父は先ほどから時計にばかり目をやっている。本当に落ちつかない。
 いったいどんな人なのだろう。昨日の晩からずっと渦を巻いていた思考が、またぞろぶり返してきた。焦燥が胸を焦がしていく。どうしたらいいのか分からないという不安感に、佐祐理はギュッと目を瞑った。
 ただ、それでも朝よりも平静を保っている自分が居る。不安の中に、僅かなりとも期待めいたものを滲ませている自分が居る。

「家族が、増える、か」

 あゆの台詞だ。そう考えるだけで、不思議なほど心が軽くなった。確かに、ここでグダグダと悩んでいても仕方ない、俊平の言う通りだ。何にせよ、相手の人と会わないことには何も始まらないのだから。
 本当に、どんな人なのだろう。素敵な人だろうか、綺麗な人だろうか。ちゃんと、父を支えてくれるような人なのだろうか。優しい人だったらいいのにな。そんな風に考えているうちに、心臓がドキドキと高鳴り始めた。咽喉がからからに乾いてくる。壁に掛かった時計を見た。時刻は12時30分を差している。

「あの、こんにちは」

 いきなりだった。思わず椅子から跳びあがりそうになる。呼び鈴がなるものだと思いこんでいただけに、かなりの不意打ちだった。そして、佐祐理は開いたドアを振り返り………

 ……完膚なきまでに頭が真っ白になった。

「ま、い?」

 ドアを開けたのは、違う事無き我が親友川澄舞。
 普段と違って、髪は下ろして綺麗に解かしてあり、身につけている衣服も、佐祐理の知らない明るい色の上品な上着とロングスカートだった。黄色のタイをあしらった胸には外套を抱き寄せている。

「う…そ」

 佐祐理はフラフラと口元を押さえる。押さえてないと、エクトプラズムが出てしまいそうだった。
 何と言う事か、そんなそんな、まさか。北川のたわ言が真相をずばり突いていたなんて。

「さ、佐祐理は、舞のこと……」

 舞お母様と呼ばなければならないのだろうか。ああ、それってイイかも、と錯乱した頭がちょっと明後日の方角へぶっ飛ぶ。

「さ、佐祐理?」
「おい、どうしたんだ、佐祐理」
「お、お父様!!」
「な、なんだ」

 怒鳴りつけられ面食らう父・恵三を、佐祐理はギロリと睨み据える。完全に据わり切ったその目つきにビビる父に、佐祐理は声を嗄らしてまくし立てた。

「ま、舞のこと、ちゃんと幸せにしてくださらないと、佐祐理は、さ、佐祐理は許しませんからね!!」
「へっ?」
「で、でも、でも、二人が本気だと言うのなら、佐祐理は勿論反対なんかしませんから。ちゃんと、ちゃんと祝福します、だから、だから」
「あのー、なんか盛り上がってるところ悪いんですけど、っておーい!」
「舞、お父様っ、お幸せにぃぃ!!」
「にゃんと……恵三さん、いつうちの娘と添い遂げる事になったんですか?」
「わ、わし、全然覚えないんだが」
「……私も」

 思わず顔を見合わせる倉田父と川澄家長女。

「あのー、佐祐理ちゃん? おーい、やっほー?」
「ふぇぇ、でも、でもやっぱりこんなのって。うっ、嬉しいような哀しいような、佐祐理は、佐祐理はっ」
「わっ!!」
「ひゃぁ!?」

 耳元で凄まじい大声で叫ばれ、佐祐理は眼から火花を飛ばしながらひっくり返った。

「こんにちは、佐祐理ちゃん♪」

 口をパクパクさせて呆然としていた佐祐理はようやくもう一人の来訪者に気付いた。
 ニコニコと眩しいぐらいの笑みを浮かべた舞をそのまま大人の女性にしたようなヒト。化粧を施した姿は年齢を感じさせずに本当に綺麗で、舞も将来はこんな風になるのかとドキドキしてしまうような、ハッとするような美人。
 舞のお母様。川澄佐奈子だ。
 その佐奈子さんが、目の前に膝をついて自分の顔を覗きこんでいた。

「佐奈子お母様」
「はい、佐奈子お母様です。佐祐理ちゃん、こんな女ですけど、よろしくお願いね」
「はぁ、此方こそ……って、なにがですか?」

 キョトンと目を瞬いた佐祐理を見て、川澄佐奈子は半眼になって倉田父を睨みつけた。

「恵三さん、佐祐理ちゃんに何も言ってなかったんですか?」
「やっ、その……言ってなかったか?」
「だからなんのこと……えっ、ええっ!? ま、まさか……」

 息を呑む。ようやくそのケースに思い至った佐祐理は救いを求めるように舞の姿を探す。
 独り、ポリポリとテーブルに置かれた茶菓子を摘んでいた舞は、佐祐理の視線を受けて、口をモグモグさせながら、コクリと頷いた。
 それでも信じられなくて、次は父に、

「お、お父様、再婚なさる相手というのは」
「あっ、うん、そちらの佐奈子さんだ」
「いぇい♪」
「ふぇぇ!!」

 無意味に親指を立てて片目を瞑る川澄母。今度こそ完全に仰天した佐祐理は、あほのように大口を開けて、自分の新しい母になるという女性を見上げた。
 彼女は感無量と言った様子で両手を大きく横に広げ、謡うように声を奏でた。

「さぁ、佐祐理ちゃん。お母様って呼んでいいのよ!」
「……もう呼ばれてる」
「……舞、あんたちょっと黙れ」
「あ、あの、いったい何時から」

 ようやく口を利ける程に衝撃から立ち直った佐祐理は、父と佐奈子を見比べながら訪ねる。二人は、少しはにかみながら顔を見合わせると、申し合わせたように声をそろえた。

「うむ、その、なんだ。お前たちが家を出ることになった時に、佐奈子さんとは何度か会う機会があってな」
「まあ、ね、その後も卒業式やらで一緒になってね。それ以来、時々お食事とかに誘われてねぇ。まあ、何時の間にか、ね」

 と、照れたように言う恵三と佐奈子。

「ま、舞は、その、知ってたの?」

 二人のこと、と尋ねると、舞は困ったような申し訳ないような顔をしてボソリと答えた。

「結婚するって聞いたのはこの間。でも、付き合ってるのは何となく知ってた」
「そ、そんな〜」

 全然気付いていなかった佐祐理であった。

「おじさん、お母さんのことよろしくお願い、します」
「ああ、此方こそ、舞君」

 佐祐理の呆けた視線に、ペコリと父に頭をさげている舞の姿が移る。ああ、なるほどと納得した。どうして、舞が何の躊躇いもなく自分に付いて来ると決断できたのか。

「舞、ほんとに川澄のままでいいの?」
「ん、今更変えるのも色々面倒」
「うーん、そかそか。やっぱり苗字変えるのは自分が結婚する時の方がいいわよね」
「……っ!」

 照れたのか、真っ赤になった舞がポカポカと母親の背中を叩いている。その様子をぼんやりと眺めていた佐祐理に差し伸ばされる手。

「……お父様」
「ほら、いつまでもそんな所に座り込んでいるんじゃない」
「……はい」

 手を引かれ、立ちあがる。記憶にない父の手は、びっくりするぐらい大きく、厚かった。

「すまないな」
「え?」
「ちゃんと、言ってなくて」

 いいえ、と佐祐理は首を振った。謝られるようなことは何もない、何もないのだ。
 今、このじんわりと湧きあがろうとしている何かは、謝られるような感覚ではない。
 もどかしさに目を伏せる佐祐理に、佐奈子の明るい声が届く。

「佐祐理ちゃんの方が舞よりも誕生日、早いのよね。それじゃあ、佐祐理ちゃんがお姉さんで、舞が妹か」
「……あっ」

 パッと……掛かっていた靄が吹き払われる。たゆたっていた感情の波の姿が露わとなる。

 ―――良かったね。新しい家族が、出来るんだ! 素敵だなぁ―――

「そう、ですね。本当に、その通りでした、あゆさん」

 湧きあがる、それは歓喜で。二人と自分を繋げてくれた父への感謝で。溢れ出す、それは涙で。
 新しく母となるヒトは、自分が母として憬れていたヒトで。あれ以来、独りだった自分に出来た姉妹は、誰よりも自分を理解してくれる親友で。

「佐祐理ちゃん?」
「佐奈子お母様、私……私、嬉しくて」
「そっかそっか」

 ふんわりと抱きしめてくれる腕に、包んでくれる柔らかな胸に、身も心もゆだねながら、多分初めて感じる母親の温もりのなか佐祐理は静かに眼を閉じた。

















 一弥、一弥、聞いてくれますか?
 聞いてくれませんか?
 佐祐理に、私に。

 新たな家族が、出来ました。












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