他者に無関心であるということと、他者の名前を覚えないということはイコールではない。
物部澄は一度聞いた名前を忘れない。ただ、その名前と人物の情報を記憶の棚にしまいこみ、必要と感じるまで開けようとしない。ただ、それだけのことだ。
他者に無関心であるということは、その棚をなかなか開けようとしないこと。そういうことなのだ。

――相沢祐一。
数ヶ月前に転校してきたばかりの生徒にしては、存外学校全域に名前が知れ渡っているようだ。悪い噂、良い話、本当かと疑うような噂など、まあ色々。澄にとってはどうでもいいこと。
だが、他の人間……特に同じクラスの連中――さらに限定してその一部――にしてみれば、どうでもいいとは行かないらしい。特に、先日の生徒会選挙立候補以来。
澄のクラス…俗称で英語クラスと安易なネーミングがつけられている2年5組には比較的生徒会に係わり合いが多くなる係累が多い。それだけに相沢祐一出馬という情報に対する彼らの混乱振りは目に付いた。
直接生徒会長とは関係の無い2年でこれなのだから、3年生たちの方はもっと面白いことになっているのだろう。
現生徒会の新興派、反生徒会の古住派(澄にはふざけた名称としか思えないが)以外からの出馬は決して珍しいことではないのだが、噂ではその相沢祐一という人物は既にかなりの支持を取り込んでいるらしい。
彼らにとって、自分たち以外でそれだけの力を持った相手との選挙戦の経験は無い。歴々、似たもの同士での遊びのような選挙戦ばかり繰り返し、それを半ば伝統のように後裔に引き継がせてきた彼ら。それが、たった一つの不明要素に慌てふためいている。失笑ものにしか見えなかった。
そんな茶番を端から眺める。物部澄はあくまで傍観者のつもりだったのだ。

家が不動産業者であり、自分ではあまり認識していないものの一応類別すれば新興派とやらに属しているらしい物部澄は去年、先輩の一人に要請されて、渋々生徒会に書記の一人として参加している。別段面白いものでもなんでもなかったし、今年は頼まれても断るつもりだった。
それが、何をどうしたのか今年は―――。

「頼む! 俺が生徒会長になれたらさ、役員として参加してくれないかな」

などと頼まれている。一応、敢えて自分の立ち位置を新興派とやらに置くなら、対立候補である相沢祐一に、である。


「あのですね――」
「うん♪ いいよ〜」

澄は思わず横で満面の笑みを浮かべながら速攻で了承しやがった此花春日の頭をはたき倒した。

「人が婉曲に断ろうとしてる横で、あっさり受けるんじゃない!」
「えー、だって、イチゴサンデー奢ってくれたし、この人」
「買収されるなってのよッ!」
「うー、澄なんか全然あたしに奢ってくれないくせにー。この悪女ぉー」
「なんであたしが奢らにゃならんのよ、しかも悪女呼ばわりまでされて」

澄と春日の会話を興味深げに聞いていた祐一が、ピッと指を伸ばし、声を挟んだ。

「よっしゃ、承諾してくれたらさらにケーキ三セット!」
「な、なんとぉ!? い、いや、ここは…もう一声!」
「ぬっ、粘るな。ならば加えてプリンアラモード!」
「のったー!」
「乗るな! あんたも意気揚揚と買収するな」

祐一は戦慄するほど冷たい目で睨みつけられ、首を竦めた。

「天野、この人怖いぞ」
「涙目で私を見ないでくださいっ、それから私の後ろに隠れないでください!」

祐一の隣でチュルチュルとオレンジジュースを飲んでいた天野美汐が酷く嫌そうにして擦り寄る彼を押しのける。

「まったく、子供ですかこの人は」

と、不機嫌そうに嘯いてまたチュルチュルとオレンジジュースを飲みだす。
両手を添えて、目を細め、チュルチュル…チュルチュル。
そこはかとなく至福さが垣間見える飲みっぷり。そんなに美味しいのだろうか。澄は思わずマジマジと見つめてしまった。

あまり高くない天井で典雅にクルクルと回るアンティークフィン。程よく客が入り、それでいて静けさを損なわない不思議な喧騒。
その雰囲気を壊さず、折り重ねるように流れるモノトーンの音楽。
無意識に前髪を弄りつつ、珈琲を啜る。
百花屋という名前らしいこの喫茶店。物部澄は、甘い物好きの春日に引き摺られて両手の指の数ほど訪れたことのあるこの店を、改めて見渡した。
引き摺る春日にはあまり良い顔は見せないものの、本当のことを言えば澄もこの店の雰囲気は好きだった。加えて、珈琲も美味しい。
勿論、そんな自分の内心を、春日は知っているだろう。それなのに偶にしか誘ってくれないこいつは、無垢そうな見た目に反して意地悪だと思う。
それについて問いただせば、春日はきっとこういうのだろう。

『素っ気無く喜んでる澄が、あたしは好きだからね』

そんな事を面向かって云われては、思わず殴るか抱き締めるかしてしまうだろうから、口に出して訊ねる事はないだろうけど。

物思いに耽っているうちに、当の春日は、なにやら波長が合うのか先ほどから相沢祐一と既に百年来の仲良しのように話し込んでいる。
耳を傾ければ、十字路で他人とぶつかった時には肘打ちと飛び膝のどちらがより効果的にラブコメ的展開に持ち込めるか、で盛り上がっていた。意味が分からない。
聞くのもあほらしいので、そっぽを向くと美汐がまだチュルチュルとオレンジジュースを吸っていた。それほどまでに美味しいのだろうか。
ぼんやりと眺めているとふと気付く。ジュースの量が全然減ってないような気がした。急にこのまま見ていると正気を失いそうな気がしてふいと目線を逸らす。
そして飛び込んで来る春日の笑顔。楽しそうだ。自分自身が変なヤツだけに、変人が好きなのだろうか。そういえば、陣内が印度に旅立ってから妙に張り合いが無くなったような態度だった事を思いだす。

――此花春日。
父親が県会議員らしいこのチンチクリンと出逢ったのが中学の時。そしてどこをどう間違えたのか、今では物部澄にとって無くてはならない人になっている。
その明るさは澄の救いであり、その真っ直ぐさは澄の道標であり、その優しさは澄のすべてだった。
そんな春日を澄は今更のように、だが飽きもせずぼんやりと眺めた。
良く整えられた髪の毛。まん丸で邪気の無い眼。手入れが行き届いてつやつやしてる肌。華奢で小柄な抱き締めるとすっぽりと収まってしまいそうな体躯。にへらーと幸せ以外を知らなさそうな、誰が見ても可愛いというだろう面差。同じく名前と同じ春を思わせる可愛い声。
明るい色のノースリーブに赤のカーディガン。あまり長くない足を包むフィットパンツ。実に自分の可愛らしさを引き立たせる装いで、澄はなんだか腹が立った。

「いや、飛び膝は不意に繰り出すにはモーションが大きすぎるだろ」
「でもでも、そこは反射神経で補えばなんとかできるじゃない。やっぱり膝で確実に仕留めた方が後で介抱する時に一気に人工呼吸まで持ち込めると思うのだよ、あたしは」
「お前…そりゃ女の子相手にはえげつな過ぎるだろう」
「あはは、あたしだって女の子相手にそこまでしないわさ。あたしが言ってたのは男が相手なのだよ、祐ちゃん」
「なんだ、自分が女の場合の話か。そりゃそうだ、お前さんは女だもんな」

ナハハ、とテレ笑いする祐一の横で、ブッ、と正面で美汐がオレンジジュースを吹き出した。冷静にそれを広げたナプキンでカバーしながら、澄は醒めた声で祐一の間違いを指摘した。

「そいつ…春日は男なんだけど」
「ほー、なるほどそいつは初耳だ」

上機嫌に頷きながら、祐一は珈琲を一口含み――

「ブハッ!! な、なんだと!?」
「……わざわざ口に含んでから吹き出すたぁ…祐ちゃん、あんたあたしになんか恨みでもあるんですかい?」

此方はまともに顔に珈琲を引っ被り、春日が笑顔のまま涙する。
それを完璧に無視して、祐一は唖然と春日を指差し、自分を指差し「え? え? 男? 俺、女?」と錯乱する。

「えーっと、此花春日7月7日生まれの16歳、性別はなんとぉ男なのでぃす! 知らなかったの? わはは、遅れてるー」

遅れているとか、そういう問題ではない。
因みに久瀬がくれた資料には性別は記載されていなかった。学校、それか制服姿で会ったなら勘違いはしなかったかもしれないが(春日の男子制服姿は激烈に似合っておらず、制服姿でも間違えた可能性はあるが)、女顔に女声、一人称も女で服装も女の子っぽい。
何も知らないヤツなら、勘違いする方が多いだろう。
ようやく正気に返った祐一、血相を変えて隣で口元を拭う少女に詰め寄った。

「ま、マジか、天野!?」
「残念ながら」

全然残念じゃなさそうに言ってのける美汐に、此方は捨てられた子犬のような悲しげな表情を作り上げ、春日が訊ねる。

「なんで残念なのかな、みっしー」
「みっしーなどと呼ばないでください」
「じゃあ、みしみしー」
「倒潰しそうな呼び方をしないでくださいッ」
「ぐしゃ」
「あ、潰れたぞ」
「なにがですかッ!?」
「みっしーが」
「な、なんだと!? 天野、大丈夫かぁー!? い、いかん、胸が潰れている!?」
「あ、ホントだ、大変だぁ!! き、救急車ぁー、とその前に圧潰部にマッサージを――おおおお!?」

ゴガン、と顎を下から撃ち抜かれマットに沈む祐一と、ブスリとフォークを額に突き刺されて白目を剥いて昏倒する春日。

「あの、お客様。店内での流血沙汰はちょーっと困るんですけど……大丈夫、相沢くん?」

ヒョコヒョコと現れて、あんまり困ってなさそうに困りますと注意して、ウェイトレスの堀明日奈嬢は既に顔見知りとなっているお客の青年を覗き込んだ。
返事はなく、ピヨピヨと三羽のヒヨコが頭の上を回っているのが見えた気がした。

「うーん、ナイスパンチ」
「ど、どうも恐縮です」

思わず呟いた一言に、少々錯乱しているのかハァハァと息を乱していた美汐がペコリと頭を下げる。

「褒めてないです、褒めてないです」

パタパタと手と首を振る明日奈。やれやれ、どうしたものかと小首を傾げる彼女に、昏倒する春日の額からフォークを抜いてハンカチを押し当てていた澄がジロリと睨んだ。

「あの…」
「はい、なんでしょう」

その鋭い眼光に思わずゴクリと息を飲んだ明日奈に対し、澄は抑揚の全く無い声で言い放った。

「オレンジジュース追加、お願いします」


……美味しそうだったのだ、オレンジジュース。






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