結局はこうなってしまった。

美汐は見慣れた廊下を歩きながら、陰鬱に自嘲した。
本来なら自分はもっときっぱりとした性格だったはず。前向きではないとしても、流される人間ではなかったはずなのだ。
だというのに、今やこの様。
今回の件には興味も関わる意思もなく、傍観者のつもりだったのにいつの間にか巻き込まれ、こうやって動いている。

美汐はあの困った先輩の邪気の無い笑顔を思い出し、頭痛に眩暈を催した。

あの相沢祐一という人は本当にまったく……自分のようなタイプの人間には天敵なのかもしれない。
ああいう害の無い笑みを浮かべながら頼みごとを押し付けてくる手合いには、どうにも弱い……そう、昔からだ、この傾向は。
あの手の人は悪気が無いだけに、本当に厄介なのだ。


ムスッと不機嫌極まりない気配を撒き散らして歩く彼女を、廊下を行き交う生徒たちは無意識に気圧されたかして、その進路上から避けて行く。
そんな事すら気が付かず、ある二年の教室のドアの前に立った美汐は、グツグツと溜まったものを大きく息を吐いて押し出し、いつもの素っ気無い表情に戻ってドアを潜った。

ホームルームが終わった直後で人の出入りが激しいためか、誰も美汐に注意を払わない事を幸いに、美汐は喧騒の中をスタスタと黒板前を横切って窓際へと歩いていく。
目当ては窓際の列の中央の席で、帰り支度をしている一人の女生徒。

その居住まいからして凛とした雰囲気を漂わせる彼女の名を、物部澄という。

170cm近い長身に、腰まで伸びる光の加減によっては銀色に見える黒髪。どこか鋭角的な整った顔立ち。
一年の時自分と同じクラスだった物部澄。
彼女の事を言い表すに、無視できない女という言葉がある。彼女自身は酷く他者に無関心な面があり、気が向かなければ一切話の輪に加わらずに独りで居る。
だが、それでクラスから孤立していたという印象を美汐は持っていない。
敢えて孤高を気取る風でもなかったし、気が向かない時だって話し掛けられて無視する訳でもない(積極的に話に加わる事はなかったが、それでも雰囲気を壊すような真似はしなかった)。
それでいて気さえ向けば誰とでも雑談する。厄介だったのは、当時他人と壁を作って接触しないようにしていた自分にも何のてらいもなく話し掛けてきた事だ。

美汐とクラスメイトの関係がどうなっているのか、美汐がどういう態度を取っているのか、まったく頓着しないのだ。それでいて、近づいてくれば無視できない。美汐ですらもそうだった。
美汐にとって幸いだったのは、澄がお節介にも美汐をクラスの輪に引きずり込もうとしなかった事か。
その素っ気無い態度は、当時徹底的に他人に興味すら抱けず、煩わしさしか感じなかった美汐にとっても、決して不快なものではなかった。

ともあれ、話したかったら話しかけてくるし、そうじゃなかったら近づいても来ない。良くも悪くも、他人というものに無関心な女…それが物部澄という女だった。


美汐が座席の前に立つと、鞄に教科書を詰め込んでいた澄は訝しげに顔を上げ、柳眉をピクリと震わせた。
美汐が知る限り、その仕草は澄が他人に向けて見せるかなり驚いた時のものだった。

「天野じゃない。どうしたの、他のクラスに顔を見せるなんて珍しい」
「少し用事があったので」
「ふーん」

興味なさげに彼女は帰り支度を再開した。

「で、なに?」

机の中をゴソゴソとやりながら問い掛けてくる澄に、美汐は淡々と告げた。

「面倒ごとです」

澄は手を止めると、あきれ返った表情で美汐を見上げた。

「あんた、普通はのっけからそういう事は言わないものよ」
「でも、事実ですから」

澄のどこか鋭い面差しが渋面に変わった。彼女は頬杖をついて言う。

「私、面倒な事はゴメンなんだけど」
「ええ、同感です。私も面倒事は御免です」

即答だった。
思いっきり他人事の言い草。
美汐は澄の言葉がまったくその通りだと言わんばかりに目を閉じて深々と頷いた。
どうやらその面倒ごとというものは、美汐にとっても面倒ごとらしい。
そう見取った澄はフッと吐息をついていった。

「じゃ、お互い面倒事には関わりたくないということで、この件は無かったことにさせてもらうわ」
「そうできたら楽なんでしょうけど、私も頼まれてますのでそういう訳にもいかないのですよ」

ホゥ、と欠片の興味も無くしかけていた澄は美汐に顔を向けた。

「意外ね」
「失礼ですね、一度頼まれたことを蔑ろにするほど私は零落れていません」
「そういう意味じゃないんだけどさ」

ヒョイと肩を竦めて澄は言った。

「ま、珍しい天野に免じて話ぐらいなら聞くわよ。あんた意外としつこいから付きまとわれてもヤダし」
「何気に嫌な言い草のような気もしますけど、とりあえずありがとうございます。ところで…」

特に表情も変えずに慇懃に礼を言った美汐はキョロキョロとあたりを見回す。

「此花さんはもう帰られたんですか?」
「春日? あいつにも用があるの?」
「ええ、まあ」

言葉を濁す美汐に、春日も同件だと当たりをつけた澄は、どこか呆れた風に眉をひそめて右手をすっと差し伸べた。

「春日ならそこにいるわよ」
「え? キッ、キャァ!」

自分の胸元を指向するしなやかな指先。キョトンと胸元を見下ろした美汐は見た。
スルスルと背後からお腹に回される両腕。ギョッとする間もなく、美汐は背後から抱き締められて悲鳴をあげた。

「えへへへ、ミッシーは良い声で哭くんだねー。愛いヤツじゃー」
「こ、此花さん! は、離してください」
「えー、ヤだ」

朗らかに美汐の懇願を拒否して、スリスリと背中に頬を摺り寄せる小柄な人影。
美汐とほぼ同じ身長に、細身のしなやかな体躯。毛先まで綺麗に整えた茶色の髪。日光に蕩けてるみたいなニパァという擬音が滲み出てきそうな平和な笑顔。その顔は笑顔を収めたとしても鋭さの欠片も無い。
ともかく丸みを帯びていてひたすらな可愛い容姿は、どこか鋭角的な澄の容姿とは対照的である。
この脳味噌が年中春真っ盛りな元クラスメイトの名を此花春日。ある種、美汐の天敵かもしれない生徒である。

そんな春日の行為による不快感とは違う異様な感覚に背筋をゾクリと震わせて、伸び上がってしまう美汐嬢。

「や、やめてください!」
「美汐ちゃん、こうスベスベーっとして気持ち良いからヤダ」

またもや即答で拒否してムギューっと美汐を抱き締める春日であったが、突如襟首を掴まれて美汐から引き離された。
顔を真っ赤にしながら後退る美汐に名残惜しげにワキワキと両手を差し伸べていた春日であったが、頭上から降り注ぐ低く唸るような声に首を竦める。

「かすがァ。あんたそうやって女の子に抱きつくのやめなさいって言ってるでしょうが」
「うー、だって気持ちいいし」

スキンシップを中断させられ恨めしそうに上目を使う春日の視線の先には、ムッスリと不機嫌な物部澄のドアップがあった。
普段は他人に無関心な澄ではあるのだが、その貴重な例外がこの春日である。美汐とはまた別の意味で他人と距離を置く彼女ではあったが、この春日に対してだけは自分を作らずに接しているように見える。
美汐の目にも、この二人の関係は謎であった。

「気持ちいいって、あ・ん・た・ねー」
「怒るなよ、スミー。分かった分かった。うん、今度からは男の子にも平等に…」
「それもやめろ」
「あらまあ、焼きもち妬きだね、スミは。大丈夫だって、あたしが心から抱き締めるのはスミだけだから安心して。ちゃんと可愛がってあげるからん」
「こっの、馬鹿たれ!!」
「ええ!? なぜ怒るぅぅ!?」

顔を赤に染めた澄の容赦ない頭部拳骨圧縮で、あうあうと涙をチョチョぎらせている此花春日。
その光景を見ながら、美汐はゲッソリと溜息をついた。

「やっぱり苦手です、この人たちは」



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