「よう、天野。ちょっといいか?」

時間はちょうど昼休みに入ったところ。今日はお弁当を作っていなかったので、食堂に向かおうと教室を出た、その途端の一言だった。
これを不意打ちといわずしてなんという。美汐は予期せぬ一撃に思わずドアのところで硬直した。
しばし、思考停止のままに声をかけてきた少年の顔を見詰め、目を瞬く。
と、入り口を塞ぐ自分に向けられる迷惑そうな気配に我に返り、慌てて廊下の窓際にもたれかかっていた彼…相沢祐一の元に小走りに駆け寄る。

「なんですか? まるで待ち伏せみたいに」
「入っていった方が良かったか?」
「やめてください」

美汐は疲れたように溜息をついた。ふとクラスメイトの何か期待の篭もった視線が自分と祐一に向けられている事に気がつく。
眩暈を塗した疲労感を感じた。
どうせ、自分とこの人の関係を妄想逞しく構築しているのだろう。昼休みが終わった頃には彼氏持ちにされているかもしれない。あまり人付き合いしない自分が対象なだけに、妄想の程は容赦が無いだろう。
いらぬ詮索や勘違いをされるのは真っ平ごめんだが、果たしてもう遅いのか。ただ、教室の中まで入ってこられた場合を想像するに、まだ致命的ではなのかもしれないが。
しかし昨今の女子高生のあの他人の色恋沙汰に対するスタンスはどうにも慣れない。

「まったく、近頃の娘は」
「……天野」
「なんですか?」

ポムと肩に手を置かれ、美汐がキョトンと祐一の顔を見上げると、彼はひどく心苦しそうな表情で、声を詰まらせた。

「なんか最近お前に『おばさんくさいな』と冗談でも言ってはいけないような気がしてきた」
「そんな失礼な事、言われないに越した事はないのですが……どういう意味です?」
「うん、どうにも傷口に荒塩を塗りつけるような心境になっちまってな」
「……はあ?」
「自覚が全然無いし、ちょっと笑い事じゃないなって思ってしまって」
「…………」

やっぱり意味はよく分からなかったが、普段より遥かに失礼な事を云われた気がして美汐はムッとした。

「どうでもいいですけど、話とは何ですか」

尖った口調で睨みつけながら言うと、祐一は思い出したように口をポカンと開き、いきなり美汐の手を握って引っ張り出した。

「ちょ、ちょっと相沢さん!?」
「ああ、ここじゃあなんだから」

美汐は引っ張られながら投げやり気味に深々と溜息をついた。
この人はなんでこうも自分の行動を顧みないのだろう。自覚が無いのは一体どっちだというのだ。
大衆の面前で女性の手を握るという行為がそれほどあっさりとしたものではないとまったく気がついていない。今の行動で、クラスメイトの噂話は三段階ほどヒートアップしたはずだ。
それとも、自分の方が常識的に間違っているのだろうか。

ふと、自分の手を握るオトコの人の大きな手の感触に意識が向く。
別段、この相沢祐一という先輩に対して意識するような感情は何も無い。この人にはれっきとした恋人がおり、自分にとってもただの先輩と後輩という間柄という認識しかない(正確にはただのと称するにはあまりに近しくおかしな関係だが)
だから手を握られたからといって心臓も高鳴ることはないし、変な想像を巡らしてしまう事もない。
ただ少しだけ、昔こうやって大きな手に引かれた記憶が甦り……苛立ちにも似た懐かしさを感じた。



「さて、ここらへんなら良いだろう」

青葉が眩しい。校舎から表に出た此処は学校の中庭。
相沢祐一が転校してきた直後に比べれば、その過ごしやすさは格段に違うだろう。
ポカポカと日が照り春を匂わせる風が吹く中庭は、染み入るように心地よかった。

「こんなところまで連れてきて。いったい何なんですか? まさか告白などというものでもしようというのではないでしょうね」
「なんだ、して欲しいのか?」
「いえ、まったく。迷惑です」

美汐は顔色一つ変えずに速答した。

「そんな事をされたらすぐさま、水瀬先輩に報告させていただきます」
「あ、ひでえ」
「とはいえ……」

美汐は呆れた風に視線を祐一の背後に向けた。

「わざわざ報告する必要もないですが」
「祐一ぃ、浮気は許さないよー」
「釘刺さないでも浮気なんざしねーよ」

ポーンとボールのように飛んできた名雪の声を、振り返りもせず祐一は投げ返した。
彼の背後では、さも当然のようにして御座が敷かれ、毎度おなじみの面々――美坂チーム+栞――に加え、真琴と小太郎のお子様コンビが栞の弁当群を突いていた。

「…小太郎、あなたまで何をしてるんですか」
「ええっと、栞さんがお弁当分けてくれると仰ったのでお言葉に甘えて…えへへー」
「…構わないんですけどね、別に」

額を押えつつ、美汐は上目に祐一を見やった。

「何かお話があるようでしたけど、此処でよろしいんですか?」
「他は人がいるしなあ。屋上のところの踊り場でも良かったんだが。まっ、この連中には聞かれても構わんし。あ、終わったら此処で昼飯食べてくか? 今更食堂行くのも面倒だろ」
「……はぁ」

食堂の人ごみの煩雑さを思い、美汐は曖昧に頷いた。
その向こうではこんな会話が……。

「ねぇ、お姉ちゃん。別に構わないんだけど、……祐一さんてば、なんか一言の相談もなく最初から食べるつもりでいるみたいだね」
「……みたいじゃなくて、実際そのつもりじゃないの?」
「えぅー、なんか最近給食室のおばさんになった気分です」
「はっはっは、栞ちゃんてば俺にお弁当といいつつ、もうみんなにお弁当持ってきてるのと変わらんくなってきてるもんな」
「……そろそろお金取る事考えた方がいいのかしら」

まったく微塵も遠慮の欠片なく栞の作ったお弁当にどんどん箸を伸ばしてる名雪と真琴と小太郎を見やりながら、美坂香里は憂鬱げに呟いた。
斯く云うあんたも北川君のお弁当を遠慮なしに食べてるわけですがね、香里さん。


「それで、肝心のお話とはなんですか?」
「うん、それだ」

云って祐一はゴソゴソとポケットから皺くちゃになった紙を取り出した。
それを見て北川が笑い混じりに底意地悪く横槍を入れる。

「相沢ー、ラブレターならもうちょっと綺麗な封筒に入れた方がいいぞ」
「うるさいぞ、北川! ラブレターなんか出した事も貰った事も無いくせに茶々入れるんじゃない!」
「ひ、ひでぇ、断言しやがった。俺だってなぁ、ラブレターの一つや二つ………」

北川は声を詰まらせ突っ伏した。

「あげた事も貰った事もねぇ〜」
「恋愛にはとんと縁がなかったのね、北川君って」
「うー……そういう美坂はどうなんだよぉ」
「あたし? あたしはそれは……」

過去を懐かしむように遠い眼をした香里は、だが該当する過去にいつまで経ってもヒットできず、静止した。
そして、すすぅーっと逸れる視線。

「あ、あたしってほら、硬派だし」

言い訳になってないし。

そんな香里に名雪がニコニコと悪気など微塵もなく言った。

「硬派って…香里、まるでバンチョーとか不良さんだね」
「まあ、お姉ちゃん武闘派ですし、その通りなんじゃないですか?」

名雪の無邪気な偏見に、卵焼きを突きながら素っ気無く補強を加える美坂妹。
その発現に興味深々に聞き及んでいた小太郎が驚愕の声をあげる。

「え? ええっとつまり、美坂先輩ってバンチョーで不良で硬派な武闘派の学年トップ優等生なんですか?」
「あうー、なにそれ」

心底馬鹿にしたように言って、箸を咥えて半眼になる真琴。

「あんたたちねぇッ!!」

湯沸し機のように怒声をあげる香里と悲鳴をあげるその他大勢を横目に見て、祐一は一つ溜息をついた。

「ちなみにラブレターじゃないぞ」
「分かってます」

同じく、溜息を一つ吐き、美汐は皺くちゃの紙を受け取った。どうやら名簿らしき用紙。見れば、丸やらバツが名前の上に書き込まれている。

「これは?」
「久瀬に渡された生徒会役員候補名簿。佐祐理さんが言うには、これ今の生徒会派に区分けされる連中らしくてな。それで何人でもいいから、味方につけてみろ、って話だそうだ」
「はぁ、それで何故私に?」

祐一はコクリと首肯し、やれやれとばかりに髪を掻きながら、もう片方の手で美汐の手の中の名簿を指差した。

「それ、丸印つけてある奴いるだろ」
「…はい、三人……あの、これって」
「うん、見覚えあるだろ。天野の一年ときのクラスメイト。今年は?」
「あ、いえ、今年は別のクラスに……彼女らを?」
「目星つけたって訳だ。で、とりあえず直接知ってそうな天野から情報収集…あわよくば勧誘のお手伝いを頼もうと思ってな」
「勧誘、ですか」

呟き、美汐はもう一度名簿に目を落とした。
此花春日、物部澄、陣内慎也。

眩暈を感じて美汐は思わず眉間に指を押し当てた。

「相沢さん、本気ですか?」
「……天野、そういう言い方されると俺としてもすっげー不安なんだけど」

眉をハの字に曲げられて、美汐は我に返ると誤魔化すようにコホンと咳払いを一つ。
そして、顔を顰めながらもう一度名簿に目をやった。

この三人なら知らないでもない。
いや、知らないでもないとは過小な言い方か。正確に言うならば他者との接触を必要以上に避けてきた自分と交流のあった数少ない人間だ。

「お前さんからみて、どういうヤツらなんだ? そいつら」

美汐は上目に祐一を見やって言った。

「えげつない人たちです」
「え、えげつない!?」
「まあ、それは大袈裟ですけど……そうですね」

美汐は言葉に迷うように言いよどんだ。
言葉と同じように、彼女の視線は祐一から外れ辺りを彷徨う。風に音を奏でる木々の青葉、巡り談笑しつつ弁当を囲んでいる名雪たち、そして祐一に。
しばしじっと祐一を見上げた美汐は、再び視線を談笑している面々に向けた。届かない別世界を眺めるように。

「怖い、人たちですよ」
「え?」

ポツリと呟いた美汐の言葉に、祐一は聞き間違えたのかと聞き返す。
美汐はすっと揺らぎもしない瞳をまっすぐに祐一に向けて、言い直した。

「怖い人たちです、あの方々は。そう、相沢さん、あなた達のように」
「はぁ……はあ?」

さっぱり意味が分からず疑問符を浮かべる祐一の見詰める先で、美汐の目尻だけが幽かに笑みを浮かべていた。









「へーくしょい!」
「…………」

前方から飛んできた御飯粒混じりの唾液の霧に顔面を濡らされ、物部澄のこめかみに青筋が走る。

「…か、春日ぁ」

洞窟の奥底から響いてきそうな声。
だが、その声にもプルプルと小刻みに震える腰まで伸びた銀をまぶしたような艶やかな髪にも気付かず、此花春日は箸を咥えたままイスを蹴たぐり倒しながら立ち上がり、その大きな眼をもってブンブンと辺りを見回した。

「むむむむ、ピーンと来た。こ、これは、誰かがあたしを呼んでいるー!?」
「誰かの前にわたしが呼んでいるんだけど」

言われてやっと気が付いた春日は澄へと向き直った。んでもって無邪気ににぱーッと笑う。

「おやぁ? スミ、顔がべとべとだけどどうしたのかなぁ?」

物部澄は応えず、おもむろにスカートのポケットからハンカチを取り出し、顔を拭いた。
そして食べかけの弁当箱に蓋をして、スッと立ち上がる。

「お? おお? おおおおお!?」

そもそも物部澄は女性にしては背が高い。165センチに到達しているのではないだろうか。本人はあまり詳細な数字については語らないが。
それだけに立ち上がると見上げるような迫力がある。今のようになんかすんげー怖そうな雰囲気の時にはさらに迫力倍。
ちなみに春日の身長は目指せ、160センチ台だ。

そして見下ろすような位置から、澄はニッコリ微笑んだ。
普段あんまし笑わない澄の満面の笑みに思わずニッコリと微笑み返しながら、春日の顔面から血の気が失せる。
視線を泳がせ周囲に助けを求めるも、どなたも此方に注意は向けてない。春日が騒ぐことはいつもの事なので、誰も気にしてないのだ。

だ、誰も気付いてないとは、この殺気、指向性ですかぃ。

「す、スミ、あんまり怒るとお肌に悪いよ。ほ、ほら、なんだったらあたしが使ってるクリームを貸したげるから」
「あんたが使うな! それからわたしの肌の心配してくれるのなら、酸性の体液を顔に吹き付けるのはやめて欲しいんだけど」
「た、体液を顔面にって……スミぃ、なんかエッチ」

ポッ、とその可愛らしいと万人が論評するであろう顔を赤く染める春日。
もはや言葉を費やす事はやめた。
澄は無言で春日の頬をがっしりと掴み、左手に何かの小瓶を魔法のように取り出す。
その余りにも真っ赤なラベルを見て、春日の双眸が大きく見開かれた。ついでに涙も浮かぶ。

「ふみふみ、あんふぁなんふぇふぉんなふぉんがっふぉうにふぉてふぃふぇるんがーっ!!」
(スミスミ、あんたなんでそんなもの学校に持ってきてるんだーーッ!!)

「わたし辛党だから。あんたも知ってるでしょ?」

まったく理由になってない理由をパーフェクトに言い切り、物部澄は親指で器用に赤唐辛子の瓶蓋を開けた。
そんで暴れる春日の口に何の躊躇もなく瓶を突き入れた。

「※∀〒♀♀♂‰§∞ξ!!?」

異界言語が現代日本に迸る。


確かに色々な意味で怖い人たちであった。



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