テーブルに残されていた珈琲カップは早々に片付けられ、つい先ほどまで祐一が座っていた場所には、佐祐理がちゃっかりと居座っている。
真向かいで困ったように自分を見つめる久瀬に、彼女はニコニコと華やぐ笑みを向けていた。
そんな彼女に久瀬はむっすりと唇を引き結ぶと、やれやれといった感じで云う。

「まったく、盗み聞きとは悪趣味な」
「そうですか?」

片端も悪気の無い調子で、佐祐理は小首を傾げた。
その可愛い仕草にたじろぎ、久瀬はわざとらしく咳払いをして自分を誤魔化す。

「佐祐理に勢い込んで話してくれた内容とは随分と違うんで、大変面白かったんですけどねえ」
「ゲホゲホ」

咳払いから本気でむせる久瀬。

「あ…う、いや、これはその」
「ふぇぇ、佐祐理は久瀬さんの鬱憤晴らしを手伝わされてるんですねー。知りませんでしたー。えぇ、全然知りませんでした」
「あうあうあう」

顔色を赤くしたり青くしたりと百面相を繰り広げる久瀬を、さも悲しげな風情で上目に見つめていた佐祐理であったが、クスリと一つ笑いを漏らし、 悪戯っぽい微笑みを浮かべつつ、

「あははー、冗談ですよ。佐祐理は怒っても哀しんでもいませんから、気にしないで下さい」
「いや、しかし」

口当たりの良い言葉。そう、水瀬家で祐一に語ったような内容を佐祐理に偉そうに語ったのも確かなわけで。
怒られても無理はないのである。ある種、騙したともとられかねない。
おまけに、佐祐理がいないのを幸いに彼女についてのコメントまで口を滑らせてしまっている。云ってしまうと「どーしましょ」な展開だ。

「正直に言うと、本音で喋ってくれなかったのは、ちょっと寂しいですけどね」

と、さながら波止場で想い人が乗った船を見送るような眼差しで窓の外を眺める佐祐理。演出過剰である。
が、動揺している久瀬には効果覿面だった。

「す、すみません。これからは、その…」
「ちゃんと本心からの言葉で喋ってくれますか?」
「はい、約束します、しますとも」
「あははーっ、本当ですね? 嘘ついたら、佐祐理的に物凄いことになりますよ」

佐祐理的に物凄いことってなんだ?

分からない。そして、理解不能。
だが、果たしてこの場で、この流れで嫌だなどと誰が言えるだろうか。日本人は流れには弱いのである。そして久瀬はやや規範を外れつつも紛れもない日本人であり、激甘ワッフル好きアンブレラ少女では間違ってもないのである。

そんなわけで。

「本当です。ごめんなさい。約束しますから、許してください」

と、至極あっさりと約束してしまった。

「あははーっ、わかりました。許してあげます」

流れで何かとんでもない約束をさせられたような気もしないでもない久瀬ではあったが、この場ではこう云うより仕方あるまい。
はぁ、と深々と溜息をつきながら、青年はずれた眼鏡の位置を直す。
そんな久瀬をニコニコと眺めながら、佐祐理は百花屋自慢のチーズケーキを一切れ、パクリと口に含む。クスクスと綻ぶ口元。それは美味しいケーキの味ゆえか、それとも青年の普段見せぬ態度ゆえか。
佐祐理はペロリと唇についた欠片を舐め取りながら云う。

「それにしても、全然乗り気じゃなかった祐一さんをああも見事にやる気にさせるなんて…凄いですね」
「いや、そんな――」
「あははーっ、果ては詐欺師ですか?」

――グサリ。
――そしてグラリ。

予期せぬ攻撃は、思いのほかダメージは深い。

「ううう、せめてやり手のセールスマンとかアジデーターぐらいにしてください」

るるる〜、とそこはかとなく儚い涙を流す久瀬。
しかし、アジデーターは自分でフォローになっていないだろうに。

「あらあら冗談ですよー、泣かないでくださいな」
「うう、怒ってるでしょう。倉田さん、まだ怒ってるでしょう」
「あはは、だから怒ってませんよー」

怒ってませんけど、ちょっと意地悪したい気分ですねー。

うん、別に怒ってはいないのだ。と佐祐理は内心でフムフムとほくそえむ。
単に、ちょっとこの青年がからかうと面白い人だと気がついてしまっただけのお話。
普段は怜悧な人格を気取っているだけに、こうなってしまうとなんか可愛い。うん、可愛いから苛めてしまうのだ。舞をからかって遊ぶのと一緒である。反応は違うような、似てるような。

「あははーっ、ほらほらいじけないでください。このケーキ分けてあげますから。ほら、あーん」
「あーん……って、ちょっとなにを倉田さ――むぐ」
「美味しいですか?」
「お、美味しいですよぅ…ちきしょう、ううう」

絶世の美人である倉田佐祐理嬢の手ずから食べさせてもらうというシチュエーション。
感涙にむせぶべき展開かもしれないが、久瀬が流すルルル〜な涙はそこはかとない敗北感が漂っていた。微かに幸せ感も入り混じっているだけに始末が悪い。
加えて痛い。周囲の視線が痛い痛い。
うわ、なにあいつ。マジメそうな顔してるくせにあんなことしてもらいやがって的な湿気の酷い視線がズビズバと突き刺さってくる。

これは僕のキャラじゃない。絶対に違うー。

久瀬俊平18歳、アイデンティティ崩壊の危機であった。



さて、そろそろ青年をからかうのも勘弁してあげたのか、フラフラと二人の間をたゆたっていたフォークも空となったお皿の上に落ち着いていた。
佐祐理はなにやら消耗したようにゲッソリしている久瀬に、訊ねる。

「ところで久瀬さん。これからどうするんですか?」
「…どうするとは?」
「えっとですねー、いわゆる選挙対策ですよ」
「ああ」

これからの方針を知りたいのだと分かった久瀬は頷きかけ、だが次の瞬間彼女が発した言葉に凝固する。

「必要なら実弾を用意しますけど、如何程必要ですか?」

倉田佐祐理は無邪気であった。
頭痛のする頭を押さえながら、久瀬はヨロヨロと答える。

「あんたは、いったい生徒会選挙のどこに金をつぎ込めというんですか!」
「はぇ? それは勿論対立候補の勢力につぎ込んでですねえ――」
「どこぞの金権政治ですか!」
「あははーっ、大丈夫ですよ。確か生徒会選挙で金銭贈与は禁じられてませんから」
「き、禁じられてないのは、生徒会選挙ごときでそんなことをする人がいないからです!」
「あははーっ、では佐祐理たちが初めてですねー」
「やめてください。お願いですから」

久瀬はプルプルと小刻みに震えて、泣きそうになりながら頼み込む。
ああ、無邪気さが怖い。
何気に確信的ではないかとすら疑われる無邪気さが怖い。

「あのですねえ。今の生徒会の連中だってそれだけはやってないんですよ。僕らがそんなことをやったら、一気に悪いイメージがついてしまうでしょうが」
「はー、ダメですか」
「ダメです。絶対ダメです」

残念です、と小さく呟き、それはもう哀しそうに珈琲を啜る佐祐理。
そしてチラリと切なげに上目遣い。
あんた、そんなに金ばら撒きたいのか。

「そ、そんな顔をしてもダメですからね」
「ふぇ、久瀬さんは意地悪です」
「意地悪ってどっちかがですか! どっちがぁ!」

彼女にだけは云われたくない。

佐祐理は拗ねたようにテーブルを指でなぞりながら言った。

「イイですよ、分かりました。はぁ、舞に久瀬さんに苛められたって言っちゃいますから」
「やめてください、お願いですから」

泣きそうどころか本気で泣きながら頼み込む久瀬。剣で切られたり、剣で刺されたり、剣で叩かれたりするのは嫌らしい。
卒業前の件で謝罪した際に、また佐祐理にちょっかいを出していると早とちりした舞に色々と酷い目に会わされた事件が恐怖となって色濃く刻まれているトカ、いないトカ。
それにしても、完全に手玉に取られて遊ばれている久瀬の情けなさ。他人には見せられない姿である。特に祐一とか香里とか真琴とか。

「あははーっ、今日のところは勘弁しておいてあげますよ。でも、お金は使えないとしてどうするんですか?」
「とにかく、票を集める事が基本です」

云いながら、眼鏡の位置を直して、ついでに自分も立て直す。

「まあ、大概は美坂君たちに任せておけば大丈夫でしょう。彼女と北川君は群れないくせに以外と交友関係は広いですからね」
「お二人のこと、調べたんですか?」
「相沢君に目をつけた時にその周りの人間も洗っておきましたから」

久瀬は祐一に話を持っていく前に、既に香里たちに話をつけていた。
佐祐理はまず周囲から堀を埋め、着実に構想を実現化させていくその企画・実行能力に素直な賞賛を覚えた。

「美坂君は文化系の部活を掛け持ちしてるそうですし、三年だけでなく二年にも手は伸ばせます。
それに水瀬さんの陸上部もありますからね。彼女は人望もありますし、陸上部内の相沢君の評判も上々のようですし」
「なるほど。まず最小限の票は確保できるということですか」
「後は地道にアプローチしていくことですね。問題は一年全体と二年ですが…これは広報活動で知名度をあげるしかないでしょうね」
「どうするんですか?」
「北川君によると新聞部の二年の副部長が当り障りの無い記事ばかり書いている現状に不満を覚えているようです」
「はぁー、当り障りの無いですか。そういえば学内新聞なんて全然記憶に残ってませんね」
「どうやら本格的な報道活動をやりたいようなんで、これを上手く使えば生徒会選挙を盛り上げることができます。面白い記事を書いてもらえば、入学してきたばかりの一年生にも名前が知ってもらえる」
「なるほどなるほど」
「まあ、あくまで報道の中立を心がけてる人物らしいので、此方に有利な記事ばかりを書いてはもらえないでしょうが」
「そこは祐一さん次第ですね」

久瀬は一つ頷いて、続ける。

「それから、今後のことを考えると一つ重要なことがあります」

分かりますか? と云わんばかりの久瀬の眼差しに佐祐理は小首を傾げた。

「生徒会運営の事を考えると、今の生徒会や反生徒会のグループを完全に敵に回すのは宜しくない」
「ですが…選挙に出る以上敵に回す……」

そこで佐祐理はふと口篭もり、何かを悟ったのか納得したように首肯する。

「なるほど、ある程度敵を取り込んでおきたい。そういうことですね」
「ええ。例えば僕やあなたは正確にいうと当の生徒会グループに類される位置にいる人間です。名士だの有力者だのという括りで云えばね。だが、僕らは卒業してしまっているんで、いかな倉田家の人間だ、元生徒会長だといっても影響力を発揮するには限界があります。
ですから、このグループに類されるだろう現役の人間を何人か相沢君の生徒会に入れておきたい」
「ですけど、それだと獅子身中の虫になりませんか?」
「名士や有力者の子弟が全員同じような思考の持ち主ではありませんよ。この現状をくだらないと思ってる人間もいるでしょう。できれば、そういう人間を味方につけたいですね。それも、選挙の前から」
「心当たりはあるんですか?」

久瀬は頷き、何人かの名前をあげていく。

「――八原博道、それと二年の此花春日、物部澄、陣内慎也。といったところでしょうか」

ふむ、と佐祐理はあげられた名前を反芻した。
幾人かは他人をあまり覚えない人間である佐祐理にも記憶にある人間だった。

「まあ、選ぶのは相沢君だ。そして勿論、味方にするも敵にしてしまうも彼次第」

フッと、久瀬はほくそえみ。カップに残っていた最後の珈琲を飲み干した。

「さて、どうなることやら」

久瀬さんてば、完全に事態を楽しむつもりみたいですねー。

佐祐理は怪しげにほくそえんでいる久瀬を眺めながら、内心で彼と同じ言葉を繰り返した。

さて、どうなりますことやら。

結局は、久瀬と同じく事態を楽しむつもりの佐祐理であった。







back  next

第二章目次へ
inserted by FC2 system