意外かもしれないが、久瀬俊平は百花屋の常連であった。
注文したコーヒーを味わいながら、ぼんやりと商店街を歩く人を眺める一時。実はそんな怠惰な時間を好んでいる。
いつもと変わらぬ、だが飽きる事の無い苦味を舌先で転がす。
別段、コーヒーの味にうるさいつもりは無いのだが、此処のコーヒーが美味しいのは確かだった。
「これが飲めなくなるのは、嫌だな」
ふと、つい先日聞いた噂話を思い出し、久瀬はぼんやりと水面を揺らすカップの中身を見つめていた。
ドアベルの音が店内に響く。同時に溌剌としたポニーテールのウェイトレスの接客の声。
反射的に入り口の方に目を向けた久瀬は、それが約束していた人物である事を認め、フンと鼻を鳴らした。別に意味はない。
入ってきた男――相沢祐一は店内をキョロキョロと見回していたが、やがて此方に気がつき、スタスタと歩いてくるや、久瀬の断りも無くその向かいへと座った。
素早く水を持ってきたウェイトレスにコーヒーを頼み、改めて祐一は久瀬の方をじっと見やった。
「なんだ?」
「いや、男と二人でこの店に居るってのは初めてだなと思ってな」
フン、とまた鼻を鳴らす。
「いつもは彼女と――水瀬さんと同伴か」
「大概はな。まあ、イチゴサンデーを奢らされない分、お前の方がましかもしれないけど」
「嬉しくはないな」
「それは同感」
ヒョイと肩を竦め、祐一は背もたれにもたれかかった。
チラリとそれを一瞥し、問いただす。
答えは分かっているが、会話の取っ掛かりのようなものだ。
「それで、僕を呼び出した用はなんなんだ?」
「前の話の続きだよ」
あえて眼を逸らすように、店内へと視線を彷徨わせていた祐一は、溜息を漏らすように向き直る。
「生徒会長になれってやつ。正直気が乗らないって佐祐理さんに云ったら、もう一度お前と話してみろって云われてな。それで結論を出してみればいいって」
「なるほどね」
久瀬は手元のカップに視線を落す。
――此方に預けたということか。それが最善と判断したということだろうか?
本当は目の前の少年をやる気にさせる役目は佐祐理さんにやってもらうつもりだったのだが。
敵意しかもたれていない自分がどうこう云うより、そちらの方が納得を得やすいと考えていたのだが、彼女の方はそうは考えなかったらしい。
ともあれ、今の相沢祐一の自分に対する態度に敵意は見られない。素っ気無い態度ではあるが。
彼が自分を今、どういう風に認識しているかは定かではないが、少なくとも頭からろくに話も聞かずに反発されるような事はないだろう。
まあいいか、と久瀬はどこか投げ槍な感じに思い定めた。
云いたい言を云ってしまうのも悪くは無い。
しばし久瀬が自分の内側に思索をめぐらしている間にも、祐一はグラスの水の中に浮かぶ氷がカラカラと音を立てるのを眺めながら、そっけない調子で続けた。
「佐祐理さんにも云ったんだが、あんたが色々言ってた事、俺はまったく興味が無いんだ。どうだっていいことだし、どうしても他人事にしか思えない」
反応の無い久瀬を上目に一瞥し、祐一は一瞬だけ言いよどんで先を続けた。
「それにさ、結局それって大まかに言ってあんたが変えられなかった事なんだろ? そんなの押し付けられても溜まらないぜ。あんたのそれは正義かもしれないし、立派なんだろうけどさ…でも、俺があんたの言葉に乗って生徒会長になってその正義を引き継ぐなんてのは…やっぱりごめんだ」
「つまりは他人事か」
「ああ、結局はそれになる」
不意に、頭上から場違いなほど明るい声が降ってくる。
いったん会話が打ち切られる。
もはや顔なじみになっているウェイトレス嬢に礼を言いつつ、祐一は仄かな白い湯気の立つコーヒーを受け取った。
「あ、お代わりもらえますか?」
営業スマイルにしてはあまりに情感の篭もった笑顔とともに応諾の言葉が降りてくる。
仕事もまた速い。
すぐさま空になったカップに注がれていく作業を眺めていた久瀬は、ふと祐一の方の手元を見やり、眉を傾けた。
ウェイトレスに礼を云い、彼女が遠ざかるのを見計らうように声をかける。
「砂糖はまったく入れないのか?」
「うん? ああ、甘いの苦手だし」
「それでも多少は入れるだろうに」
「なんだよ、そんなの人の勝手だろ」
「ふん、まあその通りなんだが」
やや不服そうに呟き、久瀬は自分のコーヒーをかき混ぜた。
「なに? あんたそんなに入れるのか?」
「僕は甘党なんでね」
何故か顔を顰めている祐一を、不信そうに見やり久瀬は一口だけコーヒーを口に含む。
甘味と苦味が程よくブレンドされた濃厚な味わいが口内を満たした。
ささやかな満足感を抱きながら、改めて話を再開する。
「君は一つ勘違いをしているようだ。まあ、僕自身はっきりと言わなかったのも悪いんだが」
「何がだ?」
久瀬は、ペロリと濡れた唇を小さく舐める。
そして苦笑を浮かべるように口端を歪めた。
「僕は生憎と君が考えているような青臭い人間じゃ無いって事だよ」
「青臭い?」
フン、と久瀬は小さく鼻を鳴らした。
「つまりだね、僕が正義や志で生徒会長になって、あの腐れたシステムを変えようとした訳じゃないって事だ」
ピクリと祐一は瞼を震わせた。少し驚いたらしい。
それを見て、久瀬は心底から苦笑じみた感情が湧きあがるのを感じた。
最初は冷血漢の悪役としか久瀬という人間を認識していなかったであろう相沢祐一。さて、今度はどんな風な印象で自分を見ていたのだろうか。
どちらにしても、僕としては御免こうむりたい気がするな。
小さく声を漏らさずに肩を震わせ、もう一度カップを口元に運ぶ。
そして、続きを促すように此方をじっと見ている祐一に、久瀬は何か形の無いものを嘲るように告げた。
「例えば…そうだな、君は首都に本拠地を置く黄土色のユニフォームの某人気野球球団のファンだったりするのか?」
「は?」
祐一は思わず間抜けた声をあげた。
唐突に変わる話の展開。
こいつの喋り方っていつもこんなのか?
なかば呆れながら、とりあえず答えてみる。
「いや、どちらかといえば、アンチな方だと思う」
なら話は早い、と何が早いのかさっぱり分からない祐一に向かって、久瀬は喋り始めた。
「僕があの学校の体制とそれに関わる人間達に感じたのは、その某人気球団の傲慢なやり口や某超大国の傍若無人なやり方にむかつくのと同じタイプの感情だよ」
「はぁ」
中身の無い相槌を聞いているのかいないのか、久瀬は口元をひん曲げた。
「何となくむかついた。やり方が目に余る。気に入らない。そういった、云ってしまえば下らない感情。分かるかな、これ」
「いやまあ…」
唸るようにして祐一は口篭もり、ポツリと呟く。
「分からないでもない」
「なら、これも分かってくれるかな。あのむかつくオーナーを黙らせたい。この某球団にしか有利でない制度をやめさせたい。お前らが全部正しいと思ったら大間違いだと知らしめたい。お前たちの国だけそんな特権を認めるものか。とまあ、こういう欲求を、だ」
「うう…わ、分かる」
なかなかに分かりやすい実例だった。
「それとまったく同じような欲求を僕は彼らに感じたんだ。普通は、この手の欲求はどうにもならない。手が届かないし、かなえられるわけが無い。ところがだ、その学校の体制に関しては幸か不幸か、僕はそれを弄くれるであろう場所に立っていた」
「むぅ、だから、生徒会長になったと?」
「そういう事だよ。分かるだろ? 僕には偉そうな題目があったわけでも、正義があった訳でもない。単に気に入らなかったから、ぶち壊してやろうと思っただけさ。
別に学校を健全化しようと思ってたわけでも、他の生徒の事を考えていた訳でもない」
久瀬は何ともいえない笑みを浮かべて、実に自己中心的だろう、と言った。
「まあ、その自己中心的なお陰で結局なにも出来なかったんだが」
幽かに自嘲の混じ入った言葉の余韻を聞き流し、祐一は深々と息をついて、頬杖をついた。
――なるほどな、まあこっちの方が確かに理由としては納得できるよな。
正義感だの高尚な理念だのを掲げられるより、よっぽど身近に感じられる。
祐一は、先日の水瀬家で久瀬が語った話の内容を、ようやくどこか質感を持って感じられた気がした。
そんな祐一の態度を見計らってか、久瀬は先を続けた。
「それにだ、相沢君。君は生徒会長になったら、僕のやろうとした事を引き継がなくちゃいけないって考えてるみたいだけどね、僕はそんな事一言も頼んでないよ。君は君の思うとおりにやればいいんだ。結果的に僕の希望通りになることは期待してるけどね」
思わず頬杖から顔をあげる祐一に向かって久瀬はヒョイを肩を竦めると、
「僕はね、本当は以前に云った事なんか実際どうでもいいんだ」
と、至極あっさりと言ってのけた。
「なにぃ!? あんなに力説しといてか?」
「あれは話の掴みだよ」
「掴みってお――」
「だいたい、僕はもう卒業してしまった身だぞ。学校がどう良くなろうが、もう関係ないじゃないか。そんなものにわざわざ労力を傾けるつもりはない」
「あ、あんたなぁ、可愛い後輩が通う学校だぞ。関係無いはないだろう」
呆れたように言い返した祐一に、久瀬はふっと爬虫類の笑みを浮かべた。
「可愛い後輩? さて、それはいったい誰の事だ?」
「誰も俺だとは言ってないぞ」
ふと、祐一の脳裏に真琴の名前が浮かぶが、何となく口に出すのがむかついたので口を紡ぐ。
祐一が乗ってこなかったので、久瀬はあっさりと離れかけた話を戻した。
「自分の通わない学校を良くするなんてさらさらないがね、だがあの気に入らない体制に負けっぱなしで終わるというのは腹が立つじゃないか」
「それがなんで俺を生徒会長に擁立することに繋がるんだ?」
「簡単な話さ。要は、君が生徒会長になる事で、あのシステムに浸っている連中を慌てさせたいだけなのさ」
「なぬ?」
「君が引っ掻き回してくれるのを、端で笑って見てみたい。云ってしまえばそれだけだ」
臆面も無く久瀬は言い切った。
祐一はしばしあんぐりと口を開け、平然とまたコーヒーカップをあおっている眼鏡の青年を呆然と見やる。
「久瀬、あんたそれって結局俺を利用したウサ晴らしでしかないじゃないのか?」
フム、と久瀬は頭を傾け、コクリと頷く。
「云ってしまえばそうかな」
あ、あんたなあ、と嫌な汗を垂らしながら祐一はたじたじと言葉をひねり出した。
「それじゃあさっきのあんたの志を継ぐとかいう展開より性質悪くないか?」
「考え方によってはその通りかもしれないな」
「うぉーい、だからー、当の本人に向かって平然と言うなよー」
思わずテーブルに突っ伏してしまいながら、疲れたように久瀬に訊ねる。
「あんたは前に俺にとっても悪くない話だとか言ってたけど、それじゃああんたにばっかりいい話じゃないか」
「そんな事は無い。君とっても悪くない話だよ」
「うそつけー」
「嘘じゃないって」
唸りながらヨロヨロと祐一が顔を上げると、久瀬はヒラヒラと左手を仰いでいた。
「僕の場合、全部自分でやろうとして周りを敵ばかりにしてしまったけど、君の場合は美坂君と北川君という両腕がいる。他にも最初から味方で周囲を固めれば、かなり好き放題やれるだろう。
分かるか? 生徒会の会長として好き放題やれるということがどういうことか」
分からなかった。
「どういうことになるんだ?」
反射的に問い返した祐一に、久瀬はニヤリと笑みを浮かべてみせた。
気のせいかもしれないが、キラリンとレンズの端が光ったような気がした。
「君の学校の治世を、君が好き放題できるという意味だ」
「…はぁ」
まだいまいち良く分かっていない様子の祐一に、わかりやすく噛み砕く。
「つまりだ、君はある意味、学校という場所の支配者になれるんだ、支配者」
意味不明な単語が脳内にリフレインする。
一瞬、自分の頭がボケたのかと錯覚して、祐一はコンコンと拳をこめかみにぶつけた。
中身の詰まった鈍い音が響く。どうやら空っぽでは無いらしい。
我に返った祐一は、鸚鵡返しに繰り返した。
「は!? 支配者?」
ここぞとばかりに捲くし立てる久瀬俊平。
「そうだ、まさに学校政治を思うとおりに壟断できる。やりたい放題だ」
「や、やりたい放題!?」
「生徒会長という自治権限は学校側からも独立しているから、学校もよっぽどの事がないと君のやり方に口を挟めない。まさに君は学校の支配者となれる」
「おお!」
「男なら一度は思うだろう? 天下を取ってみたいと!」
「て、天下!?」
「そう、天下・天下・天下だ!」
「おお、天下人…って、あんたはどこかの妖しげな勧誘業者かぃ!」
引き攣りまくった奇声が飛ぶ。
久瀬はわざとらしく不満げな顔をして、言い聞かせるように、
「失敬だな。多少は語彙の誇張はあるかもしれないが、概して間違ってはいないぞ」
と、言った。
「誇張しかないような気がするんだが」
「それは君の気のせいだ」
眩暈と偏頭痛に襲われながら、祐一は肉食獣のように唸り声をあげた。
荒らげた息を、必死に整える。何故か乾いてしまった喉を潤そうと、手元のカップを一気にあおり、その苦味に祐一は思わず顔を顰めた。
とにかく何とか無理矢理心を落ち着かせ、冷静さを取り戻そうとする。
取り戻したと思った瞬間、また眩暈がした。
祐一は内心で、これまででもっとも深く深く溜息をついた。
ヤバい、と自覚する。
マズイなあ、と振り返る。
久瀬の言葉は、どうしようもないほどに自分勝手で、生々しくて、アホらしい。
まったく馬鹿げた話ばかりで、正直事前に想像していたのと全然違った。
本当に、いったいどういう神経をしていたら、こんな話を臆面も無く出来るのかと思う。
おまけに詐術まがいの舌先三寸で此方を乗せようとしてくるときた。
それだというのに――
やばいよなぁ、絶対ヤバイぞ。俺はこいつの話を……。
―――面白そうだと思ってしまった。
一度そんな思いを抱いてしまえば、まるで凶悪なウイルスのようにじわじわと相沢祐一という存在を侵蝕していくのが嫌と言うほど分かってしまった。
それでも、崖を転がり落ちてるさなかの心境のままで、無理矢理足掻く。
「で、でもなあ、あんまり無茶苦茶な事をしても周りに止められるだろう。それに香里たちや佐祐理さんは、やっぱり学校を良くして欲しいと思って俺に生徒会長をやれって言ってるのかもしれないし」
「君はバカか」
「バカってなんで!」
あっさりとバカ呼ばわりされて、怒る事も出来ずただ反射的につっこむ。
久瀬はやれやれとそれこそバカにしたような目で祐一を見やった。
「自分でも信じていない事を口にしてもしょうがないぞ。美坂君や北川君が、前に僕が言い連ねた学校システムの矛盾を憂いているかといえば、そんな訳あるはずないだろう。
彼らはそんな事に微塵の興味も無い。はっきりいってどうだっていいと思ってるとしか思えない。ある意味、君より徹底してだ。彼らが君に期待している事といえば、何を面白いことをやってくれるかの一点に過ぎない。いや、彼らにとって、君が生徒会長をやるというだけで笑えるんだ」
「笑えるんだって……笑うよな、あいつら」
げっそりとして、祐一は自他ともに認める親友たちの非道な性格を思い出す。
「彼らにとって、これは単なる遊びだよ、遊び。そうとしか考えてない。これは、むしろ倉田さんの方が顕著かもな。あの人は楽しそうだから、僕の目論んだこの話に乗ってくれたんだと思うよ。
だから、君が深刻に考える必要はないんだ」
「遊び、ねぇ」
北川たちの無責任極まりないセリフと表情を思い出す。まさにしっくりと嵌る言葉だ。
そして、他の面々も―――恋人である名雪や、何も分かってない真琴。他にも栞や小太郎。みんな面白半分に関わってくるだろう事は容易に想像できる。
例外は天野美汐ぐらいなものか。
やれやれと溜息をつき、祐一は目の前に座っているこの旧敵をじろーと睨みつけた。
そして考えていたのとはまったく違い、この男もまたろくでもない正体の持ち主だ。遊びといえば、こいつこそ遊びなんだろう。
さっきまで、どこか高潔な人格を勝手に想像していた自分がばからしいやら気恥ずかしいやら。
まったくもって、ふざけた話だ。
そこで、祐一は思わず苦笑を浮かべた。
あーあ、なんてこった…結局、俺もおんなじような気分になっちまってるじゃないか。
半ば白旗を振ってしまっている事を自覚しつつ、それでもあえて無駄な努力をこうじるように、祐一は再度訊ねた。
「なあ、もう一度聞いてもいいか?」
「何をだ?」
「なんで、俺なのか」
レンズ越しの久瀬の眼差しが、すっと細められた。
自分を見つめる視線に、答えを求める光を認めて。
前と同じ答えでは納得しないかな、と久瀬は苦笑する。
「恥ずかしいことをいうかもしれんが、いいか?」
「お? ああ、どーぞ。我慢する」
「うん、我慢してくれ。簡単に言えばだ、君の事が面白かったからだ」
「…?」
「これまで君との対立軸、向こう岸から君たちの事を見てきた訳だが、後になって考えてみると君の行動は実に面白い。当事者だった時は頭にきてばっかりだったけどね。
君は、何事にも興味なさげな癖に、いったん気になったら自分が納得するまで動き通す。他人事を自分の事のように考えてね。
その行動は自然と人を魅きつける。どうにも事態の中心核になりやすい人間だよ、君は。だから君の周りに人が集まる。ある意味、リーダーとしては得がたいアビリティだな。
本人にはその意図が無いのに、勝手に騒動に関わってるタイプというべきか。
本当なら生徒会長なんてものは、美坂君に頼んでも北川君に頼んでも良かったかもしれない――頼んでも断られるだろうが――。二人とも、それをこなせる人材だしね。
だが、それじゃあ面白くないんだ。いや、あの二人でも充分に面白くはなるだろう。特権階級どもが慌てふためくことをやってくれるだろうさ。
でもね、相沢君。君が生徒会長になることが、一番面白くなりそうなんだよ」
「あんた、俺のことをなんだと思ってるんだ?」
嘆息するように云った祐一の一言に、久瀬は肩を竦めてきっぱりと答えた。
「…爆弾」
一拍の間がおかれた後、百花屋の店内の一角に喉を引き攣らせたような笑い声が響いた。
BGMとしてはあまり褒められたものではないその響きを向かいに、久瀬は悠然と二杯目のコーヒーを飲み干した。
顔を右手で押えながらひとしきり楽しげに笑った祐一は、その笑みを苦笑に変えて指の隙間から久瀬を睨む。
「ひでえ言い草だな、おい」
「フン」
あしらうように小さく鼻を鳴らし、久瀬は眼差しを伏せたままニヤリと笑った。
それを見て、やれやれと首を振った祐一はすっと立ち上がった。
「まったく、やっぱり嫌なやつだぜ、あんた」
「それはどうもありがとう、とでも言うべきかな?」
「言ってろ」
笑いながらパタパタと虫を追い払うように右手を振り、祐一はクルリと久瀬に背を向けた。
その背中を見上げ、久瀬は淡々と問い掛ける。
「それで、この話を受けてくれる気にはなったかい?」
「うーん、そうだなぁ」
勿体つけるように言葉を焦らし、祐一は汚れ一つない店内の天井を見上げた。
そして、殆んど自分の意見が固まってしまっていることをいまさらのように自覚し、苦笑を零す。
まったく、我ながら意外と乗せられやすい性格だよな。
内心で自嘲しつつ、祐一は振り返らないまま、ヒョイと肩を竦めた。
「ま、考えとくよ……前向きにな」
それだけ言い残すと、祐一はスタスタと来た時と同じように店を出て行った。
軽やかなドアベルの音の名残が店内に馴染んでいく。
「素直に話を受けると一言でも言えないものかな、彼も」
捻くれたヤツだ、と自分の事は棚に置いて口ずさむ。
そのままどこかぼんやりと、出入り口の方を眺めていた久瀬は、ふと我に返り、自分の座るテーブルを見下ろした。
「あいつ、僕にコーヒー代を奢らせるつもりか?」
久瀬は、憮然と残されたレシートを見つめた。
「珈琲代ぐらい、かまわないじゃないですか。どうやら祐一さんも受けてくれそうな雰囲気でしたし」
「まあ、このぐらい良いんですけどね……って、ええ!?」
ごくごく自然にかわされる会話に、思わずそのまま流されそうになった久瀬は、驚愕のあまり飛び上がりそうになりながら背後を振り返った。
「い、いつから其処にいたんですか、倉田さん!」
「あははーっ、思いっきり最初ッからですねー」
後ろ側の席からひょっこりと覗いていた倉田佐祐理の面差しは、実に楽しげに綻んでいた。
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