「生徒…会長!?」

 祐一は口を半開きにして鸚鵡返しに繰り返した。
 その単語の意味を咄嗟に理解し損ねる。
 その品行方正が生真面目という眼鏡をかけているような単語が自分という人間から余りにもかけ離れた単語だったからだ。
 これでも多少なりとも自分がどういう人間かを分かっているらしい。

「ねえ、小太郎。せいとかいちょーって何?」
「え、えーっとですね」

 未だ酸欠気味でまとまっていない意識を掻き集めて、小太郎は真琴にも分かりやすいように答えた。

「学校の生徒で一番偉い人です」
「おおー!!」

 間違っているのかいないのか、そこはかとなく微妙な小太郎の説明に真琴は大いに感嘆した。

「なんか知らないけど、祐一のクセに凄いじゃない」
「クセにってのはなんだよ、おい」

 とりあえず、つっこみは欠かさない祐一。
 と、自分の声に茫然自失から我に返った祐一は、慌てふためきながら久瀬や佐祐理たちの顔を見て、

「ちょ、ちょっと待ってくれ。生徒会長だと? そんなの、もう誰かがやってるだろうが」

 誰かは知らないけど、と祐一は若干トーンを落として付け加える。
 だが、久瀬が余裕綽々に肩を竦めて見せたのを目の当たりにして、表情を引き攣らせた。

「おい、まさか」
「あははー、実はまだ誰もやってないんですよ」
「なんで!?」
「生徒会長の僕が卒業したんだから、誰もいないに決まってるだろうが」

 祐一は頭を抱えて絶叫した。

「んな、あほなーッ!?」

「カステラ持って来たよー。って、何騒いでるの、祐一?」

 綺麗に切り分けられたカステラの乗せられた皿を手に、リビングへと戻ってきた名雪はひっくり返って悶えている祐一に小首を傾げた。

「名雪ぃ、ウチの学校に今、生徒会長が居ないってのはホントなのかぁ!?」

 跳ね起きて縋るように問い掛けてくる祐一に、名雪は爛々と目を輝かしている舞の目の前にカステラを置きながら思い出すようにもう一度首を傾げる。

「うん、確かわたしたちと同学年の副会長さんが代行をしてるはずだよ」
「はぁ!?」
「毎年、新しい会長さんが決まるまで、そうやって副会長さんが代行やってるんだよ」
「ま、毎年だと!?」
「うん、毎年。副会長さんがそのまま会長に繰り上がる事も多いけどね」
「ちょ、ちょっと待て、生徒会選挙とかは?」
「えっと…確かまだだよ」
「まだ…だと?」

 カクンと祐一の顎が落ちた。
 唖然と祐一は詳しい答えを求めようと久瀬たちに視線を向けた。

「…カステラも美味しい」
「あははー、ホントですね。以前に老舗専門店で購入したのより美味しいです」
「はい、お茶だよ」
「ああ、すまないね、月宮さん」
「ああ、舞ってば食べ過ぎー。あたしも食べるー」
「あ、真琴さんずるい。さっきあんなに食べたのに。じゃあ、僕も」
「小太郎はダメ」
「何故にーーッ!?」
「みまみま」
「ふえ!? カステラも手作りなんですか?」
「うん、お母さんはそう言ってましたよ」
「うぐぅ、カステラってどうやって作るの?」
「…何故、僕に聞く?」

 果てしなく置いてけぼりにされていた。

 いつの間にか名雪も混ざってるし

「って、お前らなぁ!!」

 祐一は思わず立ち上がると、言うだけ言って勝手に和んでいる三年生トリオに青筋を立てて絶叫した。
 みんながキョトンと黙り込む中で、久瀬が代表するようにおもむろに祐一を見上げた。
 そして、クイっと眼鏡を押し上げると、フッと鼻で笑った。

「残念だったな。もはや君の分のカステラは欠片も残っていないぞ」
「みまみま」
「あ、残念でしたね、相沢先輩」
「ちょっと、そんな目で見てもあたしのは上げないわよぅ」
「あははー、祐一さんちょっとトロいですよー」
「うぐぅ、早いもの勝ちだったの? これ」

「ちっがーーう!! 誰がそんな事を言ったぁ!!」

 無益に怒鳴りながら否定する祐一。
 久瀬は「ふぅ」と可哀想な人を見るように溜息を吐くと、

「ひがむな、卑しいぞ。それほど欲しいのなら僕のを恵んでやろうじゃないか。ほれ、舐めたまえ」

 そういって、久瀬は自分の皿を差し出した。
 皿には、カステラの底に張り付いている紙が二枚、茶色いカステラの断片をこびり付けたまま並べられていた。

「…………」
「うん? 遠慮は要らないぞ。僕は寛大だからな」
「久瀬、えらい」
「ふぇ、佐祐理、ちょっと感動しちゃいました」

 久瀬は春の陽射しのような微笑みを浮かべ、佐祐理は心底感心したように両手を合わせていた。
 加えて、無感動に感嘆している舞。

「…………」

 プチーンプチーン

 あ、切れちゃったよ。

 名雪は、祐一の頭の血管が盛大にぶち切れるのを眼の光から察知して、やれやれと溜息を吐くと自分のカステラとお茶を確保しつつさっさとリビングから逃げ出した。
 心を通い合わせた恋人同士ならではの、相手の思いを言葉にせずとも察知する強固な絆の証であった。

 ……実に薄情な絆である。


「うがぁぁぁ!! てめえら、ぶっ殺ーすッ!!」


 ドンガラガッシャーン!


「うぐぅぅ!? 何故にボクからぁぁ!?」


 バキバキドガガーーン!


「あうぅぅ! またもや小太郎がカステラ喉に詰まらせたぁぁ!!」
「と、何故に嬉しそうに叫びながらカステラを手に持って―――ムグググゥー!?」


 バシャッグシャッグチョラ


「あははーッ!! みなさん、ノッてますかぁ!?」
「……おー」


 ゴワドガギガダババババ


「ふむ、意外と狭量な男だな、君は。カステラごときでこれほど怒るとは」
「だから違うと言うとろーがぁぁぁ!!」


 グワッッッシャーーーーッン






「あらあら、どうしたの?」

 リビングから聞こえる喧騒に、秋子は濡れた手をエプロンで拭きながらキッチンより姿を現す。
 リビングのドアを出た横で、音も立てずに右手のカップに入ったお茶を啜っていた名雪はニコリと笑って答えた。

「ちょっと祐一がキレて大混乱になってるだけだよ」

 秋子はパチクリと目を瞬かせるとフワリと微笑みを返した。

「あらそう。なら良いわ」

 ……いいの?

 と、さすがに自分の母親に疑問を抱かないではない名雪ではあったが、疑問を口にするほど愚かではなかった。伊達に彼女の娘を17年もやっているわけではない。
 苦節十七年。それは長きに渡る生と死の狭間を歩んだ経験の日々であったのだから……。



「祐一たちは何か立てこんでるみたいだし、晩御飯、手伝うねー」
「じゃあ、遠慮なくお願いするわね」

 つね日常の暖かさが透けて見える――
 それは実に平和な母娘の情景であった。



「うがぁぁぁぁっ! ぶっとばーすッ!」
「ふむ、暴力で物事を解決しようというのは実に非効率的かつ知性の欠如だと思うのだが、どうでしょうお二方?」
「あははー、時にはヤッちゃう方が効果的ですよー」
「……はちみつくまさん」

 つね日常の陰惨さが透けて見える――
 それは実に殺伐とした居間の情景であった。











「少し話が逸れたな」
「誰の所為だ、誰の」
「少なくとも君の責任は八割を越すと思われるのだが」
「ぬぐぐぐ」

 多少乱れた髪の毛をなでつけながら淡々と言う久瀬に、祐一は悔しげに唸り声をあげた。
 水瀬家のリビングは良い具合に混沌の場と化していた。
 テーブルは引っくり返り、ソファーも四分五裂に分解され、各所に散らばっている。
 部屋の隅に置かれていた小棚は転倒し、中身や上に乗せられていた小物も散乱してしまっていた。
 テーブルの上に置いてあった皿やカップが割れていないのは奇跡に近い。
 舞が淡々と空中に放り出されるそれらを軽やかに回収して回っていた成果だった。
 楽しげに放り投げていたのは佐祐理さんだったような気もするが……さながらフリスビー犬と遊んだような爽快感にご満悦だった事だろう。
 月宮あゆは初っ端に顔面にクッションを食らった挙句に引っくり返ったテーブルの下敷きとなって昏倒している。毎度、不幸にストーカーのように付きまとわれている少女である。
 天野小太郎はと言えば、大混乱の興奮に煽られて往年の悪戯嗜好を復活させた真琴によりカステラを無理やり口に詰め込まれ、窒息してぶっ倒れていた。さきほどカステラを喉に詰まらせた小太郎の姿が、慌てつつも真琴にとってヒットだったらしい。
 何気に死んでいなくもないが、まあ気にしないのが吉だろう。現実的に死とは余りにもあっけなく訪れるものだが、歴史上ギャグによって死んだ人物は確認されていない。それが世界の選択である。
 ちなみに真琴はといえば、真っ青になってぶっ倒れた小太郎に泡を喰って助けようとしたところを(往々にして子供というものは自分のしようとする事の危険性を認識しないものだ)、高々と舞ったカステラの乗る皿をキャッチしようと飛び上がった舞に顔面を踏んづけられ、芸術的と表現できるほどに見事な足型を顔に貼り付けつつ「あう〜」とこれまた昏倒している。


「あらあら」


 突然、背後から聞こえた声に祐一は真っ青になって振り返った。
 案の定、秋子さんが普段と変わらぬ微笑みを浮かべたまま、右手を頬に当てている。この惨状を見て、普段と変わらぬ微笑みというのがかなり怖い。
 
「あ、秋子さん、これは…その」

 言い訳を試みようとする祐一だったが…


「あらあら」


「いや、あのですね」


「あらあら」


「こ、これは、く、久瀬のヤツがですね」
「ぼ、僕は関係無いぞ、やったのは君じゃないか!」
「あ、てめぇ、一人だけ――」


「あらあら」


「あ、あははー」
「……(ガタガタ)」
「あ、秋子さんッ!?」


「あらあら」


「「た、直ちに片付けますぅーーッ!」」


 秋子はニッコリと微笑んで言った。

「あら、じゃあお願いしますね、みなさん」

 そう言い残すと、軽やかにスリッパの音を響かせて秋子さんは立ち去っていった。


 「「だはぁー」」と、脱力しながら息を吐き、いつの間にか直立不動の体勢となっていた祐一たちは床へとヘタリ込んだ。

「こ、怖かったぞーっ、なんか怖かったぞーっ」
「し、洒落にならん」
「……(ブルブル)」
「あ、あははー、その筋の人よりよっぽど凄い迫力でした」
「…………」
「…………」


 その筋とはどの筋ですか? とは怖くて聞けない祐一と久瀬であった。



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