引っくり返った祐一の声が玄関まで響いてきた。
 名雪はビックリしてリビングへと急いで駆け込む。そして、凍りつくように軋んだ空気に包まれている光景に口をあんぐりと開けた。
 猫の様に毛を逆立てて立ち尽くしている祐一。その眼差しの先で不敵に微笑んでいる羽織袴の青年。大声を出した祐一を驚いたように目を丸くして見つめている真琴と小太郎。
 そして、真琴の上で心地よさそうにまどろんでいる猫のぴろ。

「猫さんだおー!」
「ちょっとマテぇ、この場で言う事がそれかぁ!」

 ロケットダッシュを仕掛けた名雪の襟首を、咄嗟に祐一が捕まえる。
 ようやく名雪の帰宅に気が付いたぴろが慌ててリビングを飛び出していった。

「はーなーしーてー、猫さんが行っちゃうおー」
「離せと言われて離す馬鹿がどこにいるかぁ」
「祐一はお馬鹿さんだから離していいよー」

 ゴスンッ

「うー、殴った」
「うるさい。猫はいいからとりあえず別の事で驚け」
「別の事って?」

 祐一はビシっと、少々事態に驚いていた羽織袴の青年を指差す。

「あ、久瀬先輩、こんにちはー」
「ああ、どうもお邪魔してます」

 朗らかに挨拶する名雪に、久瀬が思わず素で頭を下げる。

「って、それだけかい!」

 ウキーッ、と猿のように頭を掻き毟る祐一に、久瀬がやや気後れしたように声をかける。

「あー、相沢君。あまり女性をポカポカ殴るのは…」
「祐一が名雪を殴るのはいつものことよ」
「そ、そうなのか?」

 素っ気無く言う真琴に久瀬が気圧されたように答えた。
 そこにリビングに戻ってきたあゆが追撃をかける。

「うぐぅ、ボクも良く殴られるよ」
「あたしだってしょっちゅうなんだから」

 それを聞いていた久瀬の眼差しが段々と冷たくなる。

「相沢君、君というヤツは…そこまで外道だったとは」
「あ、僕知ってますよ。こういうのってドメスティックバイオレンスって言うんでしたよね」
「その通りだ。小太郎君、まだ高校生でもないのになかなか博識だな、君は」
「あはは、ちゃんと新聞読んでますんで」
「へー、なかなか偉いじゃない。祐一なんていつもテレビ欄とスポーツ欄しか見てないんだから」

「ちょっと待てぇッ!!」

 いつの間にか怒涛の勢いでダメ人間に確定されそうになった祐一が悲鳴じみた声を張り上げる。

「なんだ、うるさいな君は。ちょっとは静かにしたまえ」
「他人の家で偉そうにするなーッ」
「何を言うか。僕は客だぞ。客が偉そうにして何が悪い。尤も、君以外に偉そうにするような厚顔無恥ではないがな。ほれ、茶でも酌みたまえ」
「うがぁぁぁ!」

 実にいやらしい笑みを浮かべながら、湯飲みを差し出してくる久瀬に、祐一の頭の線がプチンと切れた。

「誰が客だぁ! 俺はお前なんぞ呼んだ覚えは無いんだコラーッ!!」
「祐一、落ち着く。どうどう」

 ウキーッ、とこれまた猿のように久瀬へと飛びかかろうとした祐一は、突然背後から羽交い絞めにされバタバタと暴れる。

「舞ぃ、離せー! ぶっとばーす!」
「祐一、殿中でござる」
「どこが殿中だぁ!」
「あははー、舞、忠臣蔵でも見たの?」
「昨日テレビでやってた」
「珍しいねー、討ち入りの日でも無いのに」
「面白かった。でも赤穂の殿様は下手くそ。私なら一撃」

 それは一撃で殺れるという事なのだろうか、と久瀬は改めて川澄舞という少女に言い知れぬ戦慄を覚えた。

「舞、はーなーせーッ!」
「祐一、うるさい」

 ゴツンと舞は暴れる祐一を羽交い絞めしたまま、後頭部に頭突きを喰らわせる。

「ごわっ!?」
「うぐぅ、痛そう」
「うにゅ、良い音がしたね」

 一瞬にして静かになった祐一に対して自分の事のように顔を顰めるあゆとにこやかにコメントを残す名雪。

「な、名雪先輩、恋人に対するコメントがそれですか」

 冷汗とともに思わず訊ねる小太郎に、名雪はフッと鼻で笑う。

「猫さんの恨みは恐ろしいんだお」

 どうやら恋人の序列は、彼女の内では随分と下の方にあるらしい。合掌。

「あらあら、そんなに騒いでどうしたの?」

 そこに現れたのは秋子さん。カステラの乗ったお盆を手に、キョトンとリビングを見渡す。

「秋子さん、お邪魔してます」
「こんにちは」

 ドアの手前で並んでいる佐祐理と舞に目を止め、秋子さんは眩しそうに微笑んだ。
 
「いらっしゃい、お二人とも。とても似合っていますよ」
「…ありがとう」
「あははー」

 憧れともいえる女性に褒められ、二人は恥ずかしそうに頬を染めた。
 そこで羽交い絞めしていた舞の手が緩み、ズルズルと祐一の身体が崩れ落ちる。
 ゴン、と鈍い音が鳴り響き、床にぶつかった祐一の頭がバウンドした。

「「あ…」」

 それを見て、誰とも無く声が漏れる。
 と、それで気絶から目が覚めたのかガバリと祐一が身を起こした。
 その余りに唐突な動きにみんながビクリと身を震わせる。
 少々ビビリながらみんなが注視するなかで、祐一の首がグルリと回り秋子さんの姿を見つけるや、絶叫した。

「秋子さん、なんでこいつが此処にいるんですかぁ!」

 指差す先には再び久瀬俊平。流石に何度も指差され、久瀬はちょっと不愉快そうに眉を顰める。

「祐一さんを訪ねてらっしゃったんですよ。何が大事な話があるとかで。何か問題でもありました?」

 そう云ってニコリと微笑む秋子さん。
 その微笑みは、誰の目にも「問題ありました?」ではなく「文句あります?」と言っているように見えた。

 あうあう、と口をパクパクさせる祐一を他所に、秋子はカステラをテーブルの上に並べる。

「はい、どうぞ。お口に合うか分かりませんけど」
「いえ、ありがたくいただきます」
「わーい」
「いただきます」

 皿を受け取る久瀬たちに配り終わり、秋子さんは立っている面々にも声をかけた。

「みなさんの分もありますから、座って待っててくださいね」
「わたしも手伝うよー」
「あ、ボクも」

 名雪とあゆがキッチンへと踵を返す秋子さんに付いていく。
 佐祐理と舞は顔を見合わせると、秋子の言葉に従って空いていた久瀬の隣に腰掛けた。

「祐一、座らないの?」
「なに馬鹿みたいに突っ立ってんのよ」

 舞と真琴の声に、いつの間にか置いてけぼりにされて硬直していた祐一が正気づいた。

「ま、舞に佐祐理さん! 何平然と座ってるんだよ。こいつは舞を退学にしようとして、挙句にそれを利用して佐祐理さんにちょっかい出してきたヤツだぞ!」
「――ッ!? んぅぅぅ!?」
「わっ!? こ、小太郎!?」

 いきなりの真に迫った祐一の怒声に、驚いて大口を開けてかぶりついていたカステラを喉に詰まらせる小太郎に、慌ててお茶を飲ませようとして間違えて鼻に注ぎ込んでしまいさらに状況を悪化させる真琴。
 そんな二人を他所に置いて、久瀬は怒りに満ちた祐一の視線を冷静なままに見つめ返した。
 火花が散るような睨みあい。
 だが、それは舞の一言で解放された。

「祐一、それはもう良いの」
「良いだと!? 何言ってやがるんだ! こいつはお前と佐祐理さんの間を裂こうとしたんだぞ、それを――」
「祐一ッ!」

 パンッ、と水を打つような舞の一声に祐一は言葉を詰まらせた。
 眼差しから怒気が流れ落ちるように抜け、戸惑いを滲ませた視線を舞に向ける。
 舞は祐一の視線を受けて、少しだけ張り詰めていた表情から緊張を解いた。そして穏やかに首を振る。

「祐一、怒ってくれてありがとう。でも、もう良いの」
「なんで…だよ」
「久瀬は、ちゃんと謝ってくれたから」
「…へ?」

 今彼女が言った言葉が理解できず、ポカンと口を空ける祐一。
 そんな彼に舞は折り重ねるように静かに繰り返した。

「ちゃんと、本心から謝ってくれたから。だから…」

 舞は言葉を止めて、息を吸うとはっきりと祐一に告げた。

「だから私は久瀬を許した」

 呆然と、祐一は佐祐理に視線を向ける。佐祐理は穏やかに微笑みながら頷いて見せた。
 祐一は、虚脱したように膝を折り、床に座り込む。そしてしばらくぼうっとしたまま動かず、やがてポツリと苦笑とも自嘲ともつかない弱い声で呟いた。

「なんだよ、それじゃあもう、俺はコイツに何も怒る理由無いじゃないか。当の本人が納得してるのに、俺が怒ってちゃ馬鹿みたいじゃないか」

 床を覗き込むように俯いてバリバリと髪の毛を掻き毟る祐一に、舞は何故か息が苦しくなり、思わず言った。

「祐一、ごめん」
「は? 何謝ってんだ?」
「……分からない」

 困ったように言う舞に祐一は今度こそ明確な苦笑を浮かべながら立ち上がり、呼吸困難で真っ青な顔をしている小太郎の横にドッカと座ると、ビシッと黙したままの久瀬を指差して声を張り上げた。

「久瀬!」
「なんだ」

 不遜そのままに問い返してくる久瀬に祐一は顔を歪めると、高らかに言い放った。

「舞と佐祐理さんが許したって言ってるのに俺がこれ以上何も言える訳無いけど…でもなっ! でも、やっぱり俺はお前が嫌いだ、久瀬!」

 ポカンと目を丸くする舞と佐祐理と他所に、久瀬はさも可笑しげに押し殺した笑い声を漏らした。

「クククッ、そうか、僕が嫌いか」
「ああ、偉そうだし気障だし、なんか嫌いだ。理由があろうがなかろうがお前は虫が好かないんだよ」
「ククッ、奇遇だな。僕も傍若無人で、突拍子も無い君が大嫌いだ」
「ふん、そうかよ。そいつはありがたいな」

「こ、小太郎ッ、死ぬなぁ!」
「ムググググ!?」


「く、久瀬さん、ちょっと!?」

 内心では、ここで友情が芽生えるとばかり思っていた佐祐理は、慌てて傍らの久瀬の裾を引っ張る。
 だが、久瀬はそれを無視して、まるで挑発するように嫌味たらしい笑みで祐一を見下す。
 祐一の笑みの様に引き攣った口端からギリリと歯軋りの音が響いてくる。
 だが、祐一はそれ以上怒鳴る事無く、感情を押し殺した声で問いかけてきた。
 
「…それで、俺に話って何だよ。どうやら…」

 言いながら半眼で佐祐理と舞をジロリと一瞥する。

「佐祐理さんたちもご承知みたいだけどさ」
「ほう、何故そう思う」
「ボケてる名雪なら兎も角、お前が此処に居たことを二人とも全然驚かなかったじゃないか。なら、示し合わせてきたと考える方が自然だろ」
「意外と鋭いな」
「ケッ、てめえに褒められても嬉しくないやい」

「わっわっ、泡!? 泡吹いてるぅ!!」
「ク…ク…グププププ!?」


「だぁぁー! さっきから横でうるさいぞお前等」

 怒鳴って脇から蹴り飛ばす。

「グホーーーッ…ゴク!?」
「ウキャァァ」

 縺れ合ってソファーから転がり落ちる小太郎と真琴。

「ちょ、ちょっと何するのよ祐一ぃ! この馬鹿ぁ!」
「…?? あ、飲み込めた」
「あう?」

 どうやら無事事態が終結したらしい真琴たちから視線を戻し、祐一は不貞腐れたように久瀬を睨みつけた。

「じゃあ、そろそろ言ってもらおうか。わざわざ人の家まで押しかけてまでする話ってなんだよ」

 久瀬は不敵な笑みをひらめかせると、バンと机に右手を打ちつけ、身を乗り出す。
 そして、腕組みする祐一を覗き込むようにして彼は言った。

「相沢君、君は生徒会長というものをやってみる気はないかね?」





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