「いや、すまんね。早とちりだったとは…いやはや」

いやはやじゃねえだろ、という冷たい視線が幾つも突き刺さるも、ものともせず倉田恵三は朗らかに笑った。
その足元では所々服に指先ほどの穴を空けながら、ぐったりと北川潤がへたばっていた。


「お母さん、来てくれてたの?」

一方、此方では川澄舞が驚いたように声音を吊り上げていた。

「今日はちゃんと行くって言ったでしょ」
「…うん」

苦笑じみた笑みを娘に向けながらも、川澄佐奈子は途惑った様子の彼女に無理もないかと嘆息した。
小中高校の入学・卒業式に体育祭、文化祭、学芸会。果ては授業参観に至るまで、行くと言いつつ結局仕事の都合で行けなかった行事は枚挙に暇が無い。
だからこそ…せめてこの卒業式ぐらいには顔を出したかったのだ。

「まあ、折角の娘の晴れ舞台だからね」
「ありがとう」
「馬鹿ね。親が来るのは当たり前でしょ。その当たり前の事も出来なかった私が言えた話じゃないけどね」

舞は無言で母の服の裾を握ると、俯きながら首を振った。
言葉にならない彼女の思いを受け止めながら、佐奈子は自分より大きくなってしまった娘の頭に手を置いた。



「ところでお父様。良かったんですか? 今日も予定が詰まってらっしゃったでしょうに」
「それはそうなんだが…無理を言って少しだけ空けてもらったんだ。これから出ないといけないんだがな」
「そうですか」

続いた会話はそれだけ。しばらく二人は沈黙のままに互いを見つめた。
だが、それは居心地の悪い沈黙ではなく。

「佐祐理、卒業おめでとう」
「…はい、ありがとうございます、お父様」



「…なんとも、曰くありげな親子だな」

ぼんやりと、引っくり返りながら倉田父子の様子を見ていた北川がポツリと呟いた。
自分を追いまわしていた時はあれほど溺愛しているように見えた娘。だが当の本人と向き合うと、まるで腫れ物に触るような態度。
まあ、見た感じではそれほど悪い関係にも見えないのだが。
だが、互いの間に流れる空気が普通の親子のものではないのは確かだった。
北川潤は、親子・家族の関係とはもっと空気のように自然なものだと思っている。いや、思い込んでいるのか。
その彼から見て、あの二人は家族というには互いを意識しすぎているように見えた。

「そうかもね。でも詮索することじゃないでしょう」
「そりゃそうだ」

言いながら、北川は香里を見上げた。
思い出してみれば彼女もそうだろう。妹である栞に対して常に意識を向けている。まあ、それがいけないとは思ってないし、一概に悪いというべきではないとも考えていたが。

「美坂」
「なによ」

と北川を見下ろして、香里はハッと気が付いた。
ザッツ・ローアングル。

「白のレースはドキドキだぞ」

ハァハァと卑猥な呼気を漏らす少年の顔面に、容赦なく靴底がめり込んだ。




「はぁ、何か美味しいものでも作ってあげられたら良かったんだけど。ごめんね、舞」
「ううん、来てくれたのが、嬉しかったから」

ブンブンと首を振る舞に、佐奈子は再び苦笑を浮かべた。我が娘ながらむしゃぶりつきたくなる可愛さだ。
佐奈子は内に生じた衝動を押さえ込むと、祐一と名雪に向き直った。

「じゃあ、今日もウチの娘をよろしくお願いします」

祐一と名雪は顔を見合わせ、そんな事はないとハタハタと手を振った。
川澄佐奈子はこれから仕事場に向かわなければならない。無理を言って、仕事を抜け出してきた分を取り戻さなくてはならないのだ。
今日は帰れないわ、と佐奈子は残念そうに言った。
加えて、倉田家の方でも状況は同様のようで、川澄舞と倉田佐祐理は今日は水瀬家ご逗留と相成った。
自宅の方では秋子さんが張り切っている。今宵は佐祐理と舞の卒業記念パーティーという訳だ。
賑やかな事が好きな秋子さんとしては、張り切るのも当然だろう。

「さて、そろそろ行きましょうか川澄さん。ウチの車が来てるので、よろしければ送らせていただきますよ」
「あら、そうですか? なら、お言葉に甘えて」

佐奈子は舞に向かって手を振った。

「じゃあね、舞。楽しんでらっしゃい」
「…ん、いってらっしゃい」

ニコリと華やかな笑顔を残し、佐奈子は倉田恵三と和やかに談笑しながら、正門を出て行った。

「…はぇー、お父様と佐奈子おば様、随分と仲良くなっちゃってるね」
「そう?」

パチパチと目を瞬いている佐祐理に、舞は不思議そうに首を傾げた。
舞の知る限り、母は誰に対してもあんな態度だったような気がする。尤も、そう言いきれるほど母とともに居るわけではないのだが。


「さて、そろそろ行くか?」

切り良く、祐一が皆を見渡して声をかける。
特にもう此処でするべき事も無くなっていた舞と佐祐理は同意の声をあげた。

「あ、俺は一度帰ってから行くわ。服も替えたいしな」

北川がボロボロになった服の端を持ち上げながら苦笑を浮かべた。
佐祐理が思い出したように、父親の所業に対してペコペコと頭を下げるのを慌てたように恐縮している。

「あたしも着替えに戻るわ。栞も連れてこないといけないしね」

そう言って肩を竦める美坂香里。

「はぁー、佐祐理たちも着替えた方がいいですかね?」
「「ダメ!!」」

両手を左右に開きながら、自分の服装を覗き込むように呟いた佐祐理の一言に、祐一と北川が鐘を打つように反対した。

「祐一ぃ」

何故か半眼となって睨んでくる名雪に、祐一は焦ったように反論する。

「だ、だって、勿体無いだろう。折角の美女二人の大正ロマン姿だぞ!?」
「ゆ・う・い・ちー」
「あ、秋子さんだって舞たちのこの姿みたいと思ってるはずだぞ」
「うー」

秋子さんの名前を出され、名雪は渋々といった感じで引き下がった。

「ほら、行きましょう」
「ういーっす」

じゃあまたあとで、と言いながら香里が北川を急きたてながら姿を消す。

「じゃあ、俺らも帰るとしますか」
「はい」
「うん」
「……」

そろそろ学校から出て行く人影も増え行く中で、ブラブラ歩く彼ら四人も正門へと差し掛かる。
ふと、川澄舞は後ろを振り返った。
無言で佇む白い校舎が、そこに立っていた。
十年、自分の心が捕らわれ、ずっと居座っていた場所。
舞はそっと眼を伏せる。

「さようなら、そしてありがとう」

川澄舞は、自らの檻であり、拠り所であり、佐祐理たちと出会えた思い出の場所である学校に、静かに別れを告げた。






彼女がこの学校の閉ざされた夜に再び踏み入る事になるのは、この日より数ヶ月のちの話である。






「ただいまー」

名雪が一番に声を張り上げながら、水瀬家の玄関を開ける。

「ただいま」
「失礼しまーす」
「…お邪魔します」

それぞれに帰宅や来宅の挨拶を飛ばしながら、玄関のドアをくぐる。
その声を聞きとめたのだろう。
リビングの方からパタパタとスリッパの音を響かせて、一人の少女が駆け寄ってきた。

「おかえりー、ってわぁ」

そしてお約束どおりつんのめってこける。
お約束にはお約束で答えなければと、祐一は心で滂沱の涙を流しつつ、ひょいっと飛んで来る物体を避けた。

「うぐぅぅ!」

そのままちょうど閉じられようとしていたドアに激突しそうになる少女であったが、舞がフワリと軌道を遮り彼女を受け止める。

「うぐぅ、ありがとう、舞さん」

半ば涙目となりながら、お礼をいう突貫少女―月宮あゆ。
舞は大した事無いとばかりに首を振ると、ギロリと祐一を睨みつけた。
祐一は肩を竦めると、言った。

「あそこでしっかり受け止めていたら相沢祐一の名が廃るだろう」
「…なるほど」
「うぐぅ、舞さん納得しないでよー」
「うーん、でも祐一の言う事も尤もだよ」
「名雪さんまでー!?」

この三月にようやく病院より退院し、水瀬家の居候として定着してきた月宮あゆであったが、周りがこういう人達なので色々と苦労は耐えないのであった。
水瀬家序列でも、何気に真琴よりも低くて最下位っぽい。別に居候だからという訳でなく、性格的に押しが弱い所為なのだが。
退院してから祐一や真琴に振り回される毎日。大変なのか幸せなのか、一概に結論を下せない日々である。

「あ、そうだ。祐一君、さっきからお客さんが来てるんだよ」
「あん? 誰だ?」
「えーっとね、祐一君の学校の人みたいだよ」
「はぁ?」

祐一は思わず名雪を振り返った。名雪は祐一と同じように不思議そうな顔をして首を振る。心当たりは無いらしい。

「誰だよ?」

とりあえず、靴を脱いで祐一はリビングへと向かった。
祐一について行きかけた名雪だったが、ふと傍らに怪しげな気配を感じ、立ち止まって振り返る。
そして、言った。

「倉田先輩、何ニヤニヤ笑ってるんですか?」
「あははー、ちょっと一騒動起こる予感にドキドキしてるんですよー」
「…ドキドキ」

余りに白々しい舞の合いの手に、名雪は「はぁ」と気の抜けた声で答えた。


祐一がリビングのドアノブに手をかけた時、ちょうど中から楽しげな声が聞こえてきた。
真琴の声だ。加えて、天野小太郎の声も聞こえてくる。

「なんだ? お客って小太郎の事か?」

祐一は首を傾げた。それはおかしい。小太郎はよくこの家に遊びに来るから、あゆとも既に知人同士だし、まだ彼は高校生ではない。
じゃあ誰だ? と思いつつ、祐一はドアを開けた。

「あ、祐一、おかえりー」
「相沢先輩、お邪魔してまーす」

ニコニコと笑顔の真琴と小太郎が祐一を出迎える。
おう、と適当に返事しながら祐一はリビングを見渡し…硬直した。

「やあ、相沢君、随分と遅かったな」

真琴たちの正面に座っていた羽織袴の青年が、啜っていた湯呑みから顔を上げ、眼鏡越しに捻くれ曲がった性格そのままの視線を祐一に投げかけた。
この場所に居るはずの無い人間の登場に、祐一は錯乱しながら声を裏返す。

「く、くく久瀬ぇ!? なんでお前が此処にいるんだぁ!?」

口をパクパクさせながら祐一が指差す先で、久瀬俊平は蛇の様にニヤリと笑った。






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