「ういーっ、終わったぁ。ずっと座りっぱなしだったから肩が凝ったぜ」
「うん、ちょっと疲れちゃったよ」
「お前は寝てただけじゃないか」
「相沢君もね」

肩を回しながら言う北川のボヤキに欠伸を漏らしながら同意する名雪につっこみを入れる祐一と、さらにつっこみを入れ返す美坂香里。
教室での簡単なホームルームを終え、校舎の外に出てみれば、そこには春らしい麗らかな陽気が横たわっていた。
祐一は思わず両手を掲げて背筋を伸ばす。

「うーん」

そこはかとなく全身を駆け巡る爽快感と解放感。
眼を開けると、飛び込んで来る緑。
自分が越してきた頃には茶色の枝だけが張り巡らされていた木々に、いつの間にか緑色の芽が息吹き始めていた。
ここは北国。冬が立ち去る時期は遅く、春の訪れは遠い。
だが、確実に春風は吹き始めているのだ。新たなる季節を告げる風が。

祐一達はお目当ての二人を探して、校内に溢れている人影の間を縫い歩いた。
至る所で袴姿の卒業生が輪をなして高校生として最後の談笑を紡いでいる。所々では、部活の後輩らしい集団も混ざり、和やかな気配が辺りを包み込んでいた。




しばし、親しかったクラスメイトとの会話を楽しんでいた倉田佐祐理は、いつの間にか隣にいた親友の姿が視界からいなくなっている事に気が付いた。
会話を続けながら視線を動かして、そのスラリとした細身の少女の姿を探すと、少し離れたところで彼女は校舎を見上げていた。
佐祐理は名残惜しげなクラスメイトに手を振って別れを告げると、卒業証書が入った筒を持った両手を後ろに組んで川澄舞に歩き寄ると、その隣に身を寄せた。
そして、彼女が見上げる方を仰ぎ見る。
自分が通っていた学校の校舎。教室はあそこだっただろうか。もう少し西の方だったはずだが…。
佐祐理はチラリと舞の横顔を窺った。端から見れば無感情にすら見える硬質の面差し。だが、それは単に感情の表し方が小さいだけで、実際は感情豊かな川澄舞。今、その双眸には佐祐理には分からない、何か意味深げな感慨が揺れていた。
きっと、彼女にはこの学校に感慨を抱くべき何かがあるのだろう。自分には何らの価値も見出せない、無機質で冷たい校舎。そこに彼女は深く想いを抱く何かを携えているのだろう。
それは、羨ましいことなのだろうか。佐祐理には良く分からない。

――学校を卒業する。

それは一つの生きる形の変化。これまで繰り返されていた日々――その庇護からの旅立ち。
卒業という行事に涙を流す生徒もいる。佐祐理はその想いに対して理解は出来ても実感は出来ない。それは此処が自分に高校生という立場を与えてくれていた、ただそれだけの場所だから。
それ以上の意味が無い場所だから。

でも……

佐祐理は舞と同じように校舎を見上げながら、そんな自分の考えを思い直した。
この場所は自分と舞を引き合わせてくれた場所。そして自分の壊れた心すら和ませてくれる素晴らしい友人たちと巡り合わせてくれた場所。
だから、此処は…自分という抜け殻が通り過ぎた…ただそれだけの場所ではないのだと。
…思い直した。

ここは、自分にとって掛け替えの無い想い出の場所なのかもしれない。
そう思うと、少しだけ心が揺れた。

だから―――

「ありがとう」

旅立つ巣に、一言だけ感謝を告げた。

ささやきを聞きとめ、舞が不思議そうに此方を見てくる。
佐祐理は自然な笑みを浮かべながら、首を振った。

「……?」

目を瞬く親友に、佐祐理は楽しそうに笑い声を漏らし、何も告げる事無く、その手を握った。
舞はそれで納得したように視線を校舎に戻す。
佐祐理も無言で、舞と手を繋ぎながら校舎を見上げた。
何故か、今度は白い校舎の佇まいに冷たさを感じず、穏やかな抱擁感を抱く。凄く、不思議な気分だった。

「まーい、佐祐理さーん」

聞き慣れた一人の少年の声が聞こえる。
二人がふり返ると、そこには右手をあげている相沢祐一と、パタパタと手を振っている水瀬名雪の姿が。
そして、ペコリと頭を下げる美坂香里とその横でヘラヘラ笑っている北川潤。
佐祐理の頬が自然と綻ぶ。
いつしか、大切な存在を呼ぶことの出来る存在になっていた年下の友人たち。舞に負けないくらい、出逢えて良かったと思える人たち。
こんな私が、心の底から大好きだと言える人たち。
佐祐理は少し照れてる舞を引っ張るように繋いだ手を振り上げ、ブンブンと振り回した。







「卒業おめでとうございます佐祐理せんぱーい。その美麗なる御袴姿この北川目が蕩けそうでやんす。とりあえず、結婚してくだ―――」
「何をトチ狂ってるかぁ!」

脳味噌が解けたような表情でハタハタと両手を振り上げながら駆け寄ろうとした北川だったが、横合いから伸びた蹴りに足を掬い上げられ、顔面から崩れ落ちたところを下から昇竜の如く打ち上げられた鉄拳に打ち抜かれ、見事な螺旋を描きつつ吹き飛んだ。

「たーまやー」

とりあえず言ってみる祐一。

「今日も良く飛ぶねー」

長閑に目を細めながらウンウンと頷く名雪。

「はぇー」と驚いたように筒を持ったまま両手を合わせる佐祐理に、何故か感服したように拍手している舞。

「御見苦しいところをお見せしました」

香里は何事もなかったかのように金属の煌めき光る右の拳を後ろ手に隠し、恐縮したように頭を下げる。
その背後でドカンという音と土煙が舞い上がった。
どうやらやっと地面に落ちたらしい。

いったい何が降って来たのかとクレーターの周囲に人が集まっているが、それはこの際どうでも良いこと。

「いいんですか? 北川さん」
「三分もすれば復活しますから、ほっときましょう」
「はぇー、インスタントですね」

淡々と言ってのける香里に、佐祐理は驚く論点を間違えながらほんわかとした表情を浮かべた。

「ま、何はともあれ卒業おめでとう、お二人さん」

祐一に続くように、名雪と香里も先輩二人におめでとうの言葉を添える。

「はい、ありがとうございます」
「ありがとう」

名雪と香里は、ホッと少しばかり驚いたように目を見開いた。
彼女たちが見たものは、華やかな笑顔を浮かべる佐祐理の隣で、仄かにはにかむ川澄舞。
こうして、確かな形で彼女の笑みを見ることは二人にとっては初めてで。
そのあまりに柔らかな面差しに名雪と香里は思わず頬を赤らめてしまった。

「何赤くなってるんだ、二人とも?」
「え? う、ううん、何でもないよ、あはははは」

焦ったように怪しい笑い声を立てる名雪に、佐祐理がニコニコとした笑顔をまったく崩さずにピシリと指差し言い放った。

「さては、惚れましたね!」
「あは―――」

カチリと大口を開けたまま凍りつく名雪。

「ダメですよー。舞は佐祐理のものですから、例え名雪さんでも譲ってあげません」
「さ、佐祐理」

真っ赤になりながら手に持った筒でポカポカと殴る舞に、あははーと叩かれている佐祐理さん。
一方、凍りついている名雪に祐一が悲劇さながらの悲痛な調子で捲くし立てる。

「なゆきー、さっそく浮気なのか? しかも舞なのか? もしかしてそういう趣味だったのか? 最初の相手は香里なのか? 実は俺の方が間男で本命は香里なのか? そうか、両刀だったのか」
「ち、違うよ、祐一!」
「ちょっと相沢君、どさくさに紛れて何言った挙句になに勝手に完結してるのよ!」

別の意味で真っ赤になって声を張り上げる二人に向かって、祐一はフッと寂しげな笑みを漏らした。

「愛は国境も大気圏も性別も種族をも越えるものさ。いいんだ、俺は真実の愛を妨げるほど野暮な男じゃない。間男はただ去るのみ。アイ・シャル・リターンとは言わないぜ、あでゅ〜」
「ならば去れッ!
「ゴホラッーー」

グワッシ、と香里の拳が唸りをあげ、新たなるスパイラルが仰げば尊しの空に描かれる。

「とうとう祐一まで飛ぶようになっちゃったね」
「世も末ね。馬鹿が伝染するのかしら」
「あははー、単に香里さんが見境い無くなってきたからじゃないでしょうか?」
「そういえば前より手が早くなったね」

佐祐理と名雪の容赦の無い指摘に、ガーンとショックを受けてる香里に横で、スパイラルに目を奪われていた舞がポツリと呟いた。

「かぎやー」








「最近、俺の扱いが微妙に悪いのは気のせいだろうか北川君」
「自業自得とは考えないのかね、相沢君」
「ほう、君の口から自業自得という言葉が出ようとは驚いたよ」
「自覚はしているのさ。だがそれと同時に理不尽さも覚えている」
「やはり…君も昨今の美坂香里が、ツッコミを口ではなく拳で入れていることに気が付いたか」
「うむ、論破ではなく撃破を選ぶ所に最近の彼女の軽薄さ、安易さが滲み出ている。だが、その理不尽もまた得がたい友情の証とは考えられんかね、相沢君」
「そうかもしれない。だが、俺はその苦行に耐えれるかどうか自信が無い。無論、自分らしさを捨て去るという自己否定を行なうつもりは毛頭ないが」
「ならば只管耐えるしかない。古人は言った。習うより慣れろと」
「その挙句に得られるもの、身に付けられるものはいったいなんだと云うのだ? 北川潤」
「マゾヒスティックな喜び、ギャグキャラという体質、そして本当の友情、真実の愛だ!」
「愛は世界を救うと言ったのはいったいどの偉人だったのだろう。だがその言葉を信じるならこれはこの乱れきった世界を救うための尊厳ある苦行だと言うのだな?」
「然り! ならばこそ、甘んじて受け入れるのだ、相沢よ! これこそがラブ&ピース」
「おお、ラブ&ピース」

「「ラブ&ピース!!」」

月面にも似たクレーターの底でボロボロになりながら笑顔で愛と平和を唱和する二人の姿に、何事かと覗き込んでいた野次馬に恐れと不気味さと幾分かの感動が走った。
その彼らに降り注ぐ涼やかな声音。

「注釈を入れさせてもらうと、確か愛は世界を救うとかほざいてたのって24時間テレビじゃなかったかしら」
「なるほど、そうだったのか。ちなみにこの相沢祐一、募金なぞ一度たりともした事がないぞ」
「おお、俺も知らなかった。教えてくれてありがとう、お姉さん」
「いえいえ、どういたしまして。ところで毎日そんな事してるの? 相沢君とそのお友達」

律儀に一部始終を撮影していた川澄母こと川澄佐奈子は、未だクレーターの底で転がっている祐一と北川に興味深げに問いかけた。

「いえ、俺は普段は真面目な好青年なので、こんなアホなイベントは月一程度です」
「俺は……週一程度?」

なぜ、自信無さげに言うのだ、北川潤?


「って、あれ? 舞のお母さんじゃないですか?」
「そうよ、お久しぶりね、相沢君」

起き上がりながら目を丸くする祐一に、佐奈子はニコニコと笑いながらパタパタと手を振った。

「舞って、川澄先輩のか!?」
「おお、そうだぞ」
「マヂ!? メチャメチャ若いじゃないっすか」
「これでも四〇よ。でもありがとうね、さっきもお姉さんって言ってくれたし」

驚く北川にうふふと大人の笑みを向ける佐奈子。

「あ、秋子さんといい、この人といい、いったいどうなってんだ?」
「流行だからな」
「流行なのか!? って、それでいいのか!?」

なにやらショックを受けている北川を放って、佐奈子は埃を払いながらクレーターから出てくる祐一に訊ねる。

「それで相沢君、ウチの舞はどこにいるか知らない?」
「ああ、それなら俺らが飛んできた方に」

そう、と呟いて祐一の指差す方に顔を向けた佐奈子はふと思いついたように祐一の顔を覗き込む。

「もしかして、これやったの舞かしら?」
「いや、違いますよ。舞ならこう脳天をカチ割るようにズバっと」
「それもそうね」

娘に対する言われようとしてはあんまりな気もする祐一の言に特に反発する事無く納得する川澄ハハ。何気にアバウトである。
一方、未だクレーターの底に座り込んだまま難しい顔をしてブツブツと呟いている北川潤。

「良く分からんが、昨今の母親とはああも若いのが普通なんだろうか。そうだとしてそれは果たして俺的にうっはうは?」

常人には及びもつかぬ事で悩んでいる北川の肩を、唐突に叩く手が。
何事かとふり返る北川の目に、ニッコリと微笑んだ中年の紳士の姿が映る。

「君かね? 佐祐理と付き合ってるのは?」

はぁ? と疑問符を浮かべる北川。

「いえ、違いますよ。俺にはちゃんと付き合ってる女の子が別にいますんで。ああ、でもさっき結婚してくれとか言っちゃった覚えも…あははは。ところであんただれ?」

紳士は北川の問いに答える事無く、笑顔のままで呟いた。

「ほう、ならば貴様はウチの佐祐理に二股を仕掛けているという訳だな?」
「あー、もしかして佐祐理先輩のお父さん?」
「貴様なぞにお父さん呼ばわりされる謂れは無いわぁっ!」

横っ面を叩くような怒声に思わず仰け反った北川は、次に起こった目の前の情景に顔を引き攣らせた。

「ふ、ふふふふ。社会的な抹殺なぞ悠長な事をしている暇はなさそうだ。佐祐理に集る害虫はこの私が直接物理的に抹殺してやろう」
「あのー、その両脇のホルスターからスルリと抜き出した黒い物体の名称を教えていただけるとありがたいのですが」
「ベレッタM92FSだ」
「いや、名前じゃなくって」
「9mm口径自動拳銃フルメタルジャケット弾装填済みだ。ちなみに映画は見るかね?」
「はあ、一応」
「ならば覚えておくといい。アクション映画では良く使われているようだからな。私のこれも映画の影響だったりする。尤も、もう一度映画を見られるかは保証できないがね」
「じ、銃刀法違反では?」
「知らないのかね?」

倉田恵三は両手に握ったベレッタの銃口を北川の眉間に向けながらニヤリと笑った。

「この街では何故か銃刀法違反は問われないらしいのだよ」
「嘘だぁぁ!!」

色々な意味で微妙な倉田先生の発言に、北川潤の悲鳴が高らかに鳴り響いた。

「なんで俺がぁぁ!」
「黙れ、二股小僧がッ!」
「ちがーうッ!!」

銃声と悲鳴と怒号が大地に轟く、それは和やかな卒業の日の午後であった。





back  next

第二章目次へ
inserted by FC2 system