「はぁ〜」

唖然、感嘆、呆然――そんな類の吐息を聞きとめ、香里は入場してくる三年生たちから視線を剥がし、横目で声の主を見やった。
斜め前の席で馬鹿のように口と目を見開いている祐一の姿が目に飛び込んでくる。

「なに間抜けた顔をしてるのよ、相沢君」
「いや、舞踏会だのなんだのって、訳のわからん学校だとは思ってたけど、卒業式までとはなあと思ってな」
「何か変かしら」
「変かしらって」

祐一は平然と言葉を返す香里に少なからずショックを受けたように口篭もると、目線でそれを示した。

「少なくとも、卒業式でこんな格好する学校は珍しいと思うぞ」

まあ、無理も無いかと香里は首肯した。
卒業式に挑む彼ら三年生の着こなす衣裳は普段の制服ではなく、女性はどこか大正の香り漂う紫紺の袴姿。男子生徒は大仰な羽織と黒袴だ。
他所から転校してきた相沢祐一が、面食らうのも無理は無いと思う。こんな派手な衣裳を用意するような所はよっぽどの少数派だということぐらいは香里にも分かっていた。

「確かにね。でも、いいじゃない。綺麗でカッコいいし」
「そうだよ、祐一。いいなあ、来年はわたしたちもあれ着るんだね。あんまり卒業したいって思わないけど、あれは着てみたいなあ」

隣で目を輝かせて女生徒の袴姿を目で追っていた名雪が視線を釘付けにしたまま口を挟んでくる。
祐一は思わず、名雪の袴姿を想像――もとい妄想した。


帯を引っ張られ、クルクルと回りながら悲鳴をあげる名雪。

『あれ〜、おやめくださいお代官様ぁ〜』
『ぐへへ、良いではないか良いではないか』

それは着物だ、激しく間違ってるぞ相沢祐一!


……良いかもしれぬ。というか、むしろ見たい。というよりヤりたい(?)

「うむ、俺も来年が楽しみだ」

うへへ、と表情が崩れる祐一に呆れた視線を投げかけた香里はふと祐一の横に座ってる北川に声をかけた。

「北川君ってあんまり羽織り袴似合いそうにないわね」
「な、なんでだ?」

いきなり微妙に酷い事を云われて北川が傷ついたような顔をして振り返る。
香里はひょいと肩を竦めた。

「金髪で着物って何かいかがわしいもの。来年までに染めなさいよね、それ」
「これは地毛だぁ! ついでにこれは茶色だぁ!」

小声で絶叫という器用な事をしながら抗議する北川に、香里はヒラヒラと手を払った。
前を向けという事らしい。自分で話題を振ったくせにあしらい方が何気に酷い。
「あうあう、金髪じゃないのにぃ」と傷心しながらショボンと前を向く北川。

「あ、祐一。倉田先輩と川澄先輩だよ」

名雪が祐一の肩を叩いて、小声で囁いた。

「む、どこだ?」
「ほら、あそこ」

二人の居場所を見つけられない祐一に、名雪は伏せ気味に身体を乗り出しながら指差す。

「お、居た居た」

大体の位置さえ分かれば、後は見つけるのは簡単だった。
周りと比べても一際浮き立つ美女が二人。夜を思わせる艶やかな黒髪の川澄舞と少し色素が抜けたような小麦色の柔らかな髪の毛をサラリと流す倉田佐祐理。
普段の制服姿もさることながら、こうした袴姿となるとまた別の美しさが彼女たちを引き立たせている。

「先輩たち綺麗だねぇ」
「おう、文句の付けようも無いな、こりゃ」

うっとりとした名雪の言葉に、祐一も半ば意識を持っていかれながらぼんやりと応える。
と、その時向こうでも此方の姿を見つけたのか、佐祐理が此方を小さく指差して舞に知らせると、パタパタと胸の前で小さく手を振ってくる。その何のてらいも無い笑顔と可愛い仕草に中てられて、パタパタと思わず手を振り返す祐一・名雪・北川の三名。

「ちょっと、北川君。顔蕩けてるわよ」
「はぁはぁはぁ、結婚してくれぇ、佐祐理先輩ッ」

完全にイっちゃってる北川であった。

「あ・ん・たには栞がいるでしょうがっ」
「グェッ、み、美坂ッ、息が、呼吸が、血液がッ」
「しばらく墜ちて反省してなさい」

背後から見事に首にキメられ、気絶する北川。

「ふっ、やっと大人しくなったわね」
「いや、今日はそれほどうるさくなかったと思うが」

冷汗を垂らしながら言ってみる祐一だったが、

「主観的な見解の相違ね」

という香里の落ち着き払った一言に沈黙する。

「でも、香里って拳だけじゃなかったんだね」

鮮やかに一瞬にしてキメて墜した手腕に感嘆する名雪。

「今の時代、打撃だけじゃ生き残れないわ」

なにから生き残るんだ? とは聞けない祐一以下クラスメイトであった。





―――一方こちらは父兄席。



「にょわぁぁぁ、舞ってば可愛いぃッ」
「にょ、にょわあって、川澄さん。お、落ち着いて」

ハンディカメラを片手に席から身を乗り出している一人の黒髪の女性。傍目から見ればハッと息を飲むようなある種お近づきになるのを躊躇ってしまうような淑女なのだが、空いた左手をペシペシと前のイスの背もたれに興奮気味に叩いている様子はちょっと別の意味で近づき難いものを覚える。
その隣では知り合いらしい男性、見るからに一角の人物という貫禄を醸し出す男性が、その貫禄もどこへやら迷惑気味に振り返る前席の男性にペコペコと頭を下げ、興奮している女性を落ち着けようと四苦八苦している。

言わずとも分かろうが、舞の母・川澄佐奈子と佐祐理の父・倉田恵三のお二方であった。
倉田先生、街有数の権力者形無しの姿である。

「あ、大丈夫ですよ倉田さん。ちゃんと佐祐理ちゃんのベストショットもこのスマイル・ハンター川澄佐奈子が決して逃しませんから、んふふふふ」
「ああ、それはどうも…って、いやありがたいんですが、もうちょっと落ち着いて」
「おお!? 佐祐理ちゃんが誰かに手を振ってますよ、倉田さん。きゃー、佐祐理ちゃんも可愛いィ。いったい誰に手を振ってるんでしょうかねぇ、彼氏さんですかねぇ」
「ぬ、ぬぁんですとぉ!? ど、どこの馬の骨が――」
「おや、二年生で手を振り返してる子発見」

ビデオカメラを除いたまま佐祐理と舞の顔の向きから辿って、手を振る祐一たちを見つける川澄ママ。
後ろからなので誰かは分かっていない。

「ど、どこのどいつですか! ウチの佐祐理にちょっかい出してるのは」
「えーとですね…A組の金髪っぽくてアンテナが立ってる子」

焦ったように顔を引き攣らせる倉田パパ。
いちいち説明するのが面倒だったので、だいたい8割ほど情報を端折って一番目立つ特徴の子だけを云う適当な川澄佐奈子。

「き、金髪!? おのれぇ、不良のくせに佐祐理を誑かすか身の程知らずめが。後で社会的に抹殺してやる、表通りを歩けなくしてやる。倉田の恐ろしさ、思い知らせてやるわッ」
「おほほほほ、やっちゃえやっちゃえー」

どこぞの悪の幹部の如きノリで高笑いする倉田パパに、それを撮影しながら無責任に囃したてる川澄ママ。
粛々とした卒業式会場の中で、彼らの周辺だけが一種、異様な空間と化していた。







斯くして、在校生席で若干の失神者を出したり、父兄席で一部騒乱があった事を除けば、卒業式は滞りなく進行した。








式もやがて終盤へと差し掛かり、在る意味当事者とは云いがたい在校生たちの間には、軽い疲労感と退屈感が圧し掛かり始めていた。
既に名雪など熟睡モードに入り、香里の肩に寄りかかるように眠りこけている。
卒業式のプログラムの方は、そろそろ送辞と答辞へと掛かろうとしていた。

「そういや、送辞って誰が読むんだ?」

祐一はつい五分ほど前に「あー、良く寝た」と実に爽やかに気絶から回復した北川に問い掛ける。
現在、密かに人生最大の危機に見舞われている事も露知らない北川は、能天気に答えた。

「ああ、確かE組の服部ってヤツだ」
「誰だ、それ?」

元より転校生である祐一は、自分のクラス以外の人間などまったく知らない。じゃあ、何で他の学年の女生徒多数と知り合いなのだというご意見は却下だ。
幸い北川は云われずとも祐一の意図を理解し、簡潔に服部という男子生徒の素性を話す。

「生徒会の副会長だな。毎年、送辞は副会長がやる事になってるんだ。で、答辞の方は……」
「会長がやるって訳か」

祐一はその会長のキザったらしい相貌を思い出し、不愉快そうに鼻を鳴らした。
それを見て北川が苦笑を浮かべながら後ろを振り返り、彼らの会話を聞いていた香里がやれやれとばかりに肩を竦める。
香里に持たれかかっていた名雪の頭がガクンと動き、「うにゅ…」と間の抜けた呟きが零れ落ちた。

「へん、久瀬の話なんざ聞いてられるか。寝るから、連中の話が終わったら起こしてくれよな、北川」
「お前な、なんでわざわざ俺が……って、もう寝てやがるし。はやッ!」
「伊達に名雪の従兄弟じゃないわね」

呆れて呟く香里の横で「うにょぉッ」と名雪が鋭く呟いてビクリと痙攣した。ビビった香里が覗き込むと名雪は「うへへ〜」と実に堕落した笑みを浮かべていた。
いったい何の夢を見ているのだ、水瀬名雪!?
とりあえず何となく腹が立ったので香里は無言でその頭を殴った。
カポンと銭湯を髣髴とさせる幸せな音がした。






「お、あれは俊平君だな」
「あら、お知り合いですか?」

答辞を読むために舞台の中央に進み出る眼鏡の青年の姿を目に留めて呟いた倉田パパに、川澄佐奈子は未だビデオカメラを覗きながら問い掛けた。
ちなみについさっきまでの騒乱は、あんまりうるさいので周りの父兄に叱られたために収まっている。
倉田恵三も「自分は偉いんだから黙れ愚民ども!」とか「私は倉田恵三であるぞ、控えおろう!」などと喚くような問題のある大人ではなかったので、一時のハイテンションから正気を取り戻した川澄佐奈子ともども真っ赤になってペコペコと頭を下げ、今こうして小さくなって静かに娘達の晴れ姿を見守っている次第である。
だから、二人の会話も囁くような小声での代物だった。

「ええ、友人の息子でね。小さい頃には良く会ったものなんですが、姿を見たのは久しぶりだな。ふふ、ヤツに似て無駄に堅物のような見てくれだ」
「うふふ、確かに『君、廊下を走るのは止めたまえ』とか云いそうなタイプですね」

実際その通りであった。的確な人間観察眼を持つ女性である。尤も、久瀬は見た目そのまんまなのも確かだが。
ちなみに、川澄母は娘が退学寸前まで追い詰められた原因がコイツにあるという事は知らなかったりする。
知ってたらこうやって、おほほ、と笑ってなぞいられないだろう。彼女の性格からしてヤっちゃってるかもしれない……って、ヤっちゃうってなにを?
舞の手が早いのは、母親の影響が無きにしもあらず。

佐奈子はカメラのレンズを再び娘の方に向けた。
壇上に勢ぞろいした卒業生たちの中でどこか眠そうにぼんやりと突っ立っている舞。思わず微笑みながら「ほら、シャキっとしなさい」と囁いてしまう。
佐奈子は娘とその親友をフレームに捉えたまま、ポツリと呟くように口を開いた。

「私、こうして娘の学校行事に顔を出すのは初めてなんですよ。仕事、どうしても忙しくって。だからさっきははしゃいじゃってすみません、倉田さん」

しばらく、沈黙が続く。
やっぱり怒ってるかな、と佐奈子はカメラを固定したままレンズから顔を離し、チラリと傍らの男性を窺った。
倉田恵三はどこか穏やかな表情で、壇上を見つめていた。
彼はそのまま視線を動かさないまま、口を開いた。

「川澄さん、恥ずかしながら私も同様です。私もこの卒業式が初めてなんですよ。今までは……顔を出すのが怖かった」

怖かった…その独り言にも似た言葉の意味を、佐奈子は何も聞かなかった。恐らくそれは他人が踏み込むべきではない、父子の事柄であろうから。
そして、今彼がこうしてこの場にいる事は、その事柄が良い方向へと向かい始めているのだろうから。だから、直接会って数日の自分が何かを言うような事は何も無かった。

「川澄さん」
「はい、なんですか?」

倉田恵三は再び撮影に没頭し始めた女性に照れの混じった笑みを浮かべると、

「テープ、やはりダビングしていただけるとありがたいです。せっかくの、記念なので」
「うふふ、勿論喜んで」

二人の親は、和やかに笑みを交わした。

後の話であるが、このテープは色々な意味で彼ら二人の秘蔵の家宝に据えられる。
ちなみに佐祐理と舞、二人の娘はこのテープを見ることを固く禁じられた。
後年、好奇心旺盛な佐祐理の手でこの厳重に封印されたテープは一般公開されるのだが……

ビデオテープに収められた二人の親の狂態の一部始終についての二人の娘のリアクションを、関係者たちは何も語ろうとはしなかった。








そして―――

祐一と名雪が惰眠を貪っている間にも、プログラムは粛々(表向き)と進み――
三年生達が式場から退場する事で、本年度の卒業式は終焉を迎えた。





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