見上げれば天井は遥か上。見渡せばだだ広い空間。
ここはいつしかの夜に舞踏会の開かれた講堂。
だが夜の帳と鮮やかな光源、そして華やかな音楽に包まれた幻想的な舞台は既に無く、開け放たれた窓から差し込む日の光は、講堂の空虚なまでの伽藍洞さを浮かび上がらせていた。

「うー、だるい」

と、唸りながらうずくまる男が一人。
それを見つけて、床をモップがけしていた男子生徒の一人がスタスタと近寄ってくる。

「おーい、サボってんじゃないよ、相沢」

相沢祐一はヨロヨロと顔を上げると覇気の無い声で云った。

「さいとー、俺はサボってるんじゃないぞ。朽ち果ててるんだ」
「何を訳の分からん事を」

こいつが訳の分からんのはいつもの事なので、斉藤は表情一つ変えずモップの柄の先で祐一をつつく。

「燃え尽きた、俺は燃え尽きちまった。へへへ、朝日が眩しいぜ」
「今は昼過ぎだぞ、相沢」
「……へへへ、夕陽が目に染みるぜ」
「夕方にはまだ早いぞ、相沢」

祐一は微妙に傷ついた目で斉藤を見上げた。

「斉藤、お前もうちょっといたわりというものをだな――」
「男にやるいたわりなんか持ち合わせて無い」
「言い切りやがったな、こいつ」

友情は死んだのだ、さらばメロスよ、などとブツブツ言っている祐一を見下ろしながら斉藤は訊ねた。

「そういや、お前朝からへたばってたよな。なんかあったのか?」
「あったと言えば凄くあったぞ」

祐一はひどく自虐的な笑みを浮かべた。
昨日の事を思い出す。いきなりオカルトだかファンタジーだか分からん世界に巻き込まれた挙句の大騒ぎ。
いやまあ、それも精神的に疲れたと言えば疲れたのだが。

「昨日、家の方にお客が来てな。それで明け方までどんちゃん騒ぎしやがったんだ。あのクソ親父ども、俺まで巻き込みやがって大騒ぎだ」
「ほー、そりゃ大変だったな。だが、そのわりには水瀬さんの方は元気溌剌に見えるけど」

といって、斉藤は後ろを振り返った。その視線の先では、モップを床に滑らせて講堂の中を疾走している名雪の姿。元気のいいことだ。というか掃除しながら走るな。

「あいつはさっさと寝ちまってたよ。ったくいいよな。俺なんか無理矢理酒まで飲まされて二日酔い気味で気持ち悪い」
「ビールでか?」
「日本酒だ!」
「あー、そうですか」

まさに他人事そのままに素っ気無く肩を竦める斉藤を恨めしげに見上げ、祐一は鈍痛のする頭を辛そうに抑えた。
真琴を巡るどたばたに巻き込まれた昨日の晩。あのあと結局、小太郎の父親まで水瀬家に上がりこみ、なぜかそのまま宴会へと突入した。
秋子さんが持ち出した日本酒が拙かった。天野道武、愁衛兄弟に嵯峨原の親父三人衆が調子に乗って飲み進んだ挙句に泥酔し、小太郎、真琴に祐一を捕まえた上で散々に飲み散らしたのだ。
結局、大騒ぎは明け方まで続き、祐一はろくに眠ってもいない身体を引き摺りつつ、学校までやってきたものの、一限目からへたばっていたのだ。
ちなみに名雪はいつもの時間にいつものとおりにパタリと意識を失い、ベッドイン。周りがどれだけうるさかろうが彼女にはあまり関係ない。
美汐はといえばお茶と生八橋を平らげると、さっさと従兄弟と親友を見捨てて帰ってしまった。相変わらず薄情である。
小太郎と真琴は今も家でくたばっているだろう。学校が無いというのは良い身分だ。実に羨ましい。なんか腹が立つので、帰ったら殴る事にした。

「うー、まったく、こんなボロボロの俺に掃除をさせるとは学校は鬼か?」
「相沢、お前やってないじゃん」
「お、俺はもうダメだ。斉藤、後は頼む」
「こっちで拭くぞ」
「やめてけれ」

水と汚れでギトギトになったモップの先端を近づけられ、祐一はフルフルと手を振って降伏した。
不承不承立ち上がりながら、祐一は掃除に勤しんでいる同学年の連中の様子を眺める。

「それにしても、なにゆえに今ごろこんな講堂を掃除せねばならんのだ」
「なんだ? その微妙に演説的な口調は」
「うむ、地だ」

斉藤は呆れた風情でモップを肩に担ぐ。

「もうすぐ卒業式だろ。ここでやるから設営の準備だよ」
「卒業式ってここでやるのか?」
「ああ、毎年ここでやるらしい。去年出席した訳じゃないから実際見てないけどな」

一年生だったし、と付け加える斉藤。
ふーん、と気のない様子で相槌を打つ祐一。とはいえ、内心まで興味なしという訳ではない。
何より舞と佐祐理さんという二人の友人が卒業するのだから。

ま、そういう事ならちょっと頑張るか。

「うっし、なら俺もやるか…と、そういえば」

祐一はふと思い出したようにキョロキョロと周りを見渡した。
そしてギロリと斉藤を見つめる。

「な、なんだよ」
「普通、こういう場面で俺を蹴っ飛ばしにくるのは香里か北川なんだが、二人とも何処行った? いないぞ。まさかサボりか?」
「さあな、北川とお前はともかく、美坂さんはサボらんだろう」
「そうか? 隙あらば要領よくサボりを図るのが香里という女だぞ」
「そんなこと言ったら香里、怒るよ〜」
「どわっ!」

いきなりぬぅっと割り込んできた青みがかった物体に驚いて、二人は仰け反る。
物体は「うにゅ?」と首を傾げてニコリと笑った。

「おお、誰かと思えば昨日酒飲んで酔っ払った挙句に素っ裸になって大の字になって寝ていた名雪さん」
「な、なにぃ! それは本当か、相沢ぁ!!」
「わぁーわぁー! そんなことしてないよ! 祐一ぃ!」

ワタワタと両手を振って妄想の泡を掻き消そうとする名雪。その彼女の姿にポッと斉藤が真っ赤になった。
それを見咎め、名雪は半眼になって一言。

「斉藤君、エッチ」

ガァーン!

「お、俺が悪いのか? いや、むしろ相沢だろう。ああ、でも想像してしまった俺も悪いのか? というより俺だけが悪いのか?」

なにやらショックを受けてブツブツと呟き出す斉藤。
それを憐れみとともに見やり、祐一は名雪をジト目で見やる。

「名雪ぃ、お前何気に酷いな。純真な男心を傷つけやがって」
「祐一の方が酷いよ。恥ずかしい事言って。私が変な女の子だって思われちゃうじゃない」
「お前が変な女だというのは俺が公言するまでもなく世間様に知れ渡ってるぞ」
「え、えー、そんな事無いよ。私変な女じゃないよ」
「とか言ってるぞ、皆の衆。本当か!?」

祐一が大声で呼びかける。名雪が驚いて振り返ると同時に、散らばって掃除をしていたクラスメイトたちが一斉に否定の声をあげた。

「うにゅ! みんな酷いよ〜」
「ははは、もはや世間一般からお前は変な女として認知されてるのだ。これは言わば民主主義的変人女?」
「変な名前つけないでよー」
「変な奴は然るべくして変な名前なものなのだ。それが世界の法則だ」
「そんな法則なんて無いよ〜」
「あるぞ、今俺が作った」
「そんなの無効だよ。否決だよ。棄却するよ〜」
「ぬぅ、横暴な。国家権力の乱用だ!」

身体の不調はどこへやら。いつの間にか絶好調に名雪と遊んでいる祐一の肩をポムポムと斉藤が叩いた。

「なんだ? 今、いいところなんだが」
「いいところなのかは知らないけど」

と言って、クイクイと後ろを指差す斉藤。
なんでしょう? と振り向いた祐一と名雪が目の当たりにしたものは、目を三角にして一斉に睨みつけてくるクラスメイト諸君。

「あー、いったいなんでしょう、皆様」
「う、うにゅ、目がマジだよ、みんな」

「「サボってないで、掃除しろー!!」」

「だ、そうだ」

突風のような怒声に仰け反る二人に、偉そうにのたまう斉藤。

「「お前もだ、斉藤ッ!!」」

「おおう!?」

女生徒の一人にズルズルと引き摺られていく斉藤。自業自得である。

「ぬぅ、数の暴力に負けた。民主主義はんたーい!」
「はいはい、ちゃんと掃除しようね、祐一」
「一緒にサボってたくせに」
「それは言いっこ無しだよ。というより祐一が変なこと言うからだよ」
「へいへい、俺が悪いんですよ」
「うん、だからイチゴサンデーおごりね」
「マテ、なぜそうなる?」
「えへへ、それが世界の法則なんだよ」
「そんな法則があるかーっ」
「あるよー。わたしが今作ったもん」
「そんなもの無効だ、否決だ、棄却してやる!」
「えーっ、横暴だよ。国家権力の乱用だよ」

「「「だから、掃除をしろーっ!!」」

「「ごめんなさい」」

ペコリと並んで頭を下げる二人であった。










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