平日の昼間ともなると、この商店街を行き交う人の種別は買い物に来た主婦の姿が比較的多くなる。
これが夕方を過ぎると学校帰りの高校生の姿が自然と増えるのだが、まだその時間には今しばらく早かった。
そんな訳で、ここ百花屋の店内も若者の姿よりも買い物袋を傍らに、お喋りに興じるおば様方の姿が目に付く。
比較的若者向けのメニューも多いものの、各世代全般に人気があるのがこの百花屋の特徴であった。
その百花屋のドアが勢い良く開く。
一人の三白眼で顔色のあまりよろしくない青年がスタスタと店内へと踏み入ってきた。

「いらっしゃ……あ、カナ君か」

ポニーテイルのウエイトレスが振り向きザマに挨拶をしかけて、それが知りあいだと分かり営業用のスマイルを崩す。

「どうも、堀先輩」

 折り目正しく挨拶を返した青年は、チラリと店内を一瞥した。

「相変わらず流行っていますね」
「まあね」

何故か、その言葉の奥に寂しさのような感情を感じ、青年は自分より上背のある先輩の顔を見上げた。
だが、そこには何らの変化も見つけられず、青年は訝しげに眼を瞬かせる。

「で? 今日はなに?」
「手伝いです」
「そりゃご苦労様。てんちょーは奥ですよ」
「ん」

コクリと頷き、店の奥に向かいかけた青年は、ふとある席に目にとめた。
窓際の四人掛けの一席に一組の男女が向かい合わせに座っている。
一人は眼鏡をかけた細身の男。見た目からは神経質そうという印象が窺える。
もう一人の女性の方は、すれ違えばほぼ全員が振り返ってしまいそうな美少女。
だが、眼鏡をかけた男の方は無表情に見えるほどに真剣な光を双眸に宿し、対する女性の方は笑顔を浮かべているものの、どこか硬い気配を漂わせていた。
デートというには少しばかり歪な雰囲気。
青年は思わず小声で先輩に訊ねる。

「修羅場ですか?」
「さあね。ちょっと違うみたいだけど。って、ったく、接客業がデバガメなんかしないの」

小声ながら鋭く叱責され、青年は片眉をピクリと跳ねあげると、コクリと頷き店の奥へと消えていった。
やれやれとその背中を見やり、漸く自分が注文を取りに行っていない事を思い出し、慌てて件の男女の下へと足早に、歩み寄る。

「ご注文の方はお決まりになりましたか?」
「あ…えーっとコーヒーでお願いします」
「コーヒーの種類の方はいかがしましょう」
「そうですねー」

注文を受け取り、ウェイトレスは颯爽と踵を返し立ち去っていった。
その姿を無意識に目で追っていた少女――倉田佐祐理はポツリと零すように呟く。

「そういえば、百花屋に来るのも久しぶりですね」
「そうなんですか?」
「ええ、しばらくは受験勉強で忙しかったですから」

佐祐理の向かいに座った青年――久瀬俊平は少し意表を突かれたように目を丸くした。

「なんですか?」
「いや、倉田さんもちゃんと受験勉強をしてたんだなと…意外に思いまして」

佐祐理はしばらく眼をパチパチと瞬くと、私不本意です、とでも云いたげに頬を膨らませた。

「佐祐理だってちゃんと勉強くらいしますよ。いったい佐祐理をなんだと思ってるんですか? 久瀬さん」
「あ、その、どうもすみません」

恐縮したように縮こまる青年に、佐祐理はクスリと小さく笑った。
ここに来るまでに感じていた緊張が、少しだけ緩むのを感じる。もうちょっと堅苦しい会話から始まるのだと思い込んでいたけれど、何故か当たり前なほど普通の雑談から会話が始まる。
それが思いのほか意外だった。

どこかぎこちない雰囲気が緩む。そんな空気の中のしばしの静寂。
どちらともなく言葉が途切れる。その沈黙が苦しくなる前に、ウェイトレスがコーヒーを運んできた。

「どうぞ、ごゆっくり」
「ありがとうございます」

佐祐理はゆらゆらと白い湯気の立つカップを掲げると、唇に触れさせ、ゆっくりと傾けた。
鼻孔をくすぐる豊かな香りが漂い、口内に苦味の効いた液体が流れ込む。

本当に美味しいですね。

幾人かの友人が語っていたこの店のコーヒーの評判に納得しつつ、佐祐理はほぅ、と息を吐き、コーヒーの風味を堪能した。

「それで、今日のご用件は何ですか? 久瀬さん」

どこかぼんやりと、佐祐理がコーヒーの飲む様子を眺めていた久瀬が、ハッと我に返る。
佐祐理は微かな驚きを覚えながら、カップを皿に置いた。彼のそうしたぼんやりとした姿を見たのが初めてだったからだ。 彼はしばらくじっくりと言葉を選ぶように視線を彷徨わせていたが、やがて佐祐理を真っ直ぐに見つめて言った。

「一つ、貴女に協力して欲しい事があるのです」

佐祐理の表情が強張るのを見て、久瀬は慌てて言葉を続けた。

「いえ! 今回は前みたいな事ではなくて……その、僕の話を聞いてはもらえないでしょうか」

佐祐理は、カップの淵を指で触れながら、此方をじっと見据えてくる久瀬の眼差しを受け止めた。
壊れ物に触れるような慎重な、だが真っ直ぐ此方を見ている眼差し。
ふと以前の情景を思い出す。
以前…そう、自分に生徒会に入るように要請してきた彼はどうだっただろう。
過剰なほどの熱を持ちながら、同時に熱に浮かされたように彼の見つめる先が分からなかった。
少なくとも、自分の協力を求めながら、倉田佐祐理という人間をまともに見ていなかった気がする。

だが、今の彼ははっきりと此方を見て言葉を投げかけていた。
それはちゃんと倉田佐祐理という少女に語りかける言葉と意思を持っているという事だろう。
だから、佐祐理はコクリと頷いた。

「分かりました。お聞かせください。ですけど、協力するかどうかは内容次第なのはご了承くださいね」

その言葉に久瀬の双眸が安堵したように緩むのを、佐祐理はどこか擽ったいような不思議な気分で見つめていた。






§ § §






「……ふぇ〜、なるほどぉ」

手振りすら加えての久瀬の熱弁を黙って聞いていた佐祐理は、彼が語り終わると同時にそう呟いて頷いた。
右手のカップを口に運ぶも、中身が無いことに気付いてちょっと赤面しながらカップを置く。

「あははーっ、それは面白そうですね」

唇から自然とその言葉が漏れた。
それは紛れもなく本心である。だが、正直に云えば、久瀬の熱弁の大元である彼の正義感や倫理観にはさほど心は惹かれなかった。
その内容自体はまったく頷けるものだったし、彼の意見も意思も尤もだと思う。普通の人ならば大いに賛同の声をあげるかもしれない。だから、佐祐理はそうした所に心が動かない自分に嫌悪じみたものさえ覚えた。
本当に自分という人間が自己中心的で、どこか壊れてしまっているのだといつものように自覚する。

私という人間の本性を見たら、久瀬さん、あなたもきっと幻滅するでしょうね。

それは恐怖感であり浅ましさだ。
自分という人間の本当の姿を誰にも知られたくなくて、自分は笑顔という仮面を付け続ける。
同時に自分という人間のすべてをさらけ出してしまいたいという自虐的な衝動も自分の中に確固として存在する事を彼女は自覚していた。
川澄舞という親友と巡りあい、相沢祐一という人と出会い、そして彼から連なる様々な温かい人たちと出会った。
どうしようもなく希薄な佐祐理という存在が、彼らによって一つの形を与えてもらったのは間違いない。
でも、それでもなお、自分の中でそうした壊れた部分が明瞭に残っている事もまた確かな事なのだ。

……いけませんね。

いつの間にか思考が自分の内面に落ち込んでしまっている事に気が付き、佐祐理は内心苦笑を浮かべる。
今は自分を苛めて喜んでいる時ではないだろう。
彼の熱に心は動かされなかったが、その方法の方は実際面白そうなのは確かだ。
久瀬のやろうとしている事に協力する事はやぶさかではない。というより是非やってみたいというのが今の心境だ。
だが、その前に清算しておかなければならない事がある。それは無視する事は出来ない。

「久瀬さん。貴方が企んでる事、佐祐理も凄く面白いと思います。でも……」
「なんでしょう」

佐祐理は一度言葉を切ると、きっぱりと言葉を紡いだ。

「……貴方に、ちゃんと舞に謝って欲しいんです。でないと、佐祐理は貴方の手助けは出来ません」

佐祐理は、それまでただ真摯さを湛えていた彼の双眸がすぅと鋭さを増したのを感じた。
自然と、テーブルを挟んで睨み合うような形になってしまう。
やがて、久瀬の瞼が眼光を遮断するように閉ざされた。そして彼は囁くように云う。

「倉田さん、貴女は何に対して僕に川澄さんに謝れと?」
「…それは」

答えを求めていた訳ではなかったのだろう。久瀬は佐祐理が何か云う前に続きを発した。

「僕は、彼女の処分に関して謝るつもりは毛頭ありませんよ」
「久瀬さん!」

大声をあげかけた佐祐理は、素早く目の前にかざされた彼の手に言葉を詰まらされる。
佐祐理が黙ったのを確認し、久瀬は手を下ろすと、薄っすらと眼を開いて佐祐理を見据えた。

「考えても見て下さい。深夜の校内で暴れまわり、学校の備品を多数破壊。噂ですが、真剣を振り回していたという話もあります。舞踏会での乱闘騒ぎは……これは彼女の仕業では無いと云う事も聞きましたが。どちらにせよ何らかの処分があるのは当然でしょう」
「で、でも、舞には何か理由があったんだと思います。だって、あの子はそんな意味も無く暴れるような子じゃ……」
「ですがね、倉田さん。川澄さんは、これらの件について僕らにも学校側にも何らの説明もしないんです。理由も語れずに無罪放免とは、あまりにも虫が良い話ではありませんか?」

佐祐理は言葉も無く項垂れた。さらさらと髪の毛が流れ落ち、彼女の表情を覆い隠す。
久瀬の言葉はまったくの正論だった。
自分は舞を信じている。彼女の行動には確かな意味があるのだと疑いもしていない。
だが、それが他の人にまで通用するのかと言うと、そんな訳が無い。
倉田佐祐理は、それが分からないような愚かな女性ではなかった。

「倉田さん」

静かな久瀬の声が、俯いた佐祐理に届く。
佐祐理は動き気になれず、無言で続きを待った。
伏せた視野の向こう側で、久瀬が大きく息を吸う音が聞こえる。
どこか深呼吸にも似た呼気。
そして、久瀬は大声を発する訳でもなく、深く意思を込めた言葉を佐祐理に向かって投げかけてきた。

「確かに僕は彼女の処分については謝るつもりはありません。ですが……貴女と川澄さんに謝罪しなければいけない事がある事も確かです」
「久瀬さん?」

佐祐理は驚きとともに顔を上げた。そこに見たものは青年の悔悟にたゆたう面差し。

「生徒会というものは本来なら生徒の権利を守るために動かなくてはいけません。本当なら僕は川澄さんを擁護しなければならない立場でした。彼女にちゃんと話を聞き、彼女の理由を確かめなければいけなかった。
それなのに、僕はろくに川澄さんの事を調べもせず、喜々としてこの件を利用して貴女の自由を束縛し、貴女を生徒会に引きずり込もうとした……まったく、焦っていたとはいえバカな事をしたものだと思っています。これじゃあ連中より性質が悪い。
僕は自分の目的のために貴女と川澄さんの関係と人生を弄ぼうとした……これは絶対に謝罪しなければいけない事だと思っています」

一気に言葉を連ねると、久瀬はテーブルに両手をついて深々と頭を下げた。

「すみません、倉田さん。僕がやった事は明らかな脅迫だ。許してもらえるとは思えませんが」

唖然と彼の言葉と行為を見つめていた佐祐理は慌てて、久瀬に顔を上げるように促す。

「ちょ、ちょっと、顔を上げてください。こ、困りますよ〜。それにこんなところで…」

佐祐理の焦りまくっている低く声音を抑えた声に、久瀬はようやく周囲の様子に意識が向いた。
自分の行動で、店内の注目が集まりかけている事に気がつき、久瀬は赤面しながら慌てて顔をあげる。
傍目にはまさに修羅場に見えたかもしれない。
どうやら周りの事が完全に頭から吹っ飛んでいたらしい。久瀬は普段の冷静さをどこかに置き忘れてしまっていた自分を内心で罵る。
羞恥に顔面から蒸気すら上げかねないほど真っ赤になり、久瀬は身を縮めて俯いた。

一方の佐祐理も、周りの視線にほんのりと頬を赤らめつつ、チラリと上目遣いに久瀬の方を見やった。
顔を真っ赤に染めて俯いている眼鏡の青年。
佐祐理は胸の奥から湧き出てくるような笑いの衝動に、クスクスと口元を抑えて声を漏らしてしまった。
それはここに来るまで想像もしなかったような不自然なほど暖かな感覚で。
佐祐理は不思議と幸福な気持ちになった。

安堵感なのか。それとも嬉しさなのか。きっと両方なのだろう。
理不尽な形での反目。
古い知人と親友との間の深い溝。
それは、無視しうる程度のものだったかもしれない。久瀬という青年とこれ以上関わる事が無ければ自然と時とともに流れていってしまったものなのかもしれない。
だが、それが哀しい事であるのは間違いない事だったのだ。
それが解消されるかもしれないという期待は、彼女の心を浮き立たせるに充分な出来事であった。

「久瀬さん」
「は、はい?」

顔を上げた久瀬が見たものは、何の含みも無いまっさらな佐祐理の笑顔だった。

「佐祐理は喜んでお手伝いさせていただきます」
「い、いいのですか?」
「ええ。その代わり、ちゃんと舞にも謝ってくださいね」
「わ、分かってます」

そう云って頷いた久瀬の表情は、見るからに強張っていた。
どうやら彼が川澄舞を苦手なのは変わらないらしい。

「あははーっ。それじゃあ、いっちょ頑張りましょー」

元気溌剌の少女の掛け声は、昼下がりの百花屋の店内に高らかと響き渡った。





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