膝下まであるチェック柄のスカートを翻し、美汐は半ば駆け出すように立ち上がった。
普段の周囲の印象からはかけ離れたその跳ねるような動きに面食らった祐一が、慌てて背後から声をかけなければ、そのまま飛び出してしまっただろう。

「おい、ちょっと待て天野。お前、どうするつもりだ!?」

美汐はハッと表情を変え、フロアの床を軽く軋ませて立ち止まった。
どうやら落ち着いているつもりで、それなりに動揺していたらしい。他の人間のことを失念してしまっていたようだ。
バツが悪そうに幽かに眉を寄せ、振り返った。
全員に顔をめぐらせ、自身でも噛締めるように言葉を紡ぐ。

「この家の周囲一帯に人払いの結界が敷かれました。恐らく、荒事となった場合の事を考えてでしょう。少なくとも近所の家々はこの家に変事が起こっても気付かないでしょうね」

本来なら相沢さんたちも結界が敷かれた段階で、真琴の存在を認識できなくなるはずだったでしょうが。

それは特に口にする必要も無いと思い定める。

「恐らく外にこの結界を仕掛けた本人がいるはずです。私と小太郎が直接談判します。相沢さんたちは……」

パタパタと足音を鳴らし、真剣な顔をしながら側に寄る小太郎にチラリと視線を向け、美汐は思案を巡らせた。状況を照らし合わせ、最善を導く。

「少々危険かもしれませんが、私たちと一緒に来て下さい。向こうの目的が正確に解かっていない以上、離れるのは得策では無いと思います」
「…確かに、別れ別れになるのは拙そうだな」

云って、祐一は真琴と名雪を振り返る。二人はやや不安げながらも頷き返した。

「…行こう」

舞が囁くように呟く。

「…小太郎、真琴を」
「解かってますよ」

そっと囁く従姉妹の声に、小太郎は小さいながらも決然と応えた。




「ドアから出るの?」

躊躇いも無く玄関へと向かう美汐に、真琴が不安そうに訊ねる。
美汐はひんやりと押し静まった空気の中を滑るように進んで行く。廊下は彼女の重みに軋みもしない。

「別に逃げるつもりではありませんしね。だいたい、どこから出ようとこの家が押えられているのですから、あまり意味はありませんよ」

そう軽く云って、彼女はさっさと靴を履き、特に辺りを窺う事も無く、扉を開けて外へと出た。
流石に他の面々はそこまで無用心に動くことも出来ず、恐る恐る外の様子を覗き見ながら屋外へと出る。

まだ、冬の名残も色濃く、空に輝く星々の瞬きも眩しく、夜はしなやかに街を覆い尽くしていた。
家々から漏れ出す光、街灯、そして雲を侍らせゆったりと眼下を見下ろす満ちた月。
これらの光が闇を押しのけ、外はこの不気味な気配と違って存外明るかった。

だが、人っ子一人見当たらない夜道。不自然なほどに静かで、それが寒気を膨らませる。
美汐は道の真ん中に立つと、グルリと周囲を見渡した。
その視線がピタリと止まる。釣られて皆もそちらに顔を向けた。

「…ぬ!? お前は、美汐か」

驚きが多分に含まれた声が、闇の中から美汐の名を呼ぶ。
美汐は「はい」と静かに答えた。

闇夜をくり貫くように暗がりを照らす街灯。その下に、一人の男が滲むように現れた。くすんだ暗緑の和服姿の中年の男。 着慣れぬ者なら滑稽にすら見える和服をこうまで自然に着こなしているという事は普段から同じ格好をしているのだろう。
体躯は小柄。175を越えた程度の祐一より頭半分ほど低い。だが、そんな事など気にならぬほど貫禄に満ちた気配を纏っていた。

男はサッと祐一達にも視線を向け、眉を顰める。

「小太郎もか。他にも……ふんっ、此方に来ているとはぬかったな」

不機嫌そうに独りごちると、男は美汐と正対した。

「久しいな、美汐。三年ぶりほどか」
「はい」

かすかに目元を緩めて頷く美汐に、男は不機嫌さを一時忘れたように破顔した。

「うむ、美南さんに似てきおった。尤も、彼女はもっと朗らかだったがな」
「…余計なお世話です」

此方は一転憮然とした美汐が表情そのままの声音で低く言い返した。
そして、一旦気持ちを切り替えるように瞼を閉じると、美汐は眼光も鋭く問いかける。

「一般住宅街での結界使用…いったい何のおつもりか、お聞かせ願えますか? 御当主」

男の右目が細められ、緩んだ顔が引き締められた。口元は再び不機嫌そうなへの字に戻る。
それを見た小太郎の顔が、心持ち強張った。

「…父さん」
「おい、小太郎…あの人」

祐一の囁きに、小太郎は強張った表情を変えぬまま、小さく答えた。

「はい、あれが僕の父です。天野家現当主の天野道武」

祐一は思わず傍らの名雪と顔を見合わせた。
もう一度、小太郎と彼が父と云った男を見比べる。
顔は…似てるかもしれない。だが……。

「なんか頑固親父っぽいな」
「どちらかというと美汐ちゃんのお父さんみたいだね」
「天野の親父さん、なんかゆるいしな」

コソコソと論議を交わす祐一と名雪。油断無く道武を見据えていた舞は、思わず二人に呆れの含まれた視線を投げかけてしまった。

結構、この現状は緊迫したものだと思うのだけれど…

静寂の底に張り詰めた糸のような雰囲気を湛える空気。自分が感じた感覚が間違っていない事を確かめる。
ところが、この二人はと言えば、普段と変わらぬいつもの調子で……。
祐一の能天気さは夜の学校で思い知らされたつもりだったが、どうやらこの性格は血の為せる技らしいと舞は思った。

やれやれと舞は目を瞬く。
二人から、美汐たちに視線を戻す。
いつの間にか、強張っていた四肢から力が抜けていたのを自覚した。知らず知らずに不必要なまでに気を張り詰めていたらしい。
いい意味で余裕を取り戻した舞は、左手に持つ剣の重みを確かめると、いつでも動けるように足の親指に力を込める。
視線の先では、道武がゆっくりと美汐に近づいていた。

道武は、美汐の5メートルほど手前で立ち止まると、フンと鼻を鳴らした。
その仕草に触発されたように、小太郎がピクリと全身を戦慄かせる。
その童顔を真っ赤に染めて、彼は怒鳴った。

「こんな事をして! いったい何のつもりなんですか! 父さん!」

道武の目がカッと吊り上がった。

「何のつもりだと? それは此方のセリフだ、小太郎!」

わんっ、と空気そのものを震わせるような声音に、離れた祐一たちまでが思わず首を竦めてしまう。

「自分の夢を叶えるなぞと大言しおって我が家の後継ぎたる責任を放棄し、飛び出したクセに、その舌の根も乾かぬ内に狐なんぞに誑かされるとは何事だ、この馬鹿もんがッ!」

思わず美汐は眉を顰める。
やはりと云うべきか…どうやら、小太郎の動向はずっと見張られていたらしい。天野家の折衝員を動員していたのか。
何か言い掛かりを見つけていずれ連れ戻す算段だったのかもしれない。それが早々に問題を見つけてしまったと言うわけか。

「だからって、真琴さんをどうして狙うんですか!? 僕が悪いんであって彼女は関係無いでしょう!」

怒気で童顔を真っ赤に染めた小太郎が激する。

「そうはいかん」

道武は厳しい眼差しで、ジロリと真琴を睨みつけた。咄嗟に、祐一と舞が視線を遮るように前に立つ。

「天野の次期当主に近づくモノ…それが妖ともなれば無視する訳にはいかん!」
「そんな、無茶苦茶な!!」

さらに何かを言い募ろうとする小太郎の声を断ち切るように、道武は続けた。

「無茶では無いわ。小太郎、お前は天野の嫡男であると云うことの意味を解かっとらん。天野の嫡男が妖に憑かれたなどと知れ渡ればどうなるか、その影響を解かっとらん」
「馬鹿な。それはただのメンツでしょう!?」
「違う。信用問題だ、たわけが」

道武は苛立たしげに首を振り、続けた。

「無論それだけが理由ではない。そこの狐…調べてみればとんでもない食わせ物だ!」

道武は一旦、言葉を切ると、改めて斬りつけるような声音を震わせた。

「水瀬真琴15歳、水瀬家次女。198※年一月六日生まれ…以下、出身小学校から生誕地、戸籍謄本に至るまで我が天野家がどれだけ探っても荒が無いほどに過去が見事に作られておる。
幻術で他人の認識を誤魔化し、自分を家族の一員と騙しているだけでも怪しい。通常、人界に紛れ込んで暮らしている妖たちは、人間の家族にまで潜り込むような事はしないからな。
加えて、公的な書類やデータに至るまで完璧な偽造が施してある。我等とて、実際目で見てその少女が妖狐だと解かっていなかったら、疑いもしないだろう完璧な改竄だ。
まさに妖しさ千万、その女狐どれほどの力を秘めているか、何を企んでおるのか…。何かあってからでは手遅れだ、だからこそ一旦、捕えて調べる、徹底的にな」

ヒクッ、と祐一と名雪の顔が引き攣った。
思わず振り返った美汐と舞の視線が交錯し、二人は祐一たちを振り返る。
祐一と名雪は「あはは」と乾いた笑いを返した。

((……絶対、秋子さんだ))

どうやらあちらさんは根本的に勘違いしているらしい。別に自分たちは真琴に幻術をかけられて家族と思わされてる訳では無い。
さらに云えば、そんな公文書偽造から過去改竄など真琴が出来るはずもないし、何より何かを企んでいるはずもあるわけ無い。
それらは明らかに秋子さんが手を回したのだろう。

でも、どうやって?

そんな事、知らぬが仏というヤツだ。
少なくとも、なにやらトンデモない権力を有しているらしい天野家が幾ら調べても荒が見つからないような手段なぞ、知ってしまっていい事などある訳が無い。
ともあれ、どうやらその荒が見えない事が逆に天野家の危機感に触ってしまったらしい。

美汐はドッと疲れを感じて溜息をついた。
やっと、この訳の解からない状況の構図が見えてきた。
元はと言えば、小太郎を後継者として手元に置きたい道武と、自分の進みたい道を見つけてしまった小太郎の進路に関する問題の対立から事は始まった訳だ。
一旦は小太郎の出奔を黙認した道武だったが、小太郎の母の梢の言だといずれは連れ戻すつもりだったようだ。
そこに真琴の出現が重なった。実際は小太郎が一方的に熱をあげているだけなのだが、向こうから見れば真琴の方から近づいたように見えたのかもしれない。
加えて、真琴の素性が完全に偽造されていた事がさらに事態を錯綜させてしまったようだ。通常、人の世界に住んでいる妖は戸籍も何も無く非合法に世間に紛れている以外は、神祇省に登録した上で戸籍や必要書類を入手している。
ところが天野家が調べたら、真琴という少女は狐の妖なのは間違いないのに、戸籍以下の過去を持っている。勿論、神祇省への登録もされていない。
天野家は妖から登録の方を委託される仕事も請け負っており、その際にその妖についての危険性の有無などの追跡調査も業務の一環としてこなしている。
その方面のプロでもある彼らが真琴の過去に荒が見つけられなかったというのであれば、それは本当に完全な代物だったのだろう。
そんな得体の知れない少女に、天野の後継者が夢中になっているのだ。彼らが、特に道武が過敏に反応するのもムリは無いのかもしれない。

だが、真琴には何の危険性も無いことは、間違いなく確かな事なのだ。
それは、彼女を知る自分たちが一番良く分かっている。
美汐は伯父の思い込みを解こうと口を開いた。

「伯父様、それは誤解です。真琴は何も企んではいませんし、何も危険性はありません。それに…」
「…美汐」

美汐のゆっくりと相手に染み込ませるような言葉は、道武の一言で断ち切られた。それほど重い一言だった。

「この件に関しては悪いがお前の目は信用できんぞ」
「…何を」
「その娘はものみヶ原の狐であろう。一年前の事については報告は受けている」

美汐の顔色が闇夜に浮き上がるほどに白んだ。

「お前が冷静にその娘を見れるかどうか、此方は信用できん。だいたいアレほどの目に合いながら、同じ災いを見逃そうと――」
「父さん!!」

凍りついた湖面を割るような小太郎の声に、道武はハッと口を噤んだ。
そして、瞳に悔恨を宿し、小刻みに震えている姪を見やり、自分が彼女の傷痕を無思慮に抉ろうとしていた事を自覚し、呟いた。

「すまぬ。失言であった」

美汐は顔を伏せたまま首を振った。
渦巻いて噴き出しかけた感情が、穴の空いた風船のように萎む。
道武はハァとため息をつくと、冷静さを取り戻した声で告げる。

「だが、お前の眼が信用できんという言葉は本当だ。何にせよ、その妖狐の娘は当方で取り調べる。害が無いのであれば、悪いようにはせんよ」
「伯父様!!」

美汐が咄嗟に止めようと動きかけるが、次の瞬間道武の唇から紡がれた言葉に彼女の身体が固まった。

「ナウマクサンマンダ バサラダンセン ウンタラタカンマン」

低く闇に溶けてしまいそうな囁き。
途端、喉が硬直し、声が出なくなった。それだけではない。全身が石化したように身震い一つも出来なくなる。

こ、これは、縛呪!

「美汐!?」
「美汐姉さん!」

異変に気付いた真琴と小太郎が声をあげる。
静かな、だが闇をも震わすような声音で道武が告げた。

「そこでじっとしておれ」

歯を食い縛る美汐。だが、どれほど意思の力を振り絞ろうと身体はピクリとも動かなかった。

「無駄だぞ。いかなお前が天賦の才を持つとはいえ、それは解けぬわ。伊達に儂も当主をやっている訳ではないのでな」

淡々と言い捨て、道武はゆっくりと祐一たち…真琴に視線を向けた。

「さて、今度こそご同行願おうか」
「ちょっとま―――」

さっきから好き勝手に云っている道武に、怒鳴りかかろうとした祐一だったが、彼もまたいきなり動きを封じられた。祐一だけでなく、名雪と舞も不意に身体が岩の様になってしまった事に愕然とする。

「ああ、悪いけど君たちもちょっと動かないでくれますかな」

スゥっと彼らの背後から人影が滲み出る。
スーツ姿の恰幅のある男性。

「嵯峨原」
「はいはい」

嵯峨原は悠揚に頷いて、硬直した名雪にしがみついているツインテールの少女に顔を向けた。

「真琴さん!」
「小太郎!」

駆け出そうとした小太郎は、道武の一喝に硬直した。
いつの間にか、滑るように小太郎の前に現れた道武は、渾身の力を込めて息子の頬をぶん殴る。
小柄な小太郎は、その威力に耐えられるはずもなく派手に地面に転がった。

「小太郎!」

真琴が悲鳴にも似た声をあげた。
その彼女の腕を、嵯峨原がヒョイと掴む。

「ちょっと、離しなさいよ!」
「それは無理な注文だ。大人しくしていなさい」

暴れる真琴を抑えながら、嵯峨原は苦笑を浮かべた。
そんな二人を他所に、道武は地面に転がった息子を見下ろし、睨みつける。

「多少はお前の道楽にも付き合ってやろうかと思っていたが、ここまで自分の立場を解かっていなかったとはな」
「僕の夢は道楽なんかじゃない! それに真琴さんを好きになったのは誑かされた所為なんかじゃない!」
「……少々痛めつけんと目が覚めんか、馬鹿もんが」

吐き捨て、立ち上がりかける息子に一枚の符を飛ばす。
符は、フワリと小太郎の胸に張り付いた。途端――

「う…わああああああああああ」

小太郎が絶叫とともに再び地面へと転がる。そして、さながら炎に焼かれているとでも云うように、狂ったようにのたうちまわった。その瞳は何も見ておらず、ただ怯え狂ったように光を失っていた。

「少しばかり地獄を覗いて来い。幻術とはいえ堪えるだろう。折檻だと思え」
「何が折檻よ、この馬鹿親父!!」

少女の怒号が横殴りに降り注ぐ。
同時に、悶える小太郎の胸に張り付いた符が青白い炎に包まれ、燃え落ちた。

「わああああああ…って、あれ?」

小太郎が、マヌケそのままの表情でペタペタと自分の身体を確かめる。
同じく、嵯峨原が「あれ?」と真琴の腕を掴んでいたはずの自分の右手を見つめて、目を瞬いた。

ザッと地面を蹴り上げ、ツインテールを振り乱し、真琴は小太郎の前に仁王立ちとなり、ビシッと道武に指を突きつける。

「こらっ、オッサン!」
「お、おっさん?」

思いもよらぬ少女の行動に目を丸くした道武は、さらに少女の言葉に口をあんぐりとあける。
自分を真っ向から睨みつける少女の真っ直ぐな眼差しに、思わず咄嗟に放とうとした符を止める。
むぅ、と無意識に唸り声が漏れた。
この時、初めて天野道武は真琴という少女の存在を認めた。
正直、道武にとってはこの少女は単なる捕縛対象の妖としか認識していなかった。端的に云えば眼中に無かったのだ。
それが、いきなり自分の身の危険も顧みず、自分の前へと立ち塞がっている。
その事実に、道武は少し混乱した。
そんな道武の様子に頓着する事無く、真琴は大声を張り上げる。

「自分の子供になんでこんな酷いことするのよ! それでも親なの!? だいたい、あんたたち、あたしが悪いって思ってるんでしょ。だったらあたしを捕まえれば充分じゃないの。なんでこの子にこんな事する訳!?」

道武はぐっと息を呑んだ。何故か、言葉に詰まってしまう。
どうやら自分がこの小さな少女の剣幕に圧倒されているらしいと気付き、道武はブンブンと首を振って気をとしなおし、威厳を正して告げる。

「お前には関係無い。これは天野の家の問題だ」
「関係無いわけないでしょう! 何かわかんないけど、あたしの事でもめてんだからッ」
「あいや、ご尤も」

思わず合いの手を入れた嵯峨原が、ギロリと道武に睨みつけられ肩を竦めた。

「ちょっと…真琴さん」
「なによっ!」
「あ、危ないですよぅ」
「うるさい!」
「あぅー」

噛み付くような真琴の怒声に、小太郎は情けなくも涙目になって首を竦めた。

「と、兎に角、そこをどけッ」
「やだ!」
「や、やだと云われてもだな」

威厳も貫禄もどこへやら。タジタジとなってしまった道武に真琴はキッパリと言ってのけた。

「親が子供をむやみに傷つけるのは一番いけないことなんだからね! そういうのを幼児虐待って云うのよ! そんなヤツ、真琴が許さないんだから!」
「ぼ、僕は幼児じゃありませんよぅ」

ひたすら情けない小太郎の抗議は、興奮する真琴には届かなかった。

「許さないんだから、って…」

一方の道武はといえば、何か自分が凄く悪者になったような気がして、思わず救いを求めるように嵯峨原の方を見る。
その嵯峨原さんは、そっぽを向いてそ知らぬ振り。元から、あんまり乗り気じゃなかったので、ほれ見ろと暴走気味だった当主に抗議してみせる。
つれない態度の部下に歯軋りするものの何も言えず、道武はコホンと咳払いして殊更怖い声で言い放つ。

「あー、いいからどきなさい!」
「ヤダ!」
「どきなさいって」
「ヤダ!」
「お願いだから」
「ヤダ!」
「いや、お願いします」
「い・や・だ!」

何故か段々と低姿勢になる道武に、頑として譲らない真琴。
呪に縛られて動けなくなり、固唾を飲んで事態を見守るしかなかった美汐や祐一たちは、急に緊迫した空気が薄れてしまい、何だかなぁと気負いも砕けてしまう。
と、突然、パンパンと拍手が二回鳴り、夜の静かな空気が身震いするように震えた。
途端に糸が切れたように、祐一たちを縛り付けていた呪縛が解ける。

「なっ!?」

いきなりつんのめってバランスを崩す四人の姿に、道武は驚いたように周囲を見渡した。
そして、後ろから歩いてくる人影を見つける。

「はいはい、ここはお前の負けだよ、道武兄」
「愁衛」
「お父さん」

道武と美汐が、現れた男の名を呼んだ。
天野愁衛は、肩にカバンを下げた姿――つまり仕事に出かけた時の姿のまま呆れた風情で皆を眺める。

「やっと仕事を片付けて帰って来たと思ったら、いったい何をやっているのだか」

ずりかけたカバンを肩にかけなおすと、愁衛はポリポリと頭を掻きながら道武を見る。

「こんな大掛かりな結界まで仕掛た上に、普通の子供たちを呪で縛るなんて。ちょっとは自分で大人気ないとか思わないのかね、兄殿」

ムッとなる道武を他所に、愁衛は名雪や舞たちに大丈夫かいと問い掛けている。
コクコクと頷くしか無い彼女らに、ニコリと微笑みかけ、愁衛は道武に向き直った。

「まったく、子供が自分の足で立とうとしてるのに、いつまでも拗ねてるんじゃないよ。他人が迷惑するじゃないかね。しかも真琴ちゃんまで巻き込んで」
「だ、誰が拗ねてるだ! 大体だな、その妖狐の娘の身元が怪しいのは間違いないだろう。天野家の当主としては――」
「そりゃ、調べに来るのは間違いとは云わんがね。こんな荒っぽい事にせんでもいいだろうに。しかも、当主自らが出てくる事じゃないだろう。そりゃ、暴走してるととられても仕方ないぞ」
「ぐっ…」

道武は顔を真っ赤にそめて口篭もった。少なくとも、当主自らが出てくる仕事では無いと云うのは確かだ。

「千畝さんもちゃんと兄殿の手綱絞ってくださいよ」
「いや、面目ない」

申し訳無さそうに、嵯峨原千畝は頭を掻いた。

「美汐パパ!」
「やー、真琴ちゃん。怖い思いさせてすまないねえ」

パタパタと駆け寄ってきた少女の頭を嬉しそうに撫でながら、愁衛は相好を崩した。
やれやれと溜息をつく美汐に、同じく所在無く頭を掻く祐一。名雪と舞はどうしたものかと顔を見合わせ、嵯峨原は苦笑を浮かべている。

「兄殿、そろそろ意地になるのはやめなさいよ。大体だね、お前さっきのでこの娘気に入ったんじゃないのかね? お前さん、ああいう健気とか真っ直ぐな行為ってのに随分と弱いだろう」
「うぐっ」

またもや声を詰まらされる道武に、小太郎の顔が輝いた。

「ホントですか、父さん!?」

道武は苦虫を噛み潰したような顔になって、なおも抵抗するように云う。

「だ、黙れ。まだ、その真琴という娘の身元の怪しさが晴れた訳では―――」
「真琴は私の娘です。それではいけませんか?」

今日はよくよく唐突に人が現れる日だよな、と思いつつ、同時に最後はやっぱりこの人だよなという諦観にも似た感情を浮かべながら、祐一はその人の名を呼んだ。

「秋子さん。帰ってきたんですか?」
「ええ、遅くなってすみません。祐一さん」

ニコリといつもと微塵も変わらぬ微笑みを浮かべた水瀬秋子が、いつの間にか祐一達の背後に立っていた。
その気配にまったく気がつかなかった嵯峨原が唖然と、その顔を眺めている。

「やあ、秋子さん。すみませんね、ウチの者が迷惑をかけて」
「いえ、どうやら私の所為のようですし、お気になさらないでください、天野さん」

旧知の知り合いのように秋子と会話する父親に、美汐は不思議そうに尋ねた。

「お父さん、秋子さんと知り合いだったんですか?」
「ん? ああ、まあね」

曖昧な笑みを浮かべる父親に、美汐は不審そうに眉を顰めた。
それどころではないのは道武だ。

「ちょっと待て。お主はその娘が狐だと分かってて云っているのか?」
「はい、勿論ですよ」

速答されて、道武の顔が引き攣った。まあ、気持ちは分からないでもない。

「じゃあ、戸籍を偽造したのはその狐の娘では…」
「ええ、違います。私が頼みました。こんな事になるんでしたら、神祇の方に通達しておいても良かったかもしれませんね」
「馬鹿なッ、あんなものを一般の人間が…」

悲鳴のように声を上げ、道武はやや錯乱しながら愁衛を振り返った。

「愁衛、何者だこの女」
「水瀬秋子さんだ」
「名前なぞ聞いて……」

パチンとスイッチが切れるように道武の言葉が途切れた。

「水瀬…秋子だと? まさか…いやだが、確か相手の男が…みな…せ」

小太郎は、父親の顔が面白いように痙攣したのを唖然と見守った。

「こんな北国に引っ込んでいたのか。愁衛、お前そんなことは一言も告げずに…」
「別にわざわざ報告する事じゃないだろう。ウチとは関係無いのだし」
「それは…確かにそうだが」

うがが、と唸って道武は頭を抱えた。

そんなやり取りを見ていた祐一が、傍らで呆然と立ち尽くしている嵯峨原に小声で訊ねる。

「なあ、あんた」
「……あ、ああ、なんだね?」
「秋子さんって、何者なんだ? あんたら知ってるのか?」
「知ってるも何も…って、お前さんたち知らないのかね」
「いや…我が叔母ながら全然」
「実の娘だけど全然だよ」

祐一と名雪が、在る意味途方にくれたように云う。
ふむ、と頷いた嵯峨原は子供たちに諭すように穏やかに云った。

「知らないのなら、他人の私が教える事じゃないだろう。必要があるなら、彼女本人がいずれ教えてくれるはずだ」
「そういうものですか」
「そういうものだよ」

名雪はそれで納得したのか、フムフムと青みがかった髪の毛を前後に揺らした。
祐一はといえば、完全に納得した訳では無いが、実の娘の名雪が得心してしまってるのだから、何を云う事も出来ずただ苦笑を浮かべるしかなかった。

「…秋子さんはとっても謎」
「まったくだ」

舞のそこはかとなくしみじみとした声音に、祐一もしみじみと頷いた。

「天野道武さん。そういう訳ですから、真琴の身元は私が保障します」
「むぅ、貴女がそう云うのであれば、此方としても口出し出来んし、するつもりも無い。だが、貴女が妖狐を養女にするとは…」
「妖狐だとか、人間だとか、そんな事は関係ありませんよ。真琴は真琴、私の娘です」

秋子のきっぱりとした口調に道武は感心したように頷いた。

「なるほど、噂どおりの人のようですな、貴女は」

云って、道武はスタスタと真琴の前に歩み寄った。

「な、何よぅ」

無言で自分を見下ろす道武に、真琴が気圧されたように威嚇する。
だが、次の瞬間、真琴はキョトンと目を丸くした。

「どうやら儂の独り合点であったようだ。お前さんには迷惑をかけた上に怖い思いまでさせてしまった。すまぬ」
「あ…ぅー」

深々と真琴に向かって頭を下げる天野道武。
それまで偉そうに吼えていた人間にあっさりと、だが真摯に謝られ、真琴は言葉も無く目を白黒させた。

「小太郎」
「は…はい」

怒っているわけで無いが、引き締められた父の表情に小太郎の喉がゴクリとなる。

「儂はまだお前に家を継がせる事を諦めてはおらんし、お前が家を出て早々に女性に熱をあげておるのも許せん」
「うっ」

偉そうな事を云って飛び出したくせに、こっちでは真琴さん真琴さんと跳ね回っていたのは確かなので、反論できず言葉を詰まらせる。
だが――

「だが、お前の眼の確かさだけは認めよう」
「…え?」
「あう?」

腕組みして、鷹揚に頷いてみせる道武の姿に、小太郎と真琴はクエスチョンマークを浮かべる。
道武は目をカッと開くと大声を張り上げる。

「愛する者のために真っ向からこの儂と立ち向かうその勇気、心意気。実にあっぱれ。この天野道武、感服いたした。小太郎、実に見事な女性を選んだ、褒めてやる」
「と、父さん!」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよっ! 誰が誰を愛してるなんて言ってるのよっ!」

何やら風向きが正反対へと変わったのを感じて、真琴が泡を喰って絶叫を迸らせる。
だが、話を聞かない性格は父も子もそっくりな訳で。

「そもそも、我等が一族の祖に当たる賀茂建角身命は八咫烏の化身。人ならざる者よ。また、かの安倍清明も信太の狐、葛葉を母とすると言うし、考えてみれば妖狐を娶るのに何の問題も無いではない!」
「じゃあ、父さん。僕と真琴さんの結婚を認めてくれるんですか!?」
「うむ、だがお前はまだ若い。ちゃんと成人するまでは婚約者と言う事で…」
「だから聞けぇぇ!!」

真琴の小麦色の髪の毛が逆立つのをぼんやりと見ながら、美汐は眠そうに欠伸を漏らした。

「なあ、美汐。いつの間に、真琴ちゃんと小太君が結婚する事になったんだ?」
「……さあ」

素っ気無く答える娘にパチパチと目を瞬いた愁衛は、何やら嬉しそうに腕組みする。

「まあいいか。小太君と結婚したら、真琴ちゃんは姪っ子になる訳だ。あははは、嬉しいじゃないか」
「そうですか」

興味無さげに、美汐はカラカラと笑う父親に相槌を打った。

一方の片親と言えば……

「皆さんお疲れでしょう。仕事先でお土産買ってきたんですよ。お茶を入れますから」
「何買ってきたんですか?」
「生八つ橋ですよ」
「お母さん、京都に行ってたの?」
「生八つ橋……食べるの初めて」
「涎を垂らすな、舞!」
「そちらの方…嵯峨原さんでしたね。あなたもご遠慮なさらず」
「あいや、よろしいんですか? それじゃあ、遠慮なくご相伴に与ります」
「美汐ちゃんと天野さんもどうぞ」
「あ、そうですか? いやぁ、仕事終わらせた帰りで疲れてたんで、甘い物はありがたいですなあ」
「…秋子さん、お茶の入れ方教えていただけますか? 以前頂いたものがとても美味しかったので」
「はい、喜んで」

ガヤガヤと楽しげに騒ぎながら、家の中へと消えて行く他の面々。

「ちょっとぉ! 何でみんな置いてくのよぅ!!」

関わりたくないからである。以上。

「いやあ、今度母さんにも紹介せんといかんなあ」
「大丈夫ですよ、母さんなら真琴さんのこと直に気に入ってくれますって」
「うむ。梢は元気の良い子は好きだからな」
「だから勝手に話を進めるなぁ!!」
「むぅ、真琴殿。どうにも情けない息子ではあるが、何卒宜しく頼みますぞ」
「あぅ、あの、はい、分かりました……ってちがーう!!」

真摯な眼差しに射竦められた上に、丁寧に頭を下げられ、さらには両手を握り締められ、上下にブンブンと振られる勢いに流されそうになりながら、必死に逆らう哀れな少女。

「ふははは、元気でよろしい」
「あははは、元気な真琴さんも大好きです」
「人の話を聞けぇぇ!!」


夜空に静かに輝く星と月の見守る下で、真琴の悲痛な叫びは跳ね回るゴム毬のように木霊した。

「にゃあ」と屋根の上から階下を見物していたぴろが苦笑したように鳴く。
今宵も、この北国の街は変わらず平和でありました。





斯くして、真琴と小太郎に高校合格の通知が来るのは、もうしばらく後の事であります。





一の幕「the advent of spring 」――これにて閉幕


第一幕・後書き


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