「…真琴さん。待っててください、僕は…帰ってきます……いつか、必ず!」
「来週までには帰ってくるんでしょ、あんたは」

滂沱の涙の流しながら、決意を表明する小太郎は真琴は半眼になりながら冷たく答えた。
何しろ、指先が白くなるほど両手を握り締められた日には、多少は頭にきても仕方ないだろう。
小太郎はショックを受けたように後退りし、泣きそうに表情を歪めて真琴の隣に立っている美汐に訴える。

「ううっ、美汐姉さん、真琴さんがつれないんですぅ」
「…………」

呆れて言葉も無い美汐。
そうこうしている内に、駅の横に設置された踏切がけたたましく警報を鳴らし始めた。

「そろそろ電車が来るようですよ。さっさと行きなさい」
「ああ、まるで追い出すように」
「あうー、うるさい! さっさと行け!」
「わぅー、真琴さんまで〜」

蹴飛ばされるように二人の前から追いやられた小太郎は、未練がましく何度も振り返りながら改札を抜ける。

「じゃあ、行ってきますねー!」

おなざりに手を振る二人に向かって、ブンブンと大きく両手を振り返し、小太郎は姿を消した。

「…あうー、なんか疲れた」
「…折角駅前まで出てきましたし、ターミナルでも覗いていきましょうか」
「あ、いこいこ。あたしここって入るの初めてー」
「何か良い服があったら見繕ってあげますね」


かくして、美汐と真琴はさっさと見送りに来た人間の事を忘れて、駅ビルの中へと消えていった。






―――二日後


解放感――
真琴は初めて味わうこの解放感というものを満喫していた。
以前に祐一が試験明けに偉そうに解説してくれた時はさっぱりその素晴らしさがわからなかったが、いざ自分が経験してみると、これほど素敵なものはない。

素敵なものは無いのだが……

ここ暫くの日課のようになっていた勉強時間がそのまま空き時間となってしまい、どうにも暇を持て余している。何もする事が無いと云うのもちょっと困る。
美汐や祐一は学校で、秋子さんはお仕事。仕方ないので、昨日はあゆのところに入り浸っていたけれど、今日は最終検診とかで午前中は面会できないらしい。
栞はといえば、もう少ししたら追試とかで、此方も遊んでいる余裕は無さそうだった。

「小太郎でもいないよりマシだったかなぁ」

呟きは、誰の耳にも届かずに、風に包まれて空高く運ばれてしまった。
ブラブラと歩く街並みは、いつもと変わりないけれど、何となく飽きない。
家でゴロゴロと漫画を読んでいたものの、どれも読み飽きてしまい、真琴は外をぶらつく事にした。
ぴろも誘おうかと思ったけれど、どこかに遊びに行ったのか、姿が見えなかった。

目的もなく歩くというのは、なかなか奥深いものだ。
いつの間にか足取りも軽く、でもいつもよりゆっくりと歩く。どうやらこの解放感というものは、ただ歩いているだけでも気分を楽しくさせてくれるらしい。
魚屋に並ぶ知らない魚類を覗き込み、靴屋の古びた看板を眺め、おじさんが手馴れた仕草で串を揚げているのを足を止めて見物する。
そんな何でもない事でも楽しいのだと、真琴はおじさんにただで貰ったコロッケを頬張りながら実感した。

今度は美汐と一緒に歩いてみたいな。

美汐なら、もっと面白い事を何でもない風景から見つけてくれるかもしれない…そんな気がした。


と、通りがかりに何気なく百花屋のウィンドウの中に視線を向けた真琴は、前に踏み出していた左足をピタリと宙に停止させて立ち止まった。
ちょっとだけ考えるように頭を前に傾ける。つられて小麦色の髪も前へと垂れる。

「…へっへ〜♪」

まっいっか、とばかりにえへへと笑い、真琴はコンコンとウィンドウを叩いた。
中の窓際の席で独り、新書本を読んでいた眼鏡を掛けた青年がチラリと視線を上げる。
ピクリ、と右目の睫毛が震えたのが見えた。此方を向いてくれたので、ブンブンと手を振る。目の前にいるのにかなり大袈裟だった。
青年は溜息混じりに視線を書物に戻すと、トントンとテーブルを指で叩く。
どうやら外で騒いでないで入って来いという意味らしい。
真琴は嬉しそうにピョンと一度だけ飛び跳ねると、弾むような足取りで百花屋の扉へとスキップを踏んだ。



「真琴か…何か用か?」

柔らかいイスの綿が弾む。久瀬俊平は前の席に元気良く少女が腰掛ける気配に、顔も上げずに問いかけた。

「あう? うーん、別に無い」
「そうか」

特に何を云うでもなく短く応ずると、見もせずにコーヒーのカップを掴み、口元に運ぶ。

「えへへ〜」
「何だ?」

久瀬の素っ気無い態度に何故かヘラリとした笑い声を零す真琴に、久瀬は視線を本から少しだけずらして真琴の笑顔を見つめた。

「何でもな〜い」
「…そうか」

良く意味の無いやり取りを繰り返している内に、新たな客に長い髪をポニーテールに纏めたスラリと長身のウェイトレスさんが注文を取りに来る。

「ご注文はお決まりになりましたか?」

ハキハキとしたその口調に、真琴は突如思い出したようにウッと息を詰らせた。実は今、現金の持ち合わせがなかったりする。秋子お母さんに貰ったお小遣いの入った財布は部屋に置きっぱなしだ。
どうしようかとツインテールがしな垂れた瞬間、すっと手元に店のメニューが滑り込んできた。
驚いて顔を上げると、やっぱり本から目を離さないまま久瀬が静かに告げる。

「600円までだ」
「え? いいの?」

久瀬は答えない。もはや関心など無いと言わんばかりに文章を追う事に没頭している。
だが、真琴はそんな久瀬の様子にも頓着する事無くパァーっと顔を輝かせると、二人のやり取りに微笑むウェイトレスさんに向かって、声を弾ませながらメニューを指差した。

「イチゴサンデー!!」
「……お、お客様、そのイチゴサンデーは――」

860円なんですよ、と言いかけて、あまりに嬉しそうな真琴の双眸に見つめられて思わず口篭もる。
ウェイトエレスさんは助けを求めるように、久瀬の方へと顔を向けた。
本を置き、頭痛を堪えるように顔を押えていた久瀬は、その視線に気付くと「それでお願いします」と溜息混じりに言葉を落とす。
ウェイトレスさんは何ともくすぐったそうに表情を緩めると、「少々お待ちください」と言い残して、颯爽と立ち去っていった。





「―――それでね、その小太郎って奴がね――」

イチゴサンデーはさほど時を置かずに運ばれてきた。人気メニューだけあって、用意は万端だったのか。
真琴はサクサクとシャーベットを切り崩しながら、絶える事無く口を動かしていた。
食べてない時はずっと喋っている。

久瀬はと云えば、相も変わらず本へと眼を落としたまま、聞いているのかいないのか。
だが、偶に相槌を打っているところを見れば、ちゃんと聞いているようだった。

突き放すでもなく、積極的に構うでもない。
そんな久瀬の態度に真琴は特に不満を示す事無く、自分の近況について一方的に喋りつづける。

「それでさ、いきなり結婚よ、結婚。ちょっと非常識だと俊平も思うよねえ」

最後のケーキの一欠けらを口に放り込みながら、真琴はちょっと憤然としながら鼻息を荒くする。
どうやら読み終わったのか、本を閉じてテーブルの脇に置き、久瀬は一口コーヒーを口に含むと、少しだけ皮肉げに唇を歪めた。

「君に非常識と言われるとは、その小太郎君とやらも相当の変人のようだな」
「あうー、それどういう意味よぅ」
「ふふ、他意は無いさ。そのままの意味だ」

結局よく分からなかったらしい真琴は、むーっと唇を尖らし、パクリとイチゴを丸ごと頬張る。
そんな彼女をどこか眩しげに目を細めて眺めていた久瀬は、ちょっとだけ意地悪げに訊く。

「だが…その彼の事を嫌いではないんだろ?」
「そりゃ…嫌いじゃないけど…でも…なんか…あうー」

どうやら自分でも良く分かっていないらしく、真琴は低く唸りながら両手を拳に握りこんで、動かなくなってしまった。
思わずフッと鼻で笑ってしまう久瀬。

「…お子様だな」
「なっ、ななななによぅ! 俊平まで祐一と同じ事云ってぇ!」
「つまり事実と云うことだな」
「あうー」

反論の言葉を捻り出せずに恨めしげに上目遣う真琴だったが、久瀬はそ知らぬ表情でカップを口元に運んでいるだけで動じない。
真琴は細長いスプーンに乗せれるだけクリームを乗せ、かぶりつく。名雪が絶賛するだけあって、イチゴサンデーはたいへん美味しかった。

「鼻にクリームがついている」
「……ッ!?」

慌ててナプキンで拭い取る少女の姿を、先ほどのポニーテールのウェイトレスさんがクスクスと笑いながら見つめていた。


お子様は機嫌が直るのも早い。

スプーンが幾度かグラスと口元を往復するウチに、さっさと真琴の機嫌は直り、再び捲くし立てるように色々な事を久瀬に話し掛ける。
久瀬はといえば、やっぱり先ほどと変わらず時たま相槌を打つだけで、おかわりしたコーヒーの香りと味を淡々と楽しんでいた。

「ほう、なら来月からはウチの高校の生徒というわけか?」
「うん、まあ受かったらだけどね」
「…そうか」

カチカチとスプーンがグラスの底で音をかき鳴らす。真琴は残り少なくなったイチゴサンデーと格闘しながら久瀬に訊ねた。

「そういえば、俊平も大学受けてたんだよね。どうだった?」
「御陰様で合格通知を貰ったよ」

何故か苦笑気味に唇を吊り上げる久瀬の様子に小首を傾げながらも真琴は素直に言葉を乗せる。

「そっか、おめでと」

久瀬は僅かに驚いたように細い目を見開き、カップを置くと、一拍の間を置いてそ硬質の表情を少しだけ緩めた。

「ああ、ありがとう」
「えへへー♪」

何か、無性に嬉しくなって真琴はにやけながら指でグラスに入ったスプーンを弾く。スプーンは軽やかな音を立てながらグルグルとグラスの中を回った。
それが勢いを失って止まったのを見計らったように真琴は立ち上がる。

「ごちそうさま。あたしもう行くね」
「…そうか」

先ほどの穏やかな表情はどこへやら、さっさといつもの無愛想な顔へと戻ってしまった久瀬はそうやって一言だけを投げかける。

「じゃあまたねー。今度はあたしが肉まん奢ってあげるねー」
「……車には気をつけろよ」

あえて肉まんには触れず、久瀬は幽かに眉を顰めて注意を促した。聞こえたのか聞かなかったのか、春のような小麦色の髪の毛の少女は、ブンブンと両手を振りながら店を飛び出していった。

「やれやれ、いつも元気なことだ」

ふぅ、と溜息を落とす久瀬の元にポニーのウェイトレスさんが歩み寄り、笑顔とともに声をかけてくる。

「此方はお下げしますね。それから、コーヒーのお代わりは?」
「…お願いします」

フワリ、と仄かに心地よい香りを残し、ウェイトレスが真琴の残したグラスを運び去ったその時、カランとドアに付けられている鈴が軽やかに鳴った。
鈴の音に誘われるように久瀬が入り口へと視線を向けると、淡い色のカーディガンを纏った上品そうな女性が店内へと現れるのが見えた。
キョロキョロと誰かを探すように視線を彷徨わせている女性に、久瀬は落ち着いた声を投げかける。

「こちらです、わざわざお呼びだてしてすみません、倉田さん」

倉田佐祐理はその笑顔に傍目には分からぬほどの硬さを塗しながら、久瀬の座る座席へと足を向けた。










「そういえば、俊平って学校サボってたのかなぁ?」

そろそろお昼時。秋子お母さんが作りおきしておいてくれるお昼御飯を食べるために、自宅への帰途へと付いていた真琴はふと思い出しながら口に出して呟く。
もしかしたら三年生はみんな休みなのかもしれないけれど。

そういえば、秋子お母さんは今日仕事で帰らないかもしれないとか云ってたけど、晩御飯は名雪が作るのかな?

手伝うのも良いかもしれない。そんなことを考えながら歩く。
街並みはいつの間にか民家の建ち並ぶ住宅街へと差し掛かっていた。
昼に差し掛かるこの時間帯には、意外なほどに人気が無く、歩く人影は真琴一人。
冷たい風がジージャンの裾を巻き上げる。

「すみません」

特に感情の篭もらない低い声。一瞬戸惑い、どうやら自分に向けた声だとわかり、真琴は足を止めた。
その人は…いつからそこに居たのだろう。
進行方向の3メートルほど先に、その人は立っていた。黒っぽいスーツを着こなした三〇前後の男性。きっと、もう一度会ったとしてもすぐには思い出せないようなあまり特徴の無い顔をした男。

「…水瀬真琴さん…ですね?」

そいつは、小さな、だが明瞭に聞こえる声でそう云った。

「そうだけど…なに?」

ピリピリと肌が針に突かれたようにチクチクする。
自然と警戒感が生まれ、真琴は僅かに後じさりしながら問い返した。
何か…嫌な感じ。
いつもの人見知りとは、決定的に違う恐れ……

そいつは、表情一つ変える事無く一言告げた。

「少々…我々に同行して頂きたいのですが」
「ど、同行って……」

一瞬、誘拐という単語が浮かぶ。
さっきから感じる嫌な感触は、危険を訴える警報だと意識の裏で判断し、真琴は逃げ出そうと身を翻し、硬直した。
何時の間にか、背後にも二人の男が立っていた。行く手を塞ぐようにして。
その格好もまたどこにでもいるようなスーツ姿。この状況ではそれが逆に不気味だった。

「な、なによ、アンタたち!?」

男たちはもう何も語らなかった。
ゆっくりと、だが真琴が逃げ出す隙をまったく見せず近寄ってくる。
訳の分からぬ展開に、真琴の心が恐怖に震えた。

立ち竦む真琴に、思いのほか滑らかに男の内の一人の手が伸びる。
その手が真琴の腕を掴もうとした瞬間、どこからともなく飛来した石が、男の手の平を弾いた。

一人の男が素早く振り返る。だが、彼は疾風のように突撃してきた人影に突き飛ばされ、たたらを踏んだ。
人影は、真琴を庇うように両手を幽かに広げて彼女の前に立つ。

「ま、舞!」

黒いジャケットとパンツに身を包んだ舞は、真琴に一瞬顔を向けると、コクリと頷いて見せた。
そして、威嚇するように三人の男を睨みつける。

剣…やっぱり持ってた方が良かったかも。

剣はまだ押入れの中に仕舞ったまま。男たちの手に武器が無いことを考えれば、剣など必要なかったかもしれない。
だが、舞は険しい表情のまま、油断無く様子を窺う。

「あなたたち…何者!?」

男たちは答えない。背後で真琴が怯えたように服の裾を掴むのを感じた。
舞のこめかみを一筋の冷汗が流れる。
素人目に見ても、男たちの佇まいは尋常ではなかった。先ほどは隙を突いて割り込む事が出来たが……
どう考えても普通の人間とは思えない。
それとなく真琴を見守っていたのは良かったが、いざこの時に至って、舞は自分の手に剣が無い事に震えがくるほどの心細さを感じていた。
なんだかんだと云っても、剣を持たない川澄舞は普通の女子高生に過ぎないのだから。

「お嬢さん、その娘を黙って此方に引き渡してはいただけないだろうか…」

背後から唐突に放たれた落ち着いた声。ハッと、舞の体が震えた。
思わず振り返る愚挙を起こす事無く、舞は真琴を壁側に庇いながら背後を確認する。
気配を探ることなら並の人間などより遥かに長けていると自負する自分が、まったく気付けなかった事に戦慄を覚えながら、舞はゆっくりとその男に顔を向けた。

髪の毛を後ろに撫でつけた恰幅のある五十を越えた穏やかそうな紳士。それが第一印象。

「どうして…真琴を?」

震える真琴を落ち着かせるために、彼女の頭に手を置きながら、舞は慎重に訊ねた。
彼はその容貌そのままの穏やかな声で言葉を重ねる。

「彼女に用がある…それでは勿論納得しないだろうな」
「当たり前」

きっぱりと言い捨てる舞に、紳士は苦笑を浮かべる。

「その娘は人ではない。君はそれを知っているんだろう? それでもその娘を庇うのかね?」

舞はキッと唇を結ぶと、怒気を隠す事無く斬りつけるように云った。

「人だとか、そうじゃないとか…そんな事は関係無い! 真琴は私の大事な友達…だから守る!」
「ま、舞」

呆けたように自分を見上げる真琴に、舞は幽かに笑みを浮かべてみせた。それは目元がホンの僅か緩むような小さな笑み。だが、真琴には分かりすぎるほどその笑みは伝わった。
紳士はどうにもバツが悪そうに襟元を直すと、仕方ないとばかりに告げた。

「それなら仕方ありませんな。申し訳ありませんが、此方も色々とありまして。二人に怪我のないように」

後ろの言葉は明らかに三人のスーツに向かっての言葉だった。
三人は音も無く動いた。舞は素早く自分の裾を掴んでいる真琴の手を振り払い、体勢を取る。
果たして自分がどれだけ抵抗できるかわからないが、それでも黙って見過ごすつもりはなかった。
だが、一人一人ならどうにか抗する事が出来たかもしれないが、三人一斉に迫る相手を捌ける自身は全く無い。
舞は半ば絶望的な思いを抱きながら、呼気を窄める。

「お待ちなさい!!」

それは裂帛の声音。
意表を突かれたように男たちの足が止まった。
誰しもが思わず声の主を振り返る。
淡く赤みがかった髪が逆立つように風になびく。
天野美汐が凛と立ち、此方を睨みつけていた。

「人払いの結界まで張って…どういうつもりですか!!」

それは真琴が聞いた事もないような美汐の怒声。

「み、美汐」

危ない、と声をかけようとして真琴は声を出すことが出来なかった。何か、その言葉がひどく間の抜けているような気がして。
一方、舞は美汐の言葉に思わず周囲を確かめる。
人払い…確かにこれだけ騒いでおいて、民家から誰も様子を見ようとしないのはおかしい。それに、先ほどから感じていた物凄い違和感。それがその結界とやらなのだろうか。
何となく納得しそうになっていた舞だったが、次の紳士の言葉には驚愕とともに顔を上げざるを得なかった。

「これは本家の命ですよ、美汐殿」

何か言おうとした舞を、美汐は一瞥で制して、先程より落とした声音で、紳士に向かって語りかけた。

「どう云った理由なんですか? 嵯峨原さん。真琴をどうするつもりなんですか!?」
「それを貴女に教える理由は無いのですよ」
「嵯峨原さん!」

悲鳴のような呼びかけに、嵯峨原と呼ばれた紳士は溜息をついて、口を開いた。

「参りましたなあ。我々はその真琴という狐の少女を拘束しろと命じられたんですよ」
「何故!?」
「あー、それは色々と聞きましたけどねえ……はてさて」

心底困った風に頭を掻く嵯峨原に美汐は押し殺したような声で告げた。

「嵯峨原さん、ここは退いてください」
「美汐殿…生憎だが貴女には我々にそんな命令を下す権限は無い」
「お願い…します……」
「むう」

重苦しい沈黙が、流れた。

やがて、誰もがその沈黙に押し潰されそうになった時、嵯峨原がポツリと呟いた。

「撤収してください」
「嵯峨原様? しかし…」

男の一人が困惑したように声を発するが、嵯峨原は謝るように右手を顔の前に立て、

「頼むよ」
「…はぁ」

男たちは思わず顔を見合わせると、嵯峨原の脇を通って立ち去っていった。

「すみません、嵯峨原さん」
「本当は困るんだけどね…そんな我侭を言われちゃあ」

嵯峨原はやっぱり人の良さそうな苦笑を浮かべると、その重たげな身体を軽やかに翻し、背中を見せた。

「今回は特別だよ、美汐ちゃん。でも次はダメだからね、こっちも遊びじゃないんだから」

そう言い残して、嵯峨原はスタスタと立ち去っていった。

いつの間にか、周囲に人の気配が戻り、無言で佇んでいる三人を買い物帰りの主婦が訝しそうに横目で眺めて、立ち去っていった。
ようやく、舞が沈黙を破る。

「…どういう事?」

美汐は答えない。苦しげに表情を歪めて、俯いている。
真琴は何がなにやら分からず、心細そうに美汐の名を呼んだ。

「川澄先輩、真琴を家まで送ってはくれませんか?」
「それは構わない…でも」
「それ以上は先輩にご迷惑がかかりますから……」

舞が決然と首を横に振るのを見て、美汐は彼女がこの件から退かないという確固とした意思を感じて、舞を巻き込まないという目論見を諦めた。

「卒業式が終わったので、小太郎が今日の内に帰ってくるそうです。彼が到着したら、共に後ほど伺いますので、それまで真琴をお願いします。今日は大丈夫かと思いますけど」

相沢さんや秋子さんにもちゃんとお話しなければいけませんしね。と苦しげに囁いて、美汐は重い溜息をついた。

「…美汐」

真琴の不安げなか細い声に、美汐はギュッと目を瞑る。
そして、肺の中から押し出すように、告げた。

「ごめんなさい、真琴」

何に対して謝っているのか解からない。でも、それがあまりにも辛そうで、でも決して突き放していない何かを感じて、真琴は首を横に振った。
空高くにまで登り切った太陽が、柔らかな陽射しを世界に投げかけていた。



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