陽射しの照らぬ夜を経て、冷たく冷え切ったアスファルト。そこから滲み出る冷気は、朝日が昇った今この瞬間を震わせる。
今日もまだ、この朝と云う時間は寒さに震えなければいけない。
その冷え切った朝の中を、ざわめきとともに学生服に身を包んだ少年少女たちが歩いていく。 ただ、その服装は幾つかの種類に分かれ、元は違う学校の者たちだということが見て取れた。
その人の流れに浮き立つようにして、一人だけジージャンにジーパンというラフな私服姿の少女が紛れ込んでいた。
本来なら思わず振り返ってしまうほど可愛い面差しは不機嫌の極致に歪められている。良く見れば、その奥には不安という感情が見て取れただろう。

「おっはよーございます、真琴さん! あれ? どうしたんですか、仏頂面しちゃって」

そんな彼女に捲くし立てるように声を上げながら駆け寄ってくる小柄な少年が一人。
彼の姿も暗色のズボンに深い紺のハーフコートという此方も地味っぽい格好。
これもまた、制服姿の波の中では自然と浮き上がっている。

「もー、遅いわよっ」
「え? そうですか?」

一瞬不満そうに口を尖らそうとした小太郎だったが、彼女の声に含まれた安堵に気付き、それ以上口にするのをやめた。
傍目には天真爛漫といった真琴だが、付き合いの短い小太郎にも彼女が意外なほど人見知りする性質である事は何となく解かっていた。
ただでさえ他人が苦手な上に、こんな見知らぬ人ごみの中に放り込まれてしまえばそれは不安に思うだろう。
何より、彼女は集団の中で過ごした事の無い事は元より、試験というものなど受けたことも無いのだ。こんな自分でも知り合いがいるという事は多少の安心材料になっているのかもしれない。

「ま、いいや。で、真琴さん、受験票はちゃんと持ちました」
「受験票? これのこと?」

肩から提げていたカバンから一枚の紙を取り出す。

「それですそれです。無くしたらダメですよ」
「わ、解かってるわよ。名雪に散々言われたし」
「それから、始まる前に先生が注意事項とかちゃんと説明してくれますから、やっちゃいけない事はやらない事。試験中に立ち上がったり、人の答案を覗いたりとかは厳禁です」
「え? あ、あうー、解かってるわよぅ」

何故そこでどもるんですか?

聞いてみたくなったが怖いのでやめておく。本当に大丈夫かちょっと心配だ。

「一緒の教室になれたらいいですねー」
「…ふんっ」
「ああ、そんな邪険にしなくても」

どうやら保護者面したのが気に入らなかったのか、スタスタと人の流れを縫って先へ先へと行く真琴を、パタパタと小太郎は追いかける。
やがて見えてくるは、綺麗に白で統一された校舎群。小太郎はそれらを見上げて、少しだけ感嘆の吐息を漏らした。
前に一度下見に来た時も思ったことだが、下手をすればそこらの大学より小綺麗で設備の整った学校だ。自分の地元の高校の貧相な学舎とは比べるのも勿体無い。
と、すぐ前を行く真琴の手に握られた受験票に何気なく視線が止まった。
ふと、思いついてはいけない事に思い至る。

「ところで真琴さん。その受験票どうしたんですか?」
「あう? どうしたって…秋子お母さんがくれた」
「く…くれましたか」

ようやく足をとめてくれてキョトンと此方を振り返る真琴の何の疑いも抱いていない双眸が自分を映す。

「あー、真琴さん……中学の方には通われてなかったんですよね?」
「当たり前じゃない」
「あ、当たり前ですか」

秋子さんはどうやって受験票を入手したんでしょうか…いえいえ、そもそも真琴さんの戸籍の方はどうなっているんでしょうか?

一旦思いついてしまうと不思議なことがつらつらと芋づる式に引き摺り出されてくる。

これ以上考えると色々と怖いことになりそうな気がして、小太郎は本能的に思考を遮断した。
なにせこれから試験本番なのだ。余計な事に脳味噌を使っている場合じゃない。

「あははは、ではさっさと行きましょう!」
「あう?」

突然笑い出し、足早に校門をくぐって校内へと入っていってしまった小太郎に、真琴は不思議そうに小首を傾げながらも慌てて後を追いかけ始めた。




朝日がそろそろ天頂への道中の中ごろへと差し掛かった頃、天野家では騒々しい騒音が鳴り響いていた。
久方ぶりの落ち着いた休日。今日は試験当日という事もあり、高校の方は休みとあいなっている。
美汐はこのところ放置しがちだった家の各所に掃除機をかけて回っていた。

「人一人増えるだけで、汚れも随分と増えるものですね」

だが、それは決して不快ではない。丁寧に、積もった埃を吸い込みながら、美汐は幽かな微笑みを浮かべた。
天野家はこれまで父子二人きり。それも父・愁衛は外回りの仕事が多いため家を空ける事が多く、必然的に美汐一人きりという時間が多くなる。
少女一人にはこの家は大きすぎた。

掃除にも一区切りつき、美汐は手元のスイッチを切る。新しいとは断じて口には出来ない古びた掃除機の轟音が止んだ。
そして舞い降りる静寂――この家に誰もいないことを示す静寂。
美汐はこれまで当然のようにあったその静寂に、一瞬、立ち尽くしてしまった。
無意識に落とした視線に、真っ白い座布団が飛び込んでくる。
美汐は無言で持ち上げた座布団を空いた手で叩いた。当たり前の様に埃が舞う。

「……ッ」

美汐は、思わず瞼を強く閉ざした。
思い出しそうになってしまったのだ……あのけたたましい喧騒に満ちた日々を。
静寂が満ちる。美汐はしばらく目を閉じ、立ち尽くしていたがやがて沈黙に耐え切れずゆっくりと目を開き、手に持つ座布団を見つめた。

……あの子は、退屈すると他人に座布団を投げつけて遊ぶのが好きだった。それにいつもあの人は喜び勇んで相手をするものだから部屋は毎回ひどい有様になってしまう。
私が必死になって止めようとしたら、今度は二人して私に向かって座布団を投げつけてきて……だから私はその度にカンカンに怒ってしまって二人に……二人に…――――

「…ック」

無理やり思考を遮断した。意識を真っ暗にして、何も考えない…何も思い出さない。
これ以上はダメだ。絶対にダメだ。思い出したら止まらなくなる。
そう…止まらなくなるから。
あの、悪夢のような出来事まで…最悪の断絶まで…思い起こしてしまうから……。
それはあまりにも……


「…フッ…ぅ」

短く切り刻むような吐息を一つ落とし、座敷の座布団をまとめて縁側ではたこうと抱え上げた時、静寂を破り捨てるように電話のベルが鳴り響いた。
未だ、どこか沈んでいた意識が、ハッと引き上げられる。
二度目のベルが鳴った。
美汐は抱え上げた座布団をそっと降ろすと、やや足早に板張りの廊下へと敷居を跨いだ。
玄関口のすぐ側に素っ気無く置かれている昔ながらの黒電話。三度目のベルが途切れる前に、受話器を取り上げる。

「はい、もしもし天野ですが―――あ! はい、お久しぶりです、美汐です。はい、叔母様も…」

美汐の表情が解きほぐされたように緩んだ。電話の相手は彼女の叔母。その穏やかで気配りのきく性格の彼女を美汐は幼い頃から慕っていた。

「いえ、迷惑だなんてそんな。ウチはずっと二人でしたから―――はい、男手が増えたので助かってます」

付け加えると、この叔母君…天野梢こそ小太郎の母親という事になる。

「はぁ…卒業式ですか? ええ、本人も一度帰るとは云ってましたので……」

どうやら内容の方は小太郎の一時帰省の件らしかった。受験のためと、父親の横槍から逃れるために美汐の家に来ている小太郎だったが、流石に最後まで中学の方をサボっている訳にはいかないらしい。
以前から一度は帰ると言っていたのだが、どうやら明日にも早々帰らねばならないようだ。
と、そこで電話の向こうの声が呆れた風の口調に変わる。

『ええ、それは分かっているのだけれど…実はね、道武さんが先週ぐらいからまた機嫌を悪くしてしまっててね。小太郎には一応注意するように言っておいてくれないかしら。
なるだけお父さんと顔を合わせないようにしなさいって』
「お、叔母様…」

実に有用な忠告だったが、あまり母親のセリフとも思えない。いや、母親だからこそのセリフだろうか。

『まったく、あの人ったら、この後に及んで…ねえ。往生際が悪いと云うか……。まあね、高校の三年ぐらいは見逃してやるけど、卒業までに翻意させてやる、なんて事は前から云ってたんだけどね』
「そ、そうなんですか?」
『そうなのよ。それだけでも呆れてしまうのに、その三年すら我慢できなくなったのかしら』

梢叔母さんは愚痴と受け取るには、声音に悪意に欠ける文句を幾つか残して、小太郎という面倒を引き受けてくれたお礼と愁衛によろしくという言葉とともに電話を切った。
美汐は少し話し疲れたように、ふぅと吐息を落とすと、受話器を置く。
そのまま、受話器を置いた体勢のまま、美汐はしばし叔母との会話を思い出した。
彼女の言葉の中に含まれていた幾つかの気になる点…

「先週…ですか…」

音の消えた屋内に、自分の呟きが思いのほか強く響いたことに美汐は一瞬身震いして、唇を噤んだ。

どうも…色々と考えすぎているようですね。

無意識に髪の毛を撫で付けていた右手を下ろし、美汐は再び掃除へと戻る事にした。
早く終わらせなければ、夕方までには試験を終えて、小太郎が帰ってくる。







カチャリ、という音が、リビングで朝刊のスポーツ欄を広げていた祐一の耳に飛び込んできた。

「お、帰ってきたか?」

その声を聞きつけて、台所にいた秋子さんと名雪がパタパタと姿を現す。
「ただいま」といういつもの弾けるような声音と比べるとどうしても聞き劣りする声が聞こえてきた。
祐一は、新聞を無造作にテーブルの上に放り捨てると、スリッパを引っ掛けて廊下へと出た。
そこにはちょうど後ろでにドアを閉める真琴の姿が。

「よ、お帰り。どうだった?」

兎に角前置き無しに、祐一は軽く問いかけた。
背後から、名雪と秋子さんが近寄ってくる足音が聞こえる。

「べ、別に試験中に騒いだり、人の答案覗いたりなんかしなかったわよぅ」

何故か慌てた風に捲くし立てる真琴。

「誰もそんな事は聞いてないんだが…」
「真琴…やっちゃったの?」

いつの間にか横に立っていた名雪が笑顔を引き攣らせながら訊ねる。

「だからやってないってば。小太郎に始まる前に云われたし…」
「…云われなかったらやってたのか、お前は」
「ここは小太郎君に感謝だね」

冷汗混じりに顔を見合わせる名雪と祐一。よく考えれば無理はない。真琴は試験というものを生まれて初めて体験するのだから、一般的な常識は全然持ち合わせていない。そこのところをまったく考慮していなかった祐一と名雪は、真琴に試験というものがどういう風に行なわれるものなのか、殆んど教えていなかった。
小太郎が事前に色々とレクチャーしていなければ、かなり危険だったかもしれない。

「それで、真琴……テストの方はどうだった?」

秋子さんが本題とも言うべき問いをあっさりと訊ねる。
真琴は少しだけ不安そうに上目遣いに三人を見上げると、「良くわかんないけど…」と呟き、

「でも、あんまり分かんないところなかったし、全部埋めたし…大丈夫だと思う」
「…そう」

秋子さんはそう一言だけ呟くと、「頑張ったわね」と囁いて真琴の頭をそっと抱き締めた。
エプロンから匂う心地よい香りと感触に、真琴は気持ちよさそうに瞼を閉じる。
祐一と名雪は、顔を見合わせ笑いあった。

「さあ、じゃあ夕食は奮発するわね。何かリクエストはある?」
「肉まんはダメだぞ」
「あ、うー、そそ、そんなこと云わないわよぅ」

思いっきり図星だったかして、声が裏返ってた真琴に向かって、三者三様の笑い声が響き渡る。

今日も水瀬家は温かく、平穏だった。


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