水瀬真琴の近頃の一日の過ごし方は大体一定している。
バイトでお世話になっていた保育園の方は、高校受験を前にしてお休みを頂いている。合格後はまた手伝わせてもらえる事になっている。時間の方は今までどおりという訳にはいかないだろうが、何より将来なりたい仕事の経験を積める機会を逃す手はない。
話を戻すと、真琴の一日は祐一・名雪を見送り、秋子の出勤を待ってから、病院のあゆの元へと見舞いがてら遊びに行く事で午前中を過ごし、午後からは勉強という訳だ。

そして、今日も変わらず真琴は病院への道をテクテクと歩いていた。
違うのは横に嬉しそうにチョコチョコと一人の小柄な少年が一緒に歩いている事。

「で、なんでアンタが一緒にいるわけ?」

不機嫌というほど不機嫌ではないものの、少々眉を傾けながら真琴はつっけんどんに天野小太郎へと声を投げかけた。
小太郎はあっけらかんと答える。

「だって、家に一人で居ても暇じゃないですか」
「勉強しなさいよ、勉強」
「えー? でも真琴さんだってしてないじゃないですか」
「ふんっ、あたしはそんなガツガツやらないでも大丈夫なのよぅ!」
「あはは、奇遇ですねぇ。僕もです」
「あうー! なんかそれむかつく!」
「な、なんでですかぁ!?」

一日一日が過ぎるにつれ、降り注ぐ陽光には春の香りが漂い始めている。
端から見ればガヤガヤと、戯れるように歩く二人。
二人のリズム良いステップは、耳を澄ませば無機質なアスファルトの上で軽やかな音楽を刻んでいるようで。

川澄舞は思わず口端に幽かな微笑をたたえた。

「…真琴、小太郎」

横合いからかけられた声に、二人はまったく同じタイミングで首を捻った。
そんな仕草にやっぱり舞は微笑まずにはいられない。

「あれ? 舞じゃない。どうしたの?」
「あ、川澄先輩、おはようございまーす」

雑踏の中に佇んでいた予想外の人にキョトンとする真琴に、此方は頓着せずに無邪気に挨拶する小太郎。

「ねぇ、学校は?」

真琴が不思議そうに訊ねた。平日の午前中、学生ならば授業に出ていなければいけない時間帯だ。
だが、舞は心なしか澄まして答えた。

「この時期の高校生は別に学校に行かなくてもいいから」
「ああっ、サボり〜?」
「わっ、悪いですねぇ」
「…良い身分」

自分で云っちゃって、舞はスタスタと先立って歩き始めた。

「ちょっと? どこ行くの?」
「あゆのお見舞い。最近行ってなかったから…行くんでしょ?」
「そりゃ行くけど。そのためにサボったの? 学校終わってから行けばいいのに」
「…真琴たちと行きたかったから」
「はぁ?」
「真琴さん好かれてますねー」

なんでそうなるのよっ、と怒鳴る真琴と首を竦める小太郎を視界の端におさめながら、舞はさり気なくいつもと変わらぬ街並みに視線を流した。

……いる。

舞は昨晩感じた違和感が、勘違いでなかった事を確認した。
水瀬の家を、無言で窺っていた何者かの気配。

誰を見ているの? 真琴? 小太郎?

昨晩、あの家に集まっていた人間は八人。秋子さんはとりあえず置くとして、祐一・名雪・佐祐理・美汐は学校だ。とりあえずは大丈夫だろうと見当をつけ、舞は残る二人の様子を見るために病院へと至るこの道で待っていた。真琴の最近の行動は聞くとは無しに名雪や本人から以前聞いた覚えがあったのだ。
そして案の定だ。明らかに、真琴か小太郎、どちらかを絶えず見つめている視線がある。
敵意は感じられない。だが、どこか無機質で感情の見えない冷たい視線だ。それが最低二つ。
かつて、夜の学校で魔物を相手に激闘を繰り広げた舞の感覚をして、それ以上のことは解からない。視線の元が見つからない。

今の所は監視だけなのだろう。差し迫った危機感は感じられない。
だが……

もしかしたら剣が必要かもしれない。

舞は、注意を怠る事無く歩きながら、我が家の押入れに大事に仕舞ってある我が身の半身に思いを向けた。
誰かを守るためならば、再び剣を取ることに躊躇はなかった。









「そろそろ暖かくなってきたね」
「つーか、前に住んでた所だととっくに春真っ盛りのはずなんだがな」

祐一は微かに身震いしながら、名雪の言葉に口を尖らせながら少しだけ灰色がかった雲のたなびく空を見上げた。

「暖かいから眠くなってきちゃったよ」
「寝るな!」

いつの間にかトロトロと立ったまま名雪の目が糸へと変わりそうだったので、ポカリと叩く。
うにゅうと鳴いて名雪は目を覚ました。

「痛いよ祐一」
「なら寝るな」

今からこれでは本格的に春に差し掛かった時にどうなるやら、かなり不安な祐一であった。
二人の居る場所は、学校の中庭。時間は昼時。いつの間にか、みんなこの場所で昼食を取るようになっていた。

「あんたって娘は…さっきの授業だって寝てたじゃない」

香里がさっさとシートの上に腰をおろしながら呆れた口調で言う。

「だって眠かったんだもん」

不服そうに口を尖らせて、名雪も膝を落とした。その手の中にあるものに目を止め、香里は苦笑を浮かべる。

「なるほど、お弁当を作ってきたのね」
「うん。お陰で今日はねむねむだよ」
「そういや、今朝は遅刻してたもんな」

ケラケラと北川がからかうように笑う。その隣に座っていた無断欠席登校少女が不思議そうに首を捻った。

「どうして名雪さんがお弁当を作ると遅刻になるんですか?」

云いながら、やはりどこからともなくお弁当を取り出す美坂栞。流石に一時期の凶器じみた量ではないものの、それでも一人分としては少々多い。
祐一は目の前で起こる物理法則を無視した現象にもはや眉すらも動かさない。だが今朝の情景を思い起こすことでゲンナリと顔色を落としながら半眼で隣の青みがかった髪の少女を睨む。

「コイツ、作るのはいいんだが、完成した途端また寝ちまいやがるんだ。しかも早起きした反動だか知らんが、いつもの倍は手間がかかる。死ぬぞ、あれは」
「うー、そんなにひどくないよ〜」
「残念だが、その言葉のどこにも信用が無いな。円安&株価大暴落だ」

うーうーとサイレンのように不満を表す名雪だが、香里も北川も苦笑を浮かべながら顔を見合わせるばかりで味方はいない。祐一の云う通り信用度はゼロのようだった。

「こんにちは」

ふと、喧騒に紛れ込むように落ち着いた声が降ってきた。唸りをあげていた名雪が顔をあげて表情を綻ばす。

「あ、美汐ちゃん」
「昨晩はごちそうさまでした」

ペコリと背筋良く名雪に向かってお辞儀する美汐の手の中にはこれまた薄桃色の可愛い布に包まれた小さなお弁当箱。

「なんだ、美汐ちゃん珍しいな」
「そうですね。久しぶりにお昼ご一緒できて嬉しいです」

北川が少し珍しそうに目元を和ませ、栞が嬉しそうに云う。二人の云う通り、美汐は毎回中庭でこのメンバーと共に昼食を取っている訳ではなかった。本人曰く、クラスの友人との付き合いもあるらしい。
祐一が以前「天野。お前、友達が居たのか!?」と心底驚いた風に発言した際は、美汐を含め、舞・名雪・香里の女性陣にボコられている。北川の「相沢、それはちょっとマヂに失礼だぞ」の言葉が身に染みた事件だった。
それは兎も角、美汐は特に表情を変えることもなく、空いた場所に腰掛けた。

「偶にはご一緒させていただこうかと」

弁当箱を膝の上に置き、スルスルと包布の結び目を解く。
と、その面差しが上がり、視線が周囲に向けられた。

「…川澄先輩と倉田先輩がいらっしゃいませんね」
「あ、そうですね。いつもは……」

美汐の呟きに答えようとしていた栞の唇が、校舎から出てきた一人の人影に閉ざされた。

「あれ? 佐祐理さん、一人ですか? 舞のヤツは?」

訝しげに祐一が眉を寄せるのも無理はない。訪れた人影は倉田佐祐理一人だけ。いつもその隣にいるはずの毅然とした雰囲気を持つ少女の姿がなかった。

「はぁ、舞ってば今日は用事があるとかで、学校お休みしたんです。あはは、お陰で佐祐理は一人ぼっちです」
「またまた」

わざとらしく表情を暗くして世界の終わりのように囁く佐祐理に、祐一は苦笑を浮かべた。
茶化して云う分にはそれほど深刻な事ではないのだろう。
だが、その左隣で、美汐は右眉を幽かに落とすと、考え込むように僅かに俯いた。

…恐らくは川澄先輩は真琴の所ですか。大事無いと考えたいのですが……何故あそこまで執拗に…

「とりあえず、揃ったみたいだし、さっさと食べようぜ」

北川の声と共に、その手の中でパチンと割り箸が割れる音が響く。ハッと沈みかけていた美汐の意識が引き戻された。

「そうね」

北川の言葉に、自分のお箸を取り出しながら香里が頷いて同意を示す。
美汐はふぅと小さく吐息をついた。

考えすぎですね、きっと。

そして、頂きますとパラパラと声があがり、それぞれの弁当へと箸が伸びる。


「って、お姉ちゃん。何当たり前のように私のお弁当に手を伸ばしてるんですか!?」
「なによ、いいじゃない。あたし、お弁当持ってきてないのよ」
「だったら食堂に行けばいいじゃない!」
「またそんな勿体無い。ここに沢山あるじゃない、我が家の食材が」
「それは北川さんのです!」
「どうせ余るんだから、最初からあたしも頂いた方が効率的でしょ」
「全然効率的じゃありません! だって北川さんは残しませんから! そう、愛ゆえに!」
「いや、多いから残す」
「ほら」
「えうう、愛の裏切り者ぉぉ!」


「な、名雪よ」
「な、なにかな? 祐一」
「弁当の中身が真っ赤ッかなのは何でかな?」
「それはね、わたしの愛が詰ってるからだよ」
「……ほーう」
「……う、うにゅ」
「……ほーう」
「そ、それはね、きっと中身が紅しょうがばかりだからだよ」
「……ほーう」
「うにゅ、どうりで何か軽いと思ったよ」
「な・ん・で・中身が紅しょうがなんだ?」
「そ、それはね、きっとわたしが寝ぼけてたんだよ」
「…………」
「………く、くー」
「寝てご・ま・か・す・な」
「あ、あっ、げ、拳骨グリグリは反則だよ〜、頭が、頭が軋む〜」
「いっぺん割れろー!!」 「うー、折角作ったのに〜」
「これは作ったとは云わーん!!」

「あははーっ、毎回毎回飽きもせずよくやりますねー。お陰でお昼は退屈しません」
「……毎回やってるんですか? これ」
「はい、毎日」
「……実に興味深いです」

これからは度々見物に来ようと思う美汐であった。



さて、名雪が罰に食堂までひとっ走りしてパンを買いに行かされたとか、香里と栞の姉妹口喧嘩の末に何故か今度、北川が二人に弁当を作ってくるはめになったなどの出来事が巻き起こりつつ、昼休みは瞬く間に回る時計の針により消費されていった。
やがて、色とりどりのオカズが消え去り、食事も終わる頃、高らかに予鈴の音が鳴り響く。

「さて、じゃあそろそろ私は帰りますね」
「おう、ご馳走さん、栞ちゃん」
「変な所、ほっつき歩くんじゃないわよ。さっさと帰って勉強する。追試で点が悪かったら最悪よ」
「お姉ちゃん、意地悪です。折角記憶からなかった事にしてたのにぃ」

ヨヨヨと泣き崩れる栞に対し、香里は素っ気無くソッポを向く。

「あれ? 栞ちゃん追試あるんだ」
「あるに決まってるじゃない。ただで復学しようなんて甘いわ」
「ふぇぇ、もしかして落ちちゃったら退学ですか?」

相も変わらず佐祐理さん。実に無邪気に人様の、痛いところを抉って捻る。
北川、あややと茶色の髪を掻きながら、苦笑いを浮かべて告げる。

「倉田先輩、あんまり栞ちゃんを脅かさんでやってくださいよ。ほら、魂が抜けかけちゃってますよ」

北川が指差す先には「退学? 退学?」と繰り返しながら白目を剥いて斜めになってる美坂栞が。何気にぼやーっと白いものが頭の上に浮き出ているのは果たして気のせいか。

「はぇぇ、栞さんって色々と面白い方ですねぇ」

感心したように両手を合わせる佐祐理さん。それは絶対に褒めてない。

「まったく…器用なのか不器用なのか」

そういう問題ではないような気もするが、香里がペシペシと壊れたテレビを叩くように栞の頭を引っ叩いて、意識を無理やり引き戻す。

「ハッ!? 野に咲く花の様にサンタさんがフラフープ?」
「「いや、訳解からん」」

栞のお手軽インスタント臨死体験を一言で一蹴する北川と祐一。

「どうでもいいですが、授業始まってしまいますよ」

差し迫った状況を的確に言い表わした美汐の言葉に、ようやく皆は遅刻の危機へと想像が至り、それぞれの教室へと戻り出した。
と、美汐は栞を見送り、連れ立って帰ろうとした祐一をそっと引き止めた。

「相沢さん」
「うん? どうした、天野」

美汐は一瞬だけ迷ったように視線を泳がせると、少しだけ上目がちに目線を上げて、囁いた。

「自宅の方で…何か変わった事は?」
「は? どういう意味だ?」
「……いえ、なければ別に構わないのです」

美汐は小さく首を振ると、それっきりスタスタと足早に校舎の中へと消えていった。

「祐一? 早くいかないと遅れちゃうよ?」
「ん? あ、ああ」

それっきり、祐一はその小さなやり取りを記憶の隅へと押しやり、すっかりと忘れてしまう。
数日後、その出来事が起こるまで……


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