「さあ、いっぱい食べてくださいね」
「はちみつくまさん」

秋子さんの長閑な言葉に、速攻で返答したのは川澄舞。
リビングに並べられた料理の数々はすべて秋子さんのお手製。先の自分の退院祝いでは主賓という立場もあって腕を揮わせてもらえなかった秋子さん。
ささやかとはいえ、久々に多くの人たちが集う食卓。どうやら今日はそれなりに気合が入っていたようだ。
名雪が苦笑とともに「今日は手伝わせてくれなかったよ」と祐一に囁いた。

「真琴と小太郎くんが合格したら、みなさんを呼んで本格的にパーティーをしましょうね」

その時が楽しみだとばかりにいつもにも増して満面の笑みを浮かべる秋子さん。
さり気の無いプレッシャーに真琴と小太郎が首を竦める。

「倉田先輩、川澄先輩、大学合格おめでとうございます」
「はい、ご丁寧にありがとうございます、美汐さん」
「ありがとう」

美汐の改まった祝辞に佐祐理はいつもの華やかな笑顔で、舞は珍しくはにかみを浮かべて、返礼する。
そう、今日の夕食は二人の大学合格を聞いた秋子さんが、是非にと誘った小さなお祝い。
と、云ってもパーティーというほどのものではない。並べられている料理は普通の家庭料理。振舞うという程のものではなく、ただ夕食を共にしようという肩を張るべくもない集まり。
本格的はお祝いは、先の秋子さんの言葉通りまた改めてやることだろう。尤も、秋子さんの料理の本領は普通の家庭料理にある訳で、彼女が気合をいれて作った品々は本当に見るからに美味しそうだった。

「それにしても、小太郎くんが美汐さんの従兄弟さんだとはちょっと想像できませんでした」
「不肖の従兄弟ですみません」

あまり似ていないとの意を言外に感じ、美汐は良く見つめなければ解からないほど微かに頬を染めながら、恥ずかしげに顎を引いて俯く。
どうやら彼女には、従兄弟の落ち着きの無さをあまり宜しくは無いと思っているらしい。同じ落ち着きの無い真琴には甘いくせに。
尤も、今回に関しては小太郎が特に佐祐理たちに対して何かをやらかしたと言う訳ではなかったのだが。

むしろやらかした方の舞がポツリと呟く。

「祐一の息子じゃなかった」

「当たり前だ」
「当たり前ですよー」
「わたしまだ産んでないよ〜」
「名雪お姉ちゃん…まだって…」

何気に意味深な一言に汗を垂らす真琴なのだが、さらに追求できるほどの度胸は無いようだった。

「さあ、お料理が冷めてしまいますから、皆さんそろそろ」

秋子の言葉に名々は箸を手に取る。

「では」
「「いただきまーす」」


下手をしたら五つ星レストランを上回る秋子さんの本気料理に、美味しいものには慣れている佐祐理ですら感嘆の唸りを上げながら箸を進めていく。
食材が地元の商店街で仕入れたものばかりなのだから、腕としては隔絶していると言ってもいいかもしれない。
秋子さんの料理初体験の小太郎など、目を白黒させながら夢中で頬を膨らませている。彼とて普段から中々のモノを食べていたはずなのだが。
しかし、こんな美味しいものばかり食べていては外で食べる気にはならないよな、と祐一は内心で苦笑を浮かべながら思い起こす。
少なくとも、この街に来てからファーストフードどころか外食した覚えが無い。せいぜい舞と一緒に牛丼屋ぐらいのものだ。後は百花屋か。

食卓は賑やかに時を流れる。
各々の顔にはにこやかな笑顔が浮かび、料理に舌鼓を打つ口からは軽やかに会話が流れ出す。
美汐ですらも、仄かに表情を緩めながら時々箸を止め、佐祐理や秋子と歓談している。

名雪はふと箸を止め、里芋の煮っ転がしをモグモグと咀嚼しながら、会話の渦巻く食卓を眺め見た。
一年前のこの食卓は…半年前のこの食卓はどうだっただろう。
決して不満はなかったし、寂しいとは思っていなかった。母と子二人だけ。でも、二人はいつも笑顔で、会話だって途切れる事はなかった。

だけど…

今となってしまっては、もし二人だけになってしまったならきっと自分は寂しいと思ってしまうに違いない。そう、名雪は思った。
雪の舞うあの日。祐一がこの街に来た日。あの日からこの食卓は三人になり、そして何時しか真琴が現れ四人となった。そして、もうすぐ…あゆを含めて五人になる。
それだけではない。機会さえあれば、今日この時の如く、当たり前のようにして色々な人が楽しげに我が家の食卓を囲んでくれる。
それはとても賑やかで、とても和やかで。
何より心躍るのは、この情景はこれからも何度も、そしてずっと繰り返されるであろう光景だと云う事。
今まで母と二人だけ。それを不幸と思ったことは一度として無い。むしろ幸せだと思っていた。そしてその思いは今も変わらない。ずっと自分は幸せだったと確信している。
なら、今のわたしは何なんだろう。そう考え、すぐに解かった。

「きっともっと幸せになったんだね」

「あん? なんか云ったか?」

骨付きチキンと格闘していた祐一が、骨を咥えたまま顔を向ける。
普段は意外と細くて、いつも前髪に隠れそうになっている瞳をパチリと開いて自分を見ている。瞳に自分を映している。
そう、始まりはあの日。祐一が来た日。この人が再びこの家の住人になった時。
あの日から、始まったのだ。

名雪はフワリと綿毛のように微笑むと小鳥が囀るように云った。

「大好きだよ、祐一」

和やかな喧騒が面白いようにピタリと停まった。6対の視線が祐一を注視する。
思いも寄らぬ不意打ちだったのだろう。普段なら動揺なく対処できるはずのその言葉に、祐一は真っ赤になって咥えていた骨を落とした。

「あははーっ、祐一さん照れてますよ」
「まあまあ、此方もまだまだ初々しいわねえ」

無責任に煽り立てる佐祐理さんに秋子さんにドッと場が沸く。
普段は怒らされてばかりの祐一を意地悪げな眼差しで見つめる美汐に、秋子さんがまだ入院している時には三人きりで色々とひどい目にあっていた真琴は、またかと呆れた風に煮込まれた人参をパクリと口に放り込む。
舞はどこか羨ましそう、というかもの欲しそうに口元に運んだ箸をそのままに上目遣いで二人を見比べ、小太郎はこういう場面に慣れてないのか、小声で歓声をあげながら仄かに頬を染めていた。

「だぁーっ! みんな黙って食えぇ!」

名雪は大衆に対して無駄な抵抗を始めた恋人をホンワリと見上げながら、もう一つだけ煮っ転がしを頬張った。
それはとても柔らかく、そしてとっても美味しいモノだった。

優しく光を投げかける、白い灯りのその下で、笑い声が満ち満ちる。






楽しい時は過ぎ行くのも早く。
気がつけば皿の上からは料理が綺麗に立ち去り、秋子さんと名雪は後片付けに台所に姿を消し、残る面々はほんわかと食後のお茶の時間。

「美味しいです」

至福なご様子の美汐さん。

「美味しかったねー、舞」
「秋子さんのお料理は果てしなく嫌いじゃない」

魚の漢字が描かれたお寿司屋にでも置いてそうな湯呑みを両手に添えて、舞が満足そうに頷く。

「しっかしさあ」

頬杖をつきながらぼんやりと惚けていた祐一がチラリと舞を見上げて呟く。

「舞って頭良かったんだな」

話題は今夜のメインである舞と佐祐理の合格話へ。
祐一の知る限り、この吸い込まれそうな黒髪を持つ少女は毎夜毎夜学校で突っ立ってた訳で、とてもじゃないが勉強している暇などなかったはずだ。
確かに受験前は佐祐理さんとともに猛勉強に励んでいたようだが、それにしてもと思わないでもない。

「元々舞は学校の成績も順位は上の方だったんですよ」

お茶を啜って答えない舞の変わりに佐祐理が答える。

「へー、凄いんですね」

何にも知らない小太郎が何の気もなしに声を上げると、美汐が落ち着き払った口調で注釈を入れた。

「倉田先輩は三年連続学年成績一位だそうですよ」
「ふぇぇー!?」
「へぇ、そうなんだぁ」

驚愕の声を上げる小太郎は元より、真琴も感心しながらちょっと困ったように微笑んでいる佐祐理を見やった。

「佐祐理は凄い」
「そうだよな、凄いよな」
「ふえ、そんなことありませんよ」

ちなみにそ知らぬ顔で急須の蓋を開いて中のお茶っ葉を確かめている天野美汐が一年生の学年トップだったりするのだが、誰も知らないから知らん振り。
色々な意味で奥ゆかしい美汐さん。

「それにしても、佐祐理さんほどの実力があったらもっと凄いところに行けたんじゃないんですか?」

云った祐一本人も、それほど本気でないのは言葉の端々から伝わってくるその問いに、佐祐理は無意識にクリーム色のハイネックセーターの首元に手をやった。
佐祐理と舞が受験し、そして合格した大学は地元の総合大学。様々な学部学科が揃っているこの学校は、 勿論、簡単に合格できるところではなく、この地域でもそれなりの難関だ。だが、佐祐理ほどの実力があるならばもっと上を目指しても充分に余裕があったのは間違いない。

「あまり動機としては褒められたものではないでしょうけど、佐祐理はなるだけこの街から離れたくなかったんです。それに、それ以上の目的も無いのに成績だけで学校を決めてもあまり意味が無いと考えてますし」
「なるほどね…いや、その通りだと思いますよ」
「あ、でも何かやりたい事が出来たら…また考えも変わるかもしれませんね」

はにかみながら云う佐祐理に、フーンと相槌を打ちながら祐一は舞に視線を向けた。
視線を受けた当の舞は、自分も意見を求められたのかと勘違いしたのか、俯きながら唇を震わせる。

「私は…お母さんが思う通りにしていいって云ってくれたから…」

つまりは佐祐理と一緒に頑張りたいという事だろう。

そういや舞のお母さんって結構稼いでるって云ってたしな、と以前舞に伝え聞いた話を思い浮かべながら祐一はポリポリと頭を掻いた。

「そういえばさぁ…」

ぱたぱたとお茶菓子を取りに云っていた真琴がテーブルに抱えたそれを置きながら云う。

「アンタはなんでわざわざこっちで高校受けるのよ」

云った相手は小太郎だった。

「おう、そうだよな。俺は両親が海外に行くってのについてくのが嫌だったから此処に居候させてもらったんだが、お前さんの所もそんな理由か?」

おぅ、塩饅頭と呟いて白いお菓子を摘みながら、祐一が目線だけを少年に向けて尋ねる。
やはは、と小太郎は苦笑いを浮かべながら、益体も無い話ですがと前置きして、

「進路の方で親と揉めまくっちゃいまして、半ば家を飛び出すみたいになっちゃって…」
「ふぇー、まだ若いのにやりますねぇ」

貴女は何歳ですか、佐祐理さん。

「ほう、そりゃまたやるじゃないか。しかし、家を飛び出すとはよっぽどだな」

感心したように云う祐一に、皆の湯飲みに緑茶を新たに注いでいた美汐が付け加える意味で言葉を挟んだ。

「小太郎の家はそれなりに歴史のある家業を代々受け継いでるんです。小太郎はその跡取だったんですよ。だから本人が違う事をやりたいと言い出したものだから……」
「ああ、そりゃ揉めるわな」

二個目の饅頭を放り込みながら、祐一は納得したように頷いた。
実際は揉めるどころの話ではなかったのだが、それは知らぬが仏というものだろう。

「ところで……小太郎がやりたい事ってなんなの?」

真琴が訊ねる。その時の彼女の表情は珍しく真面目で、どこか興味を押えられないという思いが誰の目にも見て取れた。
そんな彼女にやや戸惑いながらも答え返す。

「獣医です。昔から…その、なりたいと思ってて…」
「獣医さんですかぁ。それは大変ですねえ」

佐祐理が感嘆の声を上げる。彼女の知る限り、獣医とは人間相手の医学と変わらぬほどに難しい代物だ。生半の努力ではなれるものではない。
中には高校卒業後でも、何年も勉強を重ね、漸く獣医への道へと入るという人も多いのだ。

「動物さんのお医者さん…とても良い仕事」

舞が心なしか目を輝かせながら眼差しを鋭くして小太郎を見据えた。本人は頑張れと目で励ましたつもりだったのだろうが、小太郎はちょっとビビリ気味に腰を引いている。

「そういや、佐祐理さんたちの大学に獣医科ってあったんじゃなかったっけ?」
「ああ、ありましたよ」

佐祐理が自分の通う予定となっている学校の名前を言うと、小太郎はハイハイと頷いた。

「出来ればそこに行きたいと思ってます。流石にそこだけじゃなくて、他も受けるつもりですけど」
「ここらへん、牧場かなんかあったっけ?」
「けっこう遠いですけど、幾つかありますよ」

研修用の牧場なんぞあったのかと首を傾げる祐一に、美汐が答える。そんな彼女を祐一は意味深に見つめた。

「なんですか?」
「…回答おばさん」

ムカッ

「祐一、とても失礼!」
「ちょ、ちょっと待て、俺は思ったことを素直に言ってしまう心が綺麗な人間なんぐわっ!?」

ゴキッ! バキッ!

「ありがとうございます、川澄先輩」
「……相互支援」

どうやら困ったときはお互い様という意味らしい。

「あははー」
「相変わらず自業自得よぅ」

「せ、先輩、生きてますか?」
「うむ、悲しいことに慣れちゃったりしている」

冷たい女性陣を他所に、ツンツンと指先で突いて来る小太郎に、祐一は沈没しながら淡々とした口調で返答した。
そしてすぐさまボリボリと髪の毛を掻き毟りながら身を起こした。
最近、微妙に体質が北川化しているような気がして、内心穏やかでなかったりする。

「しかし、ま、先の目的持ってるってのは良い事だし、凄い事だよな」
「そうですねー、高校に入る頃から将来の夢を持ってるなんて。佐祐理なんか今になってもそういうモノはないですし」
「……私も」

同意の言葉は漏らさないものの、無言で聞いていた美汐もふと自分を振り返り、自分に何の展望も無い事に思い至り、苦笑を浮かべた。
照れて恐縮しまくっている小太郎を見て思う。
これではあまり、この小さな従兄弟に対して大きい顔は出来ないかもしれない。

  そして…

美汐は、ちょっとだけ口元に微笑を浮かべて「ふーん、そうなんだ」と囁きながら、小太郎を眺めている少女をそっと盗み見た。

  彼女にも。


「そういえば、真琴さんも将来の目的があるんですよねー」

パッと両手を合わせて、佐祐理が声質を高める。
珍しくあまり言葉を挟む事無く、小太郎のことを黙って聞いていた真琴は、いきなり自分の方に話が振られて慌てた。
「あうー」と頬に朱を散らしながら俯いてしまう。

「あ、それ僕聞きたいですー!」
「あうー! 聞くなー!」

ピョコンと手を挙げて立ち上がった小太郎が、真っ赤に顔を染めた真琴に怒鳴られ、シュルシュルと縮みこむ。
といっても、語る人には事欠かない訳で。

「まあ聞け小太郎。コイツな、保母さんになりたいんだと」
「保母さんですか」
「あうー、祐一!」
「まあ、いいじゃないか。照れるな照れるな」
「あうー」

慌てて飛び掛ってきた真琴を押さえつけ、楽しそうに祐一は口を開いた。実に人の嫌がる事が好きな男である。

「コイツ、前から保育所でバイトしてたんだけどな。先月に秋子さんに本当の保母さんになりたいって言い出して、じゃあどうしたらなれるかって調べたら、まあ手段は色々あったんだが、とりあえず高校卒業はしておいた方がいいらしくてな。それで、唯今高校入学のために勉強の真っ最中って訳だ」
「あうー」

真琴が体の下でバタバタと暴れるが無駄な抵抗。

「ま、コイツもさ、どうやら真剣に考えたみたいだし、行かせてやりたいとは思ってるんだけどな」

そう云った祐一の声音は驚くほどに優しげで、敗北して床に果てている真琴の頭にポンポンと手が乗せられる。と、周りの何とも云えない視線に気付き、祐一は疑問符を浮かべた。

「あん? どうした?」

「あははー、祐一さんとってもお兄さんしてますねーと思っちゃいまして」

皆の意見を代表してというわけではないだろうが、佐祐理が朗らか満載の笑顔で説明してくれた。
今度は照れるほどの事ではなかったらしく、チラリと苦笑をひらめかした祐一は、一瞬にして表情を一変させると、真下の真琴を覗き込んだ。

「だってさ、ほら、お兄さんだぞー」
「とりあえずどけーっ」
「おお、悪い悪い」
「あうー、誠意がなーい!」

微塵も心が篭もっていない声で謝りながら倒れ伏す彼女の背に乗っけていた腰を上げる。

「むむむ、ちょっと敵わない雰囲気ですね」

それはとてもさり気ないやり取りだけれども、そこに何となく、新参者にはとても分け入れない二人の関係みたいなものを感じて、小太郎が自分を茶化すように云う。
その瞳にはどこか羨ましげな、そして眩しげな思いが宿っていた。
その言葉に、美汐が答えるともなしに呟いた。

「色々ありましたからね、この家の人たちには」

本人は無意識だったかもしれない。だが、小太郎はそこに深い思い、そして幽かに辛さの残滓のようなものを感じてハッと、顔を上げる。此方を見つめる美汐の眼差しと視線がぶつかった。

「割って入るつもりなら、それなりの努力が必要ですよ。勿論時間という積み重ねも」

そう小さく告げると、美汐は流れるように視線を逸らした。
その横顔を、小太郎はただ見つめるしかない。

「ものみヶ丘の…化け狐」

小太郎は誰にも聞こえないほどの囁きを、舌の上で転がした。
薄々思い至っていた真琴の正体に確信を覚える。そして、今の言葉で彼女がその宿亜から脱する事の出来たヒトなのだと、解かった。
美汐は外からはその感情を読み取れない双眸で、でも確かな優しさを宿した双眸で、祐一と戯れる真琴を見つめている。

この人は、いったいどういう思いで今ここに在る彼女を見つめているのだろう。
失ってしまったヒトの姿を彼女に透かし見ているのだろうか。

小太郎は痛みにも似た複雑な思いとともに美汐を見やった。良い友人が出来たんだ…そう、叔父は云っていた。
本当に、良い人たちだと小太郎も思う。きっと、彼女のキズは癒されていくのだろう。
でも、それでも真琴を見つめるその優しい瞳の中に、大事なヒトを失った痛みは消えていないような気がした。

「ユメはまだ姉さんの中に残ってるみたいですよ。それでいいんですか? 兄さん」







「さて、夜も深けてきましたし、そろそろお暇させていただきます」

そう云って立ち上がったのは、佐祐理さんだった。
それをきっかけに、場の空気が流れ始める。

「そうですね、明日も学校がありますし」
「僕、無いですよ」
「その分勉強なさい。中学だってサボっているんですから」
「うー、解かってますよぅ」

美汐も小太郎の襟首を掴みながら立ち上がる。

「あらあら、もうお帰りですか?」
「はい、ごちそうさまでした秋子さん」
「…とても美味しかったです」
「まあまあ、あまりお構いできずにごめんなさいね」

秋子さんが少しだけ残念そうに、頭をさげる佐祐理と舞に言葉を投げかけた。
そして、美汐はゆったりと、小太郎はペコペコと此方も秋子さんにお礼をのべる。

「じゃあ、送っていこうか」

そう云って立ち上がった祐一に、佐祐理がニコリと笑いかける。

「大丈夫ですよ、舞がいますし」
「…私が佐祐理を守る」

グッと拳を握る舞に、祐一も苦笑を返すしかない。この少女のハチャメチャな強さは身をもって知っている。

「私も大丈夫です。多少ひ弱ですが、男性もついてますし」
「ひ弱って…僕ですか?」
「そうです」
「……うー」

断言されて少々ヘコむ小太郎くん。此方はちと不安だったが、まあ仮にも男だし、この辺の治安は悪くないしと祐一は一応納得した。



「またいらしてくださいね」
「…絶対」

力強く切るように言ったのはやっぱり舞で、その隣で再び白いコートを纏った佐祐理があははと笑う。
ドアを開けると夜の冷たい風が家の中へと吹き込んできた。
玄関からでも解かるほど、空は澄み渡り、星が数多く瞬いている。

「じゃあねー、美汐ぉ」
「はい、お休みなさい、真琴。みなさんも」
「真琴さん、お休みなさーい」

パタン、と扉が閉まり、夜への道もまた閉ざされた。
パタパタと手を振っていた名雪も手を下ろし、家族の一番後ろに居た祐一が両手を組んで天井へと掲げながら背を伸ばす。

「さて、なかなか賑やかだったな」
「そうだね。あ、お風呂沸いてるよ」
「そうか、ならさっさと入るかね。名雪ぃ、一緒に入るか?」
「もう、祐一エッチだよ〜」

「秋子お母さん」
「なあに? 真琴」
「コイツラ蹴っ飛ばしていい?」
「あらあら」


かくして水瀬家の夜は深けていく。







ふと、水瀬家の敷地を出たところで舞の足が止まった。フワリ、とその黒髪が夜に溶けながら揺れる。

「猫さん?」
「なー」

庭の方から歩き出てきたのはその小さな影は、いきなり舞の肩へと飛び乗ってきた。

「あれ? ピロさんですね」

佐祐理が驚きの声をあげる。いきなり猫が人の肩へと飛び乗ったのだからそれは驚くだろう。

「知ってる猫なんですか?」
「ええ、真琴さんの飼い猫です」
「え、そうなんですか?」

佐祐理と小太郎の会話を意識の端で聞きながら、舞は訝しげに猫に訊ねる。

「どうしたの?」
「うにゃー」

ぴろはペロリと舞の頬を舌の先で少しだけ舐めると、街灯も灯っていない夜闇の中を睨みつけた。
誘われるように、そちらを見た舞の眼差しが、一瞬だけ窄まるように鋭くなる。

「舞?」

その僅かな親友の変化を感じ取った佐祐理が心配そうに声をかけてきた。その声にハッと舞が我に返った瞬間、肩からピロが飛び降りる。
ぴろは一声「にゃー」と小さく鳴くと、再び庭の奥へと歩き去っていった。

「…なんでもない」

舞は刹那浮かべた鋭い眼差しもどこへやら、首を振って歩き出した。
佐祐理も少しだけ不思議そうに小首を傾げただけで、その傍らに立って歩き出す。

「美汐姉さん、僕らも行きましょうよー」
「ええ」

一人無言で佇んでいた美汐は、もう一度だけ猫が見つめていた方を一瞥すると、身を翻した。

夜空から星が仄かな光を投げ落とすなかで、美汐はしっかりと前を見据えて歩きながら、幽かな吐息とともに口ずさんだ。


面倒な事にならなければ良いんですが……




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