窓から差し込む光も、何時しか紅色を通り越し、夜色の帳が下りようとしていた。
夕方まではその存在を陽光に遮られていた天井近くの電灯が、今はその白い光でリビングを照らし出している。
その光の下で、トポトポと音を立てながら、カップへと液体が注がれていく。

「夕御飯前だから、これで最後ね」
「あうー」

図らずもおかわりする羽目になった真琴が何とも云えない眼差しで、注がれていく液体を見つめている。

「なあ」

ほけー、とそんな真琴に見惚れている美汐の従兄弟だという少年に、祐一は小さく声をかけた。

「なんですか、先輩」

キョトンと目を瞬かせる小太郎。そんな仕草の一つ一つが小動物のようにクルクルと小気味よい。
こいつ絶対に年上に可愛がられるタイプだよな、との印象を抱きつつ、祐一は真琴に顎を向ける。

「お前、あいつに気があるわけ?」
「ええ、そりゃもう」
「むう」

無邪気な笑顔で間髪居れずに即答され、祐一は思わず顔を顰めた。

「どこがいいんだ? あれの」

云ってしまってから、どうにも締まらない台詞だと、少々後悔する。
これじゃあ、秋子さんに言われた事が否定できない。
隣で名雪のクスクスと漏れる笑い声が、祐一の機嫌を少しだけ斜めにした。
そんな祐一の様子に気付いているのかいないのか。小太郎は微かにはにかむ。

「一目惚れでしたから……一概には言えません」
「わっ、一目惚れだったの?」

名雪が嬉しそうに声を上げる。女の子だけあって、一目惚れという単語には心惹かれるものがあるらしい。
祐一は斜めになった機嫌のままに、小さく口を尖らせながら、意地悪げに言った。

「見てくれに騙されたんじゃないか?」
「ちょっと、それどういう意味よ!」

耳聡く、真琴が聞きつけてプンスカと文句を叩きつける。
祐一、フッと怪しげな笑みをひらめかせ、誰かさんのようにスッと腕を組んで云った。

「ふっ、言葉通りよ」
「あうー! 祐一、むかつくー!」
「祐一…香里の真似、声似過ぎてて怖いよ」

真琴の怒り心頭の絶叫と、名雪の怯えた声がリビングに反響する。
だから、小太郎がそんな三人に穏やかな微笑みを浮かべながら口ずさんだ囁きを、耳に留めたのは秋子だけだった。

「容姿じゃありませんよ。初めてだったんです、あんな澱みの無い眼をしたヒトを見たのは。きっと魅せられてしまったんですよ、僕は」

フッと、秋子の黒瞳が深みを増した。
その朱唇を彩った仄かな微笑は、何を意味していたのだろう。

誰にも見られぬ事の無いままに、その不思議な微笑は姿を消し、普段の変わらぬ微笑みへと変わる。

「小太郎くん」
「は、はい!?」

虚を突かれたのか、秋子の呼び声に半ば腰を浮かせながら小太郎は裏返った声で答えた。
そんな反応、仕草の一つ一つを楽しむように微笑みながら、彼女は告げた。

「折角ですから、夕食もご一緒しませんか?」

また始まったと、祐一が苦笑を浮かべる。
小太郎はちょっと慌てたようにオロオロと視線を泳がせながら、

「あ、あの、でも、お茶までご馳走になったのに、そこまでしていただいても悪いですし…」
「大丈夫だよ、今日はお客さんが来る予定だから、御飯も一杯作るしね」

口篭もる小太郎に、名雪がニコニコと答える。
真琴はといえば、複雑そうに皆の顔を順繰りに見つめている。

「あ、でも…美汐姉さんが家で一人なんで…」
「なんだ? 天野のヤツ、家に一人でいるのか?」
「愁衛さん、あたしが遊び…じゃなかった、勉強教えてもらいに云った時にちょうど仕事で出て行ったよ」
「しばらく家を空けるそうです」

真琴の答えに小太郎が素早くフォローを入れる。
祐一は以前に一度だけ会った天野父の人の良さそうな顔を思い出しながら小首を傾げる。

「あの人、良く出かけてるよな。神主なのに社空けてあんなに出歩いてていいのかね」
「あははは」

ホントは神主じゃないんですけどねー。

乾いた笑いを漏らす小太郎を他所に、名雪が緩んだ顔をそのままに母親に云った。

「それじゃあ、美汐ちゃんも呼ばないとね」
「だな」

短く相槌を打つ祐一に、「そうね」と頬に手を当てる秋子。増えた人数分の料理を考えているのだろう。

「美汐も来るの!?」
「コイツだけ誘う訳にもいかんだろ」

先ほどまでの複雑な表情はどこへやら、パッと表情を咲かせる真琴に、祐一も苦笑を浮かべざるを得ない。

「じゃ、あたし呼んで来るー!」
「待てい」
「ぎゃう!!」

ピョンとバネをきかせて立ち上がり、何処へともなく駆け出そうとする真琴のテールをワシッと引っ掴む。
首がゴキッと悲鳴を上げたような気もしたが、一々気にしていたら此処ではやっていられない。

「どこへ行くつもりだ?」
「あうーっ、美汐のうちよー」

そこはかとなくダメージを感じさせる弱々しい受け答えに、祐一が呆れたように一言云ってのけた。

「真琴、この世界には電話という文明の利器があるのだよ………あるよな? 天野のいえ」
「ありますよ、昭和初期じゃないんですから」

祐一、微妙に不安だったらしい。
小太郎の苦笑混じりの答えに、そらみろ、と何故か真琴に向かって自慢げに胸を張る。
何威張ってるのかな、と思いつつ、名雪がちょっとむくれている真琴に人差し指を立てる。

「もう試験まで時間ないんだから、晩御飯までは勉強だよ、真琴」
「あ、折角ですから一緒にやりましょうよ、真琴さん」
「なんだ? お前も受験なのか?」
「小太郎くんも貴方たちの高校を受けるそうなんですよ。真琴と一緒ですね」

皆の空になったカップをお盆に片付けながらの秋子さんの台詞に、真琴がなんとも云えない表情で小太郎の顔を見た。
ニコニコと笑顔を返す小太郎。あうー、と唸り、困ったように姉の顔を振り返るが此方もニコニコ。

「一緒に勉強した方が捗ると思うよ」

こうまで云われてしまうと仕方ない。溜息を一つ落とし、

「じゃあ、あたしの部屋、行く?」
「ま、真琴さんの部屋!? い、良いんですか!?」
「勉強するんじゃないの?」

あたふたと突如慌てふためき始める小太郎君。この家に上がりこんだその時から、こうなる事を密かに期待しつつもいざ目の前ともなると動揺も激しいらしい。
この年頃の男の子、しかもこの小太郎のような子が想いを寄せる女性の部屋へと踏み入るという大事業を前にした繊細な心理状態など、勿論真琴には解かるはずもなく。

「じゃ、早く行こ」
「ふわっ!? は、はいはいぃ」

ただでさえ緊張しまくってるのに、いきなり手を握られて卒倒しそうになる小太郎。
何事もグローバルな真琴は、そんな小太郎に頓着する事無くさっさと引っ張って行く。小太郎はと言えば、引っ張られるままにカクカクと関節に異常を来たしつつ牽引されてリビングを出て行った。
いきなり結婚まで申し込むような輩でありながら、意外と本来はかなりの初心(うぶ)な性格のようだ。

「まあ…なんだな」

どうやら初対面からかなり強引なアプローチを受けたようなのだが、その割に真琴にあまり嫌がっている様子は無い。
かといって、じゃあ真琴も小太郎にそれなりに気があるのかと言えば、そんな事は全然なさそうで…。

「まっ、まだお子様って訳か」

「それにしても小太郎くん、可愛いね〜」

ニコニコと満面の笑みを浮かべながら云う名雪。俺に同意を求めるなと思いつつ、ちょっと聞いてみる。

「ああ云うの、好みか?」
「あ、わたしにもやきもちしてくれるの?」
「オイ…」
「うふふ、冗談だよ。うーん、そうだね、あんな弟が居たらいいなってね、ちょっと思っちゃった」
「ふーん」

やっぱり、年上キラーだ。

小太郎の属性を断定し、祐一は両膝に手を置いて勢い良く立ち上がる。

「祐一?」
「ん、天野に電話してくるわ」
「あ、そうだったね。じゃあお願い」

わたしはお母さんの手伝いをしてくるよ、と言い残し、名雪は既に台所で洗い物を始めている母親の下へとパタパタと足音を立てながら歩いていった。
何となくその後姿を見えなくなるまで見送り、祐一は電話口へと向かう。

「そういや天野の家に電話するのって初めてだったかね?」

前にもあったかもしれないが、良くは覚えていない。
パラパラと電話帳を捲り、お目当ての番号を見つける。

「ところで、なんでアイツの家の電話番号が載ってるんだ?」

小さな疑問が浮かんだが、とりあえず真琴が聞いて書いたのだろうと自身を納得させ、ピポパとボタンを押していく。

「ちょっとドキドキ」

そう呟いた祐一の顔はといえば、とてもそんな台詞のような緊張した面持ちなどではなく……

「ケケケケケ」

ただひたすらに邪まだった。

受話器の奥から呼び出し音が同じサイクルで鳴り続ける。まるで催眠術のように単調で、終わりの無い連環のように意識を掻き回す。
数えて六度目の呼び出し音の途中。無機質なリズムがブチリと途切れた。

『はい、もしもし。天野ですが』

押し篭もった、だが喝舌の良く言葉の一つ一つまで明瞭に聞き取れる女性の声が聞こえてきた。
元々あまり少女っぽい声音では無いが、こうして電話越しに聞こえる声は、その大海を思わせる落ち着きもあってか、どう考えても高校一年生には聞こえない。
祐一は一つ咳払いを落とし、喉の調子を確かめるとゆっくりと相手に言い聞かせるようにして受話器へと言葉を発した。

「お前の家の子供は預かった」

惚れ惚れとするほどソックリな北川潤の声だった。

「は?」

訝しげな美汐の声が返ってくる。
それはそうだろう。反応としてはそんなものだ。
祐一は実に楽しそうにニヤニヤと笑いを顔に貼り付けると、繰り返し続けた。

「お前の家の子供は預かった。返して欲しくば巾着袋に五百円札を仏壇の引き出しにあるだけ持ってこい。百円札でも可」
『……………』

電話の向こうからは沈黙が返ってくる。
その沈黙は困惑でも怯えでも錯乱でもなく……酷く不機嫌な沈黙のように祐一は感じた。
と言うか、そう感じざるを得なかった。
だって電波に乗って伝わってきたんだもん。

『相沢さん、うちは建前だけでも神職なので、あるのは神棚だけです』
「なんだ、そうなのか……あ」
『やはり相沢さんでしたか』

思わず素の声で返答してしまい、バレバレの正体にトドメを差してしまう。

『まったく貴方という人は……』

電話の向こうからは嗜めるような呆れた口調。これからお説教でも始まりそうな雰囲気だ。
此方は年上なのだぞーという反論は効果が無いだろう。

「良く解かったな、褒めてやるぞ、天野」

出来の良い教え子を褒めるようにして云ってやったのだが、見えもしないのに受話器を片手に不機嫌極まりない仕草で瞼を閉じる美汐の姿がありありと浮かんでしまった。
案の定、不機嫌絶頂の口調で声が返ってくる。

『わざわざこういう正気を疑う冗談を電話でかけてくるお馬鹿な知人は、相沢さんぐらいですから』
「そうか? 例えば北川とか。折角北川の声でかけたんだからちょっとは間違えてくれても良かったのに……天野はイケズだな」
『誰がイケズですか。だいたい、生憎と北川さんはそこまで見境の無い方では無いでしょう』

なら、果たして自分はどこまで見境が無いと思われているのかは気になったので、文句を言う。

「そうか? アイツも相当お馬鹿だぞ」
『確かにそれは認めますが、あの人はどちらかと云えば天然のお馬鹿でしょう。相沢さんのような確信的お馬鹿ではありませんから、わざわざこんな電話をかけてはこないと思います』

憐憫の欠片も無い毒舌であった。
果たして自分の方がマシだと思われてるのか、それとも確信犯な分バカだと思われているのかイマイチ理解できず、だが特に理解する必要性も感じずに祐一は本題へと入った。
とりあえずどっちもバカだと思われてるらしいし。

「まあ誰が一番バカかはいいとしてだ。天野、今日晩飯こっちで食わんかね?」

一瞬困惑の沈黙が返ってくるが、聡いところが多くある美汐なだけあって、祐一の最初の言葉から事態を察したらしい。

『もしかして、小太郎がそちらにお世話になっているのですか?』
「まあな、秋子さんのいつものあれでどっかから拾ってきたらしい。それで晩飯もって事になってな。お前さん一人だけほっとく訳にもいかんだろ。まっ、真琴も喜ぶしな」
『幸いまだ夕食の支度には取り掛かってはいませんが…よろしいのですか?』
「秋子さんは喜びこそすれ嫌がる事はないだろ?」
『…そうですね』

微かに笑いの篭もった声に、やれやれと祐一は口端を吊り上げた。

「あ、そうそう。今日は舞と佐祐理さんが来るんだが、別にいいよな」
『ええ、勿論です。では、今から窺いますね』
「おう、待ちわびてるぞ」

向こうで電話が切れたのを確認し、受話器を置く。
そこで、祐一はハッと気が付いた。

「しまった……天野の家の電話が黒電話かどうか聞くのを忘れた」

どうやら祐一の中では美汐の家の電話は古くて奥ゆかしいダイヤル式の黒電話でなければいけないらしい。
そんなもの、本人が来てから直接聞くか、真琴か小太郎に聞けばいいのだが、祐一としては電話越しに聞くことにこだわりがあるとの事。

「今度電話して訊いてみるか」

呟きながら、さてこれからどうするかと思い巡らしつつとりあえずリビングへと戻ろうとした祐一の足がふと止まる。
彼の鼓膜を震わせたのは、パタパタと階段を駆け降りてくる足音。

「よう、どうした?」

降りてきたのは天野小太郎だった。体躯が真琴と大して変わらぬ小柄さ故に、足音だけでは区別がつかない。

「あ、先輩。トイレどこですか?」
「あん? トイレならソッチだぞ」

指を差して教えると、小太郎はペコリと一礼してトイレへと駆け込んだ。
どうやら緊張が極致に達したらしい。祐一は知らないが、実質真琴と二人きりというのは初めてだったりしたのも緊張のバースト要因かもしれない。

「妙に礼儀正しいのは家系かね」

今度こそリビングへと戻ろうと踵を返す祐一だったが、またもやその足が止まった。

玄関から鳴り響く涼やかな音色の呼び鈴の音。

「おっと、いらっしゃいましたか」

呼び鈴に首筋を引っ張られたかのように上半身を逸らせながら後ろを振り向いた祐一は、クルリと身を翻して玄関へと向かった。
扉越しに伝わる人の気配。せかされるように足早に歩みより、草履を突っかけ扉を開ける。

「ういっす、いらっしゃい、佐祐理さん、それと舞」

開いた扉の向こうは夕方から夜へと変わる境目で、まだどこかに太陽の残滓が残っているような薄闇。 その薄闇を背景にして、二人の女性が水瀬家の玄関口に佇んでいた。
真っ白な見るからに暖かげなコートに身を包み、これまた暖かそうな真っ赤なマフラーを首筋に巻いた倉田佐祐理。
それとは対照的に真っ黒な皮のジャンパーを羽織り、黒のジーンズを履いているのが川澄舞。

一歩さがって、引っ掛けた草履を脱いだ祐一にペコリと佐祐理が頭を下げる。

「あははーっ、こんばんわ祐一さん」
「……お邪魔します」

舞さん微妙にその他扱いされたのが不満らしかったようだ。挨拶直前の小さな間がそこはかとなく祐一にプレッシャーを与える。

「ところでいきなりですみませんけど祐一さん」
「はい?」

ニコニコと訊ねられ、此方も思わずニコニコと笑みを返しながら問い返すと、佐祐理は笑顔のまま視線を祐一の背後へと向けた。

「あの子は祐一さんの息子さんですか?」
「はぁ?」

思わず脳天から突き抜けるような声を上げ、クルリと首を捻る。
向いた先に居たのは…

「…はい?」

ハンカチで濡れた手を拭いているポケーっと小太郎が突っ立っていた。

「む、息子…祐一の息子…」

思わず後退りしながらうわ言のように呟く黒衣の少女。
あっさり信じちゃうのが彼女らしいというか何というか。
端的に云うとすんげぇ大ショックだったらしい。

「あははー、隠し子ですか?」
「か、隠し子…祐一の隠し子…」

明らかに確信犯的に追い討ちをかける佐祐理さん。
ガコンと後頭部を閉じたドアにぶつける舞さん。かなり痛そうな音がしました。
どうやら春が近づいても、相変わらず親友に遊ばれている川澄舞であった。


「祐一…名雪を泣かしたら許さないから」
「はえ!? ちょ、ちょっと待て!? さ、佐祐理さん!?」
「あははー、お仕置きが必要ですねぇ」
「成敗!」
「だからなんでーっ!?」


ドタバタと目の前で繰り広げられる惨劇を前にして、ポツリと小太郎一言。

「……気のせいか、真琴さんの周りは変な人ばっかりですねー」

自分も充分変な人の一人だと言う事は、きっぱりと気にしていない小太郎であった。



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