時刻は午後四時前後。冬空の下ではもう太陽も身を隠し始める頃合か。はて、北国の三月ともなればどれほど日が傾いているのだろう。

水瀬家は玄関口より真っ直ぐ伸びる廊下の奥。洞窟の出口間際を連想させるやもしれぬぼやけた光の奥から轟いた真琴の裏返った吠声は、まるで獣の悲鳴にも聞こえた。
それは、ちょうど靴を脱いだ所だった祐一と名雪の耳にも高らかに届く。
祐一と名雪は思わず顔を見合わせるものの、まあ真琴が大声を張り上げる事など珍しくなど何とも無い訳で。
二人とも慌てず騒がず、スリッパを引っ掛けるとスタスタと台所へと向かった。

「どないしはったんやぁ、真琴はん」
「祐一ぃ、その偽関西弁はヘッポコだよ〜」
「へ、ヘッポコとまで云うか」

自分ではかなりグッドな発音と自負した台詞。ヘッポコ扱いされては、流石に二度とやるまいと心に刻みつつ、祐一はヒョイっと首を伸ばして台所を覗いた。
中にいるのはエプロン姿でいつもの様に頬に手を当て、微笑む秋子さん。
それから器用に髪の毛を逆立てながらポカンと口を開いている真琴に、もう一人、見知らぬ年下と思われる少年が一人。

「……誰?」

誰に聞くともなしに零れる問いかけ。
言ってから、そういや真琴のヤツが名前呼んでたから知り合いかね。と思い至り、手前で毛を逆立てている真琴に視線を落す。
真琴はと言えば、こちらの事などサッパリ忘れていたのか、唖然としたままでクルリと此方に振り返ってきた。
と、それより素早く祐一に駆け寄る人影一つ。
真琴があうあうと言葉を詰まらせる間に、華やかな笑顔を浮かべた天野小太郎、ガシリと祐一の手を握りしめ、声を弾ませる。

「あ、どうもはじめまして。僕、天野小太郎って言います。突然ですけどお兄さんって呼んでもいいですか?」
「お、お兄さん!?」

あっけにとられた声を上げたのは祐一の肩越しに、何事かと同じように台所を覗き込んで名雪の方で、当の祐一はというと。

「…………」

無言のまま、ちょうど頭一つ分ほど見下ろすような小柄な少年をマジマジと見つめ、次の瞬間ニコリと満面の笑みを少年に向けた。
その笑顔につられるように、小太郎の笑顔がさらにパッと輝き……

ボガッ

「おわらっ!?」

強烈な頭上からの鉄拳にその笑顔をいい具合に変形させながら、頭を押えて蹲った。

「わっ、祐一?」

笑顔のまんまの恋人の突然の凶行に、後ろからぽややんと事態を眺めていた名雪が、驚いたのか驚いてないのかさっぱり分からない長閑な調子で声を上げる。
その声に目まぐるしい展開に自失していた真琴が我に返り、慌てて屈みんで頭を抱える小太郎を覗き込んだ。

「ちょっ!? こ、小太郎大丈夫?」
「はうぁぁ? き、効きました。眼から超新星がビッグバンです」

眼をクルクルと回しながら、フワフワと地に足の着いてない口調で答える小太郎。

「まあまあ、祐一さんたら」

言葉とは裏腹の実ににこやかな微笑みのままの秋子さん。

「ちょっと、いきなり何すんのよ、祐一!」
「何って…殴った」
「だから何で!」
「なんかむかついたから」

何故か満足そうに右の拳を開閉しながら、一言で説明し尽くす相沢祐一。
何のてらいも無く答えられ、真琴はあうあうと追求のために伸ばした指を泳がせる。

「祐一さん、お兄さんって呼ばれたからって、いきなり実力行使はいけませんよ」

夏草色の爽やかなグリーンのエプロンを着こなした秋子さんが、クスクスと笑いながら嗜める。

「は? ……なっ!? べっべべべ別にそういうんじゃありませんよ!」

先ほどまでの満足げな表情はどこへやら、慌ててブンブンと両手を顔の前で左右に振って顔を真っ赤に染め上げながら、祐一は必死に何かを否定する。

「じゃあ、どうして小太郎君を殴ったんですか?」
「それは〜それは〜、ぐぅぅ」

容赦呵責の無い笑顔の追求に詰まる祐一。
「あう?」と何のことやら意味が解からず首を傾げる真琴を置いてけぼりに、いつの間にか眼をウルウルと潤ませていた名雪。もう我慢できないとばかりに祐一を抱き締める。

「おわっ!?」
「祐一ぃ〜、それって可愛すぎるよ〜」
「ま、待て名雪。意味が解からんぞ!?」
「お兄ちゃん萌え〜だよ〜」
「だわっ、それも解からんって首を締めるなー! どわっ、胸が胸がぁ!」

まるでお気に入りのぬいぐるみに抱きつくような、名雪の抱擁にくんずほぐれつと化している二人の家族の有様に、真琴ちょっと怯えながら後退り。
だがそれも「ふっふっふ」と不敵な笑いを漏らす小太郎の一言にピタリと停まる。

「僕らの結婚に反対するお兄さん。燃えます、天野小太郎は燃えています。ここで反対するお兄さんを説得してこそ僕らの愛は深まり、貫かれるというもの。いや、ここは思い切って駆け落ちという手も」
「まあ、素敵」

いらん相槌を打つ秋子さん。

小太郎のセリフに漸く祐一の行動と、その後の展開の意味を悟って真琴の顔に朱が散りばめられる。が、それも一瞬。
またもやここでも現状認識がなし崩しのままに最悪の方向へと雪崩落ちていく明確すぎる気配を否応無く察し、真琴の赤い顔が一気に青ざめた。

「だからそもそもアタシたちはそういう関係じゃなーい!!」

水瀬真琴の魂の絶叫は、長閑にドタバタしている水瀬家台所に虚しく響き渡った。







「で、秋子さん」

混沌と化した場を何とか仕切り直して、とりあえずリビングへと移動した5人。
祐一は、下ごしらえを一区切りして、コーヒーカップを皆に渡している秋子さんに、カップを受け取りながら問いかける。

「コイツ、どこの誰でどうしてここに居るんですか?」

あまり好意的で無い視線でふぅふぅと湯気の立つコーヒーを冷ましている小太郎を指し示す。
どうやら祐一、少しシスコンの気があるらしい。あくまで妹に対する感情ではあろうが。

そんな微妙に硬質な空気を和ませるように、コーヒーの芳しい香りが皆の鼻をくすぐった。
この香り豊かなコーヒーも秋子さんが挽いたもので、他の料理と同様に、そんじょそこらの喫茶店では敵わない代物だ。
これに対抗できるといえば百花屋くらいかな、とふと関係ない事を思い浮かべる祐一。

自身も腰を降ろし、自分のコーヒーの香りに満足そうに微笑みを浮かべていた秋子さんは、カチャリと微かな音を響かせながらカップを皿に置いた。
その音で、いつの間にか香りに眩まされていた祐一がハッと我に返る。
そんな彼をフワリと見つめて、秋子さんは答えた。

「仕事の帰りにお買い物をしようと商店街に足を向けたんですけど、そこで道に迷ってる男の子と出会ったんですよ」
「それが小太郎君?」

砂糖とミルクが大量にブレンドされたコーヒーを唇に濡らしながら名雪が小首を傾げる。

「あはは、すみません迷ってました」
「何やってんのよ」

ポリポリと照れた様に笑いながら頭を掻く小太郎に、呆れたようにカフェオレを啜る真琴。

「何で商店街で迷うんだ?」

訝しげに眉を顰めた祐一に、秋子さんが注釈を入れる。

「昨日、久しぶりにこの街にいらっしゃったそうですよ」
「あれ? じゃあ、旅行か何か?」

訊ねる名雪に小太郎はふるふると首を振って、答えた。

「いえ、引越しの下準備みたいなものです」
「じゃあ、この街に越してくるんだ」
「ええ……合格したらですけど

語尾の小声は暖房の音に紛れて消える。
何となく聞こえない振り、知らん振りして黙々とカフェオレを啜りつづける真琴ちゃん。

「なるほど、同類か」

同じく誰にも聞こえない声で小さく呟く祐一。
実は祐一も引越し早々道に迷いまくっていたりした過去(多分にあゆの所為ではあったが)があったので、さり気なく視線を小太郎と真琴から逸らした。

そんな祐一の仕草に気付いているのかいないのか、続きを語る秋子さん。

「それで随分と困ってらっしゃるから、お話を伺ったら真琴とお友達だって分かったんで、それじゃあとお誘いしたんです」

だからなんで「それじゃあ」で家に招き入れるんでしょうか?

それじゃあに至る過程がさっぱり解からず、コーヒーカップを傾けながら何とも云えない面持ちでこの叔母を盗み見てしまう祐一であった。

「ところで真琴、どこで小太郎君と知り合ったの?」
「おお、そりゃ俺も知りたいな。お前、全然機会ないのにな」

名雪と祐一の、真実を知らない者特有の呑気な問いに、真琴はあっさりと素っ気無く答える。

「美汐のうち」

「「…は?」」

綺麗にハモる名雪と祐一。と、祐一が先ほどの小太郎の怒涛の自己紹介を思い出し、あっと声を上げた。

「お前、天野小太郎って云ったよな!?」
「あ! そういえば! え!? それって…」

小太郎、能天気にニコニコ笑いながら口を開いた。

「はい、僕と美汐姉さんは従兄弟だったりします」

がーっんとショックを受ける祐一・名雪。

「う、嘘だ」
「信じられないよ〜」

大袈裟に顔色まで青ざめさせている二人に、「まあまあ」と呟く秋子さん。何が「まあまあ」なんだろうとカップに顔を埋めながら横目で秋子さんを見る真琴。さっぱり解からない。
それはともかく、小太郎は予期せぬ反応に内心首を傾げつつ、知らずにトドメを刺す。

「はあ、本当ですよ。だって、僕が春から引っ越すのって美汐姉さんの家ですし」

「悪いが信じられないな」

ジロジロと小太郎を舐めまわすように眺めやり、ばっさりと言い捨てる祐一。

「うーん、私もちょっと」

微妙に表情を暗めながら、名雪も呟く。
真琴は二人の様子に呆れ果てながら、云い放った。

「別に嘘じゃないわよぅ。美汐もちゃんとそう云ってたし…なんで二人ともそんなに疑うの?」

「だって」
「なあ」

名雪と祐一は思わず顔を見合わせて声も合わせると、きっぱりと云い放った。


「コイツ、全然おっさん臭くないぞ」
「小太郎君って全然おじさん臭くないよ〜」


「あらまあ」

楽しそうに一言呟く秋子さん。

バタン、と思わずテーブルに突っ伏してしまっていた真琴は、甦るゾンビのごとき動きでノロノロと顔を上げると、アホ姉とバカ兄を睨みつける。

「それってどういう意味よー!!」

ヒクリ、と顔面中の筋肉を引き攣らせていた小太郎もリビング中に声を張り上げた。

「お、お二人とも! 天野一族全員を美汐姉さんと同類なんて考えないでくださいよ〜! 美汐姉さんが特別なんです、美汐姉さんだ・け・が!」
「なるほど、そうなのか」
「そうなんだ〜」
「あらあら」

「だからちょっと待てぇぇ!」

真琴の声が引っくり返って裏返った。

「小太郎! あんた、全然フォローじゃないじゃない、それ!」
「ですが真実です」

あっけらかんと答える小太郎。

「天野一族の男性すべてがおっさん臭くて、女性すべてがおばさん臭いと思われるのは、我が天野家存亡の危機じゃないですか」
「存亡の危機なのか?」

思わず聞き返した祐一に、ビシッと指を突きつけて、

「想像してください、お兄さ…もとい、ええっと…」
「相沢祐一だ」

ギロリと睨まれ、慌てふためく小太郎に、祐一とりあえず名乗ってみる。

「あれ? 名字違いますね? なんでですか?」
「俺はこいつらの従兄弟な訳だ」
「あ、それじゃあ僕と一緒ですねえ」

「話がずれてますよ、小太郎くん」

的確な秋子さんの軌道修正にあわあわと話を戻す小太郎。

「えっと、じゃあ相沢先輩、いいですか? ぐわっと想像してみてください。天野一族の長老から赤ん坊に至るまで、全員がおじさんおばさん臭いなんて世間の人に思われたらどうなります?」

美汐みたいのが一杯。
おばさんが一杯。おじさんまで一杯。それ以外無し。全部おじさんおばさん……。
かなり怖い。

「わっ、大変だね」
「それは確かに存亡の危機だな」
「迫害されちゃうかも」

納得してうんうんと頷く祐一と名雪。

「だーかーらー! そもそもなんで美汐がおばさん臭いってみんなすでに当たり前みたいに云ってるのよ!」

真琴のブンブンと両手を振り回す必死の抗議に、祐一が静かに、何故か渋みの滲みまくった語りでポツリと訊ねる。

「なら何か? 真琴よ、天野がおばさん臭くなんて無いと証明できる何かがお前の中に一つでもあるというのかね?」

ブンブンブンと振り回されていた真琴の腕がピタリと停まった。
しばしの間、カチンコチンと固まり凍る。
時間にして5秒と半秒。
そろそろと立ち上がっていた真琴の腰が、ソファーに沈む。
そして無言のまま、自分のカップを口元に運び、ニコリと花のような笑顔を花咲かせた。

「あうー、秋子さんこのカフェオレおいしいね〜」
「ありがとう、真琴。でもからっぽのカップを啜るのは止めなさいね」

「ふっ、勝った」
「うにゅ、一つもなかったんだね〜」
「ああ、さり気なく何もかも無かった事にする真琴さんも素敵ですぅ」



登場してすらいないのに、散々な目にあっている天野美汐であった。



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