北国の春は遅い。
そろそろ他の地では、桜の蕾が枝に姿を現しはじめる頃。
だが、この北国ではまだまだ吐く息は白く、吸い込む空気は冷ややかだ。
冷たさに透き通る大気は、空の色をそのままに地を往く人々に見せる。
見上げれば、それは空色。
そんなまだ冬としか思えない日々の中に、水瀬真琴は確かな春の匂いを感じている。
こればかりは、他の人には分からないだろう。
それは言葉に出来ない、不思議な感覚だから。
ただ、春を望み、春を夢見た彼女だけの、大切な感覚だから。
春はもうすぐそこに。
加えて、当の受験日ももうすぐそこだったりする。
「春が来て……」
ずぅーっと春だったらいいのに。
そう思った事がある。
今は…どうなんだろう。
病院からの帰り道、真琴は胸に抱く肉まんの入った袋から伝わる温もりに、半ば心を奪われながら、空を見上げた。
手を伸ばせば、届きそうにすら思える空色。
「ニャッ!」
「あ、ごめん、ピロ」
頭の上で丸まっていた猫が、傾いた足場に慌ててバタバタとツインテールにしがみついている。
それでも決して爪を立てないのは、頭がいいというか、礼儀を弁えているというか。
真琴は器用にピロの首筋を掴んで、頭の上に乗せ直す。ピロも安心したように再び彼女の上で丸くなった。
「ねえ、ピロ…あゆももうすぐ退院だって」
「にゃ」
独り言にも似た言葉に、律儀に猫は返事を返す。真琴はスン、と鼻を鳴らした。
猫はさすがに病院には入れないので、ピロはあゆの様子を見ていない。何となく報告した方がいいかな、と思ったのだ。
尻尾がペシペシと首筋を撫でる。
何となく、ピロも喜んでるような気がして、真琴は「エヘヘ」と頬を緩めた。
「夏も…いいかなあ」
「……」
今度は返事は返って来ない。もしかして寝ちゃったのかな、と思いつつ、少しだけ歩調を速める。
勿論、出来るだけ頭は揺らさないように。
「でも…まずは春からよね」
「なー」
眠そうな声が頭の上から聞こえた。
ガードレールの下を流れるサラサラとした川のせせらぎを聞きながら、もう雪の無いアスファルトの上を歩く。
ハムハムと肉まんを咥えているのはご愛嬌。道端を歩きながらの肉まんもまた美味しいものだ。
別段、帰るまで我慢できなかった訳では無いのだと、真琴は誰に云うでもなく心の中で言い訳した。
と、頭の上で眠っていたピロの頭がスゥと上がる。
「ふにゃぁ」
「どうしたの、ぴろ?」
何となく、その鳴声がやれやれと云ったような気がして、真琴は見えないと分かりつつ、目線を上にあげた。
ペシペシ、とぴろは真琴の頭を前脚で二度叩くと、ピョコンと彼女の前に飛び降りる。
そして、真琴の顔を見上げ、促すようにクイっと進行方向に顔を向けると、パタパタと別れを告げるように尻尾を振って、横合いの家の壁を飛び越え姿を消した。
「行っちゃった」
どうしたんだろうと、首を捻る必要は無かった。
呟きが風に溶けるより早く、少し進んだ先の曲がり角から二つの人影が現れる。
なるほど、とぴろが消えた理由に納得しながら、慌てて残った肉まんの欠片を口に放り込んで飲み下し、真琴は大声で二人の名前を呼んだ。
「祐一! 名雪!」
呼ぶと同時にパタパタと駆け寄る。
制服姿の祐一と名雪は、ちゃんと声が聞こえたのだろう。立ち止まると、後ろを振り返った。
トン、とステップを踏むように二人の前に立ち止まる。
「おかえり。今日は早いんだね、名雪」
祐一と一緒って珍しいじゃない、という真琴に、名雪は笑顔のまま、
「うん、今日は部活お休みだったんだよ」
「ふーん」と相槌を打ちながら、真琴は名雪の傍らに位置を取り、三人は並んで歩き始めた。
「で? そういうお前はどこ行ってたんだ? って、それ見たら一目瞭然だな」
祐一が真琴の抱える紙袋を見ながら、からかうように云う。
真琴はちょっと頬を膨らませながら、声を尖らせた。
「これはお土産。あゆの所に行ってたの」
「あゆちゃん、今日も元気だった?」
実は昨日、祐一と連れ立って当のあゆに会いに行っているのだが、こうやって様子を訊ねるのは、どこか名雪らしい。
真琴もそのゆったりとした雰囲気に毒されているのか、顔を綻ばせて答える。
「うん、タイヤキ持っていったら『うぐぅ』って云ってた」
「さっぱり意味が分からないんだが、恐ろしいほどに目に浮かぶのは何でだろうな」
腕組みしながらしみじみと呟く祐一。笑いながら名雪も「目に浮かぶねえ」と相槌を打っている。
「そう言えば、あゆももうすぐ退院なんだってね」
「ああ、俺も昨日聞いたぞ。あのヤブ医者連中が云うには、ちょっと洒落にならん回復スピードだとか云ってたけどな」
「もう歩行器無しで歩ける訳だしね」
「あとは食い逃げをして、捕まらないだけの速度と持久力だな」
真顔で云う祐一に、名雪が楽しげに、でもほんの少しだけ申し訳なさそうにクスクスと笑いを漏らす。
「ねえねえ、あゆって退院したらウチに住むんでしょ?」
声を弾ませ、歩調まで弾ませる真琴に、名雪は薄っすらと優しげに眼を細めて云った。
「真琴、嬉しいんだ」
「うん、勿論よぅ♪」
少し首を傾げ、傍らを歩く真琴を優しく眺める名雪。その横顔を何とはなしに見ながら、祐一はぼんやりと思う。
普段は眼を細めれば糸目にしか見えない恋人の面差し。でも今の彼女の表情は、彼女の母をどこか連想させる。
やっぱり、親子だよなあ。
視線を感じたのか、「ん?」と微かに抜けるような音を漏らしながら名雪が祐一を振り返った。
何となく、照れを覚えて、祐一はペシペシと名雪の頭をはたいた。
「うにゅ、何で叩くの!?」
「それは俺が名雪の頭を叩いた時に奏でられるカラッポな音を愛しているからだ」
「カラッポな音なんかしないよ! って、今祐一、何か聞き捨てならない事云わなかった?」
「えっとね、祐一が名雪を愛してるのは、名雪の頭がカラッポだからって聞こえた」
「……祐一ぃ!」
「ちょ、ちょっと待て、真琴てめぇ、無茶苦茶曲解して云うな!」
「ふんっ、真昼間から惚気るのが悪いのよぅ」
果して祐一の言葉のどこにお惚気が在ったのかは定かではないが、会話が紡がれる内に気がつけば、水瀬家玄関の前に到着。
先陣を切り、真琴が小走りに二人の前に飛び出て、ドアのノブを握って捻る。
「たっだいまー!」
勢いよくドアを開け、家中に響き渡るほど、元気よく声を張り上げる。
ただいまの一言。真琴には、この一言を何の引っ掛かりも覚える事無く云える事が、今なお嬉しい。
だから…いつでもこうやって声を張り上げるのだ。
「おかえりなさい」
良く通る、それでいて包むように穏やかな声が返ってくる。
「あ、お母さんもう帰ってるんだね」
「あん?」
「どうしたの?」
「見慣れぬ靴が、ほれ。お客さんかな」
名雪と祐一の会話を背中に受けながら、でも会話の内容はさっぱり聞かずに真琴はスニーカーを脱ぎ捨てて、パタパタと廊下を往く。
「肉まん買ってきたよー」
声とツインテールを跳ね上げながら、真琴は台所への扉を潜る。
「おかえりなさい、真琴」
「わー、おかえりなさい真琴さん、会えて嬉しいです!」
笑顔がピシリと硬直。
なんか、一人変なのが増えていた。
既にエプロン装着、晩御飯の下ごしらえに取り掛かってる秋子さん。
それから、台所の椅子に腰掛けてヘラヘラ笑ってる+1。
小柄で真っ直ぐな髪の毛の幼い面差しの、年上キラーっぽい童顔少年。
どこからどう見ても、思いっきり天野小太郎であった。
「ど、どうして小太郎がここに居るのよぅ!?」
真琴が引っくり返った声で叫びながら、ビシリ、と人差し指を鋭利に伸ばして、小太郎を指差す。
何故か楽しそうに頬に手を当てながら、水瀬秋子が登場。
「うふふ、可愛いから拾っちゃいました」
「あはは、拾われてしまいました」
実に朗らかな笑い声が響く、水瀬家の食卓であった。
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