冷たい――
水で濡らしたタオルに冷凍庫から取り出した氷を包む。
鈍く熱を持った患部には、その冷たさが気持ちいい。
だが、そのタオルを抑える手の方は、その冷たさに悴んでいる。

「…痛い」

手で触ると明瞭に分かる。
激突個所には明らかに大きな瘤が出来ていた。それもいたし方あるまい。椅子ごと引っくり返って床に激突したのだ。瘤で済んだ事を感謝すべきなのだろう。
天野美汐は後頭部を濡れたタオルで冷やしながら、溜息混じりに吐息をついた。
そして、この痛みの原因である二人を上目がちに眺めやる。

両手で頬杖を付きながら、ニコニコと満面の笑みを浮かべて正面に座る少女を見つめている天野小太郎。
流石にジーッと見つめ続けられては気になるのか、モソモソとあまり味わう事無く居心地悪そうに肉まんを頬張っている水瀬真琴。
チラリチラリと視線を上げては、小太郎と視線が交わり慌てて視線を落とし、でもやっぱり気になって目線を上げては慌てて落とすという仕草を繰り返している。
普段は傍若無人に突き進む真琴ではあるが、さすがにこういう状況はどうしたらいいか分からないらしい。

まあ、無理もないですね。

何やら投げやりな気分になりながら、美汐も目の前の肉まんを手に取り、タオルを脇に置いてもういい加減冷え切った手を温かい肉まんに添える。そして端を千切り口の中に放り投げた。

いきなり初対面の人にプロポーズをされて、どうやって反応したらいいかなんて私にも分かりません。

当たり前である。

分からないから知ったことではないです。

しかもかなり無責任だった。
後頭部の瘤がかなり効いたらしい…色んな意味で。


「あうー、な、何見てるのよぅ」

さすがに耐え切れなくなったのか、沈黙を破り、真琴が威嚇するように叫んだ。
間髪いれず、小太郎が答える。

「勿論、真琴さんです」
「あ、あうぅ」

邪気の欠片もない笑顔で平然と返され、真琴は思わず涙目になって傍らの美汐に助けを求める真琴。
美汐はといえば、はむはむと肉まんを食しながら片手でパタパタと虚空を仰ぐ。

とりあえずガンバってみなさいな

かなりいい加減な対応だった。

あうー、とへこたれそうになりながらも、真琴は勇気を振り絞り、小太郎を睨みつける。
なんでしょう? と笑顔のまま首を傾げる少年。
いきなり意気を削がれ、ヘタレ込みそうになりながらも真琴は声を震わせた。

「けけけけけ」
「け?」
「け、結婚って……結婚のことよね」
「多分、その結婚だと思いますよ、あっはっは」

屈託無く答える小太郎。笑顔のどこにも綻びは無い。

「な、なんでいきなり結婚なんて――」
「真琴さん」
「あうっ!?」

唐突に身を乗り出してきた小太郎に手を握り締められ、真琴は硬直した。
小太郎は笑顔を真摯なものに変え、ゆっくりと噛み締めるように告げる。

「理由は簡単です。この天野小太郎15歳、貴女のような可憐な方に会ったのは初めてです。会った瞬間、ビビビと来ました。これは恋!」
「こ、恋!?」

思わず鸚鵡返しに叫ぶ真琴。
その傍らでズズズと茶を啜る美汐。何気に現実逃避中。

「そう、これこそが一目惚れというものなのだろうと僕は確信したのです。一目惚れ…嗚呼、何と云う衝撃、これぞ運命!」
「う、運命!」

思わず口をあんぐりと空けて繰り返す真琴。
その傍らで、湯呑みから唇を離してホッと吐息をつく美汐。何気にお茶が美味しいらしい。

「そんな…い、いきなり言われてもぉ」
「真琴さん」
「は、はい!?」

再びガシィと両手を握られ、真琴はツインテールを跳ね上げ、素っ頓狂な声を上げた。

「恋はいつだって唐突なのです!」
「あうっ!!」

どこかで聞いたことのあるような台詞に真琴は思わず呻きを上げた。
そう、それは真琴が一番のお気に入りにしている漫画のタイトル。
実は密かに憬れていた『唐突な恋』そして、『結婚』というキーワード。
だけど……

だからって、これは無いんじゃないのぉ!?

真琴の心中の絶叫など聞こえるはずも無く、小太郎はキラリと白い歯をひらめかせ、笑みを浮かべて声を張り上げた。

「という訳で、結婚しましょう、真琴さん!」
「あうーっ、だからどうしていきなりそうなるのよぉ!!」

途中をかなり大胆に省略した小太郎の方針に、真琴はとうとう悲鳴を上げた。

「小太郎」

と、そこで漸く美汐の静かな声。
み、美汐〜、と真琴は涙のたゆたう眼差しで美汐を振り返る。
勿論、期待するのはスパッとこの暴走する青少年を一刀両断する美汐の一言。
美汐はズズズとお茶を啜ると、此方も見ずに一言だけ言葉を紡いだ。

「男性が結婚できるのは18歳からですよ」
「そういう問題じゃなーい!!」

もう完全に他人事だった。

「むう、特例措置が必要ですね」
「そんなものあるかぁーっ!」

どっかーん、と両の拳の振り上げて、真琴絶叫。二本のテールも見事に逆立つ。
もし出来るならば奥義ちゃぶ台返しを敢行していただろう凄い勢い。
バシンと振り上げた両手をテーブルにつき、ハァハァと息を荒らげる。

「真琴さん、落ち着いて落ち着いて」

どうどう、と両手を扇ぐようにはためかせる小太郎。
そんな小太郎に聞こえないほどの小声で、美汐が囁くように真琴に告げる。

「尻尾が出てますよ」
「あうーっ」
「お茶、飲みますか?」

真琴、慌ててコンモリと柔らかげな小麦色の尻尾を仕舞い、促されるままに緑茶が並々と注がれた湯飲みをむんずと掴み、乾いた喉を癒そうと一気にグイッとあおり飲む。

「…みゅ? あぎゃああああ!」

ブハッ、と熱湯紛いの緑茶が吹き出る。
さり気に椅子ごと距離を置いて、降り注ぐお茶を避けてる天野美汐。
わたわたと悲鳴を上げる真琴を他所に、自身のお茶をユラユラと両手で揺らめかせて、ボソリと嗜める。

「真琴…熱いのに一気飲みは感心しませんよ。猫舌ならぬ狐舌なんですから」
「熱い熱い熱いぃぃ!」
「わっ、わっ、水っ、水っ、美汐姉さん落ち着いてないで水ぅ!」
「はあ、お茶が美味しいです」




「みひおーっ、お茶ばっかりふふってないへ、なんほか云っへよっ」
「真琴…日本語は正しく発音しなくては美しくないですよ」
「たれのへいほっ!!」
「あっはっは、そんな真琴さんも素敵です」
「あんたはちょっとたまってなはいよっ」

口の中はちょっと火傷風味。ジンジン痺れてかなり辛い。
さすがに何時までも現実逃避/我関せずとしていても仕方ないと思い至ったのか、やれやれと天野美汐は溜息をついた。

まったく…なんでこんなアホな展開に、私が巻き込まれてるんでしょう。

しみじみと呟く心の声は、勿論誰にも聞こえない。
あえて原因を探るならば、こんな面白い親友と従兄弟を持った事が原因としか云いようがなかろう。

美汐はふぅ、と溜息を付きながら、椅子の背に手を置いて、それを支えに立ち上がると、真琴が座る椅子の後ろに周る。

「小太郎、ちょっとこれを見なさい」
「なんですか?」

小太郎が注目するや否や、美汐は拳を握り締め、まるで早押しクイズの如く真琴の頭をゴツンと殴る。

「うきゃっ!?」
「あ…」

真琴の悲鳴に被さるように、小太郎の「あ」としか表現できない声が漏れた。
いきなり何をするのかと、真琴は睨むように美汐を振り仰ぐ。
そのままジンジンと響く頭を抑えようと、手をやり……何かフカフカの物体に突き当たった。

「あう?」

思わずさわさわと触ってみる。それからニギニギと揉んでみる。毛の肌触りがなかなか気持ちよかった、我ながら。

「って、ああー!!」
「あ、狐耳」
「あうーっ!」

まさかと思う間もなく、小太郎の漏らした言葉にトドメを刺される。
思いっきり、柔らかな小麦色の髪の毛の間から、これまた柔らかそうな狐色の尖った耳がピョコンと突き出ていた。
慌てて手を被せるように耳を押えて引っ込めながら、真琴は錯乱気味に美汐を見上げる。

「なっ、美汐、なんで? どうして?」
「角度で」
「角度ぉ!?」

どうやらポカリとやる角度で耳が飛び出るらしい。
加えて真琴の言語機能も正常化。

「って、ちがーう! なんで――」

見せたのか。何でこの場で、この時に、自分の本性の一端を見せたのか。
それを問おうとした真琴だったが、そっと頭に置かれた温かい感触に自然と言葉が止まった。
何となく…大丈夫といわれたような気がして。

美汐は頭の上に置いた手をゆっくりと動かし、その柔らかな感触を楽しみながら、眼を見開いて不安げに自分を見上げる真琴から視線を移し、ちょっと驚いたように口を開けている小太郎に告げた。

「見ましたか? この娘は人の性を持っていますが、同時に(アヤカシ)…狐の化生でもあります。それでもなお、同じ言葉を吐けますか?」

傍らで、真琴がハッと怯えたように身を竦めるのを肌で感じる。
その心情は痛いほど分かる。例え、初対面に近い人間ではあっても、自分の正体を知られ、そして明確な拒絶を受けたなら…

傷つくでしょうね、それも深く。

勿論、美汐も他人相手にこんな乱暴な事をするつもりはなかった。ある意味、この小太郎だからこそ。
ただ、美汐は確かめたかったのだ。

そして、小太郎が口を開く。

「見損なわないでくださいよ、美汐姉さん」

そして、真琴に向かってフワリと笑みを見せた。予想外の反応に、キョトンとする真琴。

「だいたい、そんな事、一目見たときから分かってましたし」
「そ、そうなの!?」
「はい、勿論!」

ガビーンとショックを受ける真琴。
まあ、そうでしょうね、と眠たげに目を細める美汐。
真琴はといえば、泡を喰いながら椅子の背にしがみつくように振り返り、下から美汐の顔を見上げる。

「も、もしかして普段から耳とか出てた!? あ、それとも尻尾!?」
「どちらも出てませんよ」

安心させるように美汐が落ち着いた声で言う。
一瞬、もしかして会う人みんなにバレバレ? と焦った真琴だったが、ほっと安堵の一息。
と、それも束の間、クルリと表情反転。首も回転。ブンブンと小太郎と美汐の顔を見比べる。

「じゃあ、なんでーっ!?」
「私の従兄弟ですから」
「あはは、美汐姉さんの従兄弟ですから」
「あ、そうなんだ…って、意味分かんないわよぅ!」

美汐ってば、眼が覚めてからなんか投げやりなのは気のせいぃ?

飼い犬の如く美汐に懐いていた水瀬真琴、初めて親友に不信を抱いた瞬間だった。

「何はともあれ真琴さん」
「だから何よっ!」
「愛に種族の差なんてポポイのポイッなのです。そう、LOVEこそすべて!」
「だ、だからそんなこと云われても困るんだからっ、美汐も何とか云ってよぅ」
「他人様の恋愛に口出しするほど野暮じゃありませんから」
「み、美汐ぉぉ」

またまたいつの間に入れたのか、お茶を啜ってホッと息をついている美汐にヒシと抱きつく真琴嬢。
ここで彼女に見捨てられては、何だか本当にこのまま結婚させられかねない。
ちょっと哀れなほどに切羽詰ったその表情に、流石に勝手にしやがれモードを続けるのも気が引けて、美汐は疲れたように額に手を当てた。

「小太郎、いきなり結婚は性急過ぎます」
「えー、そうですかぁ!?」

不満そうに口を尖らせる小太郎だったが、美汐のちょっと怒ったような視線に思わず首を竦めた。

「見なさい、真琴が困ってるでしょう」
「あうーっ」
「うっ」

ビシっとかなりマジに泣きが入っている真琴を指差され、さすがの小太郎もうっと唸りをあげた。
どうやらそろそろ暴走モードも解けてきたらしい。迷惑な小僧だ。

「それに恋人というのも無理があります。真琴は全然あなたの事が好きではありませんから」
「がーん!」
「あうー、その通りなんだけど…なんだかなぁ」

全く一言も口にしていない自分の思いを、きっぱりさっぱり断言されて、ちょっとあうーな気分。
そりゃ、態度で分かるだろうけど。

「とりあえず、まずはお友達からはじめなさい。幸いな事に―――」

美汐はゆったりと二人の顔を見比べて――

「二人ともこの春から同じ高校ですし…勿論、受かったらの話ですが」
「…へ?」
「あ、あの、美汐姉さんの高校を受けるんですか? 真琴さん」

キョトンとした小太郎の円らな瞳に見据えられ、真琴は無意識にコクコクと頷いた。

「う…ん、今日も美汐に勉強教えてもらいに来たんだけど」

やっぱり運命? と、小さく万歳を決めている小太郎。
そいつを半眼になりながらも、肘をつきながらすぅっと指だけを彼に向け、美汐は真琴を流し見る。

「こういう子ですけど、これでも頭は良いんですよ。教えてもらってはどうですか? 同じ所を受けるのですし、一緒に勉強するのもいいかと思いますよ」
「え、えー」

ちょっと嫌そうに顔を顰める真琴。まあ、無理もなかろうて。
美汐は苦笑いを浮かべながら、空になった肉まんの皿を持ち上げた。

「時たま周りが見えなくなる事がありますけど、普段はもうちょっと落ち着いててそれほど悪い子ではありませんから…すみませんけど、付き合ってやってください。別に結婚しろとは云いませんから」
「あうー、美汐がそういうなら……」

そのバランスの良い眉をハの字に傾けながら、真琴は上目がちに当の少年を覗き見る。
視線がバッチリあった。

何やら人生の春の到来を神さまに感謝している様子だった小太郎。スタっと椅子に座り直し、コホンと咳払い。
そして、身を正してスマイル。

「えー、改めて、天野小太郎15歳独身です。これからよろしくお願いしますね」
「み、水瀬真琴よっ!」
「いやー、素敵なお名前ですね、あっはっは」
「あう…その…ありがと」


初々しいですね。

皿を水につけ、肉まんの底の紙をたたんでゴミ箱に捨てながら、背中越しに聞こえる二人の会話に美汐はどうにか落ち着いたかと、ふぅと眼を閉じる。


それにしても…

洗った手を拭きながら振り返り、二人の姿を見下ろしながら、美汐は思う。

「これじゃ、まるっきりお見合いじゃないですか。ふふ、差し詰め私は仲人……って、それって!」

かなりオバサン臭いのではないのでしょうか!?

やたらと若者同士をくっつけたがるオバサンならではの役割に、ナチュラルに自分を当てはめてしまったショックでよろめく天野美汐16歳の春であった。






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