「それで? 今日はどうしたんですか?」

流し台の下からラップを取り出しながら、天野美汐はかなり大雑把な内容の言葉を背中越しに投げかけた。
湯気を頭から漂わせる事も無く、不貞腐れたように冷めきった四つの肉まんが皿の上で無言で転がっている。
その今は力無く横たわるだけの肉まんたちに、それこそ熱線のような熱い視線を注いでいた真琴はパチクリと目を瞬かせ顔を上げた。

「何が?」

ちょうど此方に身を翻した美汐の視線と真正面からぶつかる。
美汐は小さく微笑みを投げ返すと、手にしたラップを引き伸ばし、肉まんの皿に被せた。
ほんの少しだけ水を足しておく事は勿論忘れてはいない。

「もうすぐ試験でしょう? 確か今日は水瀬先輩に勉強を見てもらうと云ってましたよね」
「あうー」

その言葉に真琴は何かを思い出したように真琴は口を尖らせながら、テーブルの椅子を引き、飛び乗るように腰を降ろした。

「そうよ。そのつもりだったんだけどねー。名雪ったら、祐一とデートとか言ってどっか行っちゃったのよ。もう!」
「なるほど」

確かにそれはやってられないだろう。
とはいっても、折角の休日ともなれば、恋人同士とはそう云うものかもしれない。

やはりマメさが大事なのでしょうか。

美汐はささやかな納得を覚えながら、手にした皿をレンジの中に入れた。

「でも、事前に勉強を見てくれと言っていなかったのでは?」
「あう、まあそうだけど」

ちょっとだけ、言葉がつまった真琴に、美汐は微かに目を細めた。
事前に真琴が頼んでいれば、あの水瀬先輩の事だ。デートの方は渋々ながらも今度にしたはずだ。
美汐が見た限り、まだまだ水瀬名雪はお姉さんという立場を楽しんでいるようだったから。
当の恋人も、まったくの他人なら兎も角、同じ家に住む…そして、今や戸籍上は従兄弟となった相沢祐一な訳で。
仕方ないな、と苦笑を閃かすその顔が易々と想像できる。

「だからさ、今日は美汐に見てもらおうと思って」

真琴の言葉に思索に沈んでいた美汐の意識が引き戻される。
一拍、呼吸を置いて彼女が発した言葉を理解して、そしてコクリと頷く。

「そうですか、構いませんよ」

云いながら、美汐は真琴の向かいの椅子に腰掛けた。
そして、低く唸りを上げて肉まんを急速に加熱している電子レンジを鼻歌でも歌いそうな雰囲気で、熱心に見つめている真琴をぼんやりと眺めた。

水瀬真琴は現在、受験生真っ盛りだ。
今、彼女は自分と同じ高校へ通うために勉強中という訳だ。
意外な事に、真琴はこれでもなかなかに理解力が高かった。学年でもトップクラスの成績を誇る自分が驚かされたぐらいだ。

彼女が高校に行きたがった理由。そこには勿論、自分や相沢祐一、名雪や栞たちが通うあの高校に自分も通いたいという意思が理由の一つであろう。
だが、尤も大きな理由は、もう少し真剣なものだ。自分も相談を受けたので、彼女の理由は良く知っている。
彼女が自分にそんな真剣な相談事を持ちかけてきてくれたのは、凄く嬉しかったし、彼女が既に明確な目的を持っているという事が少しだけ羨ましかった。

試験? ああ、そういえば――

と、そこで美汐は愁衛の大騒ぎですっかり忘却の彼方へと押しやっていた従兄弟の存在を思い出す。

「そうでした。真琴、ちょうどあなたと――」

トトトと廊下を歩く軽い足音に、美汐の言葉尻が途切れた。
途中で言葉を止め、視線を自分の後ろに送った美汐に、真琴が何だろうと首を後ろに捻る。
そこに丁度、バサリと台所の暖簾を盛大に引っ叩きながら一人の少年が顔を覗かせた。

「美汐姉さん、なんかありました? 何か騒いでたみたいですけど」
「ああ、小太郎、ちょうど――」

美汐が都合よく姿を見せた従兄弟に声をかけようとする。
それより早く、小太郎は台所にもう一人、誰かいる事に気がついた。
自分と美汐をちょうど挟む位置。唐突に現れた見知らぬ少年に疑問符を浮かべている少女。

「あれ? お客さんで…す…か…」

小太郎の声が擦り切れたようにして掻き消えた。
椅子の背中越しに振り返り、自分を見上げるツインテールの柔らかそうな少女。
その少女とバッチリと視線が合わさる。

その瞬間だった。小太郎の脳髄でパチンと火花が散ったのは。

後に小太郎はこの瞬間、彼女の周囲に満開のサクラが咲き、何処からともなく高らかなファンファーレが鳴り響いたと語っている。

そして―――

ポカーンと半開きになった小太郎の口から、流水のように滑らかにその言葉がこぼれ出た。



「可憐だ」



「は? カレンダー?」
「あう?」

思わず美汐が彼女にそぐわぬ間抜けた声音で問い返す。

カレンダーとはどういう意味でしょう?

美汐は深刻に頭を捻った。
ちなみに彼女の思考には『可憐』という漢字は一ミクロンの欠片も浮かんではいない。
小太郎の発したその言葉に、彼女の意識は完全に拒絶反応を起こしていたのだ。

だって……

美汐は思わず真琴の顔を見つめた。

「あう?」

これのどこから可憐などという言葉が出てくるのでしょう、あはははは。

美汐の無意識下の思考を言葉にすれば、こんな感じ。
むしろ、そんな考えがどんな形であれ言葉になって意識上に浮上せず、端から『可憐』という単語から思い浮かばないという所に、美汐の真琴に対する印象が透けて見えてたりする。

実は結構酷い。

当の真琴はといえば、此方もなにやら良く状況を分かってない様子で、ちょっと瞬きを連発しながら、正面の美汐と背後の小太郎をキョロキョロと交互に見比べていた。
で、硬直してしまった美汐に向き直り、問いかける。

「誰? これ」

と、ぽわわ〜んとどこかにイってしまった目で自分を見つめる小太郎を指差す真琴。
初対面からこれ呼ばわり。
真琴が見たこともないような、というより彼女自身覚えが無いような間の抜けた顔で呆けていた美汐は、ようやくその声で正気に引き戻される。

「あ、え? ああ、この子は私の従兄弟で天野小太郎と――」
「イトコ?」

首を傾げる真琴に、漸く落ち着いてきたように、美汐はほぼ普段と変わらぬ調子で説明した。

「つまり、私の父の兄の子供です。水瀬先輩と相沢さんのような関係です」
「ふーん」

なるほど、とばかりに納得する真琴を見つめて、何とか精神的な動揺が収まったかと思われた瞬間――

「み、美汐姉さん!!」
「は、はい!?」

いきなり自分の名前を怒鳴られ、不意打ちを食らった美汐は前にも増した素っ頓狂な声で返事する。
そんな年上の従姉妹の様子などまるで考慮外なのか、小太郎は容赦なく裏返った甲高い声を発した。

「この美しい女性はどなたなんですかッ!?」
「う、美しい!?」

思わず台所をキョロキョロと見回してしまう美汐。
見当たらない。
というか、そもそも自分たち以外に誰も居る筈が無い。
それでも探してしまうところに美汐の精神的動揺の激しさが見て取れた。

居るのといえば、真っ赤な顔で自分を睨む従兄弟の天野小太郎。
それから自分。
後は間の抜けた顔で小首を傾げる水瀬真琴。

小太郎が自分の事をどなたかなどと訊ねるはずもなく…
美汐は否応なしに結論へと到達せざるを得なかった。

「えー、小太郎。あなたが云っているのは…まさか、この娘のことではないでしょうね?」
「そのとおりですッ!」
「あう?」

おずおずと真琴を指差し、訊ねた美汐だったが、叩きつけるような怒鳴り声をぶつけられカクンと顎を落とした。

うつくしい?

取り合えず漢字が思い浮かばない。

鬱苦示威?

……いけません。これでは真夜中に奇声を発しながら二輪車を暴走させる人たちと同レベルです。

流石にそこまで逃避してしまうわけにもいかず、美汐は渋々ながら狂気の現実を認める事にした。
頭痛がし始めた眉間を指で抑えながら搾り出すように云う。

「え、えーっとですね。この娘は水瀬真琴と言いまして、私のゆうじ―――」
「真琴さん? 真琴さん真琴さん…ああ、なんて素敵な名前なのでしょうか」
「す、ステーキ!?」

まるで、脳味噌にコガネムシでも巣食ったかのようなパッパラパーな小太郎の言葉に、思わず反射的に云ってしまってから、かなり後悔する。

そ、それはあまりにも苦しすぎます。ああ、私って…私って……かなりダメ?

何やら再び懊悩を始める美汐を他所に、完全に狂的熱気に冒された眼差しのまま、小太郎は呆然としている真琴の両手を取り、グググっと身を寄せる。
自然、グググッと背を曲げて、仰け反ってしまう真琴。

「ま、真琴さん!」
「は、はい!」

この訳の分からぬ状況では人見知りなどしている暇すらもなく、真琴は見知らぬ小太郎とかいう少年に名前を呼ばれ、反射的に返事をする。
小太郎は、興奮だか発熱だか、とにかく顔を真っ赤に紅潮させながら―――

魂のままに絶叫した。







「僕と結婚してください!!」







……チーン


得も知れぬ静寂の中、電子レンジの音がまるで仏壇の鐘のように響いた。


手を握り、魅入られたように見つめ合う真琴と小太郎。
そこから弾かれたように、独りアホの如くカッポーンと大口を開けて硬直する美汐。

その音は、このかなり怖い状態で凍りついた空間の一部分だけを解凍した。
完全に動くものがなくなった台所という世界の中で、カッポーンと意識を消し飛ばされたように大口を開けて呆ける美汐の姿がゆっくりと、ゆっくりと後ろへと傾いていき―――


ゴガッ

と台所に響き渡る背筋も凍る激突音。


「へ? あうー!? み、美汐ぉ!?」
「わっわっ!? み、美汐姉さん、大丈夫ですかぁ!?」


慌てて駆け寄る真琴と小太郎の行く先には――


「うきゅ〜」

椅子ごと盛大に引っくり返り、思いっきり後頭部をクラッシュさせて目を回す美汐の姿があったとさ。



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