梢の上から、春を誘う小鳥の囀りが空気を震わせる。
まだ寒さは厳しいだろうに、健気に彼女たちは春を呼ぶ。

その軽やかな調べを聞きながら、遅いお昼をいただく天野家三名。

食事は交わす言葉も無く無言のままに進む。
と云っても冷たい雰囲気という訳ではなく、むしろ食事に没頭しているという雰囲気だ。

やがて、鉢を煽り、汁を最後の一滴まで飲み干した小太郎が、プハッとばかりに吐息をつく。

「うー、美味しかった。ご馳走様です」
「お粗末様でした」

こちらも丁度食べ終わった美汐が丁寧に言葉を返す。

「ごちそうさま。さて…と」

最後に食べ終わった天野父が箸を置いて立ち上がる。蕎麦の鉢を重ねていた美汐は何度か瞬きしながら父を見上げた。

「もう出るんですか?」
「ああ、時間も押してるからな」

その会話の内容にキョトンとしていた小太郎が訊ねかけた。

「叔父さん、どこか行かれるんですか?」
「ああ、仕事だよ。折角小太君が来てくれたのに、初日から済まないね」

言葉通りの本当にすまなさそうな叔父の声に、小太郎は慌てて首を振った。

「いえ、そんな事ないですよ。だいたい、僕が来るのが遅れたのに叔父さん待っててくれたんでしょ? 仕事の方、間に合うんですか?」
「充分間に合いますよ」

と、美汐がテーブルを拭きながら呆れたように言葉を挟む。

「仕事の方は本当は明日なんですよ。それなのに、この人は旅館がタダで泊めてくれるからって一日早く行こうとしてるんです…まったく」
「美汐…お前、お父さんをこの人呼ばわりは…」
「早く行かないと、旅館の美味しい夕餉が食べられなくなりますよ」
「ううっ、厳しいね。いいよ、こっちは蟹だからな、蟹」
「蟹は冬が本場でしょうに・・・」

親子と言うより、いい年した夫婦みたいな会話だなぁ。

そんな事を思い巡らしながら、ぼんやりと二人のやり取りを眺めていた小太郎に、呆れたように呟いた美汐が顔を向ける。

「今、お茶を入れますから、寛いでてください」

ハッと我に返って反射的に立ち上がりながら云う。

「あ、食器洗うぐらいなら手伝いますよ」
「そうですか?」

と、美汐は一瞬視線を泳がせながら思索を巡らせ、コクリと小さく顎を上下に動かして云う。

「なら、お願いします……男手が増えるのは助かりますね」

と、セリフの後半はさっさと座敷を出て行こうとしている人に向かって嫌味を込めて呟く。

「蟹ぃ♪ 蟹鍋ぇ♪」

聞いてないし。

美汐は「はぁ」と溜息を一つ落とすと、重ねた鉢の乗った盆を持ち、立ち上がった。










「〜〜♪」

自然と零れる鼻歌。
鼻孔をくすぐる雪解けの匂い。新芽が息吹く爽やかな薫り。
足取りも軽やかに、晩冬の陽射しの下を歩く少女が一人。

彼女のすれ違った買い物袋を提げたおばさんが、眩しげにその娘の姿を見送っている。

周りにすら楽しげな気配を伝えるように、彼女はとても躍動的で。


「つーいたっと。相変わらず挑戦的な階段よねぇ」

ツインテールを振り回し、少女は聳えるような階段を見上げる。
総数四十七段の神社へと至る階段。何度も数えたから、間違いは無い。

「よしっ!」

元気の良い掛け声が響くと同時に、少女は羽根のように軽やかに階段を駆け上がり始めた。







蛇口から水の流れ出る音が絶え間なく流れる。
天野家では井戸水を引いたものを使っているので、水の温度は冬は温かく、夏は冷たい。
それでも、真冬ともなればこの北国では流石に限界はあるのだが。

ともあれ春先ともなれば、ちょうど水温も心地の良い具合だ。

洗剤の泡を纏ったお鉢を水で洗い流しながら、小太郎は鍋を擦っている美汐に訊ねる。

「叔父さん、やっぱり仕事忙しいんですか?」

蛇口から流れ出る水の流れが微細な飛沫を撒き散らす。
飛び散る水飛沫のお陰で心なしか澄んだようにも思える空気の中で、美汐は「そうですね」と少し考えるように前置きして答える。

「家にいる事の方が少ないですし、忙しいと思いますよ。特にこの地方では、一般の方々の依頼を引き受けてくれる方は少ないですから。私も休みの間は手伝う事もありますし。まあ紛い物は沢山いるようですけどね」
「え? 美汐姉さんも!?」

思わず顔を跳ね上げ、年上の従姉妹の顔を見る。
美汐は特に視線を返す事無く、手の止まっている小太郎を押しのけ、鍋を水洗いし始めながら、何ともないように答えた。

「アルバイト代わりですよ」
「で、でも危ないんじゃ」
「危険手当も出してくれますよ」

そんな問題じゃないんだけど、と困ったように眉を寄せる。

「何ならあなたもやりますか? 本家では手伝い賃など出なかったでしょう。まあ、父もそれほど出してくれる訳ではありませんが。あ、勿論受験が終ってからですよ」
「いや…でも」

汚れが流れ落ちたのを確認した美汐は、ふと傍らで従兄弟の少年が難しい顔をしているのに気がつく。

「どうしました?」
「いや…僕は家の仕事を継ぎたくないから飛び出したんだし、それなのに……」

「小太君は、本家を継ぐのが嫌というより、自分の夢を適えたかったから飛び出したのだろう? だったら別段、それからキッパリ足を洗うって事はしなくてもいいんじゃないのかね?」

ひょい、と暖簾の隙間から顔を覗かせて口を挟んだのは天野愁衛だった。
柔和な面差しを甥に向けて、彼は小さく微笑んだ。

「まあ、キッパリやめてしまうのも一つの道だとは思うがね」
「お父さん、時間の方はいいんですか?」

傍らの椅子の背に掛けてあった手拭で濡れた手を拭きながら、美汐は軽く父親を睨みつける。
愁衛は手に持ったカバンを差し出し、用意は済んでいる所をアピールしながら言った。

「出来れば娘には仕事に行く父を送って欲しいんだが」
「勝手にどうぞ」
「おいおい、今生の別れかもしれないのに」
「財産管理の方はご心配なさらず」
「美汐姉さん」

ガックリと首を項垂れる愁衛に、小太郎は苦笑しながら美汐の服の裾を引っ張った。
美汐は詰まらなそうにエプロンを外しながら言う。

「甘えたい盛りですかね」

娘が云うセリフじゃないよなあ、と思いながら小太郎は少し寂しそうな叔父と、それを追い立てるように台所を出て行く美汐の姿を視線で追った。
とりあえず、この家では従姉妹の方が強そうなので、美汐姉の方に従うようにしようと思い定める小太郎であった。





「じゃあ、僕はちょっと荷物を整理してきますよ」

カラカラと引き戸が閉まったのを合図として、小太郎は美汐に告げた。
先程の娘の辛辣な言葉など毛ほども堪えなかったのか、それとも回復力が早いのか。台所を出て僅か数歩進んだ所で先程の寂しげな顔はどこへやら、「蟹鍋ぇ」と口ずさんでいた愁衛を送り出し、踵を返しかけていた美汐は動きを止め、一度だけ瞬きした。

「まだ宅配で送った分が届いていませんけど、良いんですか?」
「うん、取り合えず今持ってきた分だけでもそれなりに量もありますし」
「手伝いましょうか?」
「いや、大丈夫ですよ。美汐姉さんも忙しいでしょ?」
「そうでもないですが…まあ、そう云うなら」

お掃除も残ってますし、という言葉にニコニコと頷いて、「それじゃ」と言葉を残し置き、小太郎は階段を駆け上がった。

「後でお茶菓子を出しますから、適当に済ませたら降りてらっしゃい」
「はーい」

良く通る声が階上から飛んで来る。

「元気な事は良い事です」

何故か満足そうに頷いて、美汐は足を滑らすように廊下の上を歩いた。
足音一つ響かせずに板張りの廊下を進み、突き当たりの台所の暖簾を潜ろうとしたところで彼女はふと背後に生まれ出た気配に振り返る。

美汐は小首を傾げると、身を翻して今来た廊下を再び戻る。
ちょうど、玄関口に着いた所で、カラカラと引き戸が開かれた。

「…忘れ物ですか?」

立っていたのは、何故か満面の笑みを顔中に浮かべた父の姿。

「いや、今日出るのはやめようと思って」
「はあ?」
「うん、そうだ。どうせ明日出れば約束の日には間に合うんだし、うん、そうしよう」

蟹鍋はいいのでしょうか、と訝しげに眉を顰めている娘を他所に愁衛は美汐からは死角となっている右側面に顔を向けて、クイクイと手招きした。

「やっほー、また来ちゃった、美汐!」

ピョコン、と二つの尻尾が視界に飛び込み、目を瞬く美汐の前に沢渡真琴――改め水瀬真琴の笑顔が現れる。

「いやあ、階段の所で真琴ちゃんと出くわしてね。これは仕事なんか行ってる暇無いと――」

ピシャン!

物凄い勢いで閉ざされた引き戸が、実に嬉しそうな愁衛の笑顔を豪快に視界から遮断した。

「いらっしゃい、真琴。まだ寒かったでしょうに」
「そんな事なかったよ…って、あの」

真琴はやや呆然としながら閉ざされた扉と美汐の顔を比べ見る。
妖狐である真琴の優れた動体視力が全く捕らえられない速度でいきなり玄関口に引っ張り込まれて、背後の扉が物凄い勢いで閉ざされたのだから、それは吃驚するだろう。
ちょっと想像外の美汐の行動とその素早さに上手く思考の歯車が噛み合わさっていない真琴に、美汐は仄かな微笑みを浮かべつつ、

「お昼はもう食べましたか?」
「う、うん、食べてきたよって…あうー」

何事もなかったかのように会話を進める親友に、元々単細胞故かあっさり乗せられそうになりつつも、やっぱり気になるのか真琴が背後を振り返った所でカラカラと恐る恐るといった風情に引き戸が開く。
そこには先程の笑顔のままの愁衛の姿。さすがに笑顔が硬直化してるのが見て取れる。

「み、美汐…お父さんが喋ってる最中にどういう了見だ?」

ピシャン!

またも、物凄い勢いで閉ざされる扉。

「え? え?」

真琴は思わず素っ頓狂な声を漏らした。

あうー? 今、どうやって閉めたの!?

まん丸に見開いた目で真琴は美汐と閉ざされた引き戸を見比べた。
ちなみに真琴はまだ家に上がっておらず、美汐に促されるまま靴を脱ごうとしていた所。
美汐はといえば、自分の目の前で少し怒ったような顔をして立っている訳で、その場から一歩も動いてはいなかったはず。

「あうー!?」

頭の中がグチャグチャに引っ掻き回されたように混乱して目を回している真琴の後ろで、ガタガタと引き戸が軋んでいた。
どうやら外側から必死に開けようとして、全然ビクともしないらしい。

「こ、こら、美汐! 安易に家の玄関を封じるんじゃない! ほら、早く開けなさい!」

愁衛の焦ったような声に、美汐は揺るぎの無い低い声でビシッと告げる。

「無用です。お父さん、訳の分からない戯言を垂れ流していないで、早々にご自分のお仕事に向かって下さい」
「だ、だが真琴ちゃんが――」
「蟹鍋と真琴とどちらが大事なんですか?」
「う、そ、それは」

改めて云われて迷う愁衛。

「あうー、なんであたしと蟹鍋を並べるのぉ?」

真琴のアイデンティティに関わる呟きは、誰の耳にも届かず大気に紛れた。

「くっ、仕方ない。美汐、真琴ちゃんとちゃんと遊んであげるんだぞ」
「お父さんに言われる筋合いはありません」
「くぅ」

悔しげな呻き声が漏れ、引き戸の硝子越しに映っていた人影が漸く遠ざかっていった。
扉越しに玉砂利の鳴く音が響いてくる。

「あうー、美汐パパ追い払っちゃったの?」
「追い払ったのではありません。お仕事に送り出しただけです」
「あうー」

真琴は少しだけ残念そうに声を漏らした。
天野愁衛は、初対面から自分をひどく可愛がってくれた上に、どこから聞きつけてきたのか大好きな肉まんをたらふくご馳走してくれた人である。
美汐の父という点を除いても、真琴は愁衛にそれなりに懐いていた。
餌付けされていたと言ってもいい。

「肉まんならありますよ、暖めましょうか?」
「あうー♪」

美汐の言葉にコロリと笑顔を閃かす水瀬真琴。
既に愁衛のことなど頭の何処にも存在しない。
まあ、所詮はその程度という訳だ。
哀れ、美汐パパ。

真琴は靴を脱ぎ散らし、美汐に注意されて慌ててそれを揃え直し、パタパタと先を行く美汐の背を追いかけ始めた。



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