振り返ればそこには絶望があった。
だが、彼らはそれを乗り越え、今という時間を手に入れる。
それは不思議な物語ではあるけれど、語るべきはそれではない。
語るべきは、それからのおはなし
あの、奇跡の冬も終わりを告げ、彼らは新たなる季節――春へと足を踏み入れた。
春とは即ち、新たなる出会いの季節。
舞台は3月も中旬へと入った雪の街の駅前から。
すでに雪は解け、日差しは柔らかに人々と街を照らしている。
まだほのかな肌寒さは感じるものの、春の気配はゆっくりと、だが着実に近づいていた。
奇跡の始まり、もしくは奇跡が再開された端緒とも言える駅前のベンチ。
そこには今、一人の少女が座っている。
行儀良くぴたりと合わされた膝頭の上には丁寧に両手が置かれていた。彼女の性とも云うべき性格を良く現している。
手編みにも見える濃緑色のセーターは彼女の小柄な体を優しく包み、赤茶色のロングスカートは彼女の細い足を踝まで隠していた。
……少々年頃の女の子の選ぶ服装にしては渋すぎるような気もするが、彼女の好みなのだから仕方ないのだろう。本人さえ良ければファッションなどどうしようと構わないものだ。
なにより彼女にはその姿が似合っていた。
彼女にとっては酷かもしれないが……
暑すぎず、寒すぎず、身を包む服と気温が丁度心地よい暖かさを彼女に与える。
少し眠気を感じ、彼女はパチパチと目を瞬かせた。静かだが周囲を圧するような神秘的な気配を醸し出すその眼差しが、そうすると少しだけ彼女に歳相応の可愛らしさを滲ませる。
肩先まで伸ばした少し赤み掛かった髪の毛が、風に吹かれ小さくウェーブを描く毛先を揺らす。
「…いい、風です」
数ヶ月前、そのベンチで凍死しかけた少年が浴びた寒風とは比べ物にならないほどに暖かい風が彼女の周りを踊る。
「それにしても遅いですね」
そう呟くと彼女は腕に巻かれた時計と、駅前の時計を見比べ小さく溜息をついた。
それを見れば友人である先輩など「相変わらずオバさんくさいな」とでも言うのだろうが、やっぱり仕草などは変わるものではない。
彼女は小さく苦笑を浮かべると、駅の改札の方に目を向けた。ちょうど電車が駅を飛び出していき、その電車に乗っていただろう乗客がぞろぞろと降りてくる。
「……」
微かに、彼女の目元が綻ぶ。
その視線の先でキョロキョロと人ごみの中であたりを見回す少年の姿が見えた。
その落ち着きのない動作が彼の性格を良く現しているようにも見える。
昔と変わっていないその様子に彼女は苦笑とも安堵ともつかない思いを抱いた。
なにより、久しぶりに会う人が昔と変わっていないということはなんとなく嬉しいものだ。
やがて、少年はこちらに気がつきハタハタと駆けてくる。大きな荷物を担いでいるためにどこかフラフラしていて危なっかしい。
だがどうにか転がらずに少年は彼女の前まで到達した。
「遅いですね、予定より一時間近くの遅刻ですよ」
「ご、ごめんなさい。乗る列車間違えちゃって」
「相変わらず慌て者ですね。少しは大きくなって落ち着くと思ったんですけど」
「…はは」
少年はごまかすように頭をポリポリと掻きながら笑う。
「まあ、いいですけどね。それでは行きましょうか」
と、足を踏み出しかけて彼女は振り返る。
脳裏に過ぎるのは人伝えに聞いたある情景。
少し遊び心を呼び起こされ、云ってみる。
「私の名前、覚えてますか?」
きょとんとした少年はコクコクと頷き、心外だとでも云うように慌てて答えた。
「そりゃ勿論ですよ、美汐姉さん」
「素直でよろしいです」
満足そうにコクンと頷いた彼女――天野美汐は再び踵を返しながら少年に呼びかけた。
「では行きましょうか」
と、行きかけ、美汐は思い出したようにもう一度立ち止まり、振り返って言った。
「我が街にようこそ、小太郎」
奇跡の冬が通り過ぎた街に、暖かい春が近づいている。
その街にまた一人の来訪者。
終わりなき日常の…果てしなく続く日常の――
これが新たなる始まり。
after Kanon.
Happy days started.
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