ゆっくりと、ゆっくりと空気を吸い込む。
馴れ親しんだ、我が家の香り。ただ、穏やかに心落ち着く空間。
水瀬秋子は靴を脱ぎ、一歩我が家へと踏み入れると、何かを確かめるように視線を家の中へと巡らせた。
玄関口に置かれたカーペットの感触。二階へと続く階段。壁に掛けられた草原を描いた緑の絵。そして、たゆたうように流れる温かな空気。
何も変わらない。何も変わっていない。
それはとても嬉しい事。とても安心できる事。

「おかえり…お母さん」

秋子は眩しそうに目を細めた。
イチゴをあしらったエプロン…私が作りプレゼントしたものを身につけた娘が立っている。
柔らかく、微笑みながら、そして、目尻に確かな涙の雫を宿しながら。
ふと、思い至る。
いつも、帰ってくる誰かを迎え入れる役目は自分のものだったけれど。
でも、今この場で私を迎えてくれているのは私の娘。
ただ、それだけの事で、自分の娘が大きくなったのだなと感じる。
それが、染み入るように暖かく、そして嬉しかった。

「ただいま…名雪」

胸に飛び込む娘を抱き締めながら、秋子は今一度このような娘を授かった自分の幸せを噛み締めていた。







「えー、それではこの相沢祐一が音頭をとらせていただきます」

畏まってないでさっさとやれー、という北川の茶々を犬でも追い払うように手を振って払いのけながら、祐一は続けた。

「ゴホン。えー、ですが、その前に主賓である秋子さんからご挨拶を頂きたいと思います。ではでは秋子さん。どーぞ」

祐一、手を差し伸べながら後退り。変わりに祐一の立っていた場所に秋子が立ち、フワリと一礼。

「みなさん、私などのためにお集まりいただき本当にありがとうございます」

「秋子さんのためならば、不肖北川、何処へでも駆けつけますよー」
「嘘つけ、てめえは料理が目当てだろうが!」
「何を云うか相沢。その料理を作った中には俺も入ってるんだぞ。ふふん、ただ飯喰らいの役立たずは貴様の方と云う訳だ」
「な、なんだと!? なら俺はお前が作った料理を食ってしまうかもしれないのか!?」
「その通りだ、相沢祐一。この中から俺が作った料理を食ってしまい、そしてあまりの美味さに身悶えして朽ち果てろ」
「お、おのれ、北川、謀ったなぁ」
「そこ、うるさい!」
「…排除」

秋子さんの話を邪魔して女傑二人に成敗されるバカ二人。
それを「あらまあ」の一言で片付け、ボコボコにされる二人を微笑ましく見守る秋子さん。
一通りそれを楽しむと、彼女は挨拶を再開する。

「私の不注意から皆さんには大変に心配をおかけしてしまいました、ごめんなさい。ですが、何とか皆さんのお心遣いもあって、無事退院する事が出来ました、皆さん本当にありがとうございます」

パチパチと盛大に拍手が鳴り響く。
それが鳴り止むのを待って、秋子は娘に身体を向けた。

「名雪」
「はい」

秋子は幾分かの申し訳なさとこれ以上無い愛しさを込めて微笑みを投げかける。

「本当に…心配かけてごめんね」
「ううん! ううん!」

ブンブンと首を振る名雪。
またも一杯に思いが込み上げてきて、思わず涙が零れる。
そんな彼女を、祐一は隣に立ち包むように肩を抱く。
名雪は傍らの恋人を振り仰ぐと涙を見せながらも微笑んで見せた。それを見て、ポムポムと彼女の頭を叩く祐一。
そこに互いに抱く限りの無い信頼を透かし見て、秋子は微かに笑みを深くした。
自分が事故に遭った時の娘の様子は伝え聞いている。そして、祐一が必死になって彼女を支え、その心を救った事も。
今、目の前にある二人の姿はその確かな証。秋子は心を満たす穏やかな安心感にしばしその身を委ねた。

「それから、二つご報告したい事があるんです」

秋子はそう云うと、ちょっと羨ましそうに名雪と祐一の姿を追っていた真琴に視線を投げかける。
秋子さんが自分を見つめている事に気がついて、真琴はパチパチと目を瞬いた。その彼女に向かって、おいで、と手を招く。
何だろうと小首を傾げながら秋子の側に駆け寄った真琴を、秋子はそっと自分の前に立たせ、その両肩に手を置きながらみんなに向かって告げた。

「一つ目は…この子…真琴が正式に私の娘になる事が決まりました」

病院の診察室でその事実を既に知っていた真琴だが、いきなりこんな場所で告げられて、ちょっと驚いたように顔を上げる。
下からの視線を感じながら、秋子は続けてその名を告げた。

「これから、この子は水瀬真琴です」

ワッと湧き上がる歓声。その中で、真琴は何もかも実感できないように戸惑った震える声で名前を呼ぶ。

「あ、秋子さん」
「うふふ、これからはお母さんって呼んでくれると嬉しいわ。診察室では呼んでくれたでしょう?」

咄嗟に俯いた真琴の頬に朱が散った。あの時の事が脳裏にありありと甦ったのだ。
自分が、この人の事を「おかあさん」と呼んだ事を。あのムズ痒くなるような、でも指先まで満たされるような不思議な言葉の感触を、思い出したのだ。
恐る恐る面を上げる。するとそこにあるのはやっぱり微笑み。
だから言葉は滑り出た。

「おかあ…さん」
「はい、真琴」

おかあさんと呼ぶ。すると返事が返ってくる。
ただそれだけ。それだけなのにどうしようもなく心が震えた。

「真琴」

顔を向ける。すると美汐が微笑んでいた。

「良かったですね」
「…美汐」

思わず、美汐に抱きつき、その胸に顔を埋めた。
何となく、今は涙を見られるのが気恥ずかしかった。

「真琴、真琴」
「な、なによぅ」

年上の親友の温もりに心を浸していた所に、トントントンと肩を叩かれ、真琴は慌てて滲んだ涙を拭いながら振り返る。
そこにはニコニコと笑顔を浮かべる名雪の姿。
彼女は自分を指差すと、一言一言音を編み上げるようにして真琴に云った。

「おねーちゃん」
「…あう?」

イマイチ意味が読み取れず、疑問符を浮かべる真琴に向かって祐一が苦笑を浮かべながら告げる。

「真琴、コイツは秋子さんみたいにお前に「お姉さん」呼ばわりされたいんだと」

ニコニコしながら頷く名雪。
戸惑いながら、真琴は目の前の美汐と名雪の後ろにいる秋子を交互に見比べた。
「あらまあ」と笑いながら頬に手を当てる秋子と、静かに目を閉じて口端に微笑を湛える美汐。
その笑顔に後押しされて、真琴はおずおずと名雪の前に立った。

「あう…あの…その…」

俯く頭につられて、二つのテールも垂れ下がる。

「お…お…おねえちゃん

小さく開いた唇から漏れ出た響き。次の瞬間、真琴は渾身の力を込めて抱き締められた。

「うん、お姉ちゃんだよ」
「あうっ、ちょ、ちょっと名雪ぃ」
「お姉ちゃん!」
「あうー、あうー」

バタバタと苦しがって暴れる新しい妹を逃すまいといたぶるように抱き締める名雪。
嬉しくて、もう可愛くてたまらないというように。

「名雪も昔っから妹が欲しいって言ってたしね」
「そうなんですか?」

見上げてくる栞をチラリと眺めると、香里は縺れる名雪と真琴に視線を戻した。

「一人っ子だからかしらね。あーあ、真琴ちゃんか。ああ云う妹ならあたしも欲しいかな」
「……あの、お姉ちゃん? 私は…」
「……こういう場面であたしが言う台詞って分かる?」
「えーっとこういう場面ですか? …『あたしに妹なんていないわ』…なんて事は…ないですよね?」
「正解」
「えぅぅ」
「いいなあ、オレも妹欲しいなあ」
「あんたの動機は不純過ぎ」


「…ぐしゅぐしゅ…いい話」
「あははーっ、はいハンカチだよ、舞」


自然と笑み零れるような不思議な空気が満ち溢れる。
この北国の地に、一足早く春の息吹がそよいだような、そんな柔らかな空気が。
パチパチパチと未だ響き続ける拍手の音。
音の主へと目を向けた秋子はニコリと微笑み、彼女が座る椅子の横に歩み寄る。
真琴の喜びを自らのことのように受け止め、それを拍手する事で一生懸命表に出していた月宮あゆは、秋子さんの行動にキョトンと手を止め、彼女の顔を振り仰いだ。

「皆さん、もう一つご報告しますね。月宮あゆちゃんは退院の暁にはこの家で一緒に暮らす事になりました」

「ホント!?」

漸く名雪の抱擁から脱出した真琴が、驚きと喜色の混じった声を上げる。
皆の視線に注視され、あゆは恥ずかしそうに目を伏せた。

「入院している間に色々と話し合ったの。あゆちゃんは遠慮してなかなか了承してくれなかったんですけれどね」
「うぐぅ、その…やっぱり迷惑だと思ったんだよ」
「そんな事ないよ」

あゆの言葉に間髪入れずに言葉を返したのは名雪。

「迷惑だなんて、絶対そんな事思わないよ」
「う…ぐぅ」

真っ直ぐで、本当に何の混じり気も無い本心からの言葉。その何も飾らぬまっさらな言葉は、今この時を漂う空気に緩みきっていたあゆの心の堰を決壊させる。

「良かったな、あゆ」
「わーい、家族家族ぅ」
「うぐっ…うぐっ…うぐぅぅぅ」

真琴に両手を掴まれてブンブンと上下に振り回されながら、込み上げる感情に言葉も形をなさず、ただぽろぽろとあゆは涙を落としていた。

「ううっ、ぐす、ぐしゅ…とってもいい話」
「あははーっ、はいタオルだよ、舞」

「秋子さん」
「はい、なんですか、祐一さん」
「あゆの奴、水瀬の名字になるんですか?」

秋子の編みこまれた髪の毛がユラリと横に揺れた。

「いいえ、あゆちゃんは月宮のままですよ。私は身元引受人になっただけです」

そう口ずさみながらあゆを見つめる彼女の眼差しは、溢れんばかりの慈愛に満ちて。
その伝わる思いに祐一は思わず胸に手を当てる。鼓動に重なる何かを確かめるように。

「あゆちゃんは自分のお母さんの思い出を大事にしています。だから、月宮の名前はそのままにしておこうと言う事になったんです」
「そうですか」
「うふふ、そうですねえ、あゆちゃんが月宮の名字じゃなくなるとしたら…」

お嫁さんになった時でしょうか。

その囁き声は、喧騒に溶け込み、傍らに立った祐一の耳にだけに届く。
祐一は涙でぐしゃぐしゃになりながら、真琴に振り回されているあゆを眺め、イマイチその未来の姿を思い浮かべる事が出来ずに苦笑した。
だが、それでも今という現在は流れ往き、やがて未来と云う名の今が訪れるのだろう。
想像出来るようで、でも全く見えない明日の果て。
ただそれは、きっと幸せな日々なのだろうと祐一は思う。
そのまだ見ぬ未来に思いを馳せ、祐一は浮かべた苦笑を微笑に変えた。

「さて、そろそろ始めるぞ。ほら、あゆも顔を拭け。ひでぇ顔だぞ」
「うぐぅ」

パンパンと両手を叩き、場を沈め、祐一はテーブルに置かれたコップを手にして掲げる。

「えー、それでは、秋子さんの無事退院と月宮あゆの一時退院、並びに改めて家族となったあゆと真琴を祝して、乾杯!」

「「「かんぱーい」」」

一斉にドリンクの注がれたコップが掲げられ、様々な声の音色が唱和され、パーティーの開幕は告げられた。






宴は終らず、笑い声は一度も途切れる事無く、この家の中に満ち満ちて。

やがて、外が夜の帳に覆われて、その闇を彩るかのように音もなく真っ白な雪が舞い降りてくる。


「ったく、良く喰うよな、ホント」

咥えた串がぷらりぷらりと上下に動く。
同調するようにこね回すフライパンの中でソーセージがパチパチと弾けていた。

始めに用意した料理たちは早々に皆の胃の中に退場し、宴の中盤からは多少なりとも料理の出来る面々が交互に何かを作っては補充する。
さすがに主賓である秋子さんは皆の言葉もあって、台所には立っていない。尤も、ウズウズと久々に料理の腕を振るいたがっている様子は如実に見て取れたが。
まあ、そこは明日からの楽しみとして我慢してもらおうという事だ。
欲求の果てに謎ジャム乱舞へと走る危険は無きにしもあらずではあったが。
そう云うわけで、名雪や美坂姉妹、それに佐祐理と美汐に北川が加わって、それぞれに腕を振るっている。
ちなみに出された料理を片っ端から食い荒らしているのは、祐一、舞、真琴と言った役立たずトリオがメインであった。
舞に関しては佐祐理の手伝いをしているので役立たずからは省いてもいいかもしれない。

「舞〜、そのチキン切り分けて」
「…ラジャ」

シュパパパパン

包丁が唸り、虚空を待った鳥の足が一瞬にして解体され、舞の差し出すお皿の上に綺麗に並ぶ。

「わっ、舞すごーい」
「…私はチキンを切る者だから」
「じゃあ、こっちもお願い」

シュパパパパン

「…私はキャベツを切る者だから」
「じゃあ、これも」

シュパパパパン

「…私はサカナを三枚に捌く者だから」
「あははー、じゃあ次はこれー」



真横で人間業とは思えない秘技が繰り広げているのを横目に見ながら、北川は焼いたソーセージを皿へと移し、料理を取りに来た美汐に手渡す。

「ほい、一品上がりっと。もう打ち止めでも良いよなあ」
「そうですね。倉田先輩が今作られている分で十分でしょう」
「だな」

美汐が背を向けるのを確認し、皆に似合っていると評されたエプロンを外して椅子の背に掛ける。

「やれやれ」

疲れた背筋をゆっくりと伸ばす。微かに筋肉が軋みを上げた。それが仄かに気持ち良い。

「そういや、あんまり食べてなかったなあ」

調理用に使っていた白ワインの瓶を片手に、宴の会場となっている居間へと顔を覗かす。

「猫さんだおーー!!」
「だ、だめー。逃げてぴろー!」
「うにゃーー」
「ま、真琴ぉ、何ぴろ連れて来てるんだぁぁ!」
「だ、だってご馳走ぴろにも食べさせてあげたかったんだもん」

凄い事になっていた。

白身魚のムニエルを加えて居間をグルグルと駆け回る猫。
それを物凄い形相で追いかける水瀬名雪。
で、その名雪を必死で抑えようとする祐一と真琴。
「あらまあ」と楽しそうに赤ワインのグラスを揺らめかせている秋子さん。
暴走する名雪に引っ掛けられて、「うぐぅ」と目を回している月宮あゆ。
「祐一さーん、頑張って下さーい」と無責任に声援を送る美坂栞と、困惑したよう立ち尽くす天野美汐の持つお皿に乗ったソーセージをフォークで突き刺して、もぐもぐと口を動かしながら見物している美坂香里。

「こりゃまた騒がしい事で」

ちょっと一休みしたかった所だが、これではどうにも難しい。
どうしたもんかと巡らす視線が、窓の外に舞い散る白の化粧を捉え留まる。

「ああ、降り出したのか」

雪見酒もいいかもしれない。






北川は出掛けに拾ったグラスに注がれた白いワインをユラユラと揺らしながら空を見上げ、闇の中から生まれ出るように視界へと降りて来る雪を眺めていた。
北国の冬の夜は、流石に地元の人間とは云え凍えそうなほどに寒い。それも雪が降っているなら尚更だ。
だが、少し火照った身体には、少々の時間ならばその冷たさも心地良い。
音を掻き消す雪にも負けず、水瀬家のベランダに立つ北川の耳には階下の喧騒が微かに届いていた。

「積もりはしなさそうだな」

グラスの中に誘われるように吸い込まれた雪の結晶が溶けていくのを見て、彼は小さく呟いた。

「積もると帰りが大変ですもんね」

呟きに応えが返る。
カラカラというサッシが開く音と共に響いた聞き覚えのある声に、北川は首だけを振り向ける。

「どしたの、栞ちゃん。こんな寒いところに」
「それは北川さんも同じじゃないですか?」
「ま、俺は物好きだからね」

ニコリと笑い、北川はトテトテと自分の横に立つ栞にワインの瓶を掲げて見せた。

「飲む?」
「え? ええっと…ちょっと興味ありです」
「じゃあ一杯だけ。それ以上はダメだぞ。美坂に怒られる…というか殺される」
「あははは」

乾いた笑いを漏らす栞に、肩を竦めて見せながら、北川は手に持ったグラスをベランダの縁に置く。

「ほいっと」

掛け声とともにいきなり何も持っていなかった手にクルリと現れる二つ目のグラス。

「わっ、凄いですぅ」
「何気に多芸な北川君でした」

口ずさみながら取り出したグラスに半分ほど淡い白色の液体を注ぎいれる。

「どうぞ、お嬢さん」
「は、はい、頂きます」

栞は恐る恐ると云った感じで両手でグラスを受け取ると、鼻先を近づけた。

「わっ…ちょっと鼻にツーンって来ます」
「うーん、来るなあ。お酒だし」
「なるほど」

納得したのか、コクコクと頷き、揺れる白い液体をジィーっと見つめる。
そして、やっぱり恐る恐るグラスに口をつけるとゆっくりと傾けた。

「う…わっわっ…なんかカーッとします。喉がカーッとします!」
「うん、カーッとするよなあ。お酒だし」
「なるほど」

やっぱり納得したのか、コクコクと頷き、栞はチビチビを口をつける。

「うーん、美味しいのか良く分かりません」
「いいんじゃないの? まだ未成年だし。まあ、斯く云う俺も美味しいのか良く分からん」
「そうなんですか? でも飲んでますよね」
「パーティーだからな。ま、そこは気分気分」
「なるほど」

しばし、二人はグラス一杯のお酒を無言で楽しむ。
慣れないお酒は、僅かな量で二人の身体に仄かな熱を帯びさせる。
風も無く、でも引き締められるように冷たい空気に闇を彩る白い雪。
内から滲み出る熱が冷やされ、染み渡るような寒さが心地よい。

「ねえ、北川さん」
「んー?」

二人とも、お互いの顔を見る事無く、ぼんやりと雪闇を眺めながら声を交わす。
階下から響く名雪の絶叫だけがこの夜のBGMだ。

「北川さんって好きな人いますぅ?」

本当ならもう少し緊張しながら出ないと聞けない事なんだろうけれど、内側から滲みでるような熱の所為か、ごく自然に唇から零れ出た。

「女の子ってのは、そう云う話題、好きだなぁ」

笑いながら呟き、北川はグラスに残った白ワインをあおった。
空になったグラスと瓶を見比べて、「ま、いいか」と呟き、瓶の口にコルクをはめ込む。

「ねえ、北川さん、ちゃんと答えてください」
「はいはい、好きな人ですか?」
「そうです」

なかなか答えようとしない北川に、栞はプンと頬を膨らませる。
苦笑を浮かべながら北川は思案するように首を捻った。

「そうだなぁ……好きな人ねえ」

浮かんでいた苦笑が段々影を潜め、眉間に皺が寄って行く。
痺れを切らした栞が口を挟んだ。

「例えば…な、名雪さんとか」
「…あのなあ、栞ちゃん。俺も人様の恋人に手を出すほど飢えちゃいねえぞ」
「でも、片思いとか」
「なるほど…でもまあ…それは無いな」

どこか微笑を含んだ言葉が心に沈み込む。
栞はしばし黙り込むと、グラスに三分の一ほど残っていた白ワインを一気に飲み干した。
内なる熱が一気に勢いを増す。
栞はグラスを左手に握ったまま、北川に向き直った。
そして、その勢いに身を任せ、彼女は本命ともいえる問いかけを投げかける。

「じゃあ…お姉ちゃんとか」
「美坂か?」

北川が微かに瞳を見開き、自分を見つめる栞へと顔を向ける。
その表情は、完全に想像の外にあった事を云われたような、意表を突かれたような表情で。
だから、栞は少し驚いた。

「そうか…美坂かぁ」

北川は顔を正面に戻すと、そう呟きながらベランダの柵へともたれかかった。

「うーん、我ながら盲点だったなあ」
「盲点…ですか?」
「そう、盲点。改めて云われると美坂って美人だし、頭良いし、ちょっと手が早いけど性格だって本当に優しいしな」

手が早いのは北川さんに対してだけではないでしょうか。とは心に留め置くべき声。

「でも…うーん、美坂をそう云う視点で見たことなかったわ」
「そう…なんですか?」
「ああ…ただ…なんて云うかな。うん、言葉にするとどうも難しいけど、あーなんだろうな」

思考の糸がこんがらがってるのか、北川はガシガシと頭を掻き毟る。
そんな仕草に思わず栞は呟いた。

「気を…許せる相手…」

それは自分の姉が、この目の前の人を言い表わした言葉だ。
そして…同時にそれは…

「おっ、うん、それだ、それだな。気を許せる相手…うん、そうだな」

北川はウンウンと何かを見つけたように嬉しそうに頷き、栞に向き直った。

「例えばさ、あまり他人に見せたくないような、自分の内面ってあるだろ。でも、そう云うのをぶつけても受け止めてもらえるんじゃないかって…どこかでそう信じてる相手。それが俺にとっての美坂かな。今となっては相沢の奴も不本意ながらそう云えるかもしれないがね。
そうだな…親友って云うのかね、こう言うの。まあ、男と女で親友っていうのも変かもしれんが。でも…美坂を恋愛の対象として見た事はなかったな」

と、云うより、と呟きながら、北川は栞に向かって苦笑を投げかけた。

「俺って誰かに対して恋愛の好きって感情を抱いた事がないんだよな、そう言えば。だから、好きな人いますかって聞かれても、いないと言うべきか、分からんというべきか…」

それは…姉と同じような言葉で。
それぞれの口から語られた、同じ思いで。

「そうなんですか」

でも、だから、良いのかなって…思ってしまう。

「そうなんですか」

自分の内なる熱の形を、信じてもいいのかなと思ってしまう。
確かめていいのかなと、思ってしまう。

「雪…止んじまったな」

独り言のようにその言葉は響き、栞は促されたように落としていた視線を上げた。
自らも、独り言のように呟き返す。

「そうですね」

夜闇を照らす雪の幕は上がりきり、帳は静かにすべてを覆う。

そして、宴も終幕の時間を迎えつつあった。



「ねえ、北川さん」
「うん?」

最後に、雲から舞い降りてきた一粒の雪が彼らの交わる視線を横切り、落ちていく。

「私……北川さんの事好きです」
「…え?」

呆けた顔が可笑しくて、落ち着いている自分が不可思議で、
栞はフワリと笑顔をたたえる。

「何故だかは私にも分かりません。…でも、北川さんと居ると不思議な気持ちになるんです。ふふ、本気ですよ、私」
「し、栞ちゃん」

予想だにせぬ事態に目を白黒させている北川をしたから覗き込むようにしながら、栞は微笑を絶やさない。

「北川さんは私の事、どう思います?」
「どう…って」

先程も彼女に告げたように、北川は誰かを好きになった事は無い。
だから、どう思いますと訊ねられてあっさりと答える事などできる訳が無い。

ただ、間違いない事実がここにあった。
疑いようの無い事実がここにあった。

微笑の中に、大きな不安をたゆたわせながら自分を見つめる彼女の瞳。
ただ、それを愛しく思う事を。
暖かく、優しく、自らの内側に届く思いがある事を。

確かめるように、形作るように、彼は瞼を閉じた。
視界が閉ざされ、光が途切れ、ただ思いの波が闇となって目に映る。

温かな感触。

穏やかな感触。

心が交わる、不思議な感触。


それが、自らの想い。


だから、北川は……

ゆっくりと、だが震える事の無い声で、その言葉を紡ぎだす。

真摯なる思いを込めて。




夜の空を覆い隠していた雲は、いつしか姿を消し。
穏やかに地上を見守る月の視線が、静かな街を見つめていた。





「良かったのか? 香里」
「良くないわ」

二人に見つからない内に部屋を出た二人…祐一と香里。
パタリと後手にドアを閉めた香里の一言に、祐一は一瞬ギョッと立ち竦む。

「冗談よ。まあ、北川君なら栞の相手としても大丈夫だと思うわ。そりゃ、驚いたけどね」
「いや、そう言う事じゃなくてな」

困った様に口篭もる祐一に、香里は悪戯っぽい笑みを閃かす。

「それは、北川君とあたしの事?」
「うっ…むう、まあ…な」
「栞にも聞かれたけど、あたしと北川君ってそんな風に見えるのかしらね」
「少なくとも…俺はそう思ってた」
「そう…ならちょっとは勿体無かったかもしれないわね」

クスクスと屈託無く云う香里の姿に、祐一はやや呆然としながら見つめてしまう。

「でも…そうね、今の所あたしって全然恋愛方面に興味湧かないし」
「そうなのか」
「そういうものよ、意外とね」

答えになっていない答えを返しながら、香里は祐一の先に立ち、階段を降り始める。

ふと、思い出したような呟きが、香里の唇からこぼれ出るのを、祐一は確かに耳朶に受け止めた。


「もう…二月も終わりね」


そう…もうすぐ訪れるのは三月。
この北国では、まだまだ冬の季節の最中。
でも、微かに春の囀る歌声が、香り漂いはじめる季節。




そして、少しだけ今までと表情を変えた―――

―――新たなる日常の始まり










序の幕「冬空をキャンバスに」――閉幕





序幕・後書き


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