行き交う人々の影が途切れ、スピーカーから流れる医師を呼び出す声も一時の隙間を空けた。
意外とざわめきの多い病院の中だが、一度音が途切れれば都会の中で…いや、自然の中ですらまみえる事の無い本当の静寂が訪れる。
それは強いて言うならば静かに舞う雪の中の静寂。

その一時の静寂に満たされた中で、美坂香里は薄っすらと半眼に瞼を下ろした。
こうする事で、香里は様々な感情を目に見える形で表に出す。
時にそれは穏やかな微笑であり
時にそれは呆れた事を示すポーズであり
時にそれは相手を嘲笑う冷笑―そして威嚇である事もある。

そして、今は相手の見えざるシルエットを透かし見るように、彼女は瞼を薄らと落とした。
それは疑惑であり、探索の目だ。

違和感――どうしても感じるそれは不整合性だ。
得られた情報から推察していた人物像。それから些か異なって受ける印象が、その違和感の原因なのか。
いや、違うだろう。
これまで、この生徒会長が真琴との接触のなかで見せた姿。それは確かに聞いていた久瀬という人間とは異なった姿だったが、別段不思議な事ではない。人間というものは本当の姿というものを幾つも持っているものだからだ。
それもまた、この人物の一面と言う事だろう。決して不整合というほどのものでもない。
だが、彼のカバンの中を見て、そこから導き出された現実。それは香里の抱く違和感を無視できないものにするに十分なものだった。

反応を見るために、本音の外側を撫でるような問いかけを投げかけた。
帰ってきたのは、此方の意図を悟りながらもそれを無視する答え。
まるで挑発だ。だが、それにあえて乗ることにする。

「何故、推薦で受けられなかったのですか?」
「大学かい? ふん、推薦など誰しもが得られるものではない」

予想された答え。ここからが本番だ。
香里は一瞬、キュッと口元を結ぶと、ふっと息を吸い、言葉を紡いだ。

「そうですね。ええ、まったくその通りです。ですが、生徒会――いえ、私たちの学校の生徒会とはそのための集団ではなかったのですか?」

久瀬は予想通りの、いや期待通りの言葉に思わず内心でほくそえみ、満足した。
知らない者には意味の分からない会話だ。そして知っている者からすれば自明の内容を交わしているに過ぎない会話なのだ、これは。
彼女が言外に指摘しているのは、こう云う事だ。
久瀬たちの学校の生徒会とは、優先的、自動的、そして無条件に某有名大学への推薦を手に入れる事ができる。
それが故に、受験を考えなくていい生徒会は、その任期を卒業まで延ばしているのだ。
その生徒会の最高位である生徒会長である自分が何故、推薦を受けないのだ? と彼女は問うているのだ。
実際、受験勉強と生徒会長という激務の並行など、常識外れそのものだ。

「君は…よく認識している。普通の生徒は事実というものに酷く無頓着で無関心なものなのだがな」

そう云って、久瀬は侮蔑とも自嘲とも取れる笑みを幽かに浮かべた。
そして、すっと面白がるように訊ねた。

「君は生徒会に入ろうとは思わないのかい?」

それを聞いて、香里は途端詰まらなそうな表情になる。

「生憎と実力はありますから」

ある種、傲慢とも取れる内容に、久瀬は内心肩を竦める。
彼女が学年主席の座を一度も奪われた事が無い以上、まさに実力があるとしか云えないだろう。
そして、ただ生徒会のメンバーとなるだけで将来が約束される面々への痛烈な皮肉とも取れる。

「それに…」

香里は久瀬の返事を聞く事もなく続けた。

「私は貴方たちのような特権階級ではありませんから…どちらにしても無意味でしょう?」

特権階級……それは生徒会という存在に所属すると言う意味にも取れる。
だが、この場合は文字通りそのままの意味だ。
今の生徒会のメンバーがこの地域の有力者たち、もしくはその関係者の子弟からなる事は知る人ぞ知る事実だ。
それは同時に強力な集票力を持っているという事だ。ポッと出の人間が生徒会選挙に勝てるものではない。4月という非常識な選挙時期もそれに輪をかけている。
一般生徒の多くが、現実政治さながらの実情に呆れにも似た無関心を抱いている。
どちらにせよ、自分たちには影響が無いと云うことなら、どうでも良いと思っているのだ。
そして、それは香里も同じだった。

久瀬は香里の言葉に、少し目線を和らげる。

「…君は何故僕が生徒会長になったか分かるかい?」

唐突な問いかけに、香里は眉を顰めた。

「分かりませんよ、そんな事」

それはそうだ、と呟きながら久瀬は長椅子から立ち上がった。

「やりたい事があったのさ。結局、何も出来なかったけどね」

それ以上の追求を跳ね除けるような、静謐な声音。
香里は彼のもう何も云わないという気配を感じ取り、口を閉じた。

だが、彼はふと振り返る。

「僕らの学校の生徒たちはね、様々なことに無関心すぎるんだ」

「…どういう意味ですか?」

「さあ。でも美坂君、君は分かってるんじゃないのかい? まあ、言うなれば生徒会も反生徒会も同じ穴のムジナと言う事だよ」

そう云うと、久瀬は自分のカバンを肩にかけた。

「ちょ、ちょっと? 帰るんですか? まだ真琴ちゃんが…」

「保護者が来たんだ。僕はお役ゴメンだろう。本来ならちゃんと謝罪すべきなんだろうが、できれば君から謝っておいてくれないか? なるだけ早くこの場は退散したいんでね」

「別にそれは構いませんけど…」

何故と疑問符を視線に乗せている香里に、久瀬は肩を竦めた。

「ここには相沢君もいるんだろ? 生憎と彼にはトコトン嫌われてるんでね。無用なトラブルは御免………だったんだが」

語尾が澱むように途切れた。
見れば、久瀬の貌が苦渋に歪んでいる。
香里は久瀬の視線を追って振り返り、「あらま」と困惑に右眉を跳ね上げた。
そこにいたのは眼差しも刺々しく久瀬を睨みつける相沢祐一の姿。
彼らはしばし、無言のまま対峙し、香里もまた漂う険悪な雰囲気に言葉を挟めない。
そこに、少し遅れて水瀬名雪が駆け込んできた。

「祐一!」

それを引き金にしたように、祐一が口を開く。

「久瀬…お前、真琴に怪我させやがったのか」

「…そうだよ。それで? 何故君が怒ってるんだい?」

久瀬は右の口端をクイっと吊り上げ、冷笑を貼り付けた。
祐一の目に怒気が閃く。

「何故だと? 真琴はな、オレの妹みたいなもんなんだ。家族を傷つけられてるのに怒るなとでも云うつもりかよッ」

その攻撃的な声音に、久瀬はふんと鼻を鳴らした。

「家族? 家族だけじゃないだろ? 川澄さんや倉田さんの時だって君は赤の他人の事に怒ってみせる……まったく」

「それのどこが悪いんだ!」

馬鹿にされた、と感じた祐一は、思わず久瀬に詰め寄り、その襟首を締め上げた。
怒りが吹き上がる。
この人を人とも思わないような男に。
そして、こいつに真琴が怪我を負わされた事に。

「ゆ、祐一! ダメ!」
「ちょっ!? 相沢君、落ち着きなさい!」

慌てて名雪と香里が駆け寄り、二人を引き剥がそうとする。
だが、それよりも早く、一つの怒鳴り声が彼らに叩きつけられた。

「何やってるの、祐一!!」

弾かれた様に、祐一は久瀬の襟首を握ったまま顔を向けた。
すると、真琴の真剣に怒った表情が飛び込んでくる。
彼女は痛めた右足を上げて、器用に片足でピョンピョンと飛び跳ねると間近までやってきて、キッと祐一を見上げた。

「ま、真琴?」

彼女の剣幕に驚いた祐一が思わず握りを緩める。その隙を逃さず、久瀬は祐一の手を引き剥がし、一歩後ろに下がった。
だが、祐一がそれに反応する前に、真琴が祐一を見上げてキツイ口調で言い放つ。

「久瀬はアタシを病院まで連れて来てくれたんだからね。そんな事しちゃダメでしょっ」

また久瀬呼ばわりされた挙句に、ビシッと鼻先に指差され、久瀬の表情がまた引き攣る。
一方の祐一も思わぬ事態にしどろもどろ。

「いや、だってな。こいつはお前に怪我させたんだろ?」
「違うわよ。あたしが勝手にぶつかって勝手に怪我したんだから!」
「うっ」

怒りの理由を真琴本人に正されてしまい、思わず低く唸ってしまう祐一。
その傍らに立つ名雪が、ちょっと心配そうに真琴の顔を覗き込み訊ねる。

「怪我は大丈夫なの?」
「うん、二、三日したら直るって」
「そう、良かった」

そう云って、フワリと微笑んだ名雪の表情は、妹を優しく見つめる姉そのものだった。
何となく怒りの削がれた祐一が溜息を吐く。
そして、ポンと真琴の頭に手を置いた。

「まったく、久瀬に酷い目に合わされたって聞いたから心配したんだぞ」
「誰がそんな事をした!」
「祐一、誰もそんな事云ってないよ〜」

血相を変えた久瀬が怒鳴り、名雪が呆れたように云った。
ただ、真琴は言葉の内容は兎も角、祐一が本当に心配してくれていた事を悟って項垂れる。

「あう、ごめん」

祐一はそれには答えず、ワシャワシャと真琴の髪の毛をかき混ぜた。

「あうー」

真琴は髪の毛を乱され、不満げに声を漏らすも、気持ちよさげに目を細める。
それを見て、久瀬はやれやれと溜息を吐いた。
そして、さっと流すように祐一とそれを取り巻く少女たち――香里や名雪を見やり、刹那だけ意味深な笑みを閃かせた。

さて、どうやら目の付け所は悪くはなかったみたいだな。

「容疑も晴れた事だし、僕はこの辺で失礼するよ」
「え? 久瀬行っちゃうの?」

踵を返しかけていた久瀬は真琴の声に疲れたように眉を寄せて振り返ると、その表情どおりの声音で告げる。

「頼むから…久瀬って呼ぶのはやめてくれないかな」
「あう、なんで?」
「いやね、僕にはちゃんと俊平って名前があってだね。そもそも年下の女の子に名字を呼び捨てにされるのは――」
「じゃあ俊平!」

最後まで話を聞かないという特技を発揮する真琴に、久瀬はもう好きにしてくれと片手で顔を覆った。
少し呆気にとられている祐一と名雪を他所に、香里は一人クスクスと笑い声を漏らしていた。

「はぁ、もうそれで構わないよ」

それじゃあね、と力無く片手を挙げて久瀬は逃げるように背を向けた。
「今日はありがと! またねー、俊平!」と遠ざかっていく久瀬に手を振る真琴。
その肩に手を置き、祐一はしみじみと云った。

「真琴、お前久瀬キラーに任命な」
「あう?」

「あら? 久瀬さんと仰る方は?」

そう云いながら現れたのは水瀬秋子。
どうやら整形外科の老医師に足止めを食っていたらしい。

「まだ、真琴を連れてきてくださったお礼をしてないんだけれど」
「あそこを歩いてますよ」

香里が久瀬の背中を指し示すと、「まあまあ」と頬に手を当てながら秋子は早足に歩いていく。

「秋子さん、あんなヤツにお礼なんか言わなくてもいいのに」
「そういう訳にはいかないよ」

不貞腐れたように呟く祐一に、名雪が嗜めるように言い返した。
その視線の先では、慌てたように手を振ったりペコペコとお辞儀している久瀬の姿が。
とても、久瀬という人間とは思えない姿だ。

「あれはきっと食事に誘ったりしてるんでしょうね、秋子さん」

完全に久瀬ウォチャーと化している香里が、その困りきってる様子を楽しげに推察する。
名雪が苦笑気味に応えた。

「うーん、お母さんって気に入ったらすぐにご飯に誘っちゃうから」
「誘ったって来るかよ。だいたい初対面だぞ、殆んど」

久瀬を気に入ったというのがどうしても不愉快なのか、素っ気無く祐一が言い捨てる。
その言葉に、真琴が不思議そうに祐一の顔を見上げた。

「でも、あゆは喜んで来てたじゃない」
「あいつは特別だと思うぞ。『朝御飯一緒に如何ですか?』って云われても、普通は来ないって……と、そう言えばあゆたち放ってきちまったな」
「あ、そうだね」
「そういえば、栞はどうしたかしら」
「栞ならあゆと一緒にいるはずだぞ」
「そう、なら安心ね」








ちっとも安心ではなかった。

「えぅぅぅ!」
「うぐぅぅ!」

「おーほほほほっ、この暴走小娘ども、どうしてやりましょうかねえ」

「えぅぅ、事件が、事件が私を呼んでいたんですぅ」
「うぐぅぅ、ボクって車椅子に乗せられてただけなんだよぉ」

ごっつい熊のようなナース服――この病院の婦長さんに襟首を掴まれてブラブラと宙吊りになりながら、病院内を引きまわされている美坂栞と月宮あゆ。
車椅子による病院内既定速度オーヴァーの現行犯逮捕であった。
しかも逃亡を図り暴走行為を働いたかどで、厳罰決定。
ちなみに祐一の暴走行為も「車椅子が凄いスピードで走っていた」という端的な目撃証言から、彼女らの犯行という事になってたりする。
つまり重犯である。検事兼裁判長の熊婦長の印象度最悪である。

嗚呼、哀れ。

「あ〜る〜晴れた、ひ〜る〜下がり、い〜ち〜ば〜へ 続〜く道〜」
「うぐぅぅ、その意味深な歌は何ぃぃ!?」
「ひぇぇ、お姉ちゃ〜ん!」

何故かドナドナを唄い出す熊婦長に摘まれて、二人の哀れな悲鳴は病院の奥へと消えていった。


――南無



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