いったい何故、僕は此処にいるのだろう。

理由はある。原因もある。ただ、納得は出来ない。それだけだ。
ただ納得しようとしまいと、現実はそこにあり、そこからは逃れられない。

少なくとも今は物理的にすら逃げられない。
それこそ渾身の力の篭もった少女の白い手が、さらに白さを増すほどに彼の手首を握り締めているからだ。

「あううう!」

悲鳴とともにさらに握力が増す。血の通わぬ痺れたような感覚が徐々にだが彼の左手を侵し始めていた。
流石に痛みを覚え、久瀬俊平はぼんやりと眺めていた壁の張り紙『人体秘孔大全』とやらから視線を落とす。
と言っても、必死な少女の手を振り払う訳にもいかず、久瀬は恐る恐る医者の方に声をかけた。

「先生、もう少し穏やかに…」

「素人が口を挟むんじゃねえ!」

「あううう!」

白衣のような真っ白な長髪を後ろで纏めたその老医師は、叫ぶと同時に真琴の足首をグイと捻る。
仰け反って椅子から落ちそうになる真琴を慌てて支えながら、久瀬は悲鳴をあげた。

「いや、もう少しですね、こう優しく――」

「あいにくこれがオレのやり方でな、文句は言わせねえぞ」

こんな総合病院の医師というより、田舎町の整体師といった方がよさそうな風情の老人は、かつては中々の美男子だったのだろうその容貌をニヤリと歪め、ペシンと湿布を患部を叩いた。

「あうううっ!!」

悶絶する真琴。ヒドイ。
もやは言葉もない久瀬にそのにやけた顔を向け、老医師は綽綽と告げる。

「なに、問題無い。軽い捻挫だ。二、三日ほどアホな事をせなんだら、すぐに直る」

「そうですか」

大騒ぎするほどでもなかったかな、と安堵混じりの苦笑を口端に浮かべた久瀬の内心を目ざとく見咎めたように、医師はすかさず言い重ねた。

「とはいえ、勝手に素人判断せずにここまで連れて来たのは感心だな。骨というのはあっさりと折れるもんだし、用心してしすぎる事はない。ヘタに悪化させるのも馬鹿らしい」

そうですね、と頷く青年に返事するでもなく背を向け、カルテに何事か書き込もうとして、医師は思い出したように振り返った。

「そうだ。お前さん、この娘の保険証持っとるか?」

「あ、いや、僕はそもそもこの子とは何の関係もなくて――」

慌てて首を振って、まだ涙眼に瞳を潤ませている真琴を見る。

「保険証は…持ってる訳ないな」

「なにそれ?」

保険証など、普段から持ち歩いている人はそうそう居ないだろう。
老医師は困ったようにペンを持った右手で頭を掻く。

「参ったな、アレが無いと色々面倒なんだ。本当は診察前に出しとくもんなんだが…まあ、それは仕方ないとして、治療費とかはなあ……」

「保険証ならありますよ」

「お? なんだ、あるのかい。それならさっさと出し………」

ヒョイと横合いから出された保険証を受け取った老医師が、それを持つ手の先、その女性の顔を見上げ、ポカンと口を開けた。
カランと右手のペンが床に落ち、甲高い音を奏でる。

「あっ、秋子さん!」

見上げた真琴が、それまで掴んでいた久瀬の手を離し喜声を上げる。

「怪我は大丈夫? 真琴」

「うん! 平気よぉ」

ブンブンと手を振り回す少女の姿に、彼女――水瀬秋子は優しげに微笑みを深めた。
そして、まだポカンとしている老医師に向き直り、ニコリと微笑みかける。

「保険証、それでよろしいですか?」

「あ、ああ。ええっと、このお嬢ちゃんは……」

「真琴です」

「おお、ああっと二女…水瀬真琴…だな」

「え?」

水瀬…真琴?

まるで、心の中からトンッと背中を押されたようにして、声が外に押し出された。

老医師が発した名前が、染み渡るように意識へと広がっていく。
同時にその意味も。

ゆっくりと、そして呆然と、真琴は彼女の振り仰ぐ。
収縮する瞳孔。
混沌とした、だが穏やかな混乱。そんな空白に犯されながらも真琴はその名を呼ぶ。縋るように。

「秋子…さん?」

「ごめんなさいね、勝手だったかしら」

暖かな、本当に暖かな眼差しが自分の姿を映していることに気がつき、真琴の静止していた思考が弾けた。

必死に、秋子の言葉を振り払うように必死に真琴は首を横に振る。
無意識に溢れ出していた涙の雫がキラキラと虹彩を滲ませる。

「そんな…事ない……そんな事ない!」

その瞬間、身体中に絡まった鎖が断ち切られたように、真琴は秋子に抱きついた。
足の痛みなど忘却の果てに追いやり、ただ目の前にある暖かな存在へとしがみ付く。
消えないように、なくなってしまわないように。

そう――母の温もりを感じるために。

それは、沢渡真琴が水瀬真琴になった瞬間。
そして、水瀬秋子が紛れもなく、誰はばかる事無く、彼女の本当の母親となった瞬間。

彼女たちはそれまでも家族だったけれど、それでも真琴は沢渡真琴だった。
それを真琴はずっと心のどこかで忘れてはいなかった。

沢渡から水瀬に。
それはもう家族だった彼女たちには単なる形式かもしれない。

でも…それでも

真琴には、それが本当の家族になれた証のように思えたのだ。

そっと、暖かな手が彼女を包む。
もう耐え切れなかった。そして耐える必要などどこにもなかった。

「おかあ…さんっ」

そしてその場には、寝衣に上着を羽織った女性にしがみ付き、大声で号泣する少女の姿があった。


トントン、と肩を叩かれ、久瀬はハッと我に返った。
それまで呆然と眺めているしかなかった光景から視線を剥がし、首を傾け背後を見る。
美坂香里が立っていた。

「み、美坂君か…これはどういう……」

まだ混乱しているのか、上手く言葉にならない。
だが、聡い彼女はすぐさま彼の云いたい事を理解し、口元に浮かべた優しい笑みを少しだけ吊り上げた。

「見れば分かるでしょ? 感動的な場面…それでいいんじゃありません?」

虚を突かれたように久瀬はレンズの奥の瞳を僅かに見開いた。
そして、それはすぐさま閉じられる。
クイッ、と眼鏡を押し上げ、彼は云った。

「なるほど、君の言う通りだ」



「なあ、田島くん」

「なんですか? 先生」

久瀬と同じように事態に圧倒された如く言葉を失っていた老医師が、そろそろと椅子ごと後ろに下がると、恐る恐る少し離れた所で眼を潤ませていた看護婦に声をかけた。

「あの人が噂の水瀬秋子か?」

「そうですよ。あ、先生ひょっとして知らなかったんですか?」

「うっ、いやだって儂って整形だし」

「いやですねえ、眼科だって薬剤部だって麻酔医の方々だって知ってますよ」

言外におっくれってる〜、という言葉を潜ませる看護婦に、老医師は泣きそうに顔を歪めた。
これまで伝え聞く秋子嬢の噂。そんなもの、何ほどのものよと気にも止めなかった自分の見識の無さを、老医師は心底恨んだ。
言わば、一目ぼれ…というような俗なものではなく(一目ぼれが俗かはさて置き)、一目でその表情、そして内面に魅せられたと云うべきか。

「いや、まだ遅くは無い。これから是非お近づきに――」

「先生、秋子さんは明後日に退院だったりします」

白髪を振り乱し、拳を握り込んだ老医師はそのまま石化した。







此処はしばらく二人きりに、という香里の提案に従い、久瀬と香里は先に待合室の方へと移動する。

「久瀬先輩、一つ聞きたい事があったんですけど」

「なんだ?」

「これ」

歩みを止めずに問い返した久瀬に、フイと香里は何かを差し出した。
久瀬の色気も何も無い黒いカバンだった。

「あ、ああ済まない」

真琴を診察室に連れて行く際に、真琴の荷物と共に預かってもらっていた代物だ。
持たせたままだったと気付き、慌てて受け取る。

「いえ、実はさっき持ってくる時になかが見えてしまったんですけど…」

「…別に見られて困るようなものは入れていなかったと思うが」

何か、口篭もったようにも見えた香里の仕草に、久瀬はかすかに眉を傾けた。
彼女が答える前に、待合室までの短い時間は終わりを告げ、久瀬は香里を促してソファへと座らせ、続いて自分も彼女の隣に腰を下ろす。

「今日はどちらにいかれる予定だったんですか?」

香里は何かパズルを組み立てるような難しい表情で訊ねた。久瀬は薄らと右目だけを細めた。

「中身を見たなら分かっただろうが、予備校だよ。尤も、今日はサボリになってしまったが」

「この…時期に…ですか?」

「ああ、前期の試験はもう終ってる。自信はあるつもりだが、一応落ちた時には二次募集を受けないといけないから、まあ用心だな」

云って、久瀬はさり気なく傍らの後輩の表情を横目で眺める。
無表情に近い憮然とした顔。
分かっている。彼女が本当は何を訊ねたかったのか。
だがあえて、久瀬は彼女の問いそのままに答えた。この場面で相手の真意を汲み取って、それに答えるほど彼は優しくも親切でも、お節介でもない。
訊きたければ、正面から訪ねればいい。それならば、別に答えない事も無い。そもそも答えない必要などどこにもないのだから。

いや、まだ少しばかり早いのかもしれない、と久瀬は内心で独りごちた。

だが、訊かれたならば、誤魔化すつもりはない。

そして、美坂香里とは必要があるなら正面から切り込む鋭さを兼ね備えている女性だった。

一拍の沈黙。

僅かそれだけの間を置き、彼女が口を開くのを、久瀬俊平はじっと見つめていた。


back next

章目次へ
inserted by FC2 system