夢…夢の狭間。
「祐一くん」
縁の境界。
白い壁に覆われた部屋の中。壁に掛けられた大きな鏡の奥に、この世界で在りつつこの世界では在り得ないすべてが逆さまに隔てられた空間が映し出されている。
果して鏡に映し出されている世界とは、本当に自分たちが居る世界なのだろうか?
もしかしたら、あちらこそ本当の世界で、自分がいまこうして座っている世界こそ鏡の中なのではないか。そう思う事すらある。
「ねえ、祐一くんてば」
夢の世界…鏡の世界。
本当の世界とはなんだろう。もしかしたら、オレはこの世界を信じる事が怖いのかもしれない。
いや、この世界が壊れてしまう事が怖いのか。幸せだと実感している今この時が壊れてしまうのが…。
馬鹿げた話だ。ここが本当の世界だろうと、鏡の中の世界だろうと、それこそ夢の中だろうと自分が今居るのはここなのだから。
「おーい、祐一くん! 寝てるの!?」
つまり…そのなんだ――
「うぐぅ、聞いてないや。こうなったら…えい!」
ボカン!
あゆが投じたプラスチック製のボールは見事にぼんやりと鏡を眺めながら座っていた祐一の側頭部にクリーンヒットした。
祐一は衝撃のままにしばらく首を不自然に曲げたまま硬直していたが、そのまま勢い良く立ち上がると首の位置を修正し、あゆの元へとスタスタと歩み寄る。
「あ、祐一くん、起きた?」
ポカリ
「うぐぅ! な、殴ったぁ!」
「人様が詩人気分で思索に耽ってるのを邪魔してくれるからだ! うう、折角なんか哲学的なインスピレーションがホームスチールを成功させそうだったのに」
「わ、訳わかんない上にさらに訳わかんないこと上塗りしてる」
「お前の方がさらに訳が分からんわい! ったく、で? あゆはリハビリの方終ったのか?」
相沢祐一はそう云うと、両手を腰に当てて目の前に立つ少女―月宮あゆの全身を上から下までさっと眺め見る。
七年間の昏睡の果てに、唐突に目を覚ました眠り姫。それが月宮あゆだ。
薄青い柄のパジャマに覆われたその小柄な身体は、今でこそそれなりのふくよかさを取り戻しているものの、目覚めた当初の痩せ様は正直目を覆うものがあった。
自然とまったく動かされなかった四肢もまたやせ衰え、歩行すら夢のまた夢と言った状況。
それが僅か一月も立たない内に補助器具を利用しているとはいえ、こうやって歩行訓練を行なっているのだ。その回復力たるや目を見張るものがある……というか非常識だ。
尤も、最近この病院の連中は非常識になれてしまったかして、多少デタラメな回復をしようがあんまり気にしてないのがちょっと怖い。
あゆはまるで赤ん坊が使うような円形の歩行補助用の器具の車輪をガラガラと転がして移動しながら、ニコニコと笑って答える。
「うん、もうあがり」
「そっか」
「うん、待っててくれてありがとう」
「まあ、折角の見舞いだしな。あゆのガンバリぐらいは確認しとかないとな」
「その割には全然こっち見てなかったね」
「むぅ、そういえば見てなかったな」
「うぐぅ、ちょっとぐらいは否定してよ〜」
「残念だが事実を偽るつもりはないんだ」
うぐぅ、と拗ねるあゆに、祐一はニヤリと笑ってその肩を押すように叩くと、
「さて、名雪も待ってるし、そろそろ行こうぜ」
「うん、そうだね」
音も幽かに滑るように車輪が回る。
車椅子の車輪は、病院の廊下をかすかな摩擦音を奏でながら回っている。
祐一はあゆが座った車椅子を押しながら、行き交う病人・見舞い人・医者・看護婦たちの間を縫うように進んでいた。
「ゆ、祐一くん、ちょっとスピード出しすぎだよ」
「むう、いやな、あゆ」
「な、なに?」
何か深刻そうに声音をひそめる祐一に、あゆはやや気後れ気味に問い返す。
祐一は沈痛に瞼を閉じてポツリとこう云った。
「これってけっこう楽しいんだ」
「うぐぅぅ!」
まるでドリフトでもかけたように曲がり角を急速転蛇。横殴りのGに思わず悲鳴があがる。
これなら自分で歩いていった方がマシだよぉ!
流石に疾走とは行かないものの、あゆの座った車椅子はなかなかのスピードで疎らな人の流れの間を縫っていった。
本来なら、既に歩行訓練を始めているあゆは、補助器具を使うものの自力で病院内をうろつく事は出来なくもない。
だが、まだまだ流石に自由自在にとは行かず、まだ歩く事への身体への負担も大きいので、病院内を移動するには車椅子を使用しているのだ。
尤も、それも彼女の回復力を見るならば、さほど時間を経ずに車椅子も使う必要がなくなるだろうが……
そうして、看護婦にでも見つかれば鉄拳制裁でも加えかねられないスピードで病棟を繋ぐ回廊を駆け抜けた祐一とあゆは、そのままあゆの病室には戻らず、秋子さんがいるはずの病室へと向かった。
ちなみに秋子さんの病室は個室だ。
何故にとは問うまい。
病室の引き戸をガラガラと開け、フラフラになっているあゆの座る車椅子を押して病室へと入る。
「あれ? 秋子さんは?」
部屋の中を見渡して、この部屋の主の姿を見つける事が出来なかった祐一は、ベッドの傍らの丸椅子に腰掛けて文庫本を読んでいた一人の少女に問い掛ける。
彼女は顔を上げるとニコリと微笑んだ。
「あ、お帰り、祐一。あゆちゃんもお疲れ様」
ゆったりと、そして聞くものの心を穏やかに落ち着かせるような優しげな声音。
丁寧に手入れされた艶やかな髪の毛がふわりと空気の流れに揺れる。
水瀬名雪。
相沢祐一の従姉妹にして、現恋人だ。
「あ、名雪さん、こんにちは〜」
その声の漸く正気に返ったあゆが、クルクル回っていた眼の焦点を合わせ、ちょっと裏返った声で名雪に挨拶を返す。
「…? あゆちゃんどうしたの?」
「うぐぅ、ちょっとスピード酔い」
「…?」
何の事か分からず小首を傾げる名雪。
何となくちゃんと説明するのも疲れてしまったあゆは、よいしょと車椅子から立ち上がり、足取りも怪しくヨロヨロとベッドまで歩く。
その不安定さは単に足腰が弱っているからだけではないだろう。
平衡感覚にかなりのダメージを受けた状態ながら、なんとかあゆはベッドまで辿り着き、その端にちょこんと座り込む。
もし倒れたら助けてやろうと、その激闘を見守っていた祐一は、あゆが座ると同時に思い出したように再度訊ねた。
「名雪、どこ行ったんだ? 秋子さん」
「さあ? でも何も云わずに出て行ったからすぐ戻ってくると思うよ」
「ふーん」
曖昧に頷きながら、車椅子を折りたたんで部屋の隅に置いて祐一もまた空いた椅子へとどっかと座る。
その音に被せるように、キョロキョロと部屋を見渡していたあゆが声を上げた。
「真琴ちゃんもいないの?」
「真琴? ううん、真琴はまだ来てないよ」
「なに? まだ来てないのか、真琴のヤツ。もうとっくに来ていい時間なのに。どっかで油売ってるんじゃないだろうな、荷物持ったまま」
「真琴ちゃんならもう来てますよ」
やれやれと祐一が呟いたのに重なるようにして、突然、妙に弱弱しい声がドア越しに聞こえた。
思わず三人が顔を見合わせてドアの方を見るや、カラカラとドアが開き、人影が現れる。
「……何やってんだ、栞」
ちょっとビビったような祐一の声に、栞はヘロヘロになりながら部屋へと入ってきて、パタンとベッドに倒れ込む。
「ううー、検診に遅刻したらお説教喰らいました」
「それは自業自得だな」
「遅刻はダメだよ〜」
「…名雪さんが云うかなあ」
苦笑混じりのあゆの言葉に、名雪は不本意そうに口を尖らせる。
「うー、わたし遅刻なんかしないよ〜」
「誰のおかげだ、誰の…」
半眼で云われたそのセリフにウッと詰る名雪。どうやら自覚はあるようだ。
祐一はわさわさと頭を掻きながら、まだベッドに沈み込んでいる栞に視線を向ける。
「それで? 真琴のやつ、病院に来てるのか? ここには来てないみたいだが」
ムギュー、と顔をフカフカの布団の中に埋めて感触を楽しんでいた美坂妹は顔を横に向けると「えーと」と人差し指を口に当てる。
寝ながらやる格好ではない。
「今、確か整形外科に行ってますよ。何か、来る途中に人とぶつかって足を痛めたとかなんとか」
「え? 真琴ちゃん怪我したの?」
「ええ、大した事ないみたいでしたけど、一応ちゃんと見てもらった方がいいって。その真琴ちゃんとぶつかった人が連れて行きました」
「真琴め、また人様に迷惑かけて…しゃあね、ちょっと様子見てくる」
「あ、わたしも」
立ち上がった祐一に、名雪もピョコンと付き添うように立ち上がる。
「あ、そうだ。お姉ちゃんもそっちに付いてっちゃったんですよっ!? なんかすっごく楽しそうに。可愛い妹を放り捨てて」
「楽しそう? なんだそりゃ?」
そりゃ、お叱りの巻き添えは食いたくないだろうし逃げるよな、と香里の行動に関しては納得しながら、その楽しそうの意味が良く分からずに眉を傾ける祐一。
栞は小首を傾げてその時の様子を思い出しながら告げる。
「えっとですね、なんかその真琴ちゃんを背負ってきてた人が困ってる様子を楽しんでました」
「はぁ?」
「…香里、悪趣味だよ」
「悪趣味ですよねえ、お姉ちゃん」
名雪が漏らした一言に、そのとおりとばかりにコクコクと頷く栞。
そんな三人を見比べていたあゆが、アレ? と目を瞬いた。
「なんか聞いてると、香里さんとその人知り合いみたいだね」
「ああ、なんか知り合いみたいでしたよ。会った時挨拶してましたし」
「ふぅん、誰だろうね」
「えっとですねえ…真琴ちゃんと話してて良く聞いてなかったんですけど、久瀬先輩とかなんとか――」
特に意味などなかったのだろう名雪のこぼした疑問に、栞が記憶を辿ってその名を出した瞬間、祐一の顔色が変わった。
「久瀬…だと?」
次の瞬間、祐一は無言で身を翻すと、足音も荒々しく部屋を飛び出していった。
「ちょっ!? 祐一、待って!」
慌てて、名雪が後を追う。
しばし呆然とその様子を見送ってしまった栞とあゆは思わず顔を見合わせた。
「ど、どうしたんでしょう、祐一さん」
「さ、さあ?」
しばらくそうやって見詰め合う二人。と、いきなり栞がバネ仕掛けの人形のように立ち上がる。
「姉さん、事件です!」
「うぐぅっ!?」
突然栞の発した意味不明の叫びにベッドへと引っくり返るあゆ。
そのあゆを見ていたのか見ていないのか、ビシッと指差し、栞は云った。
「という訳で後を追いましょう、あゆさん」
「うぐぅ、何が『という訳』なのかサッパリ分からないんだけど…」
でもやっぱり聞いてない栞は、さっさと部屋の端に置かれていた車椅子を引き出してくる。
「さあ、レッツビギンです!」
「うぐぅ、意味が全然違う気がするんだけど、ボクの方が間違えてるのかなぁぁ!?」
まるで荷物のように車椅子に乗せられて、再び既定速度オーヴァーの領域へと旅立ったあゆの悲鳴が、無人となった病室に小さく残響していた。
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