商店街を抜けた先。
やや街の郊外に位置するその病院は、こんな田舎にあるとは思えないほど設備の整った総合病院だ。
自然とその白く塗り込められた外見もお城のような威風を纏う。
久瀬と真琴、そして美坂姉妹は傍らの巨大な駐車場を横目に、病院の正面玄関へと向かった。
時間は正午を遥かに越えた頃。
早朝から訪れる待合の老人や病人たちの数も漸く落ち着きを見せる時間帯だ。
自然と午前中は忙しく走り回っていた看護婦たちも、僅かに一息余裕を得る事が出来る。
自動ドアを潜って現れた顔見知りの少女たちに看護婦の一人が気がついたのも、その余裕の所為だろうか。
「栞ちゃん!」
パシンと頬を叩くような声が響く。
栞は思わず首を竦めた。
入院歴の長い栞にとって、この病院の看護婦たちの多くが親しい知り合いと言ってもいい。同時に、元気になった今となってはまったく遠慮なく叱り飛ばしてくる人たちだ。
「もうっ遅い! 遅刻じゃない。色々先生方だってスケジュール詰ってるんだから、あんまり迷惑かけちゃダメでしょう?」
「うぅ、ごめんなさい」
「すみません」
恐縮する栞と、監督不行き届きですとばかりに謝る香里に、その看護婦は説教モードを解いてニコリと笑う。
その視線が姉妹の後ろへと向き、看護婦は「あら?」と眉を傾けた。
「真琴ちゃんじゃない、どうしたの?」
見知らぬ青年に背負われる少女に、看護婦は不思議そうに訊ねかけた。
彼女―沢渡真琴もまた、今ではこの病院での有名人の一人だ。
毎日のようにお見舞いに訪れるのだ。看護婦たちも自然と顔を覚える。
加えて、この病院の二大有名人である美坂栞と月宮あゆの友人ともなれば……
トドメにそもそものお見舞いの相手があの水瀬秋子ともなれば、病院関係者たちが真琴の事を知らないのはモグリという事になる。
ちなみにその秋子さんといえば、あの異様なまでに暖かい存在感と若々しさも相まって、看護婦・女医には羨望の的、男どもには憧れの的となり、今や当病院のアイドルとも云っていい存在となっていた。
何しろ、ヒマさえあれば看護婦たちが病室へと入り浸り、何故か看護婦悩み相談室となってたり、医者どもは隙さえあれば検診と称して病室へと押しかける。
以前、産婦人科の医者が検診とホザいて病室に押しかけ、看護婦たちに蹴りだされた事件はあまりにも有名だ。
これらの騒ぎを毎日のように目撃していた相沢祐一など、事故当初は意識を失っていたものの、まったくと云っていいほど外傷の無かった秋子さんがなかなか退院を許して貰えなかったのは、我らがアイドルを逃がすまいとする病院関係者たちの陰謀があったのではと推理したほどだ。
実際、数名の看護婦や医者に冗談混じりに問いただしたら、その悉くが引き攣ったような笑みを浮かべて逃げ出しやがったと、後に祐一は名雪に語っている。
まあ、秋子さんの事は省いたとしても、真琴の元気溌剌とした性格は、病院内でも彼女を人気者にさせるに十分だった。
「どうやら転んだ時に捻ってしまったみたいで」
香里が口を挟むように答える。
「そう…痛い? 真琴ちゃん」
「あう、体重を掛けなかったらそれほど…でも、ちょっと熱いかも」
「うーん、じゃあとりあえず整形外科ね。あなた、お兄さん? 案内するから付いて来て」
「お、お兄さん!? あ、いえ僕は」
てっきり病院に連れて来たらこの不本意な状況から解放されるものとばかり思っていた久瀬は泡を喰ったように目を瞬いた。
「先輩、最後までちゃんと責任は果たした方がいいと思いますけど」
「あう…」
事態を面白がるような香里の言葉と、背中越しに伝わってきた迷ったような吐息に、久瀬はううっ、と唸ると諦めたように首をガクリと落とした。
「はあ、仕方ない」
「ごめんなさい…その、ありがとう」
「ああ…真琴さん…だったな。気にしなくてもいいさ、ぶつかった此方にも非がある訳だし」
「あう、でもぶつかったのはあたしが悪いんだし…やっぱりごめんなさい。それとアタシは真琴でいいよ」
「そうか…ま、謝罪は受け取っておくよ」
看護婦の後について立ち去っていく二人の姿をちょっと驚いたように見送っていた栞がポツリと零した。
「な、なんか真琴ちゃんが素直です」
「そうね。まあ、良く知らない人だからでしょうけど」
「『あうう、あたしは悪くないわよぅ。ぼさっと突っ立ってるあんたが悪いのよぅ』とか云うとばかり思ってたのにぃぃ!」
「……あんたが人様の事をどう思ってるか大体分かったわ」
栞と同じく背負われた真琴の背中を追っていた視線を剥がして、ジト目で妹を見下ろした香里は目つきと同じような声でそう告げると、睫毛に掛かった前髪をピンと跳ね上げた。
「あたしはあっちについていくわ。二人だけにしておくのも心配だしね。そっちは一人で行けるわよね」
「それは勿論」
「ならさっさと行きなさい。きっと先生方待ち飽きてるわよ。はぁ、多分怒られるでしょうねえ」
「……お、お姉ちゃん、やっぱり付いて――」
「じゃあね、また後で」
「えぅぅー」
先生方のお叱りのとばっちりから逃れるため、半泣きの妹をさっさと置き去りにして香里はスタスタと前方を行く久瀬と真琴の後を追い始めた。
何より、断然此方の方が面白そうだ。
何気に好奇心旺盛な香里は野次馬根性丸出しで、機嫌も良さげに歩を早めた。
「さてと、じゃあちょっと待っててね」
整形外科の病棟へと辿り着くと、その看護婦はにこやかにそう言い残して診察室へと入っていった。
「先生! 急患でーす」
「そ、それは大袈裟過ぎだ」
待合室にまで響くような高らかな看護婦の声に一筋の冷汗を垂らしながら、久瀬はソファーへと背負った真琴を下ろして座らせた。
「痛むか?」
「ん、でも大丈夫」
「そうか」
ふむ、と頷いた久瀬は真琴と自分の荷物もソファーに置き、やれやれとばかりに肩を回す。軽いとはいえ流石にヒト一人を延々と運んできただけあって、少々身体が疲労で重い。
「随分と優しいんですね」
何故か当然のように付いてきて、今は真琴の隣に腰掛けている香里が、事態を楽しむような口調で久瀬を見上げていった。
何を云うのかと眉を顰める久瀬の前で、まるで答えを期待していないかのように香里は「まだ痛む?」と真琴に訊ねていた。
「ううん、へーきへーき」
心なしか普段の調子を取り戻したかのように元気に答える真琴に、「そう」と目を細める香里。
「別に優しいとかは関係ないだろう。怪我をした子を放って立ち去る訳にもいかないし、しかも原因が自分ともなればな。まったく…君は僕を何だと思ってるんだ?」
一応、訂正せねばと先ほどの香里の言葉に答えた久瀬に、当の彼女はふと考え込むように右手を握って唇に押し当てると、ふいっと思い至ったように顔を上げて云った。
「鬼畜外道…ですかね」
頭痛を抑えるように額に手の平を押し当てた久瀬を、真琴が不思議そうに見上げる。
「キチク?」
「ああ、鬼畜っていうのはね」
「説明しなくていい!」
どうやら意味を知らないらしい真琴に懇切丁寧に説明しようとする香里。
久瀬は深々と溜息をついた。
「まったく…誰がいったいそんな」
「相沢君が」
「…………」
苦虫を噛み潰したように表情を歪める久瀬を見あげて、真琴は小首を傾げた。
「ねえねえ…えっと…」
「久瀬だ」
困った様にわたわたと両手を挙げた真琴を見て、何を迷っているかを悟った久瀬が名前を名乗る。よく考えたら自己紹介も満足にしていなかった。
尤も、そもそも行きがかり上で一時関わっただけの相手となど自己紹介など別に必要無いとも思っていたのだが、まあそこは成り行きというやつだ。
名乗られ、刹那コクコクと頷いた真琴が重ねて訊ねてくる。
「久瀬は祐一を知ってるの?」
思いっきり呼び捨てにされて一瞬彼の頬が引き攣るが、もう諦めたようにずれた眼鏡を押し上げ、
「まあな、知らない事はないが……って、どうして君が相沢君の事を――」
「うん? だってアタシも祐一も秋子さんの家に居候してるから、祐一は知ってるわよ」
マヂですか? と問い掛けてくる久瀬の視線に、香里はニヤリと笑い
「奇遇な話ね」
と無責任に言い放った。
「彼の関係者とは…まったく…知っていれば――」
「知っていればさっさと見捨てた?」
「……そうもいかないだろう」
意地悪な香里の言葉に久瀬は溜息混じりに言葉を押し出す。
そこでふと彼は思い至った。
「ちょっと待て、確か君はその秋子さんとやらのお見舞いに来たんだったな? ならまさかここに相沢君も――」
「はーい、真琴ちゃん連れてきて〜」
言葉を遮るように看護婦のご機嫌な声が響いてきた。
グッと押し黙った久瀬と真琴と香里が見上げる。その二対の視線に突き刺され、彼は恐る恐る問い掛けた。
「……まさかまだ僕に連れて行けと?」
「他に誰が?」
「あう」
「何してるの? おーい、お兄さん」
ヒョイと診察室から顔を覗かせた看護婦が間違えようもなく久瀬の方に向かって呼びかけた。
そこに香里が畳み掛けるように告げる。
「呼んでますよ、おにーさん」
実に性悪そうに口元を吊り上げる後輩をギロリと一睨みし、久瀬はもう何度目かも分からない溜息を吐きつつ、身を屈めた。
ピョイとその背に真琴は飛び乗った。慣れてきたのか、段々と遠慮もなくなっている。
まったく…なんだってこんな…お兄さん? この僕が? お兄さんだと?
「…はぁ、世も末だ」
「久瀬ぇ、早くぅ」
ペシペシと頭を叩かれる感触。
久瀬はグッと瞼を閉じると押し殺した声で、
「……あのな、君は慣れるのが早すぎだ。だいたい人見知りとはそんな簡単にだな…聞いてるか?」
「あう?」
「………あう」
堪えきれず、痙攣を起こしたような呻き声さながらの笑い声を漏らしている香里を背に、背中の少女に無邪気にしがみ付かれた久瀬俊平はトボトボと診察室へと消えていった。
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