「真琴ちゃん!」

「あ、ちょっと、栞」

栞は見知らぬ青年に背負われているのが真琴だと認めるや、止める間もなく香里の隣から飛び出し、パタパタと二人の元に駆け寄っていく。

「もう」

そもそも止めるつもりもなかった香里も、やや足早に歩調を上げて妹の後を追った。


最初に彼女たちの接近に気付いたのは真琴の方だった。自分の名前を叫ばれたのだ。それも当たり前だろう。

「あっ! 栞ぃ!」

それまで久瀬の背の上で縮こまっていたのが嘘の様に真琴は表情を輝かせ、自分が背負われているのも忘れたかのように身を捻り、ブンブンと手を振った。
一方の久瀬はたまらない。
いきなり耳元で大声で叫ばれるわ、両手を離して暴れるものだから、体勢を崩して落ちそうになる真琴を必死で支えるわで大わらわだ。

「こ、こらっ、暴れるな」

まるで人質が逃げ出そうとするのを無理やり捕まえている誘拐犯のようなセリフ。

そうこう久瀬が苦闘している内に、栞が、そして香里が歩き寄ってくる。
何とか、真琴が落ちそうになるのを支えきる事に成功した久瀬は、漸く二人の接近に気がつき、立ち止まって振り返る。
そして二人の…いや、後ろの方のウェーブを描いた髪の毛の少女――香里の顔を見て、ピクリと左眼の瞼を震わせた。

「真琴ちゃん、どうしたんですか?」
「う、あぅ…ちょ、ちょっと…」

二人の傍らに寄って、背負われる真琴を見上げるようにして、心配そうに問いかけた栞に真琴は唐突に思い出したようにはしゃいだ態度を引っ込めて、バツが悪そうに口篭もった。
そんな二人を他所に、久瀬と香里が対峙する。
香里は久瀬の正面に立ち止まると、真正面から視線をぶつけ、挨拶した。

「こんにちは、久瀬先輩」

その声音はあまり友好的なものとは云えなかった。表情も、露骨に社交としか解せないようなお愛想の微笑み。
香里は直接関わった訳ではないが、この目の前の男が一人の女性の人生を自分の手札に利用しようとした事は伝え聞いている。その話は所詮、伝聞で得た情報であり、すべてを鵜呑みにするほど彼女は浅はかではなかったが、それでも口調が硬くなるのは仕方なかった。

一方の久瀬も、目の前の少女の感情に、その口調から気付きながらも別段動じる事無く平然と言葉を返す。

「やあ、確か美坂君だったね」

そう云って、久瀬はなんとも表面からは読み取り難い曖昧な表情で、香里を見つめ、チラリと自分の傍らで背負った少女に語りかけているもう一人の乱入者に視線を向ける。

「あら、面識は無かったと思いましたけど」

「分かっているとは思うが学年成績主席はそれなりに有名人なんだよ。しかもそれが美人ともなればね」

「それはどーも、生徒会長さん」

美人という言葉に冷笑に近い笑みを浮かべてみせた彼女に、久瀬は思わず苦笑を浮かべた。

なんとも…怖い性格みたいだな。

とはいえ、それが不快という訳ではなかった。
ある意味、分かりやすいその対応は、むしろ爽快にすら映る。

ふふ、なるほどね。

久瀬は予想通りの対応に心中でほくそえんだ。

そもそも、彼が香里の顔と名前を一致させていたのは、学年主席や美人という事よりも、あの相沢祐一の友人という立場が大きい。
とりあえず、久瀬は胸中で巡らせた考えを脇に押しやり、眼差しをチラリと背後に向ける仕草をして、云った。

「どうやら、この娘と知り合いのようだね」

でなければ僕に声などかけないだろう? と口調が告げる。
それに答えようとした香里だったが、それは妹の言葉に遮られてしまった。

「あの、真琴ちゃんどうしたんですか?」

どうやら自分に問い掛けてきたのだと分かり、少し虚を突かれたように久瀬は視線を彼女に落とした。

「妹よ」

久瀬の困惑を感じ取ったのか、香里がとても大雑把な紹介をする。
チラリとそちらを見て、また栞へと視線を落とした久瀬はポツリと言葉を漏らした。

「…あまり似てないな」

「ど、どうせお姉ちゃんより胸が小さいですよっ!」

「い、いや、そんな事はまったく言ってないんだが」

いきなり視線から庇うように胸を掻き抱き、顔を真っ赤にして自分を睨みつける少女に、少しビビッて後退りしてしまう久瀬。
呆れたように香里が言う。

「そんな事はどうでもいいわよ。それで? 彼女、どうしたんですか?」

ああ! お姉ちゃんてばちょっと私より大きいからって! という妹の抗議は無視して香里は久瀬の顔を睨みつけるように見据えた。
だが、答えたのはさり気なく胸という言葉に動揺している久瀬ではなく、口篭もっていた真琴の方だった。

「この人とぶつかっちゃって、それで足を捻っちゃって……」

その声に我に返った久瀬が後を続ける。

「どうも倒れ方が拙かったからな。無理に歩かせるのも、万が一骨に異常があった場合、拙いのでね。聞けば病院に向かう予定だったそうなので、このまま連れて行って具合を医者に見せようと思っていたところだ」

「あう」

コクコクと真琴が肩越しに頷き、同意を示す。

「ふぅん」

香里はすっと腕組みすると、真琴を背負う久瀬の姿を流し見た。その耳に――

「怪我したんですか!? 大丈夫? 痛くないですか?」

「ううっ、ちょっと足首が熱いかも」

「捻ったんだ、患部に熱も篭もる。早く、冷やした方がいいかもな」

そんな会話が飛び込んでくる。
香里は思わず薄らと口元を緩めた。どうにも、少女を背負った久瀬の姿はあまり様になっていない。
理知的然としたその容姿で真琴のような少女を背負っていては、余計に周囲の注目を浴びていただろうに…
香里はヒョイと肩を竦めると、それまでの硬い口調を和らげて、だが素っ気無く云う。

「それなら、病院に早く向かった方がいいですね。ちょうど私たちも病院に行く所でしたし、一緒に行きましょうか」

久瀬の口が驚いたように半開きになった。

「君たちも病院かい?」

「ええ、そこの妹が定期検診を受けないといけないので」

云われて漸く久瀬は思い出した。確か長い間病欠していた一年生の少女がいる事を。
生徒会を束ねる身として、一度はその名を耳にしている。今まで忘れていたが、その娘の名字は美坂だった。

色々と脳裏を駆け巡る彼女に関する事柄、とりあえず一言思いついた言葉を口に出してみる。

「……なるほど…留年か」

「えぅぅぅ」

的確に急所を抉る一言に、美坂栞は胸を抑えてパタリと倒れた。






「ううっ、ひ、酷いですぅ」

「ああ…すまない」

なにやらまだ精神的ダメージから回復し切れず、最後尾をフラフラ歩く栞に、流石に悪い事を云ったと思った久瀬が本当にすまなそうに謝る。
とりあえず、自分一人で女の子を背負って歩くという苦行から解き放たれて、ホッとしている久瀬であった。
香里は、と言えば、状況のあまりのアホらしさに呆れ返ったのか、無言のまま先頭をスタスタと歩いている。

「そっか……栞ってもう一度一年生なんだ…」

その囁くような真琴の言葉を聞いたのは、彼女を背負う久瀬だけだった。
尤も、その声音の底辺に含まれる微妙な思いに気付くには、久瀬はあまりにこの少女の事を何も知らなかったのだが。


「あっ」

背中から聞こえた小さな吐息のような声に久瀬は顔を上げた。
いつの間にか、目的地へと辿り着いていたらしい。
見れば、まるで城のように聳える白亜の建物が視界へと飛び込んできた。

「やれやれ」

やっと開放されるかな。

久瀬は苦笑いを浮かべると、もう一度背中の少女を背負い直す。

「あわっ」

意識が病院の方に行ってたのか、いきなり勢いよく揺さぶられた真琴が間抜けた声を思わず漏らす。
それを聞きながら、久瀬は刹那止まっていた足を再び進め始めた。


そして、舞台は病院へ――


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