「…ふんっ」

思わず鼻を鳴らす。
嘲りを含んだその音は、誰でもない自分に向けられたもの。
だが、そんな態度を示しても無意味な事は分かっている訳で、何か虚しい心地に包まれ、ふぅ、と溜息を一つ落す。
鼻先に乗せられた小型長方形の眼鏡の奥で、普段は鋭利な眼光が疲れたように半眼になっていた。

何故にまた、こんな事になっているんだろう、と心中で模索してみる。

運が悪かった。

そうとしか云い様が無かった。

久瀬俊平――高校三年生・卒業間近――は不本意極まりない状況に、ジリジリと焼け付くような焦燥を感じる。

なんとなく……
あくまで主観的にだが、周囲の視線が痛い。

はあ、とまた一つ久瀬は小さく嘆息を落とした。


「あう…その…ごめんなさい

その溜息が聞こえたのだろう。背中に背負った少女が申し訳なさそうに…というより心細そうに囁いた。
怯えたようなその声音に、久瀬は顰めていた眉を慌てて緩め、出来るだけ優しい声で背中の少女に答える。

「気にしないでいい」

……どこが優しいのだろう。

自らが発した、その物凄くぶっきらぼうで不機嫌そうな声音に、一瞬、久瀬は自分に対して眩暈すら感じた。
案の定、背中の少女は萎縮したように身を縮める。人見知りする性質なのだろう事はすぐに分かっていた。 分かっていたなら、もう少し接し方というものがあるだろうにこの始末だ。どうやら自分は予想以上に動揺し、焦っているらしいと久瀬は判断した。
本来なら必要とあらば幾らでも優しい言葉を掛けれる人間だと自認しているのだ。これでも……

久瀬はこの状況と自分の態度に苛立ちながら、とりあえずずり落ちそうになった少女を背負い直し、少しばかり歩調をあげる。
場所は商店街のまん真ん中。年頃の女の子を背負いながら歩く姿は目立つ事この上ない。
周囲の刺すような視線と、姦しい主婦集団の小声の囀りを痛いほど感じながら、久瀬は出来るだけ平然とした顔を崩さず、先を急いでいた。

死ぬほど恥ずかしいのを必死に堪えながら。

久瀬俊平……目立つのは嫌いではないが、こういう目立ち方は心底苦手な男だった。









――数時間前


なだらかな坂道。
小高い丘の住宅街を登るその道を歩くと、頂上付近に少し大きな平屋の赤い屋根が見えてくる。
黒く塗られた素っ気の無い鉄の門の向こうを覗けば、小さな広場と小洒落た家屋を見ることが出来るだろう。
そして、その中からは元気な子供たちの歓声と、楽しげだったり少しだけ作ったような怖い声音を響かせる大人の声が聞こえてくる。
視線を鉄門の横、門柱へと向けたなら、そこには春日部保育園と彫られた古くて大きな表札を見つける事が出来るだろう。

文字通りここは保育園。幼い子供たちが預けられ、過ごす場所である。


「真琴ちゃん、そろそろ時間じゃなかったかしら?」

そう云いながら、穏やかな容貌に、皺という年輪を刻まれようかという微妙な年頃の女性が部屋に顔を覗かせた。
二、三人の子供たちにじゃれつかれていた少女が振り返り、その口と眼を見開く。

「あ! そうだった!」

慌てて立ち上がる彼女に纏わりついて逃すまいとする子供たちに、女性はやれやれと笑みを浮かべながら諭すように告げた。

「ダメよ、お姉ちゃんはこれからお母さんのお見舞いに行くんだから」

随分と素直に育っているのだろう。子供たちは多少不満げながらも少女の服を掴んだ手を離した。
ごめんね、と本当に済まなそうに子供たちに告げて駆け寄ってくる少女に、この保育園の園長を務める女性は楽しげに微笑んだ。

「もう、人気者ね」

「あう」

恥ずかしげに俯く少女。小麦色のツインテールがフワリと垂れ下がる。
その頭を可愛がるようにポンポンと撫でて、

「ごめんなさいね、お休みなのに。助かったわ。それから秋子さんによろしくね」

「うん! じゃなかった、はい、園長先生。それじゃ、さようなら!」

まるで子供のような元気の良い声を残し、パタパタと飛び出していく少女の姿を、園長先生は優しげに眼を細めて見送った。




ツインテールに纏めた小麦色の髪の毛をなびかせて、彼女は弾むように坂道を駆け降りていく。

彼女の名前は沢渡真琴。

出生・年齢・人種その他諸々全部不明の水瀬家次席居候である。

現在は、このように保育所でのアルバイトの日々。
元々今日は日曜日で、保育園は休みのはずだったのだが、特別な事情とやらで数人の子供を預かる事になったとか。
で、急な話だったらしく、他の保母さんが出てくる時間まで園長先生だけでは手が足らず、真琴が借り出されたのだ。
尤も、真琴に出来る事と言えば子供たちと遊ぶ事ぐらいだが、それでも今回は役に立ったのだろう。
本来なら、今日は事故で入院している秋子さんに着替えなどの荷物を持っていく予定だったので、こうやって荷物を取りに水瀬家へと向かっている。

寒風吹き荒ぶ冬空の下を一気に駆け抜ける。
そのまま大して息も乱さず水瀬家の玄関を潜り、名雪が用意していた荷物を引っ掴むと、真琴は休む間もなく家から飛び出していった。

「あ! そだそだ」

と、思うや大声をあげてパタパタと駆け戻ってくる。ガチャガチャと鍵を掛け直すと、「戸締り終わり!」と声を上げ、改めて真琴は水瀬家を飛び出していった。
本当ならば、着替えなどは休日で学校が休みの名雪や祐一が持っていくはずだったのだが、真琴が自分で持っていくと主張して、今に至る。
名雪と祐一は一足早く病院へと行っているはずだ。



綺麗に結ばれた二つの尻尾がパタパタと跳ね上がる。
真琴の小柄な身体も弾むように駆け抜けていく。

別段、走る必要などないのだけれど、元気が有り余っている彼女にはテクテク歩くなど我慢出来ない。

お子様であった。

まあ、大好きな秋子さんに会いに行くのだからこれぐらいは仕方ないだろう。幾ら毎日のようにお見舞いに行くとはいえ、やっぱり水瀬家にあの人がいないのはどうしても寂しいのだ。
朝起きて、秋子さんがいない。
水瀬家に住むようになってまだ短い真琴ですら、あの人のいない朝は余りにも寂しすぎる。
だから、毎日秋子さんに会いに行くのが待ち遠しくて仕方ない。
だから、毎日病院には走っていく。

勿論、偶に彼女の初めての親友である天野美汐が一緒の時は走ったりしない。
美汐は走らないし、走ってもきっと遅いだろう。何せ美汐だし。
それに走ってたら折角一緒にいるのに何もお喋り出来ない。名雪とだったら走りながらでも喋れるかもしれないけれど。
会話はどちらかと言うと真琴が喋り、それに美汐が頷くといったものだけど、それでもやっぱり楽しくて、真琴はテクテクと歩く美汐の周りをちょこまかとはしゃぎながらお喋りする。


疾風のように商店街を駆け抜ける真琴の足がふと止まった。
鼻孔をくすぐる芳しき匂い。

「あう…たい焼きだ」

彼女の視線の先では、やや丸顔のおじさんがその外見とは裏腹に器用に手元を動かしている。
屋台の鉄板の上で香ばしい匂いを立てている小麦色のたい焼きたち。
真琴的優先順位では一歩、肉まんには劣るが、無論たい焼きも大好物に類される食べ物だ。
だが、その匂いに釣られて止まるほど真琴はたい焼きに飢えてはいない。

肉まんには飢えているが。

「あゆに買っていったら喜ぶかなあ」

真琴は思わず腕組みをして、秋子さんが入院している病院に、同じく入院しているうぐぅと鳴く少女の顔を思い出した。
真琴と彼女…月宮あゆは何度か会っている内に今では非常に仲が良くなっていた。
これでもかなりの人見知りをする性質である真琴なのだが、その割には意外なほどにあっさりと友達になっている。
祐一いわく、精神年齢が同レベルだからだそうだ。

「あうー、やっぱりやーめた」

肉まんを買うお金がなくなるし…と呟く真琴。
所詮、友情より食い気だった。

それでもまだ多少迷いがあるのか、真琴は視線をタイヤキに貼り付けながら、だが身体の方はさっさと行動を開始する。
初速からトップスピード。
つまり、余所見をしながら全速力で駆け出す真琴。

彼女が二歩も行かずに前から来る青年と正面衝突したのも無理からぬ事だった。

「わっ!?」

「っと!?」

丁度、走り出そうとしたところで、体勢が定まっていなかった真琴は弾き飛ばされるように派手に地面に転がった。
一方、真正面からいきなり女の子にぶつかられた方の青年は、相手が小柄だった所為もあり、一、二歩後ろに後退っただけで体勢を整えた。

「あうー、いったーい!」

真琴は唸るように思わず怒りの篭もった声を上げる。
それを聞き、ちょっと驚いたように立ち止まっていた青年は、ハッと我に返ったように瞬きし、

「すまない。大丈夫かい?」

そう云って、手を真琴に向かって差し伸べてきた。

一方の真琴も今さらのように眼をパチクリと瞬かせ、自分に手を差し伸べる青年の顔を見上げた。
端的に云えば優男。痩せ型の長身で、妙に偉そうな眼鏡を掛けている。
でもまあ、それはどうでもいい事だ。肝心なのは、そいつが真琴にとって全然知らない人だと云う事。
一気に人見知りの血が騒ぐ。
同時に明らかに余所見をしていた自分の方が悪いと思い至り、思考が空転する。

「だ、大丈夫」

ようやっとそれだけ言葉をひねり出し、とりあえず青年の手を取る事にして真琴は立ち上がった。
だが、右足に体重を掛けた途端、激痛が足首に走り、思わず悲鳴をあげて座り込んでしまう。

「ううっ、痛いっ」

涙目になる真琴に、青年は少々慌てたように彼女の前に屈み込み、ジーパンのズボンを捲り上げて足首に手をやった。

「あっ!?」

「参ったな、腫れはじめてる。捻ったか…捻挫ならまだいいんだが、倒れ方も拙かったし骨に異常があったら…」

眉を顰めてそう呟いた青年は、眉間に皺を寄せて痛みを堪える真琴に訊いた。

「立てそうか?」

ブンブンと首を横に振るその仕草に、青年はますます困ったように唸り声をあげる。

「無理に歩かせるのも拙いし……糞ッ、こんなところ、タクシーなんか通らないぞ!?」

ざわざわとざわめきが周囲から聞こえる。
それで漸く、自分達の周りに何事かと野次馬が集まり始めているのに気が付き、彼は焦ったように視線を泳がせた。

「ああ、まったく、僕が悪いのか? いや、どちらにしろこのままにはしておけないし……ああっ! もう仕方ない」

なにやら自分の中で繰り広げていた葛藤を無理矢理終了させたらしい青年は、真琴の前に背を向けて屈み込む。
戸惑う真琴に、彼は焦ったような、不機嫌な声で告げた。

「ほら、背中におぶさって。歩けないのだろ? 怪我が酷かったら拙いし、とりあえず病院に行こう」

「で、でも…」

躊躇した真琴だったが、青年の苛立ったような眼差しに言葉を飲み込み、渋々と青年の背に乗っかった。
青年が立ち上がる。
普段の彼女がいつも見ている視界より、少しだけ高い、そしてかなり印象の違う商店街の町並みが青年の肩越しに見えた。

青年が転がっていた少女の荷物を拾い上げる。
そのカバンに眼を止め、

「どこか行く予定でもあったのか?」

「……病院」

はぁ? と疑問符を浮かべる青年の横顔に、真琴は小声で付け加えた。

「秋子さんが入院してて、それで着替えを届けに行くところだったの」

秋子さんとやらが誰だかは彼には分かり様もなかったが、大体は事情を察する。
つまりは彼女の行く先は結局変わらないというわけだ。

「…まあ、好都合…なのか?」

少なくともこの少女の関係者が病院にいるのならば好都合と云えるのだろう。
とりあえず、さっさと連れて行く事にして、彼はしっかりと背中の少女を背負いなおし、右手に着替えとやらの入ったカバンを持って歩き出した。
その背中越しに小さな声が響いてくる。

「あう…あの…」

「ん? なんだ?」

「その…ごめんなさい」

「走る時は前ぐらいは見ておくんだな」

「あうぅ」

消え去りそうな弱々しい呻き声に、彼――久瀬俊平は困ったように深々と溜息をついた。

まったく…何故僕がこんな厄介な…

ブツブツと心中で恨み言を連ねながら、久瀬は少女を背負い、商店街を歩く。
そんな彼らの姿は、ひどく町並みのなかで浮き上がっていた。
自然と視線が彼らに集まり、ますます久瀬の焦燥は密度を増し、比例して真琴も身を縮こませていった。


そして、冒頭の場面へと至る。







「アイスを――」

「却下」

そうだ! せっかくお見舞いに行くんだから何かお見舞いの品が必要だよね。うーん、何にしようかな? あ、でもやっぱり私はアイスが云いと思うんだ――等等

つまりはそれに類する意味の事を喋ろうとした美坂栞は、わずか一単語を口にした所で即座に却下の一言で会話をぶちきられた。
思わずなんとも情けない表情で姉の顔を振り仰ぐ。

「まだ何も云ってないよー」

「云われなくても全部分かったから。だって、あなたってワンパターンだし」

「ううっ、ワンパターンって。せめて仲の良い姉妹の以心伝心とか云い様が――」

「別に姉妹じゃなくても分かるわよ」

呆れたように、でもいつものように香里はそう云うと、頬を膨らませる妹を置いてスタスタと歩く。

「兎に角アイスはダメよ。どうせあなたが食べちゃうんだから」

「食べないよ〜」

「前科有り」

「えぅ〜」

そんな会話を交わしながら、二人は商店街へと足を踏み入れる。
ここを抜けて、もう数分も歩けば秋子さんが入院している病院へと到着する。

「あれ?」

唐突に声を上げたのは栞だった。

「あれって真琴ちゃんじゃないかな?」

「うん?」

妹が指差す方を見て、香里はなんとも表現し難い表情を浮かべ、一言呟いた。

「これはまた……珍しい組み合わせね」


二人の視線の先には、周囲の注目を浴びながら、焦燥極まって顔を引き攣らせて早足に歩く久瀬と、その彼に背負われて小さくなっている真琴の姿があった。



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