「はぁ…」
零れた溜息は深く深く、実に意味深な響きをもって冬空へと奏でられた。
「な、なによ」
気丈に吐き出すその声は、だが微妙に震え、屈する事の無い強い意志を宿しながらも、その根底に怯えにも似た響きを彩る。
何より、ベンチに正座させられて云っても迫力の欠片もない。
両腕を腰に当てた美坂栞は姉の顔をチラリと見上げると、つつーと視線を逸らす。そして、冬空の下の人気の無い公園に色濃く残る惨劇の跡――抉れた地面に折れた木々――をもう一度確認し、また溜息をついた。
そして、両手でストールをしっかりと握り締め、どこか遠い目をしながらポツリと一言。
「お姉ちゃんって武闘派だったんだね」
「はへっ!?」
『ぶとーは』ってなんでしょー?
香里は思わず間抜けた声を上げた。
どうしても『ぶとーは』の感じが脳裏に浮かんでこない学年成績首座。
愕然と錯乱が絶妙にブレンドされた表情を浮かべる姉を横目に、栞はなにやら表現活動を始める。
題名は「真実に傷つく私の心」。
(知りたくなかった事実を知ってしまった。いいえ、本当は薄々気が付いてはいたの。でも…でも! 私の事を一番に考えてくれるならば最後まで嘘を貫き通して欲しかった…)
右手をさっと哀しげに空に差し上げ、その手を胸元に抱き込んでフルフルと首を振り、ホロリと涙を流すという情感溢れる名演を見せる妹。
昨日テレビで放映していた歌劇の一場面らしい。
ピシリ
―これは青筋が立つ音
ガシィィ
―これは妹のこめかみに指が食い込む音
そして雄叫び。
「だ・れ・が・武闘派よっ!!」
「いや、美坂はまさしく『鬼の六機』を蹴散らすほどの実力を秘めた武闘派なのだと、世間一般の皆様がたに公言しても憚らないと、この北川潤が保証するぞ!」
妹の顔をむんずと掴み、「えぅ〜えぅ〜」とバタバタと暴れる栞を右手一本で吊り上げている香里に、その傍らで横たわっていた男がムクリと起き上がり、これまた実に確信に満ちた声で発する。
「公言せんでいい! 保証もしないでよろしい! しかも『鬼の六機』ってなによそれ!」
「うむ、警視庁第六機動隊だ」
何の衒いも無くそう答えたのは、顔面にグルグルと包帯を巻いた北川潤。
案の定栞がポケットから包帯を取り出して巻いたのだが、明らかに巻き方が間違ってるので、かなり怖い人相に成り果てている。
しかも打撲に包帯はまったく意味が無いのではという邪推も浮かぶのだが、この場にそんなどうでもいい事を気にする輩はいないようだ。実におおらかな面々である。
そのおおらかなはずの美坂香里は低く唸るように囁いた。
「…あんたはあたしが機動隊すら蹴散らすと云いたいの?」
殺人鬼もかくやというような凄まじい眼光を浴びせられ、包帯男は慌てて弁解した。
「い、いや。最近では六機にはSATも出来たらしいし、美坂なら警察の特殊部隊だって――」
「誰がさらに強調しろと言ったぁぁ!!」
「ああ!? またもや北川さんが水を切るようにぃぃぃ!!」
栞の歓声にも似た悲鳴を後に、北川は横に向けて発射されたロケット花火のようにすっ飛んでいった。
「生きてるって素晴らしいぃぃ」
何か人生についての発見があったらしく、感涙に咽びながら美坂姉妹の少し後ろを歩く北川。
公園を出て並木道をテクテクと歩きながら、栞はその様子をチラリと眺め、再び深く溜息をついた。
「お姉ちゃん」
咎めるように妹に呼ばれ、香里は閉じた瞼の上の整った眉をピクリと震わせた。
「自業自得よ」
「さっきのはともかく、最初のアレは…」
「さっきのはいいのですか?」
ちょっと泣きながら呟く北川の声は、勿論姉妹には届かない。届いても聞き分けない。
香里は栞の言葉にウッと詰り、反省を込めながらも反論を試みる。
「そ、そりゃ勘違いしたのは悪かったと思うけど……いきなり妹が見知らぬ男に頭を掴まれて宙吊りにされてたら誰だって襲われているって思わない?」
「自分だって妹の頭を掴んで宙吊りにしてたクセにぃ」
「…愛の鞭よ」
「典型的な嗜虐思考のサディストのセリフ……などとは現在過去未来、金輪際思いませんっ!!」
硬質の殺意と、金属の冷たい感触を顎に感じ、北川は上ずった声で宣誓する。それを聞き、命拾いしたわねという視線を突き刺し、香里は北川の顎に当てたメリケンサック装備の拳を引いた。
「まったく…大体あなたが人の妹の頭を鷲掴みになんかしてるから……それに北川君が栞と知り合いだなんて知らなかったし」
それを聞いた栞は、立ち止まってクルリと振り返ると、香里と北川の前でハシッと両手を合わせ、感嘆するように云った。
「そういえば、私も北川さんがお姉ちゃんとクラスメイトだなんて知りませんでした」
「俺も、栞ちゃんが美坂の妹だとは知らなかったな」
うんうんと腕組みして頷く北川。
「…………」
「…………」
「…………」
沈黙の風が彼らの間を吹き荒ぶ。
「なにやらドラマ的展開だと、泥沼に突入しそうな関係ですね」
「もしくはもんどりうって三つ巴といったところだな」
「訳分かんないわよ、あんたたち」
本人たちにしか分からぬ納得を得て頷きあってる二人に、香里は頭痛に顔を抑えた。
はぁ、と一つ溜息をつき、それで? と二人に問いかける。
「大体、何時の間に知り合ったわけ? あなたたち」
呆れた様に腰に手を当てる香里に、栞と北川は顔を見合わせ、
「偶然出会って、偶然知り合ったんですよね」
「だな」
「あーそうですか。このところ、随分上機嫌に外に出て行くもんだから、なにをしてたかと思ったら、そう言う事。逢引きしてた訳ね」
「あ、逢引きってお姉ちゃん!!」
真っ赤になって慌てる栞。その頭にポンと手を置き北川が真面目くさった顔で重ねるように告げる。
「そうだぞ、美坂。逢引きだなんて古い言葉を使ってると、年齢がばれる」
「死にたいの!? そんなに死にたいの!?」
「ぐげぇぇ」
「お姉ちゃん! 首締めは拙いよ! それは確実に仕留めてしまいますぅぅ!!」
「どうしてこんなに話が進まないのかしら」
何処かしら疲れ果てたようにトボトボと歩く香里に、何故か死んでいない北川が元気溌剌に答える。
「そりゃ一々美坂が俺の命を狙うからだろう」
「北川さんが要らない事を云うからです!」
香里が反応する前に栞が遮るように指摘する。これ以上、展開が停滞するのは好ましからず。
北川も自覚があったのか、無言で両手をあげて恭順の意を示す。
「で? デートじゃなかったら何してたわけ?」
「北川さんに絵を教わってたんです」
と栞が云うや否や、香里は疾風と化し、北川を巻き込んで木陰へと連れ込んだ。
「あの娘の絵を見たの?」
「見たというか描かれた」
「か、描かれたの? 良く生きてたわね」
「おう、あれは何というか魂が汚染されていく感触というべきか…ひたすらに怖かったぞ」
「そうよ、我が妹ながらあの才能には背筋も凍るわ。それで? 絵を教えてるってどういう事?」
「うむ、このままでは死人が出ると思ってな。社会平和のために正義の心を振り絞ったんだ」
「偉いわ! 素晴らしいわ! 尊敬してあげるわ!」
「……二人して無茶苦茶言ってませんか?」
「「おわっ!!」」
仲良く飛び退く二人を、栞は半眼でねめつけた。
「これでもわたし、傷つきやすい年頃なんですよ」
「あはは、ごめん。そんなふくれないでよ、栞」
「そうだぞ。拗ねなくても栞ちゃんの絵は上達してるからな」
「そうですか?」
「そうなの?」
「おう、死なない程度に」
北川は一言多かった。
「うふふー、いいですよ、いいんですよ。私はどうせ呪われた絵描きさんなんです。これからも一杯一杯絵を書いて、世界を大混乱に陥れるんです。あ、それとも北川さんに普通の技法を教えてもらって、凄く凄く有名な絵描きさんになって、世界中の人にわたしの絵を見てもらえるようになって……それからわたしの本当の絵…最初の作風に戻した方が世界中の人を呪えるかも。うふふ、世界を破滅させる女、うふふふ」
「やめなさいって」
香里は呆れたように溜息を落とし、パシンと妹の頭をはたいた。
ちょっと涙目になって自分を見上げる妹。その頭をポンポンと慰めるように叩きながら、香里は自然と笑みを浮かべる。
さも、当たり前の用に未来を語る栞……
今まで限られた未来しか存在せず、それしか認める事が出来なかった妹が、本人が意図する事無く在りうるべき行く先を語るのが、どうしようもなく嬉しかった。
「さて、オレそろそろバイトだから行くわ」
ジャンパーのポケットに両手を突っ込み、短い姉妹の触れ合いを傍目から見ていた北川が、軽く述べる。
栞は「あ、そうですか」と些か残念そうに呟くと、ニコリと笑い、
「じゃあ、また明日。待ってて下さいね」
「ん? …明日って…アレ?」
「あれです」
うわー、本気だったのか、と内心唸る北川潤。
まあ、不安は色々あるものの嬉しいのは確かであり…
「中庭で待ってますから」
「いや、中庭は寒い――」
「待ってますから」
十八番とも云うべき儚げな仕草で繰り返す美坂栞に北川は苦笑を浮かべて降伏した。
「OK、分かった、了解了解っと。この北川、期待して楽しみにしとく。あんがとな」
「いえ!」
照れたようにはにかむ栞。それを見て、目元を綻ばせた北川は香里に向かって右手をあげる。
「じゃ、オレ行くわ」
「ええ、また明日、学校で」
「おう、明日な」
そう軽やかに言い残すと、北川はスタスタと横道に逸れ、歩き去っていった。
その姿を見送り、香里はゆっくりと妹を振り返る。
「で? アレってなに?」
「お弁当だよ。北川さんにお昼持っていってあげるって約束したんだぁ」
とても楽しそうに表情を綻ばせながら云う妹に、香里は思わず天を仰ぐ。
冬の冷たい空気に澄み切った大気は、空を青々と冴え渡らせている。深く深く、落ちていってしまいそうな青い空から視線を剥がし、香里は呟く。
「ま、好きになさいな」
「そういえば、お姉ちゃん…どうして公園なんかに来たの?」
少なくとも栞の知る限り、姉の行動範囲にあの公園は入っていないはずだ。散歩というには遠すぎる。尤も、姉の行動範囲を詳しく知っている訳ではなかったが。
だが、香里は不機嫌そうに眉を顰め、栞を睨みつけた。
「どうしてって、あなたを探してたからじゃない。画板とかが見当たらなかったから、多分そこだと思ったの」
「……?」
どうして自分を探しにわざわざ来たのかやっぱり分からなくて混乱する栞。香里は半眼となって云った。
「今日は午後から検診だったでしょ?」
しまった、と顔を引き攣らせる栞を見て、香里はやっぱりと溜息を落とす。
「忘れてたわね。まったく…帰って来ないからそうだと思ったのよ。さあ、行きましょう、時間ももうあまりないわ」
「時間が無いのはわたしの所為ばかりじゃないと思うんだけど……」
「反論は却下します」
えぅ、と呻き、恨めしそうな表情を作りかけるも、
「あれ? 一緒に来てくれるの!?」
「まあね。秋子さんたちのお見舞いに行くつもりもあったし、ついでにね」
「ついで〜」
「拗ねないの」
弾けた表情が文字通り拗ねてしまいそうになるが、思い出したように栞は呟いた。
「そっか。そういえば秋子さん、もうすぐ退院だって言ってたね」
「確か明後日よ」
姉の言葉を聞きながら、栞は思いを巡らせる。
祐一さんたちも来てるかなぁ。
二人の姉妹は、少しだけペースを上げて病院への道のりを歩き始めた。
「そういえばさあ」
「なに?」
ホンの半歩分ほど前を歩く姉に向かって、栞は羽毛のように軽い調子で問いかけた。
「北川さんってお姉ちゃんの恋人?」
ピタリと香里の歩が止まる。靴の裏でアスファルトが摩擦にしゃがれた声をあげる。
「なによ、それ。なんでそう思うわけ?」
振り返った香里の表情は、混乱も照れもなく、ただ考えもしなかった事を告げられたように不思議そうに幽かに眼を見開いていた。
「だって…」
答えからして、違うのかと納得しながら、栞は答える。
「お姉ちゃんがあんなに大暴れするの、初めてみたから」
「…なんであたしが大暴れしたら、北川君と恋人になるのよ」
呆れた声に怒りが滲む。大暴れという単語が不愉快らしい。事実なので反論はしないが。
だが、その香里の眼差しが、栞の紡いだ言葉にきょとんと丸くなる。
「普通のクラスメイトとか友達なら、あそこまで自分をぶつけられないよ。それって北川さんに凄く心を許してるって事でしょ? お姉ちゃんって実は結構自分の本音を他人に見せない方だし。わたし、お姉ちゃんがそういうの見せるのって名雪さんだけだと思ってた」
香里は無意識だろうが、右手を口元に添え、親指で唇を擦った。
それが姉の考えをまとめている時の仕草だと知っている栞は無言で見守る。すると、香里はクルリと振り向き歩き出した。
慌てて栞も後を追う。栞の姿が視界に映り、香里は小さく首を傾けて、視線を妹の瞳に合わせた。
「そうね、多分あたしは北川君には気を許してるかもね。北川君は名雪以外では唯一親友って呼べる人だと思う…今のところ。でも、恋人じゃないわ。彼の事、そういう対象として見た事ないし…北川君もあたしの事、そういう眼では見てないと思うわ」
栞はおもむろに香里の顔を見上げ、姉が心底からそう思っている事を理解した。
「ふーん、親友かあ」
「相沢君も、もう親友って云っちゃってもいいのかもしれないけど…あたし、さすがに彼を気軽にぶん殴れないもん」
「…お姉ちゃんの男の親友の基準は殴れるか殴れないかなんですか?」
「…………」
何故か視線が泳いでいる香里。
「もう…あ、祐一さんは殴っちゃダメですよ。祐一さんはさすがに北川さんみたいに不死身じゃなさそうですし」
「分かってるわよ、あたしだって名雪に怒られたくないし…って、あんたも北川君の事、既にそう思ってるわけね」
「実際にやっちゃってるお姉ちゃんよりマシですよー」
この話題では分が悪いと考えたのか、香里はさっさと視線を逸らし、また歩調を上げ始めた。
その背を眼で追いながら、栞は手を自分の胸に置く。
ドキドキと鼓動が木霊していた。
これって、やっぱりそうなのかな……
吐きだす吐息が寒気に白く染まり、視界を遮る。
栞はかすかに目を細めると、画板を胸に抱き、足早に歩く姉の傍らに連れ添うため、自らもペースをあげた。
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