美坂栞は休学中である。
何の話かと云うと、事は簡単。
彼女はまだ学校に通い出していないと云う事だ。
誕生日を契機に、奇跡的に体力を持ち直し、奇跡的に発見された治療法を第一号として施され、奇跡的な回復を見せた彼女の事は、医療関係者に奇跡のハットトリッカーなどという訳の解からない異名を以って広く知られている。
とはいえ、傍目には回復を見せたもののまだまだ油断はできない。
なんとか退院は許してもらったものの、まだ学校に通う事を許してもらえる状態ではなかった。
だから、こんな寒空の下でうろうろしているのは本当ならば……
「いけないんですけどね」
口ずさむような呟きは、さらさらと吹き往く風に乗り去っていく。
公園へと至る小道の上で、栞は少し身を震わせ、枝の隙間からのぞく覚めるような蒼の空を仰いだ。
今日は日曜日。
学校の無い自分にとっても、どこか心躍る休日。
いや、心が躍るのは休日だからではなく……
§
美坂栞と北川潤。
二人のささやかな絵画教室は週に1、2度のペースで行なわれていた。
前述したように、学校の無い栞には時間はあったものの、現役高校生の北川は勿論授業がある。
それに…
「北川さん、バイトしてらっしゃるんですか?」
「うん、まあ色々と掛け持ちでね」
キャンバスに木炭が擦られる様子をぼんやりと見守りながら、北川は答えた。
「あの、私あまり詳しくないんですけど」
「うん?」
手を止めて、傍らの彼の顔を仰ぎ見る。
「高校生で掛け持ちのバイトって珍しいんじゃないですか?」
「さあ、他の奴はよく知らないけど…珍しいのかねえ、やっぱり」
照れたような、困ったような中途半端な笑いを貼り付けながら、北川はすっと彼女の手の中の木炭を取り、ささっとキャンバスに手を伸ばす。
「ここ…こうしてみな。ほら、ちょっと影が表に出るだろ?」
「あっ、ホントです。凄い」
黒炭を受け取り、喜々としながら同じようにやってみる。
「あれ? うーん、なにかちょっと」
「ここを…ほら」
「あっ、できた! 出来ました!」
こうした、ほんの些細な事で満面の笑みを浮かべて喜ぶ栞。
そんな彼女の様子に、北川の表情も自然に緩む。
「栞ちゃん」
「はい? なんですかぁ?」
鼻歌でも歌い出しかねない様子で、楽しげに絵に向かっている栞を見ながら、北川はポツリと呟いた。
「ホントに絵…好きなんだな」
「好きですよ」
少し彼女の雰囲気が変わる。
降る雪を見て、跳ね回る子犬のような気配から、じっと雪の舞う空を見上げる小鹿のような雰囲気に。
穏やかな、空気。
「前から好きだったんですけどね。今の好きは…少し違う気がします」
ゆっくりと、大切なものを積み重ねるように手を動かしていく。
「自分の事なのによく解からないんですけど、前は、自分の何かを残したい…そんな思いがあったような気がします。
でも…今もそうした思いは変わらないんですけど…」
栞は北川を振り返ると、ニコリと笑った。
「こうやって、色んな事を教えてもらうたびに ああ、私はこれからもずっとこうして絵に向かう事が出来るんだなって、実感できるんです。
色んな絵を、色んな風に、これからもずっと描いていけるんだなって。それが凄く凄く嬉しくて…」
そして、キャンバスの端をそっと撫でるように手を滑らす。
「そして、色んな絵の描き方を教えてもらうたびに、自分が広がっていく気がするんです」
「そっか」
北川は小さく微笑みながら、頷いた。
正直、少し大袈裟とも思わないでもない。自分のやってる事が、そんな大層な事だとは思わない。
でも…
北川は、再び手元に没頭し始めた栞を眺めながら思った。
多分、この娘には自分が知らない、想像もつかないような事があったんだろう。
まだ四、五回会っただけだが、この少女にはどこか大人びたような不思議な表情を見せることがある。
そして、多分今、この娘はそんな出来事を後にして今を歩き出している。そんな彼女に、自分みたいなのが少しでも喜んでもらえる事だ出来るのがなんだか嬉しかった。
彼には解かっているのだろうか。
そんな彼女の雰囲気を、言葉の端々の気配を、感じ取れる自分の心の在り方を。
黒の彩りが新たな世界を形作っていく。
少しずつ、少しずつ。
それは、絵に対する思いを過去のものとした北川にとっても、どこか心穏やかな移ろい。
なぜか、小さく苦笑が浮かぶ。
よく考えたらいきなり絵を教えてあげようかだなんて、無茶苦茶言ったもんだ。
下手すりゃろくでもないナンパと間違えられても仕方なかっただろうし…。
「あっ、そういえば北川さん」
「は、はい!?」
ぼんやりと考えに没頭してた北川の慌てた返事に小首をかしげながら、
「さっきの話なんですけど、なんでバイトたくさんしてらっしゃるんですか? 何か欲しいものがあるとか」
「俺ってさ、一人暮らししてるんだよねー」
栞の目がまん丸になるのを楽しげに眺めながら、北川は続けた。
「でも元々金は充分あるし、出してもらってる分もあるから本当はバイトなんかしなくていいんだけどな…ただどうも落ち着かない所があるんで頑張ってみてるわけ。ヒマなのもあるけどさ」
「で、でも、高校生で一人暮らしって凄いです」
「そうかな。慣れるとそうでもないよ」
ヘラヘラとした笑いに、どこか照れとも余裕ともつかない空間を感じ、栞は何故か少しドキドキしてしまった。
ちょうどその時、彼らの背後で噴水の勢いが一際増した。
高々と打ち上がった水の柱が、幾重にも重なるゲートを作り、新たな舞を踊り始めている。
「あっ、ちょうどお昼ですねえ」
「相変わらず金の無駄づかいに見えるなあ」
苦笑しながら噴水を振り返る北川。
6時間ごとに、こうやって踊り出す噴水。ある意味、時報とも云えるのだが…。
「こんな真冬に公園にいる人ってあまりいませんしね」
「俺たちぐらいだな」
「物好きですから」
「俺も?」
「だって、北川さん。初めて会った時も公園でボーっとしてたじゃないですか。やっぱり物好きです」
「そ、そう云われてしまうと反論のしようがないです」
俺って物好きだったのかぁ、と少しショックを受けてる彼の仕草にクスクスと笑いをこぼしていた栞だったが、ふと思い出したとばかりに両手を合わせる。
「そうでした。北川さん、私お弁当作って来たんですけど食べてください」
と、云った側からぞろぞろと重箱を出している栞。
な、なんか強引な上に断定口調。ふ、普通は食べてくださいませんか? じゃないのかなあ。
と思わないでもなかったのだが、それより気になることがあったので、一言訊ねてみる。
「あ、あの栞ちゃん?」
「はい?」
「どこから出したの? そ…れ…」
訊ねた時には、重箱はさらに五つに増えていた。
クエスチョンマークが頭の中でリオのカーニバルである。
少なくとも彼は、栞が絵の道具以外を持ってるのを見なかった。
そりゃもう、断じて見なかった。
「ポケットからですよ? なにかおかしいですか?」
おかしいです、とはあまりにおかしすぎて怖いので云えなかった。
「うー、もしかして北川さん、ご迷惑でした?」
「いやいや、そんな事ない。健全なる男子たるもの、女の子が作ってきてくれたお弁当を前にいらないなんて非常識な言葉は吐きません。というか、お腹も減ってたし」
と、すまして云う。
それにしても…
「これ、二人分?」
言外に多すぎないか? と云う意味を込めたつもりだったのだが、相手は全然悟ってくれなかった。
「いえ、一人分です。私のはこっちです」
と、いつの間にか手に持っていた見るからに女の子用といった可愛いお弁当箱を見せる。
その上、
「もしかして、少なかったですか?」
と小首を傾げながら申し訳なさそうに云ってくる始末。
そして、その後には
「いえいえ、そんな事はまったくもってありませんです、はい」
と捲くし立て、いただきますと手を合わせる北川の姿があった。
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