――2月


先日まで葉の落ちた木々を彩っていた白い雪も無くなり、辺りは春を前にした一時の寂寥感をかもし出している。
そんな並木道をテクテクと歩く少女が一人。
まだ寒い風を跳ね返すような暖かげな厚手のセーター。膝上に揺れるチェックのスカート。
そして肩にはお馴染みのストールをかけている。

本人はけっこう気にしている薄い胸の前に抱え込まれているのは、真新しい画板。
右肩からさげている大きな袋には画材一式が仕舞われていた。
大好きな姉から送られた宝物。

さすがにちょっと重いので、立ち止まって一息。
吸い込んだ冷たい空気が肺を満たし、それがとても気持ちいい。

気も新たにステップを踏むように歩き出す。


やがて、並木が途切れ、視界が開ける。
その先には冬だろうと雨だろうと水を噴出し続ける健気な噴水。
広がる広場。
人気のない公園。


「雪がなくなったら、やっぱりちょっと寂しいかな」

小さく口ずさみながら公園を見渡す。
今日はどこを描こうかなと思いながら巡らしていた視線が、不意に留まった。


ベンチにドッカと座り込んで、ボーっと空を見上げる少年が一人。
恐らく自分と同じぐらいの年。一つ二つ上だろうか。高校生だろうとは思うのだが…
誰もいない公園で独り座る少年…ちょっと変な感じだった。
別に待ち合わせをしているようには見えないし、だいたいこんなところで待ち合わせなんかしないだろう。
それに周囲に気を配っている様子もなく、公園への新たな来訪者に気付いた様子もない。

…寒く無いんでしょうか?

暗緑色のジャンパーを着込んでいるものの、この冬空でじっと座っているのは大丈夫なんだろうかと他人事ながら心配になる。
これから自分も同じ様に冬空の下で絵を書こうとしている事に気が付かないのは彼女らしいといえば彼女らしい。

と、不意に彼女は気が付いた。

こ、これはチャンスかも!

何故か急に身を屈め気味にしながらキョロキョロと周りを窺う。
そして、ベンチに座る少年の斜め前らへんに位置するベンチにチョコンと腰掛け、しばし少年の様子を窺った。
相も変わらずボケ―ッと空を眺めている。こちらの存在に気付いた様子はない。
ひょっとして眠っているのかとも疑いそうになったが、どうやら起きているのは間違いない。

うふふふうふー、チャンスですチャンスですー。

傍目から見ればちょっと後ずさりしてしまいかねない不気味な笑いを漏らしながら、彼女はごそごそと画材一式を取り出した。

ううっ、人をモデルにするのはどれだけぶりでしょうか!

姉は昔から。最近知り合いになった先輩と姉の親友も、一度モデルになってくれて以来、幾ら頼んでも引き攣ったような笑みを浮かべながら逃げてしまう。
尤も、実際は昔を懐かしむほど彼等を描いたのは遠い過去ではないのだが、彼女にとっては逃げられれば逃げられるほど、人間を描くのに飢えていたとも云える。

少女は喜々としながら真っ白なキャンバスに絵筆を走らせ始めた。



絶好調とばかりに呆れるほどの早さで白を塗りつぶしていた少女。
視線をチラリチラリと少年に走らせながら、キャンバスに没頭する。

だが、やがて段々と絵筆を滑らせる速度が落ちてきた。

段々と動かない少年に視線を向ける時間が増えてくる。


何を…考えてるんだろう…

単なる絵の情景だった少年。
だが、少女はいつの間にか、身動ぎしない少年の内側が気になりだす。
少年は空を眺めたまま動かない。
始めは、ただ、暇なのかなと思っていたのだが…ずっと見ている内になんとなく違うような気がしてきた。

でも……

それが何か、解からない。


解からないのが気に入らない。


パタン、と手が止まった。

その時だった。

唐突に、少年が空を眺めるのを止めたのは。


落ちた視線が丁度、少女の方に向いた。

「わっわっ!?」

驚き慌てふためく少女。

だが、もっと驚いたのは少年の方だった。

「なっ!? わっ!? ぐぎゃ!!」

思わず跳ね上がり彼は、勢いあまってベンチの裏側に転がり落ちる。


「だ、大丈夫ですか!?」

「痛つつつ、あ、大丈夫大丈夫」

慌てて駆け寄った少女に、後頭部を擦りながら手を振る少年。
差し伸べられた手を取って、立ち上がりながら照れたような苦笑いを浮かべる。

「なはは、いや、吃驚した」

「あの…ごめんなさい」

「ああ、いや、勝手にこっちが驚いただけだし…。しかし我ながら見事に引っくり返ったもんだ。恥ずかしい」

「うふふふふ」

思わず、さっきの光景を思い出し、笑ってしまう少女。
少年の照れたような笑い声が重なって、二人だけの公園に響いた。






「なんだ、じゃあ結構前から居たんだ。参ったなあ、全然気付かなかった」

「ええ、全然気付いてませんでした」

クスクスと漏れ出る笑いに、ポリポリと頭を掻く。

「で? 俺をモデルに絵を描いてたんだ」

「はい…ごめんなさい。勝手に描いちゃって」

「いやあ、モデルにしてもらえるとは光栄の至りって奴だよ。ボーっとしてたのはこっちだし、描かれて文句なんて口が裂けても――」

むいーっと自分の口端を引っ張って、どうやら言いませんと云ってるらしいその仕草に、思わず少女はまたも笑い声を零してしまう。
白く染まった息が、二人の間をゆらりと流れて消えた。


「それで、もう絵の方は描き終わったのかい?」

「え? えーっと、だ、大体は…」

「むふふー、お兄さん見てみたいなぁ」

いったい何を見るんだと、思わずツッコんでしまいそうな怪しい笑みとワキワキとした手の動きを見せながら迫る少年。
少女は躊躇いながらも、自称・自信作をそっと差し出す。

「どれど……れ?」

見た。

否、見てしまった…だ。


そこに在ったのは人外魔境。

何となく、見てしまったら一週間後に死んでしまうという呪われたビデオの話を思い出す。

俺も死ぬのだろうか、と少年はどこか諦観の光を瞳に浮かべながら此処では無いどこか彼方を眺めた。


「あ、あの…どうですか?」

カクンと顎の下がった先に在ったのは、ドキドキした様子で両手を胸の前で組んでこちらを見つめるストールの少女。
そのキラキラと期待に光る眼差しが、プスプスと針のように突き刺さる。

痛い。

なんか痛い。

「あ、あははは、うん。なんというか……独創的な絵だと感想する次第だと思う」

ちょっと錯乱気味のその答えに少女は「え?」とばかりに小首を傾げた。

「独創的ですか……写実主義って最近は独創的って云われるんですかねえ」

「しゃ、写実主義ですか…?」

思わず鸚鵡返しに問い返し、あっさりと「はい」とばかりににこやかな微笑みが返ってきた。

その他意の無い微笑みに、いったい何を云えようか!!

少年は、自分でも良く解からない心の涙を流した。


「ちょ、ちょっと聞くけど、どこかで絵は習ったのかな?」

何気ない質問(いや、少年にとってはそれなりに切羽詰ったモノがあったが)だったのだが、それを聞いた少女の表情は不意に曇った。
いや、曇るというまでもなく、少しだけ影が差したとでも云うべきか。
それは現在進行形の影ではなく、全てを乗り越えたモノを振り返ったような影。

ちょっと、静けさを纏った声で少女は答えた。

「いえ…実はずっと病気をしてたんで…習いたかったんですけどね。でも、全部我流です」

「そ…っか」

少年の言葉が少しだけ詰る。
だが、少年は気を取り直したように頬を緩め、笑みを浮かべると、

「良かったら、俺が教えてあげようか?」

と云った。

「え?」っとばかりにベンチの横に座った少年の顔を振り仰ぐ少女。
少年は照れたようにまた頭を掻きながら、少女の方を見て云う。

「いや、小学校の頃絵画教室に通わされた事があったからさ。まあ、全然人に教えれるもんじゃないんだけど、基礎ぐらいなら覚えてるんで…」

そのしどろもどろの言葉は、ガシッっといきなり両手を握られた事で断ち切られた。

「教えて下さい! 教えて欲しいです! お願いします!」

その押し倒さんばかりの勢いに、目を白黒させてしまう。
慌てて、取り繕うように、

「あっ、で、でも今のまっさらの状態のまんま自由に描いてた方がいいかもよ? 今の作風は誰にも描けない代物だと思うし」

自分で云いながら、そりゃ誰にも描けないだろうなと思う少年。

「で、でも…」

漸く、自分が少年に圧し掛かっている今の状態に気付いて、慌てて下がりながら少女は眼を伏せた。

「やっぱり基礎ぐらいは覚えておきたいです。色んな、色んな絵を描いてみたいですから」

「…うーん、そっか」

何故かは解からないが、色んな絵を描いてみたいという言葉に、何か言い表わせない思いを感じた少年は、普段のニヤリとした笑いとは違う優しげな微笑みを見せ、

「じゃあ教えてあげよう。俺なんかでよければね」

「あ…はい!」

花開くようにニッコリと笑った少女の顔を見て、少年はまたポリポリと頭を掻いた。



「じゃあ……また、三日後、ここで同じ時間…良いかい?」

「はい♪」

「うん、それじゃあまた」

「あっ!? あの!」

手を振って立ち去ろうとした彼に向かって、いまさらの様に大事な事に気が付いた少女は声を張り上げる。

「うん?」

「あの…自己紹介まだでしたよね」

「ありゃ? ホントだ。うがーーっ! 女の子の名前を聞き忘れるとは…いかんぞ、俺ぇ!!」

ガシガシと自分の頭を殴っている少年に向かって、少女は叫んだ。

「私、美坂栞です!」

「えっ!? 何だって!?」

自分を殴っててボケてたのか、それとも丁度吹いた風の音に耳を塞がれたのか、彼は訊き返してくる。だから、彼女はもう一度、笑いながら叫んだ。

「しおりでーす!」

「そっか、しおりちゃんかぁ。可愛い名前だぞー。あ、俺は北川だ。北川潤。よろしくな」

「はい、北川さん♪」








next
章目次へ





inserted by FC2 system