これより始まる最後の戦い。

その前にひとつの物語を語ろう。


その名を失いし少年の物語を






これは光無き幕開け


殺戮者たちの末路


哀れな破滅の物語


























漂うは――

濃密な血の匂い。


流れるは――

鉄錆の味がする空気。


ただ、静寂だけがこの地に沈む。


死の静寂


沈黙に抱かれし、輝く黄金色の髪をなびかせた少年は、紅い空気を心地よさげに吸い込み……ゆっくりと吐息した。


穏やかに……


静やかに……





そこは殺戮の跡

大地より顔を覗かせた岩に座り込む少年。その四方には見渡す限りの惨劇が広がっている。

死屍累々。

視界のすべてを覆い尽くすモノは――
大地のすべてを覆い尽くすモノは――

――骸

かつて人間だったものの残骸だった。



腕が転がっている。
幾つも、幾つも。 刀によって断ち切られた腕が…
力任せに引き抜かれたような腕が…


首が転がっている。
赤い舌を長々と垂れ流し、白目を向いた生首が…
形を保っている首だけでも十を越す数で地面に転がっている。
グロテスクなオブジェの数々。


赤黒く柔らかそうな肉塊が落ちている。
ぶよぶよとした…肉の塊。少し離れた場所で、腹を切り裂かれた死体から千切り取られた内臓の一部が。



頭部を石榴の様に潰し、白い中身を晒すモノ。
輪切りとなった胴体から腸を零れ流しているモノ。
喉元を食い破られ、食道が覗いているモノ。


散らばる悪夢――

潰れた指…薬指
空を睨む眼球…視神経を紐のように後ろに引っ付けた目玉。
剣の破片。
真っ赤にそまった服の切れ端。





生きとし生けるものの気配が絶無の其処は……死界。




この忌わしき世界の創世者こそ…この少年。
金色に輝く髪の毛を血風になびかせ、夜空に浮かぶ月のような黄金の瞳を持った、まだ十七、八の幼い容貌をしたこの少年だった。


だが周囲に漂う死氣は当の少年の身をも飲み込もうとしている。

少年の右眼は抉られた空隙と化し、左腕は根元から断ち切られ白い骨と赤みがかった肉が露出している。
右の太腿には50cmにも及ぶ巨大な刺し傷……剣を突き立てられ、抜きさった傷痕が……筋肉繊維がはみ出した様は正視する事すら耐え難い光景。
そして左脇腹の削り取られたような無残な痕からは、未だに血が流れつづけていた。
これ以外にも無数の斬り傷が身体中に刻まれている。
自分の身体から流れ出た赤い血と、それに数倍する返り血で紅く染まった悪鬼の姿。
生きているのが不思議なくらいの凄惨な姿。

そして何より……
彼の胸部から生える異物……白い鋼の輝きを放つ長剣の刃が柄の位置まで少年の胸へとめり込んでいた。


およそ致命傷に塗れたその身体で…少年はまだ生きていた。

死に至る階梯を昇る最後の時間を…少年は生きていた。






「終った…なあ」

弱弱しい咳とともに喉奥から血塊を溢しながら、少年は月の色をした左瞳を細め乾ききった声で呟いた。

「全部、終ったぜ」

そこに何の感情も見出せず、無常の声音は血風に掻き消えた。

人は彼の所業を虚しいと云うのかもしれない。
意味の無いものだと云うのかもしれない。

そして――
少年はそれを否定するつもりはない。

誰より少年自身がその虚しさを認めていたのだから。

だが、少年は自分のしたことを間違っていたとは思わない。

それだけが、彼に残された灯火だったから……

復讐こそが、すべてを失った少年の成すべき想いなのだったから……


死へと沈みゆくまどろみのなかで少年は記憶を旅する。

もはや決して戻らぬ過去への旅。

闇へと吸い込まれていく意識

そこに虚無と平穏を感じながら…



























魔法戦国群星伝・異聞





< Despair Dead ― 1>








――1年前



人々が行き交う街道より、少し外れた山間にかの村はあった。

生活の匂いが強く漂う家々が並び、村の中央には幾つかの店が並んでいる。
行き交う人々の表情は大概が穏やかで、つまりは平穏且つ平凡などこにでもある少しばかり田舎の村――ここはそんな場所だった。

その村に埋没するそれこそどこにでもあるような一軒家。煙突から煙の棚引くこの家の中から聞こえてきたのは――


ドンガラガッシャーッン!!


という、これまた良くあるドタバタ音。


舞台はかくしてこの家より始まる。







「だいたいあんたはねぇ――」

実に良く言い慣れたセリフなのだろう。その言葉を皮切りにつらつらと澱む事無く浴びせ掛けられる説教。
冷たい床に正座をさせられている哀れな少年は、チラリと視線を上目に向けた。

ピンと伸ばされた人差し指が左右に揺れている。
さらに視線を上げると、キリリと吊り上がった一六、七程度の少女の面差しが見えた。
気の強そうなやや切れ目の眼差しが、さらに凶悪さを増している。
サラサラと腰まで流れる黒髪が、指と合わせるようにユラリユラリと揺れていた。

長いんだよなぁ、こいつの説教。

少年は目の前の少女に気付かれないように、小さく、だが深々と吐息を吐いた。
そんな憂鬱げな彼の面差しは、人によってはひどく魅力的と言っていい容姿を持っていた。
言うなれば、童顔。
柔らかそうな薄茶色の髪の毛と相まって、どちらかというと年上受けしそうな顔つきである。
とはいっても、これでも歳は十七歳。
目の前の少女と同い年の少年期から青年へと入る境目の年代だった。

「ちょっと! 聞いてるのっ?」

「うう、聞いてますよぅ」

降り注ぐ怒声に少年は思わず吐いた吐息を飲み込んだ。
ちょっと泣きそうになりながら、情けない顔で少女を見上げる。
それを見て、少女は呆れたように深々と溜息を吐いた。

少女と少年……まあ、いわゆる典型的な幼馴染だ。
同じ村に生まれ、同じ村に育ち、同じ村で暮らす腐れ縁。
ただ、その関係と言えば、完全に少女が主導権を握っている。
上下関係で言えば、少女が上で、少年が下だった。

「で、でもなあ、俺が悪いのか?」

少年は不満そうに口を尖らせた。
一応、文句ぐらいは言えるだけの権限はあるらしい。
少年は恐る恐る周囲の惨状を見渡しながら、つい先刻の出来事を振り返る。

確かに彼女がわざわざ自分の家に来てまで作ってくれたお菓子をつまみ食いしたのは悪かったような気もするが、お菓子の乗っていたお皿を引っ繰り返して盛大に地面にばら撒いたのは、彼女がオーヴァースローで放り投げた大鍋であって、鍋が俺の頭に当たって跳ね返ったのが悪いと言われると狙ったのはお前だろうと疑問が浮かぶ。


「ああっ!?」


「いえ、なんでもありませんっ!!」

怒声一発。 思わず硬直起立でかしこまって返礼する少年。

連ね連ねた不平不満が一瞬にして消し飛んだ。
マジで怖かった。
でも、女の子がそんなドスの効いた声で「ああ?」はないと思う。まるで極道…

「なにか変な事考えてないかしら?」

「いえ、全く」

「兄ちゃん、ホントに姉さんに頭上がんないね」

やれやれだ、とでも言いたげに笑いを含んだ声が横から飛んで来る。

「うるせっ」

小さく怒鳴ると声の主は首を竦めながらも、ニヤニヤとした笑みを崩そうとはしない。
少年に似た薄茶色の髪の毛が楽しげに振れる。
十を一つ二つ超えたぐらいの幼い少女……少年の妹だ。
少年はちょっと目つきを悪くして妹を睨みつけながらブチブチと呟く。

これじゃあ兄の威厳ってヤツが守れないじゃないか。

「あんたにそんなものがあったためしがあったかしら?」

あっさりと聞きつけ、目元口元を意地悪げに曲げながら云う幼馴染の少女。

「無いのか?」

「あはは、見たことないよ、「あにのいげん」なんて」

「ほら」

得意げに腰に手を当てた幼馴染に向かって、少年の妹が続けてぼそりと呟く。

「でも、おしとやかなお姉というのも見たことないなあ」

うっ、と唸る少女。

「し、失礼ね!」

「とりあえず、説教も反論も後にして片付け手伝ってよね。文句はそれから聞きます。いい?」

ビシッと指差された台所の惨状を前にして、少女と少年は「「はい」」と返事を唱和し、妹から雑巾とチリトリを受け取った。
どうやら一番偉いのは、この一番小さい少女のようだった。




「そういえばさあ」

ぱさぱさと箒で割れた皿の破片を掃いていた妹が呟く。

けっこうマメな性格なのか、妙に真剣にお菓子が零れた床を雑巾で擦っていた少年が、よし終了と呟きながら腰を伸ばして立ち上がり…

「あん? なんだ?」

掃きながら言う妹。

「確か兄ちゃん、今日は出かけるんじゃなかったっけ?」

「「あ…」」

ピシリと硬直する少年と少女。
チリトリで箒を受けていた少女は片手で額を押えながら呆れた様に云う。

「あんたねぇ、大事な用事なんでしょ? なに忘れてんのよ」

「誰の所為だと思ってんだ、おい。だいたいお前だって今『あ…』って――」

 ギロリ

「のーぷろぶれむデス、こまんだぁ」

「カカア天下だねぇ」

 ギロリ

食い千切るような眼光を兄と違ってフイっと首を竦めるだけで受け流した妹は、またパタパタと箒を掃きながら兄に向かって云った。

「ここはやっとくから、早く用意した方がいいよ、兄ちゃん」

「お…悪い」

「そういや、何しに行くの? 街まで出るんでしょ?」

「あーん、ちょっと領主んとこまで書類出しに行けって頼まれたのよ、村長に」

「あのおっさん、なんかやらかしたの?」

「単なる税務がどーたらってヤツだよ。ただ提出しに行くだけだからお前でも出来るだろって…ま、小遣い稼ぎだわ」

「ふーん」

「帰りは明日〜?」

妹が手を止めずに訊ねてくる。

「おう、泊まり」

「そうなの?」

「距離考えろよ」

「まあ、この時間から行ったらそうなるか。あ、変な場所行くんじゃないわよ」

「変な場所ってなんだ……ってお前なぁ」

言いかけてその場所に思い至り、少年は顔を情けなく歪める。
それを見て、妹は一言。

「兄ちゃんにそんな根性あるわけないじゃん」

「そりゃそうね」

「てめぇら……」

まあ実際無いのは明らかなので、恨めしそうに二人を睨みつけるに留める。
そのまま笑う二人を残して少年は自室へと戻った。
昨夜に揃えてあった入用の物をカバンに放り込む。
所詮は一泊二日。大した量ではない。

荷物を背負い、まだ後片付けをしている二人の元に顔を出す。

「んじゃま、行ってくるわ」

はいはい、さっさと行ってらっしゃい、と顔も向けずにパタパタと手を振りかけた少女は、思い出したように振り返る。

「そうだ、折角街まで出るんだからお土産ぐらいは買ってきなさいよ」

「土産ねえ」

あまり乗り気でない答えを返しながら少年は内心ドキリとした。
さり気なく少女の瞳を覗き見る。
別段何かを見透かしたような色は湛えていない。
当たり前だ。彼の意図など彼女は知るよしもない。

多少の小遣い銭をくれるからとはいえ、わざわざ街に出る用事を喜々として引き受けたのは……

「あっ、あたしもお土産欲しー」

うるさい妹は無視。

「あ、そういう態度取る? ひどいなぁ」

プンスカと頬を膨らませた妹は、だがすぐさまそんな表情を引っ込めてニヤリと微笑む。

「でもさ、お姉には買ってきなさいよね、いつも世話ばっかかけて、この甲斐性なし」

小さな親友の後方支援に便乗し、少女に口元を邪悪に吊り上げ言い募る。

「そうそう、いつもお世話になってる私に感謝のプレゼントの一つも渡せないわけ?」

「自分で言うかな、そういうの…」

と言いつつも、仕方無いなといった様子を装いポリポリと頭を掻いた少年はわかりましたと面倒くさそうに呟いた。

「うむ、よろしい」

そういうと少女はニコリと笑った。

別段、いつもと変わりない、でも陽光のような輝かんばかりの笑顔。


とても暖かな……笑顔
















誰が信じるというのだ?


誰が想像できるのだ?


それが最後などと云う事を


彼女の屈託の無い笑顔


普段と変わらぬ溌剌とした笑顔


それが少年の見た最後の日常だったなど


誰が思い描くというのだ?


だが運命に慈悲は無い


呪おうとも

縋ろうとも


それはただ冷厳のままに押し包む
















「ふぃぃ、意外と面倒だったよな」

街の中心に構えられたこの地方を領する貴族の行政所から出てきた少年の顔はゲッソリと疲れを湛えていた。
手続きだの、書類の審査などに少年が思っていた以上の手間隙がかかったのだ。時間がどうのというよりもお堅い役人の相手に精神的に疲れた。
自分以外の誰も行きたがらなかった訳が良く理解できた。

「こりゃ、帰ったら夕方だなぁ」

早朝一番に出向いたものだから、まだ昼前ではあるものの、村までの行程を考えると急いで帰ってもそれぐらいだろう。
夜までには帰りたいものだ、と思いながら街の市をぶらぶらと見て歩く。

「お土産かあ。どうすっかねえ」

土産なら食い物とか、名産品…この街の名物ってところなんだろうけど…

少年は難しい顔をしながら、露天を中心にひやかして回る。
その足が一つの露天の前で止まった。

「……うーん」

少年が見下ろすのは、路上に広げられた小物屋だった。
そういう方面にはとんと疎い少年の目にもなかなか綺麗だと思えるような小物が沢山並んでいる。

「兄ちゃん、プレゼントかなんかかい?」

「うん、まあそんなとこ」

三〇前といったところのそこそこ若い店主が気軽に声を掛けてくる。

「彼女かい?」

少年は答えず苦笑を浮かべる。それを見た店主は一人でウンウンと納得し、手元の小箱から何かを取り出した。
それを見た少年が低く唸る。

「うー、指輪? いや、でも俺それほど持ち合わせないんだわ」

店主が勿体をつけながら取り出したのは、星のように静かに光る銀製の指輪だった。

「ま、そこは交渉次第ってヤツだな。どれほど出せるんだい?」

少年の云った値段に、店主は一瞬苦しそうな顔をするが、どうやら気風のいい性格なのか「ま、いいか」と笑顔を浮かべ

「いいぜ、その値段でさ」

「ホントか?」

「そいつで告白でもするんだろ? ま、男としては応援したくなるってもんさ」

「ぐげ」

真っ赤になる少年に、店主は人が良いんだか悪いんだかかなり分からない笑みを浮かべて見せた。
そのまま、指輪のサイズがどうのと言う話になり、まあこれで大丈夫だろうという結論が出るまでに少年の顔はさらに赤くなっていた。どうやら延々とからかわれたらしい。

「よっしゃ、お買い上げありがとう。おっと、サービスついでに彼女の名前、指輪に刻んでやろうか」

「そんなの出来るのか?」

「別に売るだけが能じゃないんでね。それで、何て刻む?」

少年は少し考えると…店主に向かってその名を告げた。






















太陽が沈みゆく。
焼け爛れた赤い空が、世界を照らす。

「晩飯、残ってるかねえ」

村の入り口に差しかかろうという所で、少年は肩から提げたカバンを抱え直した。
その際に感じた胸のポケットに収めた箱の感触に少年は照れたような困ったような表情を浮かべる。

「参ったなあ。指輪だぜ、指輪……まったく、何て云やいいんだよ」

だが、文句を言うその口元はにやけきり、彼が様々な妄想を繰り広げている事が表に滲み出ていた。
ただ、生来の奥手である彼が、幼馴染の少女への言葉を捜しあぐねているのも確かで……

「ま、なるようになるか」

かなり投げやりな決心をしながら、少年は村へと続く山道を曲がり………


――言葉を失った。






視界を赤が覆い尽くす。

夕焼けの赤に紛れて気がつかなかったのだろうか。

燃え上がる空は、血のように世界を染め上げていた。



「なんだよ…これ」


少年の瞳に映っていたのは、燃えさかる炎。
全てを焼き尽くす煉獄の赤が、少年の薄い茶色の髪に照り返していた。
火の粉舞い落ちる中に呆然と立ち尽くす。


その光景は消えない。

いくら見詰めても――

その光景は変わろうとはしない。



村が…燃えていた。



「なんで……」


呆けたように、繰り返す。
答えはどこからも返ってこない。


彼が生まれ、育ち、暮らしてきた村が……世界が燃え落ちようとしていた。

――悪夢

世界が……消えていく。



一歩、二歩と少年は人形の様にぎこちなく村へと足を踏み入れた。
火の粉が降り注ぐ。
だが、それを熱いとも感じられない。現実が認識できない。

ここは……どこだ?

赤く赤く燃えさかる。
こんな場所は見たことがない……知らない。

どこか、知らない場所に迷い込んだように……

そうだ…ここは俺の村じゃない
俺の村がなんで燃えなきゃいけない
理由なんてないじゃないか……


だから…だからここは俺の……


だが、そんな縋りつくような狂想は一瞬にして消し飛ばされた。
呆然と歩く少年の目にそれは飛び込んできた。

幸いにしてまだ延焼していない家の横に一人の人間が倒れている。
少年は俄かに正気づき、慌てて駆け寄りその人を抱え起こした。

――だが

「お、おっちゃん…」

知り合いだ。良く知っている。
近所で雑貨屋を営んでいた男だ。子供の頃からよく遊んでもらった覚えのある人だ。
だが、彼は何も云わない。云えるはずがない。

死んでいた。

切り開かれた腹から内臓をぶちまけて…。

その非現実的な惨状に吐き気を覚え、思わず後ずさりする。

「…なんだよ…なんだよこれはぁぁぁ!!」

叫べば、咆えればこの悪夢から目が覚めるのだと信じるように、少年は声の限り絶叫した。
だが、火焔は途切れず、悪夢は覚めない。

現実は目の前から立ち去ろうとはしなかった。



そして、今さらのように気が付く。

「…そうだ! 家は!?」

少年は走りだした。自分が更なる悪夢に向かっている事を半ば理解しながら…
微かな、本当に微かな希望に縋るように。

そして――

真の悪夢を其処に見る。



「お、親父…お袋…」

家の前に倒れていたのは、全身を切り刻まれた母親の姿。
その脇で眠るように瞳を閉じて転がっている生首は父親。

少年の瞳から光が消える。

「うそ…だ」

虚ろに呟きながらフラフラと家の中に入り……

「うそだぁぁぁっぁぁぁぁぁ!!」


叫んでも、叫んでも夢は覚めない。

消えてはくれない。


ボロボロと自分を形作る何かが壊れていく。
だが、どれだけ首を振ろうとも目の前の光景は変わろうとはしなかった。

光を失った眼を大きく見開いたまま、物言わぬ妹の姿は消えてくれない。


口うるさく、それでいて自分にべったりとくっついて離れなかった妹。
いつもコロコロと笑い、自分をからかい、それでも優しかった妹。
つい昨日まで、ここで笑っていたのに。
つい昨日まで、ここで楽しそうに笑っていたのに……

何故信じなければならない?

こんな……
こんな……

絶望を――


妹はもう口を開かない。
笑わない。
もう、何も云ってはくれない。


彼女は無残に裸身を晒していた。血の泉に身を横たわせて…。


ヨロヨロと歩みより抱き起こす。
幽かに残った温もりが抜けていくのを押し止めようと一身に抱き締める。

無駄だった。

無駄だった。

消えていく。温もりが消えていく。

どうしても、彼女の生きていた証が消えていくのを止める事はできなかった。

もう、彼女の瞳は何も映そうとはしない。




「う…ううっ…」

その時、奥から呻き声が聞こえた。

少年はハッと顔を上げた。
家族はもういない。だが…

妹の亡骸をそっと寝かせ、声のした部屋に向かって歩く。地に足がつかない。

雲の上を歩くような、あやふやな感触。

崩れそうになりながら、踏みしめ、歩き、そこに至った。




白い――

ただひたすらにそれは白い――


――炎の赤
――夕焼けの朱
――血の紅

少年が紛れ込んだ、赤き悪夢の世界の中で、それは幻想のように白かった。



雪の様に白い裸身。
それは幼馴染の少女の姿。


「いやだ…こんな…こんな…こんな」


止めなければ永遠に繰り返されて行くであろう虚ろな叫び。
だが、その連環は途切れる。
閉じられていた少女の瞼が開き、少年の方を見た。

生きて……いた。

彼女はまだ…生きていた。


まだ……


「よ…かった…無事…だったのね」

慌てて駆け寄った少年の姿に、一言一言搾り出すように言葉を紡ぐ少女、この状況で彼女は笑みを浮かべて見せた。

天使のような優しい笑み。

でも少年が見たことのない…活発だった、傍若無人だった少女が見せた事のない透明な笑み。

少年は少女の傍らに寄り、その頬に震える手をそっと添える。そして絶望の表情を浮かべた。

彼女の背に突き立てられた一本の剣を見て。

自分の居る地面が崩れ落ちるような感覚…奈落へと落ちていく…

「きさ…と…は?」

少女は少年の妹の名を尋ね、彼の表情を見て全てを悟った。

「ごめん…ごめんね…いっしょう…けんめい…まも…ろうと…したん…だけど」

少年は彼女を抱き締め、ブンブンと首を振った。
何故か、今まで一滴も流れ出ようとしなかった涙が……溢れ出す。
止め処なく、流れ出す。

その瞬間、少年は悟った。

認めてしまったのだと。

自分がこの悪夢を、現実と認めてしまったのだと。

村が焼けて行く事を――
知り合いが皆殺しにされた事を―――
両親が、妹が死んでしまった事を――

そして…

そして…


この最愛の少女もまた……


なんで…なんでこんな…こんな

零れていく。

日常が、幸福が、少女の命が…



コトリ…と音を立てて少年の懐から何かが落ちた。


転がる小箱。
それはもう消え去ろうとしている未来の残滓。
少年は怯えたようにそれを拾い上げた。
それは儚い抵抗だったのかもしれない。
だが少年は幸福だった日常を縋りつくように求めた。

「これ…買ってきたんだ! お前にプレゼントしようって!」

少年は泣きながら小箱を、開いて見せる。
内に納められたのは、小さな指輪。
天を彩る星のように輝く銀の指輪。

少女の眼が細められる。
それはいつも、少女が少年を見つめる時の表情。
楽しくて仕方ないというような、悪戯っぽい表情に。
そして、苦しい吐息の中から普段通りの口調で言う。

「指輪? バカ…ね…それじゃ…まるで…プロポーズ…みたいじゃない?」

そんなつもりは毛頭無かった。
プロポーズなんて大それた事をするつもりなんてなかった。
ただ、奥手の自分を奮い立たせるためのモノ。
少女に想いを告白するための小さなアイテム。

だが、

「そうだ」

少年は躊躇う事無く断言した。

そして、それは今の彼の本心。紛れもない心
少女が透明な笑みを深くする。そして小さく、だがはっきりと呟いた。

「ありがとう、大好きよ」

「俺もっ…俺もっっ」



「でも…ごめんね」



少年は唇を震わせ、瞼を震わせながら少女の微笑みを凝視する。

それは断りの言葉。
それが意味するのは……。

少女はこの時、初めて涙を零した。

雫が…静かに頬をすべる。

信じたくなかった。自分が想いを告げるという場面が、こんな悪夢の中でだなんて。
いつもいっしょにいた少女が、今自分のことを好きだといってくれた少女が、もうすぐ…もうすぐいなくなってしまうなんて。

少女は動かない手を必死にあげると、優しく少年の涙を拭った。

「もう…そんな…酷い…顔…しないの」

「無茶…言うなよ」

細く白い少女の指先を、少年の涙が途切れる事無く伝っていく。
その少女の手を少年は自分の手のひらで包んだ。

「…あったかい」

少女は嬉しそうにその手を引き寄せ、自分の頬に当てた。
少女の涙が、少年の手を濡らして行く。

決して離れないとでもいいたげに、少女は少年の手を強く握った。
今、生きているその力のすべてを込めるように。
涙が零れる。
手が震える。

そのまま永劫のような数瞬が過ぎる。


だが、永遠なんてそこにはなかった。



少女の手から力が抜ける。

「おね…がいが…ある…だけど」


「…なんだ?」

嗚咽を堪えながら無理やり優しい笑顔を浮かべて見せる。
辛かった。笑顔を作るのが、彼女の透き通った笑みを見るのが。
でも、それ以外何も出来なかった。

何も…出来なかった。



彼女は吐息を絡め、静かに囁く。

「私の…さいごのおねがい」

すっと少女の空いた方の手が少年の首へとまわる。
フワリと少女の顔が視界一杯に広がった。



「い…きて…ね……いき…ぬいて…ね」



苦しげな、そして万感の想いを込めた囁き。
靄が掛かったように何も見えなくなる。何も考えられなくなる。

その中で、少年は仄かな彼女の温もりを唇に感じた。



幻想のようなそれは――別れの口づけ。

初めてのキスは血の味がした。


少女は焼きつける――刻み込む。

涙に塗れた顔で呆然とする、自分が愛する少年の顔を。
少女は自分が生きた十数年の生涯の最後の映像として魂に刻み込んだ。


「いやだ…やめろ…」


瞳がゆっくりと閉じていく。永久に開かぬ深遠の彼方に。


「やめてくれ…お願いだから…お願いだから……逝かないでくれぇぇぇぇぇ!!」


最後に、微笑みを象る唇から、別れが零れ落ちた。


「さようなら…――」






コトリ、と寂しい音が響く。


「あ…ああ……」



未来が永劫に閉ざされた音。



「あああああああ―――――――――ッッ!!」



すべてが炎に包まれて行く。

過去も――

現在も――

未来までも――



すべてが灰と化していく。



ただ孤独に響き渡る狂乱の叫び。

途切れる事無く溢れ続ける苦痛の叫び。

何もかもが焼き尽くされ、この地上から消え去ってしまうその時まで――


血涙は途絶えず―――流れ続ける


心が壊れるその時まで―――





















これが、物語のはじまり


長い、長い物語の……


絶える事無き絶望の――はじまり












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