パチリと開く瞼。
同時に大きく肺腑に流れ込む空気。身体の隅々に血が行き渡り、気だるさの欠片も感じない、そんな爽やかな寝起き。

そんな風にして、姫川琴音は長く深き眠りより覚醒した。

その目覚めはあまりにも自然すぎて、琴音自身いつもの朝と勘違いしかけてしまう。
なまじ身体が鈍っていないだけに性質が悪い。いや、むしろ体調的には睡眠より良好な回復を見せているかもしれない。
前回、約半月の昏睡から目覚めたのち、来栖川芹香に訊ねたことがある。長期間の昏睡を経た場合、筋力など肉体的に劣化する部分が多々あるはずなのに、目覚めたその直後から何らの不具合も無く自由に動けた。芹香によれば、自分の眠りは冬眠、もしくは仮死状態に近いものらしい。心拍数の低下、新陳代謝の停滞。この間、水分・栄養の補給は必要なく、排泄もしない。やや途方も無い話だが、肉体時間が停滞、もしくは停止している可能性すらあるという。
言ってしまえば、眠っている間は歳をとっていないというわけだ。

「…………」
「あ、はい、おはようございます」

瞼を開けても視界は暗く、一瞬視力に支障をきたしているのかと勘違いしかけたが、どうやら寝かされていたこの場所の光源が数本の蝋燭だけだからだったようだ。
傍らには、もしかしたら寝ている間ずっと自分を見守っていた、もしくは観察していたのではないかと思ってしまうほど、自然な様子で来栖川芹香が此方を見つめていた。
その記憶と変わらぬ姿に、琴音は思わず安堵の吐息を漏らす。
昏睡から目覚める時ほど恐ろしいモノは無い。もしかしたら、目を覚ましたら数十年が過ぎていた、なんて事だって最悪想像できるのだから。少なくとも、そういう事態にだけはなっていないようだった。

……いえ、あながち安心できないかも。

不意に琴音は不安を過ぎらせた。この芹香という人は、百年ほど過ぎてても同じような姿かたちで平然と「おはようございます」なんて言ってしまうそうだから。

「あ、あの……わたし、どれぐらい寝てました」

芹香は少し不思議そうに小首を傾げ、三ヶ月少々だ、と答えた。

「三ヶ月、ですか」

今度こそ、琴音は深々と吐息を漏らした。それが安堵か不安か、自分でも解からない。以前、芹香の実験に付き合って昏睡状態に陥ってしまった時には半月の眠りだった。そのことを考えると、期間が長くなっているのはどう受け止めたらいいのだろうか。
だが、それよりも気になることが一つ。

「こうして、わたしが無事に起きれたということは、戦いは此方の勝ちで終わったんですね」
「(ええ、みなさん無事に帰ってきましたよ)」
「…良かった。それで? わたしが眠っている間にみんなに変わりは? なにかありました?」
「(変わりという程の変わりも無く、あるといえばあるのでしょうね。時ともに人は移り変わります。それがどれほど短い時でも。確かめるにはやはり自らの目が一番だと思います)」
「そう、ですね」

コクリと頷き琴音は、芹香の手を借り、およそ三ヶ月ぶりに自らの足で立ち上がった。
そのまま手を引かれ、暗闇に包まれた部屋の中から外に出る。
身体を突き抜けるような光が、視界一杯に広がっていく。
眩しさに手をかざしながら、琴音は目を細めた。

「今日も、いい天気です」




















魔法戦国群星伝



< epilogue 2 あしたはきっと、晴れだから >








――――第二次魔王大乱終結から三ヵ月後。







東鳩帝国 港町 北風





時にまどろみを誘い、時に悠久を感じさせる漣の音色。
鼻孔を擽る潮の匂いが、否応無く海の気配を漂わせる。
東鳩帝国有数の港町であるここは北風。
その港の入り口付近で、ギラギラと天で輝く太陽の下、藤田浩之は大きく両手を広げ背筋を伸ばす。

「くぁぁ! こうも暑いと海にでも飛び込みたいぜ」
「浩之ちゃん、水着持ってきた?」
「ねぇよ、そんなもん。あのなぁ、泳ぎに来たんじゃないんだぜ、あかり」

浩之は脱力しながら傍らで無邪気に声を弾ませる幼馴染の赤毛を見下ろした。
こうして長閑に笑う神岸あかりはどう見ても人畜無害で、これが戦場では鮮血将軍として恐れられているとは藤田浩之にも信じられない時がある。
こういう平和な時は本当にそう思う。

「暑いなら、その黒尽くめなんとかしなさいよ」

あかりの反対側でパタパタと手のひらをはためかせていた来栖川綾香が見るのも嫌という風に浩之の服装を非難した。
浩之の姿は飾り気の無い漆黒の上下。流石に外套は身につけていないものの、見るからに暑苦しい。使っている布自体は非常に高価で通気性は高いのだが、色がすべてを台無しにしてしまっている。
対照的に綾香の姿は白の麻布の半袖に、カットタイプの青いパンツ。帝国最大の公爵家当主の衣裳としてはあまりにラフな姿である。
言われた浩之もややウンザリしながらも反論した。

「マルチがなぁ、黒ばっかり用意するんだ。仕方ねぇだろ」
「マルチちゃんのはアレだね。コロッケが好きだって言ったら毎日コロッケが続くのと一緒の」
「変えさせればいいのに」
「あれで押しが強いというか口を挟めないというか…とにかくダメなんだ」

クスクスと楽しげに笑うあかりに、やれやれと肩を竦める綾香。
浩之はそんな彼女らに苦笑を浮かべ、二人を促しつつ港の奥へと足を進めた。


「ほう…こりゃすげえな」

一目するなり、浩之は思わず感嘆の言葉を発する。後ろの綾香とあかりは言葉もなくあんぐりと口をあけていた。
港にあるものといえば『船』。だが、桟橋の向こうに浮かんでいるその船の大きさたるや彼女らが知るものの優に三倍近くはあるように見えた。
仰ぎ見るが如くという言葉が至極当てはまる。

「あっ、来たね、へーか」

首が痛くなるほど上を見上げながら近づいてくる浩之達に気付いたのか、船が停泊する桟橋で談笑していた三人の女性のうちの一人がパタパタと手を振っていた。
彼女らの姿を見て、綾香の表情が少し強張る。
そんな幽かな仕草に気が付くことも無く、浩之はスタスタと彼女らに声をかけた。

「よう、吉井。なんだ、いいんちょに坂下も来てたのか」
「来てたんかって、なんちゅう言い草や。見たい言うから呼んだったんは私なんやけどな」

笑っているのか怒っているのかイマイチ分かり難い表情で、保科智子が皮肉げに言う。
それを適当にいなし、浩之は坂下の方に顔を向けた。

「よう、久しぶりだな。怪我はもういいのか?」
「いつの話だ、まったく。まあ、互いに色々飛び回ってたからな、顔を合わせるのはお前が見舞いに来てくれたとき以来だから仕方ないか」

坂下好恵…現在は東鳩帝国総軍統旗司の身の上だ。分かりやすく言うならば、帝国軍の全実戦部隊、その最高司令官である。
東鳩帝国は今後の方針として各諸侯が未だ所有している軍勢所有権を徐々に没収していき、最終的に全軍権を帝国そのものに統括させようとしている。
その布石として、皇帝を除いて、軍の最高責任者だった保科智子は完全に前線指揮から退き、この度発足した帝国水軍と帝国軍、すなわち帝国水陸軍の統合戦略部統領へと就任した(カノン皇国、御音共和国との共同軍事指導部『大本営』との連携・連結も念頭に置いている)。
その智子の変わりに帝国軍の最高司令官として坂下は就任したのだ。無論、その多忙さは目まぐるしく、とても個人的な修錬に時間を費やしている暇はない。怪我より復帰した後も、坂下好恵はもう拳を握る事はなかった。
そして、その件に関してまだ少し、来栖川綾香との間にわだかまりが残っている。

いつの間にか、傍らにいたはずの綾香の姿が消えていた。

「あれ? 綾香は?」
「……顔を合わせたくないんだろうな」
「なに? 喧嘩…のわりにはいつもとなんか違うね」

事情を知らない吉井が不思議そうに訊ねる。彼女らの喧嘩は日常茶飯事なのだが、それはいつも直接的でこんな風に顔を突き合せないという状況は珍しいからだ。
訝る彼女に、坂下は幽かに寂しげに微笑んだ。

「まあ。ちょっと、気まずくてね」
「すぐにまたいつもみたいになれるよ。なんだかんだ言っても綾香さんってサバサバしてるし、いつまでも拘らない人だからね」
「うん」

あかりの言葉は何より坂下自身が分かっている事だけど、そうやって改めて口にしてくれる事はありがたかった。


「しかし吉井よ、えらいもん造ったな」

少し沈みかけた空気をとりなすように、浩之は本来の目的であるこの大きな帆船を見上げ、声を張り上げる。
東鳩帝国水軍の新設外洋府統領 吉井史歌は大きく頷いて見せた。

「うーん、私が造ったんじゃないけどねぇ。でも、こいつは凄いよ」

自分が造ったんじゃないと言いつつ、吉井史歌は自分の子供を自慢するみたく満面の笑みを絶やさない。

「グエンディーナ大陸初の航洋型戦列艦『御影』とそのシスターズ。火焔砲(フランメン・カノーネ)を両舷に二十門ずつ搭載! 大きさは他国のと比べてもさほどじゃないんだけど、その快速性能と小回りの良さはずば抜けてる。柔よく剛を制すってね。合気道みたいなもんかしら。ともかく、この『御影』なら『ローエンブルグ』級や『テレジア』級、それどころか『ロード・エンパイア』級や『崑崙』型にも負けないよ」

他国の最新鋭戦船の名前を並べ立て、吉井はそれら世界の海を踏破する船たちにも負けないのだと力説した。

「一応、全艦艇に『エニグマ』を載せてるから、艦隊戦でもそうそう負けないかなあ。まあ、それは修錬次第だけど。しかしまあ、これで今建造中って話のカノンの『雪風』や御音の『甲鉄』なんかも加われば、外洋に乗り出しても充分対抗できるんじゃない?
そういや、水軍の連携についてはどうなってるの?」
「聯合艦隊計画か? それやったら大本営で協議入ったとこや。まあ、一年二年程度で纏まらんと思うといてえな」
「それは最初から判ってる。この船だって竣工したばっかりで運用始めるのまだ半年以上かかるだろうし」
「ふーん、出来たからってすぐに動かせれるわけじゃ―――」

――ないのか、と初めて知る知識に感嘆混じりに言いかけた浩之であったが、その続きはいきなり轟いた耳をつんざく炸裂音に掻き消された。

「な、なに!?」
「なんや、いったいなにごとや!?」

港湾の奥のほうに盛大に吹き上がる水柱。
どうやら『御影』に備え付けられた大砲の一門が、砲弾をぶっ放したらしい。
耳を劈くような轟音に眼を白黒させている坂下と智子を他所に、あかりが浩之の裾を引っ張って『御影』の方を指差した。

「ねぇ、浩之ちゃん。なんか聞き覚えのある声しない?」
「ああ?」

いきなり怒声やら混乱の入り混じった喧騒を帯び始めた『御影』の方から「AHHHH,Let's hanting time!!」
そして再び別の大砲から轟く砲声。

「あ、ハンターモード・レミィや」
「ああああああ! レミィィィ! わたしの『御影』を勝手に弄くらないでぇぇ!!」

悲鳴をあげながら船のほうに駆け出していく吉井史歌を呆然と見送り、浩之は小さく嘆息した。

「やれやれ」


東鳩帝国を筆頭とするグエンディーナ三華三国の怒涛の如き海外への進出――俗に言う『三華大洋奔流期』の始まりはもうすぐそこに……。
そして、やがて訪れる『パクス・グエンディーナ』、その開幕の鐘の音もまた、この大盟約世界へと響き出そうとしていた。






「なんだか、向こうがうるさいね」

せっかく気分良く潮風に当たっていたのに、と波止場から海を眺めていた上泉伊世は不機嫌そうに港の奥のほうを睨みつけた。

「港は喧騒に満ちててこそ港だでよ、そう目くじら立てるなや。小皺が増えるが」
「寛容もまた美徳であられるぞ、上泉師」

独り言のつもりだったので、背後から帰ってきた声に、伊世は驚いた。いや、それだけではない。その声、えらく聞き覚えがあったのだ。
彼女にしては珍しく飛び退くように振り返り、伊世はギョッと双眸を見開いた。

「なっ、なにしてるのさ、あんたたち」

港町には良く見かける露天の酒場。その樽を引っ繰り返しただけというぞんざいな座席で、当たり前のように昼間から酒を嗜んでいる男が二人。
一人は150cmほどの小柄な禿頭の老人。徳利を片手に洒落にならないほど邪まな笑みを浮かべている。
その対面でお猪口を傾けているもう一人の男。薄汚れた編笠姿のその奥にはホンノリと酔いの回った深緑の肌が覗いている。その額には銀色の第三の眼が。
片や来栖川綾香や柏木耕一の拳の師であり、女剣客 上泉伊世の元旦那である【神掌】疋田千十朗。
片や元ガディム配下の魔剣士【三眼凄葬鬼(トライアングル・ディザスター)】アナンタ・ナラ・シュヴェーダ。
ちょっと、絶句しかねない組み合わせ。

「おみゃぁがユーリカの方に渡るいうて小耳に挟んでよ、久々に付き合おうかと思うて此処で待っとったんだわ」
「あのまま魔界に戻るのも詰まらなく、しばし此方の世界を見聞しようと思い立ち、彷徨っていたところを疋田師とめぐり合った次第でござる。またこれも縁…ヒック」
「あんたらねぇ」
「だはは、痛快三匹が行く・海外編ってな感じでどうでよ?」
「海外と申されても、拙者、既にこの地も異国でござる…ヒック」
「ヒャヒャ、そうかいそうかい、まあ呑みねぇ」
「かたじけない…ヒック」

酔いどれ二人の参上に、上泉伊世は頭痛を感じて額を押さえた。
どうやら刀一本流離の旅、今回はやっかいなオマケがついてきそうな気配である。







翻って、上役たちが出払っている帝都では……


「はい、マルチちゃん、この書類を内務方の方に出して。で、こっちの書類が憲兵総務、こっちのは評定方ね。あ、これは金座の事務方にお願いね」
「は、はい〜。はぅぅ、これが内務方で、こっちが憲兵で、こっちが評定で……はぅぅ」
「岡田さん、兵站所に提出する書類のサイン、全部終わりました?」
「も、もうちょっとだから急かさないでッ。腕が、腕がぁぁ」
「矢島さん、機動騎士団の装備予算の概算要求計算早く終わらしてください。後が詰まってるんですぅ!」
「分かってる、分かってるけどさ、雛山さん。なんでこんなの俺がやってるんだよ、こういうのは騎士団長の仕事じゃないだろうが」
「暇そうにうろついてるところをわたしに見つかっちゃったんだから諦めてください! ああ、岡田さん、寝ないでくださぁぁい」
「ひぇぇん」

貧乏暇なしとばかりにワーカーホリック気味の雛山理緒嬢に付き合わされ、撃沈者多数発生中。
帝都の方は忙しいみたいです。




一方、こんな人たちも。


「あのなあ、お嬢ちゃん。儂、これでも偉いのよ。その儂に覗きをやれっちゅうんかい?」
「覗き、好きなくせに」
「なんか言うたか?」
「言うてない言うてない。あのね、カゲロヒ爺ちゃん。あたしが言ってるのは覗きじゃなくて取材。取材なの」
「アポも取らずに勝手に忍び込んで情報掻き集めろって、それ取材なのかなあ」

横で聞くとも無しに長岡志保とカゲロヒの会話を聞いていた佐藤雅史が不思議そうに呟く。
それをグワッと睨みつけ、志保は使命感の篭もった声を張り上げる。

「これから新聞という新しい事業を立ち上げようっていうのに、妥協はいらないのよ。多少の犯罪行為なんて構わないんだから。要るのはゴシップネタただ一つ」
「方向性がかなり間違ってるような気がする。だいたい、志保は公権側の人間のクセにいいのかな」
「帝国機関紙だからいいの!」
「その割に、目標が低俗じゃの。普通、情報を載せるならもっと政治的な内容なのじゃないか」
「まあ、志保だしね」
「なによそれ、どういう意味!?」

雅史とカゲロヒは顔を見合わせ、やれやれと肩を竦めた。


グエンディーナ大陸初の新聞事業、突き詰めればこれが始まりであったりする。








東鳩帝国 降山 鶴来屋本店






柏木耕一が意外と大した商才の持ち主であるという事は、あまり知られていない事実である。
実際、彼は鶴来屋の幹部として鶴来屋の真の屋台骨である足立社長の右腕となって活躍している。
だが、彼がまだ若く、また店一番の力持ち&頼まれごとを気安く受け付けてくれる性格と相まって、肉体労働系の雑用を承る事も多々ある訳で。

今、こうして厨房用の薪の束を運んでいるのも、そうした雑用の一環であった。

「はい、バルトーくん」

厨房脇の薪置き場に踏み入ろうとした瞬間、耕一は聞き覚えのある声に足を止めて振り返った。
ちょうど、厨房の裏口に消えていく柏木初音の後姿が見える。どうやら、此方には気付かなかったらしい。彼女の性格からして、此方を見つければ嬉しそうに声をかけてくれるはずだ。
と、彼女の後姿を追っていたその視界の端に見慣れないものがあることに気が付き、耕一は視線を其方に向けた。

「…あれ? うちって犬飼ってたっけか」

そこでは、初音が持ってきたのだろう皿に一杯に盛られた、なにやら耕一から見てもなかなかに美味しそうな賄飯のようなものにがっついている銀色の大きな犬がいた。
あんまり美味しそうに食べているので、思わずじっと見ていたら、視線に気付いたのか、犬は食べるのをやめて此方を見た。

なにやら、えらく犬が動揺したように見えたのは気のせいだろうか。
犬は、チラチラと此方の様子を窺いながら、それまでのがっつくような食べ方から、随分と上品さ漂う食べ方で、もそもそと賄飯を食べ始める。
さっきの方が美味そうだったのに、と耕一はなにかがっかりした気分になり、溜息を漏らす。
と、その瞬間、その銀色の犬がクワッと顔をあげ、耕一を怒鳴りつけた。

「な、なんだ貴様、さっきからジロジロとッ。おまけに溜息なぞつきおって!」
「わっ、犬が喋った!?」
「い、犬だと!? よりにもよって私を犬だとほざくか、貴様」

犬が牙を剥いて怒りを露わにする。

「あ、いや、その怒らせたんだったらごめん」

思いのほか素直に謝った耕一に、それ以上唸るのも大人気ないと思ったのか、犬はフンと鼻を鳴らし、教授するように言った。

「ふん、分かればいい。ちなみに私は誇り高き神狼族だ。犬などと間違えてくれないで欲しいな」
「あ、狼。うん、ごめんごめん。で、なんでその神狼族がうちの店の裏側で御飯食べてるんだ?」

それは悪意無き問いかけであったのだが、狼は思いのほか動揺し、あうあうと言葉を失う。
と、側面から触れれば切り刻まれそうな、鋭い解説の声が飛んできた。

「初音に頼まれて、今朝届いた食材の番をしていたそうです。御飯はそのお礼という訳ですね……言ってしまえば、まるっきり番犬」

ガーンッ、と側頭部を殴られたようによろめく狼。
耕一は、ちょっとびっくりしながら声のした方を振り返った。

「あ、楓ちゃん」
「お仕事ごくろうさまです、耕一さん」

鶴来屋の女性用制服を着こなし、帳面を片手に持った柏木楓がチョコンと頭をさげた。

「そちらのお仕事が一段落したらお昼ご一緒しませんか? 今日は梓姉さんが作ってくれるらしいので。千鶴姉さんも午前の仕事が片付いたら来るそうですし……片付いたらですけど」
「あはは、そ、そうだね、うん、一緒に食べよう」

最後のえらく冷たい声音は聞かなかったことにして、耕一はウンウンと首を上下に動かした。

一方、狼さんの方は……。

「ば、番犬。私が番犬? 言われてみれば、確かにその通りのような気も……。い、いや、魔界に名を馳せた誇り高き神狼族の私が番犬なぞと……」
「あ、バルトーくんバルトーくん、後で布地とか買出しに行くんだけど、一緒についてきてくれないかな」
「うむ、承知した」

突如、厨房裏口から顔を覗かせて無邪気に頼んでくる初音に、即座に了承を返す狼。

「……やっぱり犬」
「ハッ!?」

あ、耕一お兄ちゃん! と、喜声をあげる初音に対応しながら、耕一は鋭利な楓の言葉と、今度は頭をハンマーで叩かれたみたいに倒れ伏す狼に、なんともいえない笑みを浮かべた。



しかし、こいつらさっさと魔界に帰れよな。














御音共和国首都中崎 郊外式場




その祝い事に集まった人々の数は、さほどのものでもない。恐らく、二十人は越えていないだろう。
それは親しい身内だけのささやかな宴席だった。だが、此処に集まった面々を見れば、誰しもがその面子に恐れをなすだろう。
およそ、御音共和国を形成する重要人物のほぼ全員が中崎の郊外にあるこの小さな会場に揃っていたのだから。
もし、ここで悪性の食中毒でも起こって、参加者全員が倒れれば、御音共和国の国家機能は完全に停止するだろう。
……いや、そうなってもまず一人だけ大丈夫そうな人がいました。

『まだ食べちゃだめなの!』
「えー、味見だよ、澪ちゃん」
『ダメ! なの!』
「うー、ケチケチしないしない」
「こらっ、みさき!!」

健気にもテーブルに並べられた料理を固守している上月澪に、今にも襲い掛からんとしていた川名みさきは、背後から頭をポカリとやられ、悲鳴をあげた。

「雪ちゃーん、せっかく髪結わえてるのにヤメてよー」
「だったら食い意地漲らすのもほどほどにしなさい。だいたいね、ドレス汚れちゃうでしょうが」
「そんな勿体無いことしないよ」

自慢げに胸をそらす幼馴染に、深山雪見は深深と嘆息した。

「食べるのは後。メインイベントが終わってから。分かったわね」
「はーい」
『お寿司、楽しみなの』

会場の一角で、こうしてある意味いつもと変わらぬ会話を交わす彼女らの姿は、普段とはまったく違った着飾りを見せている。
卸したてのドレスに身を包み、化粧を施した雪見とみさきの容貌はどこぞの貴族の令嬢のようで。澪もまた、可愛らしいドレスで彼女なりの魅力を満開にしていた。
このように、ざわざわと談笑の広がる会場にいる者たちのすべてが、正装ともいうべき衣装を身に纏っている。

「う、うふふ。ここよ、ここで乙女をあげるのよ」
「……用法がなんか違うわよ、あんた」

見るからに勝負服、と云った風情の豪奢なドレスを纏い、不敵にほくそえむ七瀬留美を、此方はシンプルに、だが落ち着いた雰囲気のドレスを着こなした広瀬真希が諦めの篭もる溜息をもらす。
広瀬から見れば、七瀬の努力は顔だけをそちらに向けながら明後日の方角に全力疾走しているようにしか見えない。それを半ば傍観しているのは無駄だと思っているのか、それとも面白がっているのか、広瀬は自分でもよくわからなかった。 どちらにせよ、彼女の暴走が原因で巻き起こされる騒動の後始末をするのは自分であり、その事に関してはさほど嫌ではないという事は確かである。

「どうでもいいけどさ、今日の主賓はあの二人なんだから変なことして目立っちゃダメよ」
「…変なことって何よ」
「そうね。会場中のテーブルを一撃で粉砕しながら鼻から牛乳を一気呑みした挙句に勝利の雄叫びをあげるとか」
「あ、あげるかぁっ!! くぅぅ、真希ぃ、あんた言うことが折原に似てきたわよ」
「……それは激しく嫌ね」

本気で嫌そうな顔をしながら、広瀬は今回のために設置した雛壇の上でカチコチに固まっている少年を振り仰ぐ。

「しっかしま、今日は大人しいもんね、折原のヤツ」
「どうせ柄にも無く緊張してるんでしょ」

素っ気無く言う七瀬の言通り、雛壇の上で直立不動のまま硬直している折原浩平の姿に普段の傍若無人さは欠片も残っていなかった。正装でそうして黙って立っていると、割と好青年風に見て取れない事も無い事は、下から彼の様子をほくそえみながら見上げている悪友たちにとっても意外の一言だった。

その時、喧騒を黙らせるようにして、会場のドアが開かれた。誘われるように振り返った面々は一様に言葉を失い、ただ感嘆の溜息だけを表に出した。

「…瑞佳、綺麗」

七瀬がうっとりと呟く。
そこには、今日のメインヒロインである長森瑞佳が、光を纏って立っていた。

「お、折原め、マヂで果報者じゃねえか、畜生羨ましいぃぃ」
「おーい、まもちゃん。あたしじゃ物足りないってことかな、それはぁ」
「なんでそうなる佐織さん。ってか、オレとお前ってそういう関係だったの?」
「あっ、あんな恥ずかしい事までさせといてそういう事言う口はその口かッその口かッ!」
「ふ、ふがふがいふぁいいふぁい」

じゃれ合う稲木佐織と住井護のすぐ後ろで、

「恥ずかしい事…恥ずかしい事。あーんなことや、こんなこと、おうデリシャスッ」

南明義が妙に鼻息を荒くして興奮していた。


と、まあ一部の喧騒をさておき。どこか満天の星空を連想させる白のウェディングドレスを身に纏った長森瑞佳が、小坂由起子に手をひかれて会場へと静々と入ってくる。
彼女たちの後ろから、チョコチョコと付いて行く椎名繭の自慢げな笑顔が、どこか夢をみているみたいに呆然と瑞佳を見送っていたみんなの意識を現実へと引き戻していった。
そして、長森瑞佳はそっと由起子の手を離れ、直立不動で立っている浩平に寄り添うように足を止め、彼の顔を見上げる。

「浩平?」
「あ、ああ」

最後まで呆然としていた浩平は、いつもと変わらぬ瑞佳の口調にやっとの思いで声をひねり出す。

「ず、随分と大化けしたな。お前だって分かってるのに、どうしても姿と名前が一致しなかったぞ」
「うふふ、ありがと、浩平」

それが彼なりの最高の賛辞だと分かっている瑞佳は、その優しさに満ち溢れた笑みを浩平に投げかける。自然と真っ赤になる浩平の顔。下から茶化すように口笛が吹かれる。
それらを歯をむき出して威嚇する浩平を、傍らでニコニコと上機嫌で見守っていた由起子が笑顔のままドツキ倒す。

「ほら、莫迦やってないでやることさっさとやんなさい」
「ゆ、由起子さん。もうちょっとムードってもんをさ……」
「うるさいなあ、コイツは。元からそんなものちっとも考えやしないくせに。私は嬉しいの。嬉しくてたまんないのッ。瑞佳ちゃんとあんた。あの小さかったあんたたちが……ねぇ。私の最愛の娘と、小憎たらっしいけど可愛い甥っ子が、とうとう…結婚してくれるっていうんだから。だからさっさとやってやって」

ドンと背中を押され、浩平はよろめきながら改めて瑞佳の前に立った。
コホンと咳払いし、期待に満ちた周囲の視線をギロリと睨みつけて牽制し、改めて瑞佳の顔を覗き込む。

「あー、なんだ。うん、その…な?」
「「な? じゃねー!! さっさとしろぉ!」」
「うるせぇ! 外野は黙ってろ!」

もう際限なく顔を真っ赤に染め上げてあたふたと落ち着かない浩平を、瑞佳は特に急かす事無く我が子の頑張りを見守るような眼差しを向けたままじっと待つ。
いつだって、こんな時にさえそんな風に見つめてくる彼女に、だからこそ浩平は頭があがらない。多分、一生あがらない。
折原浩平は大きく息を吸い込むと、愛すべき少女への言葉を告げた。

「瑞佳、その…これからも、ずっと…俺の面倒、頼むな」
「勿論だよ、わたしの浩平」

二人の影がそっと、重なる。

合わせて、爆発するような喚声が巻き起こった。






儀式が宴会へと移行し、ようやく緊張から解かれた浩平は、喉元を緩めながら椅子に座り込んだ。

「ふいー、肩凝った」
「ごくろうさま。はい、お水」
「おう、さんきゅ」

瑞佳に手渡された良く冷えた水を一気に飲み干し、大きく息を付く。
そして、二人は並んでぼんやりと主賓をそっちのけにしてどんちゃん騒ぐ仲間たちを眺めた。

「あっ、七瀬さんが鬼殺しの一気呑みやってる」
「乙女さの欠片もないな。最近思うんだけど、あいつ、もしかしてわざとやってないか?」
「あっ、川名先輩がもう料理半分始末しちゃってるよ」
「……追加、頼んどいた方がいいな」
「あっ、佐織が住井くんに襲い掛かってる。あっ、あっ、脱がしてるよ脱がしてるよ」
「さ、酒癖悪いな、稲木のやつ」


しばらく二人はそうやって、何かを噛み締めるようにして仲間たちのあけすけな笑顔を見つめていた。
やがて、ポツリと瑞佳が呟く。

「……茜たちにも来て欲しかったな」

どこか寂しげに微笑を湛える新妻に、浩平はチビチビとお猪口のお酒を舐めながら、独り言のように答えた。

「仕方ないさ。しかし、茜のやつもよく愛想尽かさないもんだ」
「それは、わたしが浩平に愛想を尽かさないのと同じだと思うよ」
「ぐはっ、キツイこというな」

苦笑いを浮かべる浩平に、瑞佳は自分もお酒をねだり、彼の手杓を受け、お猪口をあおる。

「うー、喉が熱い」
「はは、牛乳ばっかり飲んでるからだ」
「うー」

たった一杯で顔を真っ赤に染めながら、うーうーと唸り声をあげていた瑞佳が、不意に黙り込んだのに気がつき、浩平は彼女の顔を覗き込んだ。

「ん? どうした、気持ち悪くなったか?」
「あのね……浩平、えっとね、言いそびれてたんだけど……言っておかないといけない事があるんだよ。今、言っちゃっていいかな?」
「なんだ? 俺は構わんぞ、なんでも言ってみれ」

キョトンと目を瞬く浩平に、瑞佳がボソリと何事かを囁く。

「……え? マヂ?」

愕然とする浩平に、瑞佳は恥ずかしげにコクリと頷いた。

およそ十秒近く硬直していた浩平、突然椅子を蹴飛ばして立ち上がり、騒ぐ仲間たちに向かって声を張り上げる。

「みんな、聞けぇぇぇぇ!!」

ザッと一斉に静まり返る会場。
なんだなんだとみなの注目する中で、テーブルの上に立ち上がった折原浩平は大きく広げた両手を振り上げ、絶叫した。


「瑞佳に子供ができましたぁぁぁ!!」



それからはまさに大混乱だった。
女連中に次々に抱き締められる旧姓長森瑞佳。
男連中に次々に襲いかかられ、乱闘を繰り広げる折原浩平。
嬉し泣きの挙句に暴れ出す小坂由起子。


斯くして宴は、最高潮に……。










御音共和国 南部街道




「今頃こうへいと瑞佳の結婚式だねぇ。シュンもさ、出たら良かったのに」
「あいにく、見せつけられるのは苦手でね」

夏色の青い葉が茂る木々ならぶ街道を彼女たちは歩いている。
氷上シュンは、御音を出た。T機関が実行任務の変化から解体される事になり、役職を解かれたのだ。小坂由起子には新たな地位を提示され、慰留されたものの彼はそれを丁重に断って、今、この場にいる。
これから先は再びあての無い旅路だ。でも、もう人里離れた奥地で隠棲するつもりはない。もう、人との関わりを怖れるつもりはなかった。大陸、果てはその外の世界をもブラブラと見聞しようと思っている。彼にとっての先は果てがなく、世界を見極める時間はたっぷりあるのだから。

眩しげに、木漏れ日を仰ぐ氷上の横顔をどこか陶然と見つめながら彼の歩調に合わせてチョコチョコと歩いていたみずかは、フワリとその身体を浮かして、彼の腕に抱きついた。

「じゃあじゃあ、わたしたちは見せ付ける側にしよー」
「見せつけるって、誰にだい?」
「こいつ」
「あたしゃ、こいつ呼ばわりかい」

何の遠慮もなく指差され、みずかの反対側をテクテクと歩いていた赤毛の少女がピクピクと頬を引き攣らせた。
対して、みずかはその頬をぷぅっと膨らませ、顔一杯に不満を表し、捲くし立てる。

「だいたいなんであなたが一緒についてくるの? 邪魔邪魔、すごく邪魔ぁ!」
「なんだい。そんなのあたしの勝手だろ? だいたい、ガキがマセたこと言ってんじゃないよ」
「爬虫類にガキって言われたくないんだよ」
「も、燃やしてやろうか、このガキッ」

リュクセンティナ・ファーフニルは青筋を立てながら、実際口端からチロチロと紅い火焔を漏らす。

「ま、まあまあ、リュカもみずかも、二人とも喧嘩しないで」

いったい何故、いつの間にかこういう事になっているのかどうしても納得できないままに、冷汗を垂らしながら両側の二人を宥める氷上だったが。
リュカとみずかは互いに氷上の両腕を抱き締めたまま、彼を挟んで怒鳴りあう。

「氷上、あんたまさかペドじゃないよな。こんなガキより、あたしみたいなピチピチの女の子の方が良いだろ?」
「なにがピチピチだよ。鱗だか筋肉だか分かんないガチガチのおばさんのくせに。だいたいわたしは見た目自由自在なんだから、あんたより大人の魅力だせるもん!」
「だせるもん、だってさ。ガキ丸出し。ばっかじゃないの」
「わっわっ、むかつく、その態度ぉ!」
「なにさ」
「なんだよ」
「おーい、二人ともぉ」

普段の超然とした気配を霧散させ、情けなさたっぷりに声をあげる氷上に、後ろから笑いを含んだ声が響いた。

「随分ともてるんだな、氷上」

氷上一行、最後の同行者である彼にとっては、それは完全に薮蛇だった。
ピタリと足を止める氷上とみずかとリュカの三人。ちょっと驚きながら立ち止まった青年は、自分に突き刺さるジト目に思わず後退る。

「な、なんだ?」
「この竜おばさんだけでも鬱陶しいのに、なんで君までこんなところにいるんだよ!」

不機嫌の絶頂ともいうべきみずかの一言に、彼――城島司は困惑を表情に乗せながら答える。

「それは、昨日も言った通り、茜たちには迷惑をかけたし、今更御音のみんなに甘えて一緒に居るのもどうかと思った訳で……。一度、離れるべきだと思ったんだ。できれば君たちに付いて行く事で自分というものを確かめ直してやり直そうと……」

対し、帰ってきたのは深々とした呆れの吐息。

「何度聞いてもよく分かんない理屈だな」
「司って、こうへいより馬鹿だね」
「僕は好きなようにすれば言いと思うけどね……あとで酷い目にあうのは僕じゃないし」

昨日とまったく変わらぬ突き放したような言動に、司は口篭もる。そんな彼に向かって、みずかが言った。

「折角茜と向き合えたのに、どうして逃げちゃうかなあ」
「逃げたって…そんなつもりは」
「あのね、司。君は結局最初から最後までぜーんぜん、女の子のこと分かって無いよ。あの娘の気持ち、分かって無い。後でどうなっても知らないもんね」
「ど、どういう意味?」
「ふーんッ」

そんな幼子の姿をした世界の女神の仕草に、氷上は思わず苦笑を噛み締めた。

世界の女神も随分と精神年齢が低下したものだ。前はもうちょっと大人びてたようにも思うんだけど……。まさか、折原くんと繋がったからじゃないだろうね。

そんな事を考えながら、氷上は苦笑を消さぬまま再び歩き出した。慌ててみずかが、司が。そしてくっつくようにリュカが付いてくる。
永劫を歩む青年の、もうどこにも奈落の如き孤独の影を見ることは無かった。









御音共和国首都 中崎




中崎の街並みの奥まった場所にポツリと佇む里村茜の家の前で、柚木詩子はぼんやりと晴れた空を眺めていた。
家の中からは嵐でも巻き起こってるかのような騒音が、さっきから延々と轟いている。
どれだけ時間が立っただろう。瑞佳ちゃんたち、今頃楽しくやってるんだろうな、二次会ぐらいには顔だそうかな、などと羨望とともに想像を巡らしていた詩子は、いつしか屋内の騒音が途絶えている事に気がついた。
同時に、ドアが蹴破られたように開かれ、幼馴染の少女が悠然と現れる。

「準備、完了です」

そう云った彼女の姿は……所謂完全装備の旅装束だった。

「ねぇ茜、本当に行くわけ?」
「行きます。行きますよ。一言も無くまた居なくなってしまって、まったくあの人のろくでなしさ加減はまったく治ってません。許せません! ですから、行って司の首根っこを捕まえて帰ってきます。それまで、あとの事よろしくお願いしますね」
「茜、あんたキャラ変わってない?」

里村茜はゆたかな三つ編みを翻し、莞爾と微笑んだ。

「詩子は言ってくれましたよね。待っているだけじゃダメだと。だから、私はもう待つ事はやめたんです。追いかけて、捕まえる女になる事にしたんです」
「あー、さいですか」

苦笑をひらめかせ、柚木詩子は幼馴染の変容をどこか頼もしく認めることにした。同時に、もう一人の幼馴染の冥福を祈る。
そして、二人はしばし互いを見つめ、やがて花開くように笑顔を向け合った。
言わずとも通じ合う二人の心。それが幼馴染という関係。その素晴らしさを噛み締める。改めて心に燈す。

「いってらっしゃい、茜。あとはまかせなさい、別に急いで帰ってこなくてもいいよ。司とさ、ゆっくりしてきなさいな」
「はい、いってきます、詩子」














カノン皇国 水瀬城




金色の月明りが、窓の隙間からそっと闇を照らし出す。
ようやく落ち着きを見せてきた政務を片付け、寝室の扉を開いた水瀬秋子は、部屋の窓際でじっと月を見上げて佇んでいる人影を見つけた。

「どなた、ですか?」

声をかけられ、人影が振り返る。月明りに照らされたその姿に、秋子は何故か惹きつけられるものを感じ、無意識に頬に手を当てた。
どこか密やか、それでいて目を離せない金色の双眸。月に輝く金色の髪の毛。そんなひっそりとした金色の男は、秋子に向かって優雅に一礼してみせた。

「夜分に失礼。お初にお目にかかる、奥方殿。私はヴォルフ・デラ・フェンリルという者だ」





「貴方の事は、生前の主人からよく聞かされていたんですよ」
「それはそれは、一体どういう風に彼が語ったのかは気になりますな」

勧められるままイスに腰掛け、お茶の用意をする秋子の後姿を、魔狼王は金瞳を細めて見つめる。
この部屋に漂う穏やかな雰囲気は、彼に亡き親友への郷愁を思い起こさせる。

「私も、貴女の事は純一郎から良く聞かされた。いや、アレは惚気られたというべきか」
「うふふ、そうですか」

楽しげな笑いが届き、釣られヴォルフも口端を歪める。あの時の楽しい心地が甦る。今更のように、その余韻を求め、ここに来たのだと自覚した。

「いつか貴女とはお会いしたいと思っていた。先頃より此方の世界には来ていたのだが……」
「主人のお友達は大歓迎ですよ」

彼の言葉を遮るように、彼女は声を弾ませた。その声は耳元から聞こえ、ヴォルフはいつの間にか閉じてしまっていた瞼を静かに開く。
お茶とお菓子をお盆に載せ、秋子が足音もなく傍らに立っていた。それは不意打ちのようだったけれど、ヴォルフは特に驚く事も無く、それが自然のように感じる。
不思議な女性だ、と思った。
どこかぼんやりとしたまま、ヴォルフは入れられた紅茶に口をつける。ハッと、金色の瞳が見開かれた。

「どうしました?」
「いや……美味しい、それに懐かしい味だと思ってな。うん、そうだ。昔、純一郎に入れてもらったのとまったく同じ味だ」

秋子は微笑み、どこか艶然とした仕草でカップを口元に運ぶ。
そして、舌で転がすようにその風味を楽しみ、唇を開いた。

「あの人は不器用でしたけど、お茶をいれるのだけは上手かったんですよ。私も、あの人から習ったんです」
「なるほど」
「ヴォルフさん」

名前を呼ばれ、ヴォルフは顔を上げ、彼女の瞳を見つめた。月影に照りかえるその瞳の色はどこか哀しげで、穏やかだった。
思わず、魅入る。

「私の知らないあの人の話を、聞かせてくれませんか」

金色の魔族は静かに頷き、微笑んだ。

「ああ、彼の話をしよう。貴女の話も聞かせて欲しい。そのために、私はここに訪れたのだから」


夜の帳の降ろされし闇。ただ月だけが見守るその下で、女と男は一人の男の思い出を途切れる事無く語り合っていた。












カノン皇国 水瀬城




苦手な相手というものは、誰にでも存在する。言うなれば、天敵というものだ。
バルタザールことぴろしきにとって、最大の天敵は水瀬名雪である。これに付いては説明の必要もないだろう。
だが、この猫にとってもう一人、天敵と言っていい相手が存在していた。

「おのれ、どうして我輩がこそこそと逃げねばならんのだ」

水瀬城の回廊を疾駆しながら、ぴろは苛立たしげに吐き捨てる。
原因は明らかで、ただ一つ。

「雌狐めッ、相も変わらず我輩を玩具のように――」

弄ぶのである。弄ばれてしまうのである。
天敵の名は、玉藻前。このグエンディーナ大陸の妖族たちの長であり、沢渡真琴の祖母に当たる九尾の狐。
なぜ、弄ばれてしまうのか。これはもう、相性であるとしか言いようが無い。
言葉で弄り、策謀で弄び、果ては直接的に弄ぶ。玉藻からして、これは条件反射のようなものだ、と明言しているのだから救いようが無い。
ぴろにとって彼女は古くからの友人であり、決して嫌いな相手ではないのだが、だからといって顔を合わせるのは必要以外は御免こうむるというのが感想だ。
だから、こうやって逃げている。顔を合わせないに越した事は無いからだ。問題なのは、あれが狐であり、逃げると追いかけてくる性質を持っているということか。

「隠れ里に引っ込んでおればいいものを。わざわざこんなところまで現れおって」

恐ろしく勝手な言い草だった。玉藻だとて、孫娘や、昔から可愛がっていた神室の娘に逢いに来て問題があるはずがない。何より、旧友の顔を見に来るのは、世間的にいってもまったく悪い事ではない。
だが、ぴろからすれば、迷惑以外のなにものでもなかった。


「で、なぜ私たちが追いかけなければいけないのでしょうか」
「あう、お婆ちゃん言い出したら聞かないし、言うこと聞かないとすごく怖いし」

チョコンと飛び出した真琴の狐耳は消沈したように垂れていて、天野美汐は仕方ないとばかりに嘆息した。

まったく、私は巻き込まれ専門なのでしょうか。
自分でも訳の分からないことを内心で口走り、何となく落ち込む。
それでも気を取り直すように、美汐はテクテクと回廊を歩きながら、傍らの真琴の耳を撫でつつ告げる。

「探索・索敵・隠密用のありったけの式をばら撒きましたから、さすがのピロでも逃げ切れません。さっさと終わらせましょう」
「あう、ピロ怒らないかな」
「逃げ出す方が悪いんです。お陰で此方が迷惑してるんですから」
「ねぇ、美汐。美汐って、玉藻お婆ちゃん苦手なの?」
「……あの方は性格が悪いですから」

どうやら玉藻女史、堅物全般に相性が悪いらしい。厄介なのは、玉藻本人はそういう性格の相手が大好きだという事だ。本人曰く、からかい甲斐があるとかないとか。

「……さて、追い詰めましたよ。どうやら、この部屋の中のようですね」

城中にばら撒いた式の反応を元に、美汐と真琴はとうとうピロをある一室に追い詰めた。幸いにも、城の外に逃げ出す暇はなかったらしい。そうなれば、さすがの美汐も少々容赦とか寛容とか情状酌量という単語を忘れかねない所であった。
幽かに引っかかりを感じながら、真琴が扉を押し開ける。中は開けたドアの隙間から差し込む細い光で、僅かに見通せる程度。窓は無いらしい。どうやら、あまり使われていない資料室のようだ。

「ぴろー、いるんなら出てきなさーい……って、あれ?」

恐る恐る入りかけた真琴はギョっと足を止めた。差し込む光に浮き上がる人影。それが振り返り、じっと真琴を見据えたのだ。

「だ、誰か居るの?」

すわ、幽霊か。とビビる真琴の前に、それはスタスタと進み寄ってくる。光に照らされ、人影は小柄な少女に姿を変えた。
恐らく、12,3歳に見えるその少女は、淡い茶色の髪の毛を毛先で跳ね上げ、品の良い単衣を着込んでおり、佇まいからなかなかに気品があった。
切れたような細い眼、引き結ばれた小さな唇が、なにやら神経質そうに見受けられる。だが、その小さな姿と相まって、可愛らしさの方が印象としては勝っていた。と、その細い目がスッと真琴を見上げた。思わずビビって後退る真琴。
その真琴を押しのけ、美汐が少女に訊ねる。

「すみません。この中に猫が入ってきませんでした?」

少女は一瞬、考え込むように小首を傾げ、やがてフルフルと首を振った。

「そう、ですか……いけませんね、もしかしたら、魔術で式の追跡を誤魔化されたのかも」

憂鬱げに右手を口元にやり、ブツブツと呟きはじめる美汐の顔をチラリと一瞥し、その少女はスタスタと彼女らの脇を抜けて歩き去……。

「待ちや、猫殿」

その背中に、鋭い声が突き刺さった。ピクリと震え、硬直する少女。
驚いて振り返った美汐と真琴が見たものは、膝裏まで長く伸ばした金毛を揺らし、邪悪極まりない表情で笑っている玉藻前。
そして、思いっきり顔を引き攣らせ、後退る少女の姿。

「ははぁ、また珍しい。あんさん、昔っからあんなに人型になるのを嫌うとったのに、そうまでしてわらわと顔を合わせるのが嫌やったんおすか?」
「だ、黙れ、玉藻」

少女が引き結んだ唇を悔しげにゆがめ、斬りつけるように一声を発する。
それを聞いて、事態を理解しきれていなかった真琴と美汐が顔色を変える。

「あ、ぴろの声」
「ま、まさかピロに女装癖があったなんて」

驚愕する二人、いや、今かなり失礼な事を呟いた美汐に、少女は青筋を立てて怒鳴った。

「失敬な! 我輩はそもそも雌だ!」

今、知らされる驚愕の真実!!
顎が落ちる沢渡真琴。よろめき、顔を両手で覆って天を仰ぐ天野美汐。

「な、なんだ、その反応はッ!!」
「ホホホホ、なんやミャオちゃん、あんたずっと間違えられとったみたいどすな」
「た、玉藻! 我輩をミャオちゃんと呼ぶなぁ!」
「ああ、この呼ばれ方も嫌がっとりましたなぁ、ミャオちゃん。ホホ、ミャオちゃん、ミャオちゃん、オホホホホ」
「うにゃぁぁぁ! この雌狐ッ、相手の嫌がることをいつもいつもぉ!」
「しゃあないやおまへんか、ミャオちゃんは反応が可愛いおすからなぁ」
「きっきっ…キシャァァァァァァァァァ!!」

目を吊り上げ、髪の毛を逆立てて、でも見た目は可愛らしく両手を振り上げてパタパタと、笑いながら逃げ出す玉藻を追いかけだしたピロであるらしい少女を見送った美汐は、額を押さえ、深々と嘆息した。

「あたま、いたい」











カノン皇国 相沢子爵領主館





相沢奈津子は腕を組み、静かな怒りを湛えながら、空になった執務室のデスクを睨みつけていた。
デスクの上には、まだサインされていない重要書類が二十三センチと五ミリの厚さを以って積みあがっている。
お茶を飲みたいという夫の言葉に、席を立ってから6分。逃げたとしても、まだ遠くには行っていないはずだ。

奈津子は目を閉じ、呟いた。

「『蒼の決壊』よ」
「ちょっと待てぇぇぇいッ!!」

スルスルと奈津子の周囲から、蒼色の光帯が伸び始め、部屋の隅々にまで行き渡ろうとした瞬間、天井の一角が外れ、一人の口髭をはやした男が転がり出してくる。

「奈津ッ、お前オレを殺す気かぁぁ!」
「ん、出てきたな」

特に表情を変える事無く、奈津子は蒼光を引っ込めながら言った。

「惜しかったな、祐馬。あと十秒隠れてたら、内側から爆散して粉々になれたのに」
「惜しかったとか言うなぁッ!」
「うん、天井裏で人知れず死体になるというのは、なかなかに得がたい経験だったのにな」
「やめろというに」

半ば半泣きになった夫に、奈津子はようやく怒りと舌鋒を収め、口を尖らせる。

「そう何度も政務から逃げ出されては私だって怒るさ」
「何度もって、毎回殺そうとするくせに」
「それでもめげずに逃げ出すお前はすごいと思うよ、実際」

祐馬はやれやれと肩を回しながら、デスクに腰を降ろす。

「畜生、これなら当主なんかに復帰するんじゃなかったぜ」
「後悔先に立たずだな。まあ、諦めて励め」
「へいへい。くそ、せっかくあゆちゃんとラブラブ父娘生活を送れると思ったのに」
「ラブラブ……祐馬、本当にそんな事をしたら貴様、殺すぞ」
「奈津、お前その何かある度にオレを殺そうとするの、やめてくれ」
「まだ死んでないから、いいじゃないか」
「まだって……だいたい死んだら終わりじゃないの」
「分かっている。それまでじっくり楽しむとしよう」
「なにをっ!?」

……ハードだ。

相沢祐馬は愛妻とのスリル満点な生活に、まったく飽きを感じない自分はどこかオカシイのでは無いだろうかと、真剣に首を傾げた。









カノン皇国 皇城スノーゲート




「―――それを纏め、完成させた臣下を信頼しなければならない。だが、信用はするな。常に細部まで眼を通し、おかしいと思うなら、それを納得するまで指摘しろ。
何も考えずにサインするようになれば、それはただの機械と同じだ。皇王という名の最大の権力を有するただの機械だ。そんなもの、屑同然だと知れ」
「え、えぅぅ、あの久瀬さん、今食事中なんですから……その、お勉強についてはまた後で……」
「既に執務が滞り始めている。時間的猶予は無い。それともなにか? 君はすべての責任を放棄して、我々に任せると? まあ、僕としてはその方が簡単だし、歓迎すべき提案かもな」
「えぅぅ、それは、あの……」
「ダメですよ、俊平さん。あまり栞さんを苛めては」
「ふん、彼女は妹姫という事で随分と楽をしてきたようですからね、ここで責任の重さというものを分かっておくべきだと思いますよ、僕は」
「ふぇ、まあそれはそうですね。だ、そうです、栞さん」
「えぅぅ」

右目に黒い眼帯を嵌めた久瀬俊平が語る、横からの延々と続く厳しい説法――そう、これは説法だ――を聞きながら食べる食事に、味わう余裕など欠片も無く、美坂栞は半泣きになりながら昼食を口の中に押し込む。

こ、こんな事ならお姉ちゃんに休暇なんかあげるんじゃなかったよぉ。

内心の慟哭はあまりに今更で、美坂栞は皇王代理としての慣れない仕事の苦行に思いを走らせ(何より、サポート役の久瀬の厳しさといったら、それはもう凄まじいスパルタで。緩衝役と思ってた佐祐理さんも、こと政務に関しては容赦が無く、それまさに苦行であった)、気が遠くなった。

「お姉ちゃん、早く帰ってきてぇぇ」


途切れる事の無い久瀬の説教を聞きながら、涙混じりに一生懸命昼食を食べている栞の様子に、倉田一弥は気の毒そうに呟いた。

「佐祐理姉さまも止めないからなあ」

どこか意識をそちらに向けながら、一弥はたくあんを乗せた御飯を口に放り込む(意外と質素)

「一弥、ご飯粒ついてる」
「え、どこですか?」

佐祐理に頼み込み作って貰ったお手製牛丼を掻き込んでいた舞は、目ざとく一弥の頬についたご飯粒を見つけ、指摘する。
そして、キョトンと振り返った一弥の頬に唇を寄せ、ペロリと舐めとった。

「まままま舞姉さまッ!?」

ボンッ、と音を立てて一弥の顔が火を噴くように真っ赤に染まった。

「きゃー、舞ってば大胆♪」
「…?」

何故か喜ぶ佐祐理に、別に両手が塞がってただけなのにと首を傾げる舞。そしてオーバーヒートして停止している一弥の様子に、久瀬はやれやれと隻眼を和ませた。

「ああ、なんか私だけ不幸ですぅ!」

美坂栞の悲痛な叫びが虚しくこだました。















カノン皇国 御音共和国に向かう街道にて




「栞、ちゃんとやってるかしら」

肩に食い込む背嚢を担ぎ直し、美坂香里はふと唐突に不安を覚え、呟いた。

『お姉ちゃん、これまでずっと頑張ってきたんだからちょっとはお休みとらないと。政務の方は私が代わりにやってるから、しばらくのんびりと旅行でもしてきなよ』

そういって自分を送り出してくれた栞。その気遣いはありがたかったけど、今となればちょっと大丈夫だったかなと後悔しないでもない。
一応、久瀬や佐祐理さんも賛成してくれたし、彼女らがちゃんとサポートをやってくれるというから、政務が滞ることはないだろうけれど。

「なに、難しい顔してるの、香里さん」
「うん、やっぱり妹が心配でね」
「栞ちゃんなら大丈夫だと思うけど。それに、妹さんを信頼するのも姉の勤めだと思うよ」
「ふふ、そうね」

ニコリ、と笑いかけパタパタと月宮あゆは、前を歩く水瀬名雪の隣へと駆けていった。じゃれつくようにあゆは名雪の腕に抱きつき、すぐさま楽しげな二人の笑い声が聞こえてくる。
あゆの背中には、あの白い翼の姿は見えない。見えないだけで、本当はそこにあるらしい。不可視効果を解くのも、あゆの自由自在だそうだ。ぴろに幻術をかけなおして貰ったらしい。便利な話だ。

さて、旅は道連れ、世は情け。どう話が展開したのか、蚊帳の外に置かれた香里には詳しい経緯は知らないけれど、この旅路には前述の二人に加えて……。

「お前さ、男なら誰しもが夢見るシチュエーションのくせに、その不景気面やめろよなぁ」
「そうはいうけどなあ、北川。あいつら、名雪が目を覚まして以来タッグ組んじまってどうにもこうやり難いというか……」
「若いくせに情けないなあ、相沢」
「けっ、お前も一度経験してみろよ。けっこうきついんだぜ」
「やーだよ、オレ香里一筋だもん」
「その割に進展無いよな、お前ら」
「うっ……お、お前らと違って俺らは、その、純情なのだ」
「北川…お前、自分で言ってて恥ずかしくないか?」
「…………」

後ろで赤面モノの会話を交わしている馬鹿二人が、旅の従者という訳だ。

結局、相沢祐一と月宮あゆ、水瀬名雪の三角関係は、むしろ女性陣二人が強固に結びついてしまった事で、意外と上手く言っているらしい。先頃、あゆにそれとなく訊ねたら『なんかあの祐一くん相手に妬くのが馬鹿らしくなったんだよ』と言っていた。別に愛想をつかしたり好きではなくなったという訳では無いらしい。香里には、よく分からなかった。
そういえば、ついこの間まで、祐一のあゆや名雪に対する残虐非道な行為の数々には呆れるしかなかったのだが、最近では逆に二人にやりこめられる姿を目の当たりにする。さすがに二人掛かりではかの相沢祐一も分が悪いという事なのだろうか。それとも、二人一緒でないと、彼の相手などしていられないという事なのか。やっぱりよく分からない。

現在、月宮あゆは相沢夫妻に引き取られ、正式に相沢子爵家の養女となっている。だから、今は本当は相沢あゆであり……なんと、祐一の義妹に当たるらしい。栞が『あゆさん、なかなかナイスなオプション獲得しましたね』と言っていたが、あれはどういう意味なのだろう。ある意味健全な香里には良く分からなかった。
噂では、既に相沢奈津子・水瀬秋子両姉妹の方で話し合いが済んでおり、あゆに子供が出来た際には相沢家に。名雪に一子が生まれた時には水瀬家の後継ぎに収まるらしい。祐一はともかくとして、あゆと名雪の二人は了承済みだとか。香里からすれば、平気でそんな事を決める秋子さんたちも、あっさりとそれを受け入れるあゆと名雪も、ともかく『すごい』としか感想が浮かばなかった。

「それに比べて……」

香里はチラリと背後の莫迦を一瞥する。
ヘラヘラと何の悩みもなさそうに、能天気にゆらゆらとアンテナを揺らして笑っている北川潤。

ある意味進みまくっている彼女たちの関係に比べて、自分と北川の関係は笑ってしまうほどに進んでいない。
肉体関係どころか、あれ以来キスだってしていない。
顔を合わせるのが気まずいとか、照れてしまうという訳でもない。むしろ、あまりにも自然すぎて、どうにもそういう雰囲気にならないのだ。北川は、三華大戦以前のように馬鹿丸出しで―――どうやら、やっぱり馬鹿の方が本性のようだ。ちょっとガッカリだったり、安心したり。我ながら複雑である―――確かにそんな彼が好きだとは言ったものの……とにかく、それらしい感じにならないのだ。
最も、お互いの気持ちはもう、これ以上無いほど確かめ合っているわけで、別に焦るつもりはない。彼が隣に居てくれる。それだけで今は満足している自分がいる。そう考えてしまう事は、やっぱり自分は恋愛方面に関してあまり貪欲さが無いのだろうかと、名雪やあゆたちを見ていると思ってしまうこともある。特に最近は。

そういえば旅立つ前に……

『お姉ちゃん、婚前旅行ですねー、いやーー♪』

などと栞が身悶えしてほざいていたが……だからといって、いったいどうしろというのだろうか。分からない。妹の思考回路も分からなかったが。

「まあ落ち着いて聞け。二人いっぺんに相手をする時にはだな、片方を疎かにしてはいかんのだよ、北川くん」
「い、いや相沢、だからオレは香里一筋で」
「はっはっはっ、照れるな親友。真っ赤になりやがって、愛いやつじゃのう」
「お前、変態ジジイか」

いったい真昼間からなんという話をしているのだろうか。
香里は、なにか自分がとてつもなくアホらしい事を気にしているのだろうかと、馬鹿らしくなった。
だから真面目に考えてるのも馬鹿らしくなり、そう気楽に考えると不意にムクムクと悪戯心が湧き起こる。

「ちょっと、北川くん」

振り返って、後ろ向きに歩きながら北川を呼ぶ。
なんだ〜、とヒョコヒョコと近づいてきた北川の襟元を、香里は無造作に掴み引き寄せた。
眼を真ん丸くして驚く北川。その眼を覗き込み、香里はふと彼の宿していた虚無を思い出した。
彼の抱く過去は、結局何も聞いてない。彼は言わないし、自分も聞こうとは思わない。これからさきの二人に、それは決して必要だと思わないから。
もし、機会があれば彼が話してくれるだろう。もしかしたら、死ぬまで話さないかもしれない。ただ、それだけの話だ。
そう、そばに居てくれたら、それでいいのだ。出来れば、重なるほど近くに……。

香里は内心でほくそえみながら北川の耳元に顔を近づけて言う。

「明後日に着く御音の宿場にね、有名な温泉あるじゃない」
「お、おう」

香里の唇が歪み、耳に吐息を吹きかけるように囁いた。

「混浴なんですって、一緒に入りましょうか」
「ほー、そうなん……ふえ? え、どええええええええ!!!?」

頭頂部から蒸気を吹き上げ、機能を停止した北川の唇にさっと自分の唇を押し当て、香里は後ろも見ずに歩き出した。

「お? おおおい、北川、どうしたぁぁ!」

祐一が面食らったように叫ぶのと合わさって、ドウと何かが引っくり返る音。
背後で北川がぶっ倒れる音を聞きながら、少女は喉の奥でクククと笑いをこらえた。相変わらず可愛い男だ。

「あれ? 北川くんどうしたの?」
「さあ、頭に血でも昇ったんじゃない?」
「フーン」

トコトコと歩く速度を緩めて、香里の隣に並んだ名雪は、一瞬すっと目元を緩めた。

「ま、いいんだけどね」
「なによ」
「別にー」

再び走り去っていく親友に、香里は刹那憮然とした表情を浮かべ、ホッと息を抜いた。
その時、髪を舞い上げるようにして風が吹く。香里は髪を抑えながら立ち止まり、空を見上げた。
蒼く、澄み渡った果ての無い空。どう、手を伸ばしても届きそうにないぐらい高い空。
その無限の空間を白い雲が流れ、風が流れていく。

香里は、どうしようもなく心が浮き立つのを感じた。あんなに遠くにあるのに、手は届かなくても、心は届いてしまうそうなほどに軽い。

「香里ぃぃ、もうメチャクチャ好きだぁぁぁ!」

いきなり後ろから、抱き締めるみたいに聞こえてきた声に、思わず堪えきれないほどの笑いが込み上げてくる。
だから……

「はいはい、あたしもよ」

口ずさみ、香里は抑えきれない愛しさを笑いに変えて、前を歩く二人に追いつくように、歩を早めた。

降り注ぐ光が眩しい。

今日も良い天気だ。
そして、明日もきっと……
















明日とは、未だめくられていない本のページのようなもの

先の顛末なんかわからない

運命なんて、ありはしない。

でも…もう彼らはそんなことなんか気にしない

前を向いて走り、笑い、ともだちがこけたなら立ち止まり、手を差し伸べてまた走り出す

皆が望むべき未来へと歩いていくことを信じて…


 そう…あしたはきっと、晴れなんだから




















    魔法戦国群☆伝――― fin





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