「始まりがあれば終わりがある。
だが、終わりを迎えるという事は既に始まりを迎えているという事にならないかな」

「それは……物事には終わりが無い、という風にも受け取れますが」

「物事に限った話じゃないんだけどね。森羅万象、心の移ろい。 まあそれはいいや。
でも君の言い方だと、はじめに言った言葉の意味を無くすことにならないかな」

「始まりがあれば終わりがある。
確かに終わりが無いとすれば前提が消えてしまいます」

「うん、でも続いていく、という意味ではセリオ、君の考えに間違いはないんだろうね」

「よく…分かりません」

「別に分からなくたっていいよ。
答えがある問いかけでもないし、私にも分からない」

「では、何故その問いかけを?」

「その答えが欲しいかい?」

「……いえ、自分で考えてみます」

「そうだね、そうするといい。
考えるということは、知識を得る事以上にとても大事な事だからね。
そして、そう私が今、君に言えるのはこれだけだ」

「なんでしょう」

「君の修繕を進めるにあたってね、変形機構なんか組み込んじゃおうと思ってるの。
名付けて『絶対無敵セリオーZ』…どう?」

「それは……私にとって始まりですか? 終わりですか?」

「ある意味終わっちゃってるねぇ、あははは」

「…………」





















魔法戦国群星伝



< epilogue 1 おかえりなさい >









御音共和国 中崎





予感はあった。いや、それは予感ではなく、信じていたという事かもしれない。
あいつが、戻ってくるのだと。

だから、最初から決めていたんだ。

思いっきり、殴ってやるんだって、決めていた。




帰り着いた我が家、懐かしき中崎の地。
大統領府の入り口に、彼らは立っていた。浩平たちを迎えてくれた。
涙ぐみ顔一杯に喜びを湛えた長森瑞佳。
口元に微笑を湛え、眦を和ませる里村茜。
そして……。

彼女らの横に佇み、どこか決まり悪げな微笑みを浮かべている彼を見て、折原浩平は込み上げる哄笑を噛み潰しながら拳を握った。

かつて同じ道を歩き、そして道を違えた二人。片や光の下を歩き、片や闇の底を歩いた二人。
同じ方角を見定めながら二人が往く道を分かれたのは偶然であり、また闇を行く者の選別も紙一重、どちらがなってもおかしくはなかった。
ただ冷徹なまでにそこにあったのは現実。自分――折原浩平は多くの仲間に囲まれて光の下を行き、彼――城島司は自らをすべてから断絶し、ただ独り闇の中にあった。それは紛れもない現実。
そして―――今、彼がまたこうして光の下に居るのも確かな現実だった。
浩平は思い出す。小さなみずかが言ってた事を。

「サンキュな、氷上」

斯くして、過去に消え闇に沈んでいた城島司は、今再びみなの下へと帰ってきたのだ。

浩平は破顔して、声を弾ませた。

「畜生、あんにゃろ、心配ばっか掛けやがって、一発殴っちゃる。つか―――」「つかさぁぁぁ!!」

拳を振り上げて駆け出そうとした浩平の横をすり抜けていく疾風が一つ。

「し、詩子!?」
「このっ、馬鹿たれぇぇ!!」

疾風――柚木詩子はいきなり突進してくる彼女に驚く司に向かって渾身の鉄拳を叩き込んだ。

『会心の一撃なの』

澪の掲げたコメントは的確で、城島司は顔面に拳を喰らい思いっきりぶっ倒れる。

「ぐほぁ」

仰向けに目を回している司に、詩子はそのまま覆い被さるようにむしゃぶりついた。

「この馬鹿馬鹿馬鹿ぁぁ! どれだけ心配かけてんのよ! 生きてたんなら知らせてくれても良かったのに、顔ぐらい見せてくれても良かったのに、このスカタン!!」
「詩子、クビ、クビ締めるな」
「うるさい! 怒ってんだからね、詩子さんは怒ってんだからね! いつだってヘラヘラ笑ってると思ったら大間違いなんだから、一度思い知れぇぇ!」
「わっ、分かった、分かったからっ、詩子ぉ!」
「分かってない。あんたは全然分かってないよ! だいたいね、あんた茜にちゃんと謝ったんでしょうねッ。ずっとずっと泣かせっぱなしで。茜がどれだけ泣いてたと思ってるのよ! あたしだって、あたしだってねえ……」
「…詩子」

完全にぶち切れて思いつくままに捲くし立てていた詩子は、不意に肩に置かれた手に、顔を真っ赤に染めたまま振り返った。

「…あかね」

ストン、と幕が落とされたみたいに詩子の激昂が途切れる。
そこには雨上がりの空のように穏やかな、最愛の幼馴染の微笑みがあったから。
その顔を見た瞬間、詩子の中でギリギリまで引き絞られていた何かがプチンと切れた。
まるで、堰を切ったように涙が溢れ出す。泣いてやれ、と詩子は思った。頭の中がからっぽになるまで泣いてやれ。

「うっうっ、うわぁぁぁぁぁぁぁぁん!」

涙が零れるに任せて、へたり込んだみたいに座り込んだまま天を仰ぎワンワンと泣き出す詩子を、茜は膝を付き、ギュッと抱き締めた。詩子もまた、頭を掻きながら上半身を起こした司を巻き込んで茜を抱き締める。

「詩子、悪い。心配かけた、ごめん」
「ふえええん、今更遅いんだからぁ、許さないんだからぁ……う、うぇぇん!」
「ほら、詩子、あんまり泣かないで」


縺れ合い、抱き締め合い、それは在るべき姿。
それはきっと―――もはや永遠に重なる事無きはずだった三人の、新たなる始まりの形なのだ。


「……おーい、俺のこの友情の拳の行き場所は何処?」
『お間抜けなの』

完全に展開から置いていかれて、浩平は振り上げた拳をワキワキと所在なさげに泳がせる。傍らで澪の掲げるスケッチブックがタイトルとなって空しさを増強していた。

どうしようと真剣に悩みはじめていた浩平は、不意に服の裾を引っ張られ、どこか救われたように首を捻った。
多分、この世で一番見慣れていて、この世で一番浩平が綺麗だと思ってて、この世で一番大好きな笑顔がそこにあった。
長森瑞佳がそこにいた。

「浩平、お――」
「タンマ」

振り上げた拳を何かを言いかけた瑞佳の前で広げる。

「待て待て待て。今はちょっと間が悪い。ちょっと待ってろ」

言って、キョトンと疑問符を浮かべる瑞佳を残し、浩平はパタパタと例の三人の方に駆けていく。
そして通り魔のように――。

「喰らえ、友情の鉄拳!」

――ゴキャ!

「グアッ! 浩平、お前何だ――――ったく、あいつは」

いきなり脳天に拳を落として逃げていく親友に怒声を上げかけ、だが司は苦笑とともにそれを飲み込んだ。
昔と何も変わっていない、子供みたいな親友の無邪気な行動。そう、何も変わっていない。本当は変わったものは沢山あるだろう。でも、一番大切なところは何も変わっていない。
まだ泣いている幼馴染の頭を撫でながら、最愛の幼馴染のぬくもりを感じながら、司は今、この以上なく自分が帰ってきた事を実感していた。


「もー、なにやってるんだよ、浩平」
「なにって、ただいまとお帰りの挨拶だぞ」

折原浩平は悪びれもせず呆れる瑞佳に言い放つ。
もう本当に子供みたいに忙しないその姿。いきなり走り出して、そして走って戻ってくる。邪気の無い笑顔で、自分に向かって笑ってる。
瑞佳は何となく、その行動が今の自分と彼のすべてを表現しているような気がした。
いつだって突然自分の前から駆け出していってしまうけど、でも結局どこにいっても、折原浩平は長森瑞佳のもとに帰ってきてくれる。
そんな事を思った自分が急に気恥ずかしくなり、誤魔化すように瑞佳は言った。

「浩平ったら、殴るのが挨拶なの?」
「いんや、お前には特別にこれだ」
「え? ん、んーー!?」

そう、いつだって浩平は唐突で、雰囲気なんか全然考慮しないのだ。
でも、その腕は大きくて優しくて、その唇は甘くて温かい。
だから、どうしても許してしまう自分がいる。彼の何もかもを許してしまう自分がいる。そんな自分をどうしようもなく幸せだと思う。

結局、長森瑞佳が折原浩平に言うべき言葉は決まっていて、多分それが二人にとってのすべてということ。
だから、彼女はその言葉を口ずさむ。

「おかえり、浩平」
「ん、ただいま」


いつしか、周りの眼も気にせずに抱き合ったまま動かなくなった二人。
いつの間にか浩平たちからも茜たちからも置いてけぼりにされてしまった澪は、どこか諦観混じりに溜息をつくと、なにやら大きくスケッチブックに書き込み、チョコンと彼らを背にして座り込んだ。

『お代は見てのおかえりなの』



「浩平たち、帰ってきたってホン……っと、あらまあ」

パタパタと大統領府の奥から駆け出してきた小坂由起子は、そこにある情景を目の当たりにして苦笑を浮かべた。
しばらく、目を細めてその絵を眺めていた由起子だったが、彼らの前で一人頑張っている澪を見つけて、声をかける。

「澪ちゃんおかえり、それからお疲れ様。ここはもう良いから、お寿司でも食べに行く?」
『うん、なの!』

満面の笑みを浮かべる澪につられ、屈託の無い微笑みを浮かべながら、由起子はもう一度、子供たちを見やる。

「在るべき姿か。おかえりなさい、みんな」











東鳩帝国 降山



「『斯くして、グエンディーナ大陸を未曾有の混乱へと叩き込んだ第二次魔王大乱は終わりを告げた。だが、我々は知っている。これが終わりではないという事を。いずれ第三・第四の…』っと、なんか後ろが違う方向にいっちゃってるような……まあいいか」

テクテクと整備された道を歩きながら、長岡志保は自伝へと書き加えるべき文章の構想を練りこんでいた。
そうこうする内に、視界の向こうに鶴来屋の壮麗な建造物の頭頂部が見えてくる。だが、今日は本店の方に用は無く……。

「こんちはー。みんな、いるー!?」

鶴来屋から少し離れた高台にある屋敷――柏木邸の門をくぐった志保は、気安い様子で声をかけながら玄関の扉を開けた。

「……って、なにやってんの?」
「あ、や、やあ、志保ちゃん、いらっしゃい」

扉を開けた途端、響いてきたのは鬼の柏木家、その長女と次女の怒声、そして鋭利な三女の舌鋒、オマケにオロオロとした末妹の宥める声。
扉の前にのっそりと立っていた長身の男――柏木耕一が困り果てた表情を繕いながら、振り返って志保を迎え入れた。
今日、耕一さんが柏木家へと帰るのだと聞いて、てっきり盛大な宴会でもやっているのではと様子を見に来た志保であったが(相伴に与ろうという下心つき)、耕一の向こう、玄関先をヒョイと覗き、はぁーと吐息を漏らした。

「毎度大変ね、耕一さん」
「いやはや」

苦笑を浮かべる耕一の向こうでは、どうやら抜け駆けして耕一に抱きついた千鶴を糾弾する梓と楓、それを宥める初音、で開き直って反撃する千鶴という、言ってしまえば日常的な風景が広がっていた。

「これを目の当たりにすると、帰ってきたって感じがするんだよなあ」
「……それってどうしようもなく病んでるわねぇ」
「反論できないや」

青年の目元に、どこか嬉しそうな影を認め、志保はこりゃダメだといわんばかりに両手をあげた。

柏木家の喧騒に満ちた日常は、どうやらしばらく終わりを迎えぬようだった。










東鳩帝国帝都 柳川邸



彼女はどちらかといえば引っ込み思案、とまでは言わずとも控えめな性格であることは知っている。
目上の者は勿論の事、身分や歳が下の者にまで、丁寧なその物腰は他者に好ましい印象を与えていることも。
それなのに、どうして自分にだけはこうも愚痴っぽくて口うるさくて強気なのだろうか。

柳川裕也はやや諦観気味に自問した。

「――だいたい裕也さんは自分勝手すぎるんです。私や貴之さんがどれだけ苦労してるかわかってるんですか?」
「…ああ」

帰ってきた途端、こうやって延々と文句だか愚痴だか分からないことを言いつづけている松原葵に、柳川は頬杖をつき、生返事を繰り返しながら相手をしていた。

分かって無いのはお前の方だぞ、葵。と、柳川は内心で呟く。
貴之のヤツはああ見えて実に怠け者なのだ。実にさり気なく自分の仕事を葵の方に転化しまくっている事実を彼女はまったく気が付いていないのだろう。不器用と言うか、純真と言うべきか。

「――自分が悪いのに何時だって偉そうで人の言うこと聞かないですし、今だって聞いてないでしょう! 聞いてないんでしょう!!」
「…ああ」
「ゆ、裕也さんの莫迦ぁー!」

その泣き声がどこか楽しくて、居心地が良くて、柳川裕也は自分のような男が此処にいる一つの理由を見つけた気がした。

「愚かしい話だな」
「なんか言いましたッ! 裕也さん!」

怒って泣いて、そして拗ねている彼女の剣幕に、柳川は一瞬口篭もり、フッと口元を歪めて言ってみる。

「いやなに、葵は可愛いな、と云ったんだ」
「………えっ? え? えええええ!? ぷぎゃ!?」

椅子ごと引っくり返って昏倒する葵の姿に、柳川は堪えきれず笑い声を響かせた。













カノン皇国 スノーゲート城



柔らかな光が、白いカーテンから溢れ出して部屋の中へと満ち満ちていた。
木漏れ日にも似た光の中に置かれたベットがただ一つ。

「もう、一週間も目を覚まさないの。魔力を限界以上使い果たしちゃったからだって言うんだけど…」

真琴の言葉を聞きながら、祐一はそっとベッドの裾に佇んだ。
白いベッドの上には、一人の少女が懇々と眠りについている。

「名雪」

呼びかけても、少女は瞼一つ動かさない。

「まあ普段だって、起きないんだけどな」

深刻になりがちな空気を振り払うように、祐一は口ずさむ。
改めて、祐一は文字通り眠り姫になってしまった少女の寝顔を見下ろした。
陽光に照らされた白い顔は、普段のふやけた寝顔とどこか違っていた。
いつもはとても、幸せそうに寝息を立てているのに、どこか柔らかな微笑みをたたえているのに。
今の名雪は、どこか陶器の人形じみた表情の無い寝顔で。耳をそばだてなければ寝息すら聞こえずに。豊かに隆起した胸元に組まれた両手と相まって、祐一はひどく不吉な印象を覚えてしまう。

「名雪、俺ちゃんと約束守ったぞ。ほら、あゆも連れて返ってきたぜ。だから…そろそろ起きろよ」

彼の声音は優しげで、それはむしろ子守唄のように聞こえた。
入り口の横で、不安げに両手を組んでいたあゆは、思わず声をかけようとして、だが息を呑む。

「祐一…くん」

あゆと真琴が見守る前で、祐一はじっと目を覚まさない眠り姫の寝顔を飽きる事無く見つめていた。
どれだけ時間が立っただろう。開け放たれた窓から吹き込む風が、そっとカーテンをはためかせた。

「…はぁ」

それは深く深く、底の無いような重い吐息。
あゆは、恐怖ともつかない慄きに身体を震わせた。
だって、彼の吐く息は……どうしようも諦めを宿していたのだから。

「そんな…だめ、ダメだよ、祐一くん」

掠れた声は空気に溶け込み、祐一に辿り着くまえに消え去ってしまう。
諦めてはだめなのだ。それを自分は知っている。どれほど絶望的だとしても。諦めてしまえばそこで終わってしまうのだから。
だからこそ……

あゆが呆然と見守る祐一の後姿が、ギュっと拳を握った。
反射的に、あゆは叫ぶ。

「諦めたら、ダ――――」
「仕方ない、殴るか」
「――メ……って、それもだめぇぇぇ!!」


あゆは慌てふためきながら、ギラリと光る拳骨を振り上げた祐一にむしゃぶりついた。


「ちょ!? なんだよ、あゆッ! 邪魔するなって。この百年寝小娘は一度、一発食らわさないと…」
「ダメッ、ダメだよ祐一くん。寝てる女の子を殴ったらだめー!」
「起きてたらいいのか?」
「そういう問題じゃないよ! うぐぅぅ!」

顔を真っ赤にしてなにやら怒っているあゆに、祐一は渋々と振り上げた拳を下ろした。

「しかしだな、殴らずしてどうやってこいつを起こせというのだ、あゆあゆ。完全に爆睡モードに入ってやがるぞ、名雪のやつ」
「だったら殴っても起きないんじゃないの? 昨日、顔の前で爆竹鳴らしたんだけど起きなかったよ」

さり気なく挟み込まれた真琴のセリフに絶句する二人。

「う、うぐぅ…真琴ちゃんって…」
「真琴、お前なかなか容赦がないな」
「あう?」

自覚が無いのかほけーと首を傾げる真琴。
そのとき、その背後のドアがいきなり勢い良くバタンと開いた。風圧にバタバタとなびく真琴のテール。

「はい、はいはいはーい! 私に秘策がありますよー!」

勢いと大声と少女のハイテンションに目を丸くする真琴とあゆを脇に置き、祐一は疲れたように問い掛けた。

「栞、お前ねーちゃんの方はいいのか?」
「はぁ、北川さんが付いてますから、私出る幕ないです」

栞はどこか苦笑まじりにあははと笑った。
ちなみに香里も聖地での決戦以来目を覚ましていない。此方は余りに深かった傷と肉体、精神両方の疲労によるものらしい。じきに自然と目を覚ますだろうと医者は言っているのだが。

「で? 秘策ってなんだよ」
「はい、言っちゃっていいですか?」
「はあ、言ってみ」

コホンとわざとらしく咳払いをして、妹姫は厳かにのたまった。

「眠り姫を起こすには、やっぱり定番のアレだと思うんです、ハイ」
「は? 定番のアレ? なんだそ……お、おい、栞まさか!?」
「う、うぐぅ」
「あう?」

冷汗を垂らす祐一、顔を赤らめるあゆ、なんも分かって無い真琴を前にして、栞は渾身の力を込めて告げる。

「そう、唇と唇を合わせて幸せ〜、こと、口づけです!! キッスです!!」
「……それって手のひらと手のひらを合わせて幸せ、じゃないの?」
「真琴ちゃん、それってネタがローカルすぎてわかんないよ」
「…お前ら、訳の分からん会話を……はッ!?」

一瞬、視界の端で眠ってるはずの少女の口元が邪まに歪んでいた気がして、祐一はハッと名雪を見下ろした。
無論、陶磁の人形じみた寝顔は、微塵も動いてはおらず……。

祐一は、どこか悟ったように深々と嘆息した。

「まあ、ほっとけばいつまでも眠ってるやつだからな、こいつは。何でもやってみる価値はあるか」

言って、祐一はどこか申し訳無さそうにあゆを見やった。
その眼差しを受け、あゆは咄嗟に笑顔を浮かべた。
多分、自分ではぎこちなくなかったと思うけど。もしかしたらどこか強張っていたかもしれない。

「ボクの、ボクのことは気にしないでいいよ、祐一くん」
「…あゆ、いいのか? お前はそれでいいのか?」
「うん、構わないよ。ボクは祐一くんのこと好きだけど、でも、名雪さんがこのまま眠ってるの、嫌だもん」

掠れる声と震える唇で、あゆは何とか言い切った。
心の何処かで、ちょっとだけ焼けるような痛みを感じるけど、でも大丈夫。
祐一くんは、ボクを哀しませることはしないから。誰よりも、何よりも信じているから。
だから、今だけは……。

「そうか…すまん、あゆ」

祐一の沈んだ言葉が重く響く。
あゆは、今から起こるであろう場面をどうしても見る気がしなくて、見たくなくて、ギュッと目を閉じた。

―――ひょい。

「うぐぅ?」

目を閉じた途端、あゆはいきなり襟首を掴まれて持ち上げられる。
足を動かすと、宙を掻いた。

「え? え?」

あゆは混乱する頭で、現状を整理し直した。
えーっと、ボクが目を閉じたのは、祐一くんと名雪さんがキスするのを見たくなくて。
だから、今、二人はキスしているはずで……なんで、ボク、運ばれてるの?

と、さらに混乱する中で、続いて、後頭部を大きな手のひらで掴まれる感触。

「え? え?」

何となく、眼を開けるタイミングを逸して、あゆは閉ざされた視界の奥であわあわと手のひらをニギニギと握ったり開いたり。

その瞬間、まさに天啓の如くあゆの脳裏に今自分に何が起こっているのか。そして何が起ころうとしているのかの答えが走った。

うぐぅっ!? ま、まさかぁぁ!?

だが時既に遅し。
後頭部を掴む手が、ググッと頭を前へと押された。

「う、うぐぅぅ!?」


――――ぶちゅ






……拝啓お母さん、信じたボクが莫迦でした。
…この人はダメです。もー、ほんとーにダメです。






あゆが半ば絶望とともに眼を開けると、多分状況を理解してない名雪の呆然とした瞳が、睫毛が触れ合いそうなほど間近にあってパチパチと目を瞬いていた。
唇には、初めての感触。色々と頭の中で想像していて、その想像以上に心地よく蕩けてしまいそうか不思議な感覚。
でも後頭部には、グリグリと押し付ける冷酷無比な手のひら。


「ムグゥゥゥゥゥ!!」
「ムニュゥゥゥゥ!?」


バタバタと溺れてるみたいに振り回されるあゆと名雪の両腕。
ついでにあゆの背中の白い翼も、慌てふためいたみたいに羽ばたいて。

「お、名雪、やっと起きたか。おはようさん」

などと朗らかにほざきながらあゆの顔を名雪の唇に押し付けたまま離さない祐一を、真琴と栞は唖然として見つめていた。

「え、えぅぅ、この人はぁ、この人はぁぁ!?」
「あう、悲惨」


左手は、あゆに治してもらったとはいえまだ引き攣った感覚が残っている。だからいい加減、押さえつけてるのも疲れたので、もしくは飽きたので、そろそろあゆを解放する。
すると二人は「ブハッ!」などと、ちょっと年頃の女の子らしくない音を立てながら離れた。
そして呆然と、此方を振り返ってじっと見つめる視線が二つ。
どうした? と小首を傾げて見せると、あゆと名雪はカパッと顎を奈落に落として絶叫を唱和した。

「「ふ、ファーストキスがぁぁぁぁ!!」」

単語から介するに、これが二人の初めてのキスだったらしい。
祐一は、得心とともに腕組みをしてウムウムと頷いた。

「うむ、良かったな、二人とも」

それは祐一なりに思いを篭めた祝福の言葉だった。それなのに、それだというのに…返ってきたのはもんのすげぇ殺気だった。
その氷河の如き冷たい殺気に中てられて、カチンと凍りつきながら恐る恐る眼を開ける。

眼前には仲良く並んだ笑顔が二つ。

「…でも、目が笑ってませんね、お二人さん」

そんでもって、二人の手には血に錆びた剣とか釘付きの棍棒だとか。
さっと祐一は青ざめ、部屋の隅で怯える少女を涙目で睨みつけた。

「し、栞ぃぃ! てめぇぇ、出したな、出したなぁぁ!!」
「だ、だってだってだってぇぇ」

怯えきった様子で泣きながら叫ぶ栞。凶器はポケットから。めっちゃ怖かったみたい。

「一度ね、一度殺らなきゃとは思ってたんだよ、実際」
「あゆちゃん、なんかわたしたちって上手く行きそうじゃないかなぁ」
「うん、そうだね、名雪さん。なんかこう…通じ合う想い…というか殺意?」
「えへへ、なんだか新しい関係が見えてきた気がするよ」

なにやら朗らかなのか殺伐としているのか解からない会話を交しつつジリジリと近づいてくる最愛の少女たちに、祐一は真っ青になりながら捲くし立てた。

「ま、待て、なんだ、これはだな、どっちが先とか角が立たないようにだな…ねぇ、聞いてますか?」
「うぐぅ、全然」「だお」

聞く耳無いそうです。



「……あう、みんな馬鹿?」

血の雨降り注ぐ惨劇の片隅で、沢渡真琴はさめざめと吐息をついた。



―――嗚呼、素晴らしきかな平和な日々の到来よ。







中での騒ぎに耳を傾け、相変わらずの莫迦騒ぎに楽しげにニヤニヤと笑っていた相沢祐馬は、近づいてくる足音に顔をあげた。

「よう、お疲れ」
「ああ、疲れたよ、本当に」

買い物から帰ってきたかのように声をかけてくる夫に、奈津子はやれやれと肩を落とした。
泰然としてなかなか隙を見せない妻のその仕草に、祐馬は幽かに眉を動かすも、何も聞かずにただ迎え入れるように彼女の肩を抱く。
逆らわず、身体を預けるように頭を肩に乗せた奈津子は、静かに告げた。

「祐馬、あゆちゃんだがな」
「うん?」
「正式にウチの子にしたいと思ってる」

一瞬、キョトンと目を瞬いた祐馬だったが、すぐさま相好を崩していった。

「そりゃいいな。俺は昔から娘が欲しかったんだ」
「そうか」

そっけなくそう言って、しばらく沈黙を守っていた奈津子は、急にズルズルと頭を落として祐馬の胸に顔を埋めた。

「ん? どうした?」
「祐馬……親と言うものは、辛いものだな」

スゥ、と祐馬の目が細められる。彼女が、こう言う風に甘えた仕草をしてくる時は、大概が心を痛めている時で。

「だが、同時に親ってのは素晴らしく楽しい事だ。違うか?」
「…そうだな」

微笑みながら顔をあげた彼女の目尻に幽かに光るものを見つけ、相沢祐馬はそっとその光沢に唇を押し付けた。






東鳩帝国帝都 坂下邸



目を覚ましたら、見知らぬ天井。
と、言うわけでもない。勝手知ったる自室の天井。もっとも、これほどじっくり自室の天井を見つめていた記憶もなかったが。
あの鋼鉄の魔人との戦いの後、意識はすぐに取り戻したものの、そこにあったのはまともに身動きも出来ない体。仕方も無い話だ、生きていられただけれも感謝すべき深手だったのだ。
ともあれ、ベッドに縛り付けられる日々。ひがな一日眺めていれば、その天井の模様や汚れすら覚えてしまった。
未だ身体中に蔓延る鈍痛は、ごく浅い眠りしか肉体に許してくれない。
眠る事も適わず、動く事も適わず、坂下好恵は憂鬱げに溜息をついた。綾香じゃあるまいし、自分では落ち着いている性格のつもりだったが、こうもじっとしているのが耐えられないとは思わなかった。
なにやら、苛立ちが募り、上半身だけでも起こそうとする。飾り気の無い、だが清潔な藍色の寝衣に包まれた身体は、だが肉が磨り潰されたような痛みが走るだけ。

「あ、なんか無駄な足掻きをやってるわね」

その語尾までもがハキハキと、さながら涼風の如き声音。聞き覚えのある声。でも、こんなザマを一番見られたくなかった奴の声。

「綾香」

はき捨てるように名前を口ずさみ、それでもいやいや顔を横に向けると、ベッド脇のイスに来栖川綾香が腰掛けていた。

「随分とやられたって聞いたからお見舞いに来たんだけど……ホント、酷い有様ね」
「うるさいな」

不貞腐れて言い返すが、綾香の言葉ももっともだった。
何本かの肋骨が粉々で、他にも内臓に少々傷がついているらしい。包帯まみれの姿は、端から見れば笑えるかもしれない。
でも、茶化すような物言いの割には綾香の声音はどこか沈んでいるように感じた。風が澱んでいる。
それを直接指摘するのは躊躇われ、坂下は心のどこかに張り付いたまま動かない黒点から意識を逸らすように別の話題を振った。

「セリオは?」
「…ん。どうやら不具合とかはないみたい。修理も一週間もすれば済むって。ここにくる前に様子見に言ったんだけど、相変わらず無表情に憎まれ口叩いてくれたし。そういえば、『綾香お嬢様、私合体するかもしれません』って言ってたのはなんだろう?」
「…知るか」

一言で斬り捨て、坂下は静かに目を閉じた。共に戦った戦友が無事元に戻るという話は、決して悪いものではない。多少、羨ましさはあるが。

それきり、会話が途切れる。
あまり口数の多くない坂下はともかくとして、綾香が無言で居るというのは珍しい。

「綾香、随分と今日は大人しいな」
「…そう?」
「ああ。いつもはうるさいくらいなのに」
「うるさいって…あたしは志保じゃないわよ」
「あれは別格だ」

思わず肩を竦めかけ、軋む身体に呻きをあげる。
はぁ、と坂下は何かを振り切るように、息を吐いた。
明らかに、来栖川綾香は意気消沈していた…いや、怯えていた。それがどうしても分かってしまった。
この完璧女は態度が解かりやす過ぎて、本当なら気遣われるはずの此方が逆に気遣ってしまう。
もしかしたら、隠しているつもりなのだろうか。そうも露骨に落ち込まれては、隠すも何もないだろうに。

でも、お陰で踏ん切りはついた。

坂下はしっかりと綾香を見据えると、切り出す。

「私の身体のこと、聞いたんだろ?」

なんで? といわんばかりに目を見開き、次の瞬間唇をひき結んで、俯く彼女の仕草に、自分の言葉が正しかった事を知る。

「医者のやつ、いつまで立っても教えてくれないんだ。綾香、知っているなら教えてくれ。私はお前の口から知りたいな」

小さく息を吸う音が聞こえた。それはどこか草笛にも似ていて……。
やがて、引き攣った綾香の言葉が聞こえる。

「あんた、ちょっと性格悪いわよ」
「そうかな、そうかもな」

自分でも、そう思う。宣告を受けると知りながら、緩んで仕方の無い口端は、きっと自分の性格の発露なんだろう。
促すように、もう一度親友を見据える。綾香は彼女らしく思い切ったらしい。相変わらず切り替えが早い。そうした所は坂下にとって羨ましいほどに好ましく感じる。
綾香はきっぱりと言い放った。

「右手、握力が戻らないだろうって。箸とか軽いものなら使えるかもしれないけど。それから左足、歩行は問題無いけど、走るのは難しいらしい。多分踏ん張りが利かないだろうって言ってた」
「…そうか」

実際に告げられて、だが思ってたより動揺はなかった。きっと、覚悟はとうに出来ていたからだろう。実際、もっと悪い結果も想像していたのだ。少なくとも普通に暮らせるというのはマシな話なのだろう。
どうやら、動揺していたのは自分よりも綾香の方だったらしい。彼女は自分の答えを聞くと血相を変えて立ち上がった。

「そうかって、それだけ!? あんた分かってるの!? その手じゃ、その足じゃもう……もう…」
「そうだな。もう、戦えないだろうな」

戦えない。それは武術家としての人生にピリオドが打たれたということ。

「戦えないだろうって、あんた何落ちついてんのよ!」
「綾香」
「あたしなんかよりずっと、何もかもを自分の拳にかけてたのに、なんでそんなに――」
「綾香ッ!」

怪我人が発したとは思えない頬を叩くような声。半ば取り乱していた綾香は、ハッと我に返って口を噤んだ。
落ち込みを深くして俯く親友の姿に、坂下は思わず微笑む。自分の事のように考えてくれるその思いが嬉しかった。
だから言う。

「もう、良いんだ」
「でも」

坂下は雁字搦めに包まれた右腕を持ち上げ、いとおしげに見つめる。

「綾香。私は、多分、生涯最高の一撃を打てた」
「…好恵」
「その結果がこれならば、悔いは無い。悔いは無いんだ」

ガタンと傍らでイスが倒れる。見上げると、綾香が拳を握って立ち上がっていた。

「綾香?」
「この馬鹿ッ! あたしにまだ勝ってないくせに、まだあたしを負かしてないくせに……馬鹿ぁ!!」

それは、涙だったのかもしれない。
子供のような怒鳴り声を聞きながら、怒りに任せて繰り出された蹴りに跳ね上がるベッドの上で、坂下は彼女の涙を見たような気がした。

肩を怒らせて挨拶も残さず部屋を出て行く綾香の後姿を見ながら、坂下はそっと呟いた。

「すまん、綾香」


しばらく、じっと何かに浸されるように目を閉じていた坂下は、枕元に置かれた鈴を取って鳴らした。
そして現れた初老の男性…坂下家の家令に告げる。

「保科に、例の件を受けると返事を出しておいてくれ」
「よろしいのですか?」
「ああ、自分を高める季節は終わりを告げた。ならば、自分に成せる残る道を進もうと思う」
「…分かりました」


家令の足音が遠ざかっていくのを聞き届け、坂下は静かに眼を閉じた。

「悔いが無いと思ってしまった時点で、私はきっと終わってしまったのよ。高みを目指す者が満足してしまえばそこで終わりだ。もう、先は無い。
…そよぐ風も絶え、ただ冷たき雪が降る、か。熱を喪った私でも、別れとは辛いものなんだな」

余韻を名残惜しむように沈黙する。そして、坂下好恵は一筋の涙と共に別れを告げた。

「だがありがとう、そしてさらばだ、我が(とも)よ」







 御音共和国 南部辺境の街



板張りの廊下を軋ませて、余裕の無い足音が響く。

「待ってよ、雪ちゃーん」

背後からみさきの声が頼りなさげに聞こえてくるが、雪見は振り返ることなく先を急いだ。
彼女にしては珍しすぎる行動。
みさきを置き去りにしてしまうなど、普段の彼女からすれば考えられない。

「もー」

感覚を拡大する魔術を使用し、どうにか足早に先を行く(駆け足とどう違うのだろう)雪見の後をついていこうとしていたみさきは、なんだか馬鹿らしくなってゆっくり後を追う事にした。

「はるだねー」

テクテクと誰も居ない廊下を歩きながら、みさきは吹き込む風に目を細めた。




我に返るのは簡単だ。止まればいい。物理的にも精神的にも。
そんなわけで、深山雪見は早足から駆け足になっていた自分を、やや滑り気味に停止させると同時に自分の状態を自覚して我に返った。
目の前には、病室の引き戸。自分の来た方角にはみさきの姿は見えない。
置いてきてしまった、と自戒しつつ、いつの間にか荒らげていた息を整える。躊躇が逸る心に時間を与えてくれた。

聞いているのは酷い怪我をしたらしいということだけ。戦いが終わって一週間、報告を聞いて以来六日。無理やり押し込んでいた焦りがここに来て噴出してしまったのか。
だいたい重傷、という報告以来なんの情報も届かないのも悪いのだ。
何も分からないことが一番怖い。事後処理に一週間掛かってしまったが(無論一週間で終わるはずも無く、今頃押し付けられたサオリンは泣き叫んでいることだろう。もしくは住井か?)やっと、この辺境の療養所までこれたわけだ。逸るのも仕方ない。

と、そんな言い訳やら怒りやらを内心でぶちまけつつ、ようやく冷静さを取り戻した深山雪見は、大きく息を吸い込み、恐る恐るドアを開けた。


―――閉めた。


「な…なな」

なんか凄いものがいたような。
そう、例えば怪しげな衣裳を身に纏ったでっかい烏だとか、なにやら色んなものがごっちゃになった怪物だとか、全身を真っ白な包帯に包まれたミイラ男だとか、稲光みたいな黄金の毛並みの細身の獣とか。

「なんでそんなのが病室の中に居るのよ」

包帯男はいてもおかしくないんでないだろうか、などということは錯乱した思考回路では思いつかなかった。

真相と自分の正気を確かめるべく、雪見は再び先程とは別の意を決して扉を開いた。


―――閉めた。


それはもう、バシンとドアが外れるくらい閉めた。

「居た。それはもう間違いなく居た」

ギンギンに両目を見開いて、額をドアにくっつけながら唸る。
バッチリ見届けた。開閉期間僅か一秒ですべてを見極めた。
病室内部ではなんと―――ミイラ男と雷獣がベッドの上で将棋を打ってて、もう一つのベッドで烏天狗と鵺と南君が酒盛りをやっていたのだ。

「ハッ、南君?」

そこでようやく思い出す。自分が誰を見舞いに来たのかを。
そして中から飛んで来る声。

「あのー、もしかして雪さんっすかぁ?」
「南君?」

反射的に開けると、興味深げにこちらを眺めている人外三対の視線と、南明義のヘラヘラと気の抜けた笑顔が。

「いやあ、見舞いに来てくれたんすか?」

見舞いに来たのだ、悪いかこの野郎。

なんだかドッと気が抜けた。
色々と言いたかったことがあったのに、何となく言う気を削がれ、変わりに雪見は半眼で病室の有様を見渡す。

「なによ、この有様」

そこはさながら宴会ただなかの座敷のようで、とても清潔感ある病室とは思えない。

「あははは」と虚ろに笑う南を無視し、雪見はギロリと南のベッドを囲んでいる鵺と烏天狗を睨みつけた。

「な、なんじゃい」
「失敬、我々は―――」

「…邪魔」

「う、む」
「り、了解した」

一言だった。
その冷たく無機質な一言に、大陸に冠たる三大妖の戸張と霧生はスゴスゴと部屋の端のほうに逃げていく。ちなみに酒瓶とか徳利は持ったまま。
どうやら彼女が不機嫌極まりないと悟り、南の笑顔も強張っていく。
雪見は苛立たしげに両目を閉じて、ドシンと優雅さの欠片も無くベッド脇のイスに腰掛ける。その動作動作にビクリと震えている南に、雪見は片目を薄く見開いて訊ねた。

「怪我、大丈夫なの?」
「はぁ、まあ大体」

気の抜けた笑いに、安堵の入り混じった嘆息を零しかけた雪見は、だが次の瞬間愕然となった。

「それ…どうしたの」

触れるのを怖れるように震えながら伸びる雪見の手は、包帯に包まれた南の左腕に幽かに触れ、ビクリと拳を象った。
どう見てもその左手は、二の腕から先が無くなっていたから。触る事なんて怖くて出来なかった。

「ああこれ? ちょっとドジってねぃ。切らないと腐るってんでこうバッサリと……って、雪さん?」

何でもないと首を振る。
荒れ狂う感情を押さえつけるように大きく息を吸う。
何かを言うべきなのに、言葉がなにも見つからなかった。謝る事は出来ない。謝るという事は彼に命じた作戦が間違っていたという事になる。確信はある。自分たちが組み立てた策に間違いがなかった事を。ならば、謝る事はしてはいけない。してしまえば、関わるすべての者を冒涜することになる。
雪見は思わず内心自嘲の笑みを漏らした。自分は随分と酷い人間だ。平気で兵士たちを死地へと赴かせるくせに、いざ親しい者が傷つくと愚かしいくらいに動揺してしまう。これで戦が決して嫌いではないというのだから救いようが無い。
自分がもう善良なる一般人とは違うのだと、英雄もしくは極悪人に類される人間なのだと自覚するのはこんな時だ。

だから、そんな落ち込んだ心境の時にそっと手を握られると、どうしようもなくドキリとする。

「そんなヘコんだ顔しなさんなって。似合わないよん」
「でも…」
「いいからいいから。他のヤツならともかく、オレの事は気にしないでよね。使い減りしないのが取柄なんだからさ」
「…馬鹿ね、減ってるじゃないの」
「んー、左手ね。無いと困るけど、利き腕は右手だし。大丈夫大丈夫」
「…馬鹿ね」

呟き、それでも雪見は微笑んだ。

「でも、ありがと。よく頑張ったわね、南君」
「うぃ」






「ふーむ、良い雰囲気でござるな」

完全に同じ部屋にいる他の連中を無視して、自分たちの空間を作り出している二人に呆れた眼差しを向けながら、雷獣 嵯峨未は視線を同じような口調で呟く。
そして、視線を前へと戻し、やっぱり呆れて呟いた。

「で、此方はそんな事など構う暇も余裕も無し、でござるか」
「うむむむむむ」

唸るミイラ男。
犬みたいにお坐りしている嵯峨未の対面で、全身を包帯で覆われた男が脳味噌に熱を篭もらせて延々と唸っていた。
その正体は、カノン皇国北方軍団司令官 斉藤啓伯爵である。
ラルヴァ集団の中核に突撃し、暴れ狂っていたものの、その圧倒的な戦力差に満身創痍となっていた所を彼――雷獣 嵯峨未とその軍勢に助けられた斉藤であったが、それこそ全身傷だらけの半死半生。今もこうやって包帯でグルグル巻きにされてる次第。

「こ、これならどうだ!」

と斉藤君、叫んでビシリと眼前に据え置かれた将棋盤に自分の駒を叩きつける。
ふむ、と一瞬黙考した嵯峨未は、器用にその爪先に駒を挟むと、ピシリ、と心地よい響きと共に指した。

「グガッ!?」
「まだまだですな、斉藤殿」
「ま、待っただ、待った嵯峨未師匠」
「師匠と言われても……まあ構わぬが、もう十二度目でござるぞ」
「ふぬぬぬぬ」

何故か必至に将棋を指している斉藤君と嵯峨未。その背後では、南のところから追い払われた鵺の戸張と烏天狗の霧生が、めげる事無く南と雪見を肴にケタケタと笑いながら酒をかっ喰らっていた。
大陸に冠たる三大妖のこいつらがどうして此処にいるかというと、何がどうしてどうなったのか南&斉藤と嵯峨未が意気投合してしまい、病室に入り浸っている内に戸張と霧生まで何時の間にやら加わっていたのが真相である。
ちなみに将棋の方は斉藤の連戦連敗。現在は三妖の内で一番弱い嵯峨未が相手をしているものの、どうやら斉藤の一方的劣勢のようだ。ちなみに南は相手をしてもらってない。弱すぎて勝負にならないのである。下手くそだから。

「ぬぬぬぬ」

幾ら唸れど状況は変わらず。
仕方なく、斉藤が参ったと云おうとした瞬間、唐突に涼やかな声が降って来た。

「何してるの?」
「うわっ!? って川名さん!?」
「あ、その声は斉藤君だね、こんにちはー」

ニコニコと無邪気に笑う川名みさき。どうやら漸く追いついてきたらしい。

「ふむ、何をしていると、見ての通り……と、相済まぬ。御眼が不自由であられるのでござるな。そもさん、今将棋をうっていたところでござる」

断ってから自らの素性と名前を告げる嵯峨未にペコリと挨拶し、みさきは斉藤に悪戯っぽく問い掛けた。

「ねえねえ、斉藤君。その様子だと負けてるんでしょ? 変わったげよっか」
「はい? え、でも…」
「大丈夫大丈夫、駒の位置を教えてくれればいいから」

実に楽しそうなその声音に、斉藤はたじろぎながらたどたどしく駒の配置を口に出して告げる。

「ふーんなるほどね。うん、だいたい分かったよ。それじゃあ変わってもいいかな、雷獣さん」
「あ、ああ構わぬでござるよ」

思わぬ展開に見惚れていた嵯峨未はいきなり自分に声がかかり、黄金の鬣を震わせながら答える。
みさきは嬉しそうに頷くと、斉藤に指示を出し始めた。


そこからは怒涛の展開だった。
最初は盲目の棋士に興味深げに視線を送っていた雷獣だったが、あっという間に優位だった展開がひっくり返され、表情が険しくなっていく。
終いには悩みに悩みまくった挙句に紫電の火花さえ放ち始める始末。

「なんじゃい、嵯峨未。お主負けとるんかい?」
「ふん、未熟だな、なんなら変わってやろうか」
「そ、そんな事を云うならやってみせい」

と、まあ霧生と戸張が加わって、実質三対一。


そして、結果は?



「ほい、8六の飛車で七手先の詰みだよ」
「「「な、なんとぉー!?」」
「す、すげえ」
「うっふふー、十年早いんだよ! ってやつかなー」

と、得意満面のみさきさんに。


「負けたぞ?」
「負けたな」
「に、二十年も生きてない人間に…か、完敗…」

何やら、八百年の人生がどうのこうのと呟きながら、いきなりどよーんと落ち込む三大妖。


「見舞いにきたぞー…って、何やってんだ? あんたら」
「…ふえ〜」


瑞佳と連れ立って見舞いにやってきた浩平が見たものは。

何とも形容し難いほのぼのとした空間を作り出している南・雪見と、ひたすら将棋版を覗き込んで感心している包帯まみれの斉藤。
そして、何故か並んで窓から空を眺めながら黄昏てる人外三匹。
最後に、誰も相手にしてくれなくなったので、自分が持ってきた見舞いの品を食い漁ってるみさきの姿だった。


「瑞佳」
「なに? 浩平」

ぼんやりと異空間を眺めながら、浩平がポツリと呟く。

「帰るか」
「そだね」












カノン皇国 スノーゲート城政務院次室



「――ああ、そうだ。今期の予算配分について通商部との折衝に関連する資料を集めておいてくれ。それから水軍の再編成に―――」
「俊平さんッ!」

後背部から轟いた突き刺すような清音に、久瀬俊平はビクリと背筋を震わせて、恐る恐る振り返る。
予想通り、そこには仁王立ちに自分を睨みつける美少女の姿があった。倉田佐祐理公爵令嬢兼カノン皇国宰相閣下である。そして見るからに凄く怒っている。とても怖い。
一緒についてきたらしい川澄舞と倉田一弥の二人も、それまでの朗らかな様子からいきなり豹変して怒声をあげた佐祐理に驚いて飛び退いてたりしてる。

「何をやってるんですか。絶対安静だって言われてるでしょう!」

久瀬は思わずどもりながら抗弁した。

「いや、しかし……陛下の意識もまだ戻っていない以上、僕がやっておくべき仕事はですね…」
「御黙りなさい!」
「…くぅ」

黙りました。
普段は朗らかな笑顔しか浮かべていないだけに、表情を変えると凄まじく迫力があるのだ、この人は。

「仕事どころか、まだ動く事さえ無理がある身体なんですよ! ちょっとはご自愛してください」

彼女の云う通り、久瀬が受けた傷はまだ塞がっていない。何しろ、身体中の至る所を穿たれた上に、その身体で数時間に渡って軍勢を指揮したのだ。仕事をするどころか動くだけでも耐えがたい激痛が全身を襲っているはず。
ちなみにあゆの治癒は受けてはいない。翼人の回復魔術は傷を受けた直後でないと上手く治癒しないのだ。下手をすれば、自然治癒力が変に活動して、肉体に異常が起こりかねない。
そしてなにより、完全に欠損した部分を再生する事も出来ないから、久瀬俊平の右目は黒い眼帯によって覆われたままだった。
後に、その姿と悪辣非道・冷酷無比な手腕からグラクティカ連合帝国や栴帝国の者たちに【隻眼の毒蛇】と呼ばれ、蛇蠍のように怖れ嫌われる事になる久瀬ではあったが、今はタジタジとその怜悧な面差を引き攣らせているだけである。

「でも、ですね、それだと仕事が溜まる一方で…」
「そんなものッ……ええっと、舞がやってくれます!」
「…え? 私?」

完全に見物に回っていた川澄舞は、いきなり自分を指差され、その無表情な美貌を引き攣らせた。

「だからちゃんと寝ててください。いいですねっ」
「は、はぁ」
「では行きましょう!」
「はい、って、ええ? あの、その、倉田さん? ちょ、ちょっと――」
「あっははーーっ!」

意気揚揚と、久瀬を車椅子ごと引き摺って立ち去っていく佐祐理を呆然と舞と一弥は見送った。

「ね、姉様ってば、帰ってから…こう、なんかアレですね」
「…ん」

ガディムとの直接対決を終えて帰ってきた佐祐理の、久瀬の惨状とその原因を知った時の取り乱し様と落ち込み様が凄まじかっただけに、今のハイテンションには多少引くものがあった。

「川澄卿、通商部との折衝に関する資料の件なんですが」

トントンと肩を叩かれ、振り返った舞は青ざめた。
ズラリと並んだ役人やら軍人やらの悉くが、自分に熱気の篭もった視線を向けているのを見て。
どうやら構ってくれるらしいと考えた彼らは、一斉に口々に喚き出す。

「海外派遣用の令外官の配置に関してですね――」
「西部地域の収穫税の収拾状況についてのご報告を――」
「打撃騎士団・近衛騎士団の損害報告と再編成計画が――」
「『雪風』に配属する水兵の選抜状況の――」
「明日暇ですか? できればご夕食など――」
「城下に最近頻繁に出没する窃盗団についての対処――」
「財務卿から緊急予算配置に関しての意見書が――」


「…一弥ぁ」

怖い大人に怒鳴られた子供のような涙目で振り返ってきた舞に、一弥は何ともいえない苦笑を浮かべて答えた。

「あははー、ぼ、僕も手伝いますから、何とか後で姉様たちがやり易いように纏めましょう。あ、決済とかハンコとか押したらだめですよ舞姉様、僕たちには権限無いですから」
「…わかった」












カノン皇国 スノーゲート城奥の院



孤独を知らない者は、きっと孤独に晒された時、それに耐えられない。
もしかしたら、あたしだけかもしれないけれど。

あたしは孤独に耐えられない。
あたしは喪失に耐えられない。

あたしは、とても弱いのだ。

あたしは強くなろうと思った。彼に守られるに相応しいお姫様になろうと。
でも、独りになる事に耐える、その強さだけは手に入れられなかった。
きっと、信じ込んでいたからだろう。だれも、自分の元から居なくならないんだって。

分かっていたはずなのに。

母が死んだ時。父が死んだ時。そして、水瀬の小父様が亡くなられたその時に。

いつか、人は居なくなるものなのだと。


あたしは、怖い。

目を覚ますのが、怖い。

あの空の下、冷たく無慈悲な風が吹くあの荒野で、彼がたたえていた眼差しが。
自分の中の怖れを凝り固まらせる。

起きてしまえば、分かってしまう。
目を覚ましてしまえば、否応無く知ってしまう。


果たして、自分は彼を喪ったのかどうかを。


それでも、目覚めなければならない。
幾ら怖れても、目を覚まさなければならない。

終わりは訪れる。どう足掻こうとも訪れるのだ。
先延ばしにすることは出来ない。
終わりの果てにある始まりを、知らなければならないのだ。






「―――――――っ!?」

空気を吸い込もうとする意思と、息を吐こうとする身体が正面からぶつかったような感覚。
呼吸が止まり、息が詰まる。
苦しさから逃れるように瞼を開け……美坂香里は目を覚ました。覚ましてしまった。

「…あ」

酩酊する意識は、今の自分の状態を理解できなくて、ぼんやりと周りを見渡す。
白い壁。白いカーテン。開け放たれた窓からは、記憶が途切れる直前に見た空よりもやや穏やかな青色と、長閑な白い雲のたなびく様がよく見えた。
ふんわりと身体に何かが圧し掛かる感覚。柔らかく、身体が沈む感覚。ようやく気付く。自分がベッドに身を横たえている事に。
静かで、気が遠くなるほど静かで、香里は訳も分からず何もかもが恐ろしくなった。
あまりにも穏やかで、あまりにも平和に見える世界が、恐ろしかった。

と、静寂に紛れて聞こえてくる…それは吐息。
静けさの中に音を聞き、恐怖に縛られた体が解きほぐされた。ほう、と大きく息を吐く。
落ち着いた心であたりを窺うと、規則正しい呼気はすぐ真横から聞こえた。
身体を起こしながら、促されるように音の元を視線が辿る。

「……あ」

ポン、と背中を押されたように、肺の奥から吐息がこぼれる。
その音色は寝息。ベッドの端に頭を乗せて、スヤスヤと寝息を立てている、それは誰よりも求めていた彼の姿。
窓から差し込む日差しに照り返って、彼の髪の毛はキラキラと煌めいていた。
トクン、と心が鼓動を弾く。
それは、無くしてしまった、諦めてしまった宝物を、偶然見つけてしまったような……。
そんな信じられない心の停滞。

「きたがわ…くん」
「う…ぅん?」

思わず口ずさんだ名前に応えるように、少年は目を覚ました。ヒョイと顔を上げ、一瞬寝ぼけた両目で此方を見つめ、物凄い勢いで立ち上がる。

「か、香里ぃ! 眼、覚ましたのか!? はぁ、良かったよぅ、もう全然起きないから心配で心配で、どうしようかと思ってたんだぞ」

涙目になりながら跳ね回る彼をぼんやりと見つめる。
そうだ、彼がそこにいるのが信じられずに。

でも、呆けた心で一つだけどうしようもなくそれは刻まれた。奇跡を目の当たりにしたかのように。

「北川君…あたしのこと、名前で……呼んで」

掠れた声は、彼には届かず世界に溶けた。でも、彼は振り返る。美坂香里が呼んだなら、彼はいつでも振り返る。

「香里? ど、どうした? 大丈夫なのか、ぼんやりして。も、もしかして傷、痛いのか?」

ぼんやり、というより呆然としている香里の様子に、北川はオロオロと慌て出し、顔を寄せ、次はやに問い掛けてくる。
痛くない、と首を振り、でもやはり頭の中は停止気味で、香里は訊ねる。

「どうして…ここにいるの?」
「どうしてって、そりゃお前、香里の看病にだな―――っ!?」

別に悪い事なんかしてないのに、何故かしどろもどろに答えていた北川は、ギョッと言葉を詰まらせた。
呆然とした表情のまま、ボロボロと涙を零しはじめた少女を見て――。

「か、かお―――!?」

いきなり泣き出した少女に慌てふためき名前を呼んで落ち着かせようとした北川は、次の瞬間さらにパニックに陥った。
すっと伸びてきた彼女の手のひらは、躊躇うことなく少年の頬を挟んだ。
その手のひらは冷たくて、火照った頬に心地よく……。

「…ああ、触れる、此処に居る。幻じゃないんだ。もう、いないんだと思ってた。あたしの手の届かない場所に行っちゃったんじゃないかって、思ってた」

そして手のひらは頬をすべり、頭の後ろに回される。
逃がさないように、消えてしまわないように。
北川はなすすべも無く、香里の胸に抱き締められた。

「はえ? ちょ、ちょっと、ふぁ…」

薄絹越しの柔らかな胸の感触に、北川の顔が沸騰したように真っ赤になる。
でもそんなこと、微塵も気にする事無く、香里はひたすらに少年の頭を抱き締め続けた。泣きながら……。

「よか…った。よかった。居てくれた。ここに居てくれた。北川くん、北川くんッ」

あたふたと慌てていた北川は、泣き咽ぶ彼女の様子に虚空を掻いていた両手をギュッと握り締めた。
そしてしばし迷ったように泳がせていたそれを、そっと彼女の背中に回す。
宥めるように、そっと抱き締め返す。
抱き締める事で、動揺していた心が落ち着いた。彼女の鼓動が聞こえる。途絶える事無き安らぎの音色が。

「なぁ、香里。大丈夫、大丈夫だからさ。もう、どこにも行かない。ちゃんと側に居るから。約束、守らなきゃいけないもんな。だから、もうどこにも行かない。ずっと、ずっと側に居るよ。だから、もう泣かないでも大丈夫」
「ジュン…くん」

あたしはどこか陶然と、彼の名前を口ずさむ。


彼は今、あたしに言いました。どこにも行かないと。
彼は今、あたしに誓ってくれました。ずっとずっと側に居ると。

それは夢のような、蕩けるような、誓約でした。


スッと抱き締めていた手を解く。自然と向き合う形になる。
涙で顔を濡れそぼした少女、それをどこか照れたように顔を赤らめたまま見つめる少年。
香里は泣きながら笑みを浮かべた。
自分の顔がどれほどものすごい事になっているだろうかと想像し、赤面する。
今の自分が、まったくらしくない事をしていると今更のように自覚し、熱を感じる。
でも、それでも…そんないつもと違う自分が、今はただ心地よかった。

夢心地のまま問いかける。

「ねぇ、約束の続き、覚えてる?」
「え? つ、続き?」
「そう、続き」

泣き笑いの表情に、悪戯っぽい笑みが深まるのを見て、北川は頭の中が沸き立ってしまいそうなほどの熱さを感じた。
それはとてつもなく、そう、何もかもを溶かしてしまいそうな笑顔だったから。
熱病に冒されたみたく、心がぼぅっとなっていく。
涙に濡れた微笑が近づいてくる。頬に伝う、煌めく涙の色がよく見えた。泣いた所為か、彼女の瞳は潤んでいて――。

…綺麗だな。

ただそれだけしか考えられず、ぼんやりと瞳の色に見惚れていた。


「…ぅん」

幽かな吐息が肌を擽る。唇に感じる其れは、彼女の温もり。
ポカンとしながら、視界を覆い尽くす大きな瞳を見つめていた。
彼女の瞳は眠るように閉ざされ、釣られて北川も瞼を閉じた。
そうすると、感覚の総てが唇に集中する。あまりの快感に、意識が酩酊した。
だから、それがスッと前置きなしに離れてしまった事に、名残惜しさを感じる。
瞼を開くと彼女の瞳が見えた。やっぱり、その瞳は潤んでいて……綺麗だった。

「約束、ちゃんと守ってくれたらもう一度キスしてあげる…ってね。お姫様のキスを……」

思い起こすように、一言一言ゆっくりと、静かに、大切に言葉を紡ぐ香里。
そう、それはあの子との…美坂香里との大事な大事な約束。彼女が自分にしてくれた大切な約束。
まるで、あの時そのままのように情景が浮かんでくる。
クスリと笑いながら香里は囁いた。

「約束……守ってくれた、お礼。もう、お姫様じゃなくなっちゃったけど」
「……香里」

北川は思わず自分の胸を鷲掴んだ。何かがジリジリと胸の奥底からせり上がってくる。胸を突き破って飛び出しそうなほどに。
これは…いったい…なんなんだろう。

あはっ、と香里は本当に困ってしまったように苦笑した。

「参ったわね、ホント。こんなの、あたしらしくないのに。本当に、ダメになっちゃったわ」
「なに…が」

ホント、参っちゃった、と呟きながら香里は鼻をすすった。笑みと涙を零しながら。

「あたしね……」

小さな唇が開かれる。

「あなたのこと……」

そして、風鈴のような涼やかな声が聞こえた。


―――ほんとうに好きになっちゃったみたい―――


「……ぁ」

沈黙が訪れた。
それは、溶けてしまいそうなほど熱くて、確かな沈黙。

お互い、吸いつけられたみたいに無言で見詰め合う。
分かっている。もう、何も考えられなくなっている。
彼女の、その柔らかな微笑みを見てるだけで……どうしようもなく狂おしく。

スゥっと……香里は瞳を閉じた。
眦から宝石みたいな涙がツツっと流れ落ちた。魅入られたみたいに見ていた。
無防備に、本当に無防備に目の前に在る愛しい人の美しい面影。
それは夢でもなく、幻想でもなく、潰えることなくそこにある現実。
無言で右手を頬に添える。一瞬、ピクリと震え、そしてすべてを委ねるように、ねだるように右手に頬を擦りつけてくる。
その瞬間―――何かが消し飛んだのが分かった。

無造作に唇を重ねる。最初は啄ばむように、そして次第に溶け合うように……
身体中が熱くなっていく。意識が白く消えていく、はっきりしてくる。矛盾していく。
溶けていく。舌が絡まっていく。
お互い貪るようにお互いを求めていた。
やがて名残惜しげに永遠と続くと思われた唇の重なりが離れる。
だが、止まらない。止めるつもりもなかった。
その唇を彼女の白い首筋に這わせていく。

「っ、はぁ」

小さく、だが悩ましげな吐息が漏れる。それが麻薬のように脳を冒していった。
彼女の身体を抱き締める。温もりを逃がさないように。

「もう、離さない。絶対に離さないから。絶対に…絶対に。北川くん、好き、大好き」
「香里、俺も、俺も好きだ、愛してる、香里、香里、香里ッ」

餓えを満たすように彼女の名前を呼んで呼んで、唇を貪り、互いの舌を絡ませる。
柔らかな肢体を薄絹ごしに感じる。豊かな胸のふくらみ、腰のくびれ。すべてが凶器となり脳髄を破壊していく。全身が痺れていくような快感に犯されていく。
そして二人はベッドに崩れ落ちるようにして――――――


――バタン

「北川くん、香里の様子どうか……あっ」

いきなりドアを開けて部屋へと入ってきた名雪が声をあげる。

「あれ、どうしたの名雪さん…あっ」

続けて入ってきたあゆも声をあげた。
名雪の背後から、一番最初に部屋を覗いた祐一だけが、声もあげず眼を瞬き、ついでゴシゴシと眼を擦った。



「香里、よかった。目を覚ましたんだ」

そして名雪は満面の笑みを浮かべて香里のベッドに駆け寄った。

「名雪、あゆちゃん、それに相沢くんも」

ベッドに身を起こした香里が訪れた三人を優しげな笑顔を浮かべて迎え入れる。

「もう、眼を覚まさないから心配したよっ」
「心配かけたみたいね。傷、あゆちゃんが治してくれたんでしょ? ありがと」
「う…ん」

不意に、あゆの面差が曇りを帯びた。

「あの…ね、ごめんなさい。傷痕…治せなかったんだ。けっこう、酷いのが残っちゃって……」
「良いわ、そんなの。生きていられるんだから、それでいい。だから、ありがと、あゆちゃん」
「…うん」

それでも落ち込むあゆの手を、香里はそっと両手で覆った。何の含みも無い、感謝を込めて。
そんな二人を優しく見つめていた名雪が、ふと思い出したようにキョロキョロと部屋を見渡す。

「あれ? 香里、北川くんいなかった? おかしいなぁ、北川くん、ずっと眠ってる香里に付き添ってたんだけど…」
「…さあ、見なかったけど…」

さも分かりませんといいたげに首を傾げてみせた香里は、スッとこれまで全く発言していない男を見据えた。

「……どうしたの? 相沢くん、入ってきたっきり黙ったままで…」

無言で顔を引き攣らせていた祐一は、硬直が解けたように香里を見やり、恐る恐る口を開いた。

「あー香里?」
「なに?」

心なしか部屋の室温が下がったような気がした。

「さっき俺たちが入ってくる直前、窓の外になんか思いっきり投げ捨てなかった――か」

急激に室温が低下していくのを感じて祐一は疑問符を嚥下して、口篭もった。
香里がじぃっと凍るような眼で見つめている。

「あうっ、な、何でもありません」
「そう」

圧迫感から解放され安堵の溜息をつきながら祐一はポツリと呟いた。

「ここって9階なんだよな」
「そう、それで?」
「いえ…なんでも」

平然と言い返す香里に、祐一は投げ捨てられた人に内心で合掌した。



「……離さないって言ったのにぃ」

さめざめと涙に濡れながら、北川潤は非常に情けない声で泣き言を漏らした。
最近、無闇に頑丈な自分の体がちょっと哀しかったりする北川だった。

「北川さん、どうでもいいですけど、あんまり空から落ちてきたりしないでください。下に居る人が危険じゃないですか」
「…俺が悪いのかな。ああ、悪いんですね、ごめんなさい。だからそんな冷たい目で見ないでちょうだいな、美汐ちゃん。ああ、真琴ちゃんも、頼むから棒の先でつつかないで」

地面にめり込んで泣いている少年を、可哀想な人を見る眼で見下ろしていた天野美汐は、傍らでしゃがみ込んで「ツンツン」と棒で少年を突いている真琴を諌める。

「やめなさい、真琴。うつりますよ」
「え? うつるの?」
「うつらん! ってか、何がうつるんだぁ!」
「馬鹿が」
「即答しないでぇ!」

何となく、扱いが以前に逆戻りしてるような気がして、北川潤は過ぎ去りし日々に思いを寄せる。

「うう、さらば英雄の日々。こんにちは、愛欲の日々」

意識せず口ずさみ、それが引き金となって北川は先程の美坂香里との会話やらキスやら、もうちょっとだった展開を思い出す。

「う、うへへへへ、香里ぃ……激ラブッ!!」

妖しすぎる動きと唸り声で身悶えし始めた北川に、真琴は怯えて美汐に抱きつく。

「み、美汐ぉ、怖いよう」
「大丈夫です、真琴。私がついています。とりあえずこれは燃やしておきましょう。えい、煩悩退散!」

ヒラリと飛んだ一枚の呪符が哄笑する北川の額に張り付いた。

「うひゃひゃひゃひゃ…お? おおおおお!?」

ボッ、と元気良く燃え出す呪符。そしてあっさりと炎に包まれる北川潤。

「あぎゃあぁぁぁぁぁぁ! あちぃぃぃぃ!」
「あれ? 燃え尽きませんね。ではもう一枚」
「やめてぇぇぇ!」


悲鳴やら絶叫やら。
名雪たちと談笑していた美坂香里はチラリと窓から外の騒ぎを見下ろし、無意識に幽かに濡れた唇を舌で舐める。
彼の味がした。


「……ばか」



心臓が―――トクンと―――弾む音が―――聞こえた。











   そして……




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