「イヒッ、キヒャ、ヒャアハハハハハハッハハアハハハハハハハ」

嗤う、嗤う、狂気が嗤う。腹の底から、心の底から。
ああなんて…楽しげで、惨たらしくて、喜悦に満ちた笑い声。その歪んだ戦慄は、長く永く、引き攣るように響き続ける。
それは、百年前にこの地に響いた歪みと寸分違わぬモノ。
この世で最もおぞましい狂人の笑い。
嘲りと、愉悦と、狂気に満ちた邪の笑い。

少女を蹂躙していた赤黒い触手の束が、巻き戻されるよう引き抜かれ宙をのたうつ。虚空に振りまかれる紅の糸。
幽かに地より浮かんでいた少女の身体が、支えを失い力無く大地に投げ出された。
戻っていく触手を辿れば、それが居る。笑い声の主。悪意の権化。狂気の具現がそこに居る。

それは肉の塊だった。

およそ、この世のものとは思えぬ肉塊が、突き出した右手らしきものから触手を滴らせ傲然と立っていた。
余りにも醜悪。余りにもおぞましい。それは肉の塊でありながら、生きていた。生きて、嗤い、狂っていた。
それが生きているという事実が、狂気そのものであり悪夢そのもの。
その全身は血に塗れ、肉を露出し、膿を溢れさせている。覗き見える白い骨、筋肉の繊維。
切り刻まれているのだ。その隅々まで、隙間無く、切り刻まれているのだ。それはもはや人の姿にあらぬ怪物。
体中から皮膚と肉の切れ端をぶら下げ、裂かれた腹から千切れかけの臓物は零れ、脳漿を側頭部からはみ出させ、相貌を崩し、人型を滅し、それでも肉塊は嗤っていた。

嗤う肉塊、その名を高槻という。

「アアアア、痛ヒ、イタイイタイタイィィ!! キャハハ、痛イイタイ、ああ、気が狂いソウダアァ。デ、でも、し…しししシしシ死ナねェ! おおおオレはシなねぇ。殺さレたッテ、死ヌものかヨ!
あひゃ、あひゃひゃひゃひゃ、死ヌのは貴様ラだぁぁぁ!!」

全身を百の妖刀で串刺しにされてなお、高槻は死なず、現世にしがみつく。
憎悪にも似た、それは生への執着、執念、怨念。

「生キてやる。死んデたまるカよ! オレは永遠ニ生きルんだ! 永遠に、オレはこの世ヲ犯すンだヨ! 絶対に生キテやるんだぁぁ!! あハ、アヒャヒャヒャヒャァァァ!!」




狂笑が聞こえる。腐臭が漂ってくる。悪意と憎悪が突き刺さる。でも、心は何も感じない。
ただ雑音のように、ノイズのように脳裏に響くだけ。そんなもの、もうどうでも良かった。
北川は足取りも覚束なく倒れ伏す香里へと掛けより、崩れ落ちるように膝を付く。
復讐も、仇敵も、なにもかも、どうでもいい。
ただ、目の前の少女だけしか世界に存在しなかった。彼女以上になにも大切なことは無いのに。それなのに。

朱の泉にまどろむように、彼女は鮮血の中で倒れていた。
震える手で抱き寄せる。
少女の身体は、包んでしまえるほどに小さく、まだ暖かかった。

「嘘だ、嘘だろ、なんでこんな…こんなぁぁ!!」
「きたがわ…くん?」

腕の中で薄っすらと、美坂香里の瞼が開く。鳶色の瞳に、自分が映る。

「美坂、美坂ッ、畜生なんでこんな事するんだよ、なんで俺なんか庇うんだよッ、馬鹿野郎ぉ!」

ああ、と呟き、彼女は微笑むように瞼を閉じた。

「ちょっと前に……言ったわよね。機会が、あったら、何度でも、やるって」

言っていた。火炎の檻に包まれた中で。彼女は微笑みながら、言っていた。
忘れてなんかなかった。その言葉、忘れてなかったのに……自分は、その本当の意味を、言葉が齎すものを理解していなかった。
自分があまりにも馬鹿で、愚かで、救いようがないって。知ってたのに、またこんな風に思い知らさせて。
北川の唇が開き、食い千切るように噛締められた。破れた皮膚から鮮血が滴る。
身も心も引き裂かれるように散じりに。ただ情けなくて、悔しくて。そんな自分が憎かった。涙が、溢れてくる。

「俺みたいな役立たず、助ける必要なんてないのに。俺、もう死んでる人間なんだぞ、死人なんだぞ。それをなんでお前が身代わりになるんだよ。
違うじゃないか。こんなのあっちゃいけないんだ! 何のために俺がもう一度生まれたんだよ。おまえを守るためだったのに。絶対に守り抜くためだったのに。
これじゃあ、これじゃあなんにもならないじゃないかぁぁッ!」

何のために、この世に再び舞い戻ったのだろう。
意地汚くも、この世に縋りついた結果がこれだというのか?
この結末だけは許せないと、そう怨念の如く呪った結果がこれなのか?
怖れていた事が、それだけはさせちゃいけないと思っていたことが、今此処に現実となろうとしている。
かつての自分の復讐が、美坂香里を殺そうとしている。

絶望が、北川を塗りつぶしていく。
真っ暗で何も見えない闇の底。冷たくて、寂しくて、涙まで凍りそうな冥府。

そんな北川の奈落を、だが美坂香里は知らない。
彼女が知るものは、彼女自身の絶望のみ。
だから、彼女は朦朧とした意識の中で澱みなく言葉を綴る。

「言った、でしょ。今、言ったじゃない。あたしは、許さない、って。あなたが、消えるのを許さないって。あなたを、誰にも渡さないって。
北川くんを、あんな、やつに、殺させてたまる、もんですか。絶対に、あたしの前から、消えるなんて許さない。許さないんだから」

ぐしゃぐしゃに泣きながら、北川は言う。

「お前が死んじゃったら意味無いじゃないかぁ!」

自分の血に濡れた香里の顔がキョトンとなり、そして張り詰めた糸が切れてしまったみたいに…フッと、苦笑を浮かべた。
それは、思わず見惚れてしまうほど、透き通るような微笑みだった。

「うふ、ふふ、ホントね、そうだわね。あた、しが死んじゃったら、意味、無いわね。
ホ、ントに、あたしってば、時々、間が、抜けてるのよね。あんまり、栞のこと、笑え……げふっげほッ」
「美坂ぁぁ!!」

桃色の小さな唇が、ルージュを塗ったように紅く染まる。
口端から流れる一筋の鮮血が、ぞっとするような美しさを美坂香里に与えていた。
美坂香里は血を吐きながら、

「ああ、そっか。死ぬ、のか、あたし」

と、呟いた。

死とは、美の一つの極致。そう云ったのは、果たして誰であったのか。
悪魔のようなその言葉。だが、それは一つの真実。
その証が、此処にあった。

でも、証があろうとも認めてはならない時がある。
彼女が死ぬなんて、認めるわけにはいかなかった。

「そんなこと言うなッ、お願いだから、もう喋らないでくれよぉ」

苦しげに一度閉じた瞼から、ツツゥと流れる涙の雫。
その顔に、雨のように降り注ぐ少年の涙。

これじゃあ、あの時と一緒だ。佳織が死んだ時。殺された時。
何一つ変わらない。
鮮血の泉の中で。絶望。闇に墜ちた時。日常の終わった日。北川潤が最初に死んだ時。
一緒だった。これじゃあ何も変わらなかった。


目の前で、また、死ぬ。


大好きな、少女が、死んで、いく。


「なんでだよ、なんでなんだよ。畜生ッ、どうして、どうしてぇぇ!!」

叫んでも、叫んでも、何も変わらぬこの運命。
故に運命を呪う。すべてを呪う。
何より、この悪夢を防ぐことのできなかった自分を呪う。彼女を殺す自分を呪う。
この光景を、現出させないそのために。そのためだけに、北川潤は死すら否定したのに。
結局、なにも、出来なかった。
なにも、変えることが出来なかった。
自分が彼女を殺してしまった。


誰よりも隣で笑っていて欲しかった少年の悲鳴を聞きながら。
涙の味。血の味と混ざった不思議な味を噛締めながら、美坂香里は口ずさむ。

「いや、よね。死ぬの、いやだな。きた…がわ、くん、あたし、死に、たく、ない」
「美坂ぁ美坂ぁ、みさかぁぁぁぁ!」

狂ったように呼びかける彼の声に、美坂香里は瞼を開いた。
眩しい空。眩しい青色。眩しい世界。
そんな視界に一杯に広がる北川潤の泣き顔。

子供らしさが抜けない童顔を、くしゃくしゃに歪めて。
少年は泣きじゃくっている。泣きじゃくっている。


―――泣いてる?


歪み、掠れる意識の中で、美坂香里は不思議な感覚を覚えた。
それは経験の無い記憶。知らない夢。

ああ、あたしはその泣き顔を知っている。

魂が覚えている。確かに、覚えている。それは哀しい記憶。きっと、とても哀しい記憶。
その記憶は意識の奥底でずっと昔から…そう、生まれたその時から、確かに息づいていたのかもしれない。
その泣き顔は、深く深く自分の中に刻み込まれていたのかもしれない。

だから―――

「だからあたしは、あなたの笑顔が好きだった。初めて会った時から、あなたの笑顔なんか見たこともなかったのに。そう、あたしはあなたの泣き顔じゃなくて、笑顔が好きだった。子供の時の素敵な笑顔。軽薄で、どうしようもない笑顔。あたしに怒られて、泣きそうな笑顔。何も考えてない能天気な笑顔。
泣き顔じゃなくて、笑顔が好きだったの」
「美坂ぁ!」

そっと、手を伸ばし、彼の頬に手を添え、涙を感じた。
慰めるように涙を拭い、美坂香里は微笑んだ。


体中、熱い。
意識が、重い。
でも、心だけが、軽い。
雲のように、風のように。

「そして、あたしは、そんなあなたが、あなたが好き」

本当の心の中身を言えたことが、とてつもなく嬉しかった。


「北川君が大好き」


嘘偽り無い想いを告げられた事が、限りなく幸せだった。



「美坂香里は―――」



―――抱き締めてくれる彼の腕が。



「北川潤を―――」



―――揺り篭のように心地よくて。



「誰よりも――――」





――――まどろみの中に。




――――墜ち、て……




「――――誰よりも、愛してる」




「美坂ぁぁぁぁぁ!!」









―――嗚呼、なんて、愉快。

実に、実に甘美で至福な瞬間。
こんな気分…ああ、そうだ。百年前、あいつを殺した時のよう。
発狂するような激痛も、見る影も無い自分の身体も、どうでもよくなるかのように、スレイヤーの絶望は心地よかった。
これ以上の快楽がこの世に存在するだろうか。これ以上の絶頂が世界に存在するだろうか。

他人の絶望こそが、世界で最高の快楽。

スレイヤーは此方に見向きもせず、此方の声も聞かず、此方の存在すら失われ、それでも高槻は愉快だった。
俺を殺しかけた、こんな姿にした女は殺した。次はお前だスレイヤー。

「おま、お前も殺す殺す殺するるるるる!」

殺す、殺す。これは慈悲だ、スレイヤー。
苦しまずに殺してやろう。いたぶりもせず殺してやろうじゃないか。
その女と、一緒にあの世に送ってやろうじゃないか。
貴様のセリフじゃないが、もう貴様にかかずらうのはいい加減うぜえんだよッ。

「死ね死ね、死ンでオレの前カら消え失セろォォ!!」

殺意が触手を象り、腕だった肉から傷口を広げながら迸る。
北川は微動だにしない。死に逝く最愛の少女を抱きながら、振り返りもしなかった。
彼にとって、彼女以外のことは、もはやどうでも良かったから。自分の死も生も、この憎悪の象徴である高槻ですらも。
もう、北川潤にとって、美坂香里がすべてなのだから。

渦巻く螺旋。触手の束は、違うことなく、北川と香里に襲い掛かる。

「ヒヒャハハハハハハハハアッ! 今度こそ今度コソ、シねェェェェェェェ!! スレイヤぁぁぁぁぁぁ!!」


繰り返す悲劇の宿命。
逃れられぬ運命の災禍。


遥か天上より目の当たりにするその光景に、青年は思考が焼ききれそうな怒りを感じる。


そうだ。
そんなもの、二度と見たくなかった。
二度と、見過ごすことなんてしたくなかった。
もう、諦めないと、決めたのだから。
だから、そんな宿命は許さない。そんな運命は許さない。

絶対に許せるはずがなかった。


「リュカァッ!!」
「だぁッ、ハイよ! 行きな、氷上ッ!」


遥か天空の一点に、紅き瞬きが生まれたのは、その刹那。
瞬きは、一条の紅閃となり、一直線に大地へと突き刺さった。
途端、紅の光が膨れ上がり、宙を薙ぐ触手の束を煮え滾る灼熱の炎に包み込む。
絶望を刻む悪意の触手は火焔の壁に飲みこまれ、灰すら残さず蒸気と化した。


「こ、これは!? ク、真紅の吐息(クリムゾン・ブレス)ダと!? なぜこコにいル、リュくセんティナァァァ!!」

驚愕の咆哮を迸らせる高槻の頭上を、ソニックブームを撒き散らしながら赤鱗のドラゴンがロールを決めながら通り過ぎた。
残った左眼を衝撃から庇う両腕だったものの隙間から、高槻は見た。
赤竜の軌跡に生まれる一つの黒点。
それはみるみる内に独りの人影となる。惹き付けられる視線の先で、人影は光を纏った一人の青年へと変わった。

「――な、に!?」

流星のように落ちてきた青年は、火焔燃えさかる紅の着弾点に突っ込み、地面に激突する寸前、一瞬にして静止した。
フワリと大地に降り立つと同時に、横に一振りされる右手。途端、彼を取り巻く紅が欠片も残さず消し飛ばされる。
紅色の猛々しき火焔の庭が渦巻く場所には、今、寒々しいほど静かな気配を纏った青年が、初めからそこに佇んでいたとでもいうように。
静寂をまとって佇んでいた。


「な、なンだ、貴様はァぁぁぁ!?」

青年――氷上シュンはチラリと背後の北川たちを一瞥し、無言のままスッと高槻を見据える。

―――魂が氷結した。

その眼差しは、【狂犬】と呼ばれた男の魂を凍りつかせた。
それは、かつて自分を殺したスレイヤーのような狂気に満ちた視線でもない。
それは、自分を僕としたガディムのような虚無めいた視線でもない。

それは、死よりも恐ろしい非情の魔眼だった。



「はぁ、たいへんだ、こりゃ」

紅き飛竜の巨体から赤毛の少女に姿を変えて、山肌の岩張りにヒラリと腰掛けたリュクセンティナは、眼下の狂景を眺めながら悩ましげに吐息を漏らす。
嫌悪の対象であった元同輩の末路を思い。
褐色の肌に酷薄な憫笑が浮かぶ。

恐怖と言う名の恍惚を声音に乗せて、リュクセンティナ・ファーフニルは戦慄を詠った。

「あの【蒼血の魔人(デヴィル・オブ・ブルーブラッド)】が怒り狂ってるじゃないか」




青年はフワリと地面に降り立つと、ガタガタと震え出す高槻に向かってゆっくりと歩き始めた。

「く、クルなあぁぁ!」

金縛りを解かれたように高槻は恐怖のままに触手をたたきつけた。
先端で44本に分裂した触手は、氷上に触れるや否やのところでいきなり光の点に包まれ蒸発した。

攻撃を受けた事すらも気にしていないように、氷上は歩く速度を変えない。

「う、ワアアアあああ!」

恐慌が高槻を覆い尽くした。
本能が叫ぶ。生き残ることに特化した高槻の本能が泣き叫んだ。

この男は絶対にダメだと。

今の死にかけの自分では絶対に勝てない。力の殆ど残っていない自分では、こいつは殺せない。
殺せないのだと、思った。
それは、日が西に沈み、夜が必ず訪れるのだという事実と同じぐらいの確信だった。

全身を妖刀の群れに串刺しにされてなお、死ななかった男が恐怖に震え上がった。

恐怖は正常な判断を奪い去る。高槻はあろう事か背を向けて逃げ出そうとし―――。
身を翻したところで愕然とした。
足が、動かない。

ヨロヨロとどこか放心したまま見下ろす。
数え切れないほどの刺傷に身体を支える事すら叶わないただの肉の棒と化している両足。
その千切れかけの両足に、光が突き刺さっていた。膝裏を貫いて、地面へと縫いとめて。

「う…あ…あああ」

高槻は、無理矢理両足を引き千切って逃げようとして、硬直した。
ひんやりとした手の感触。首筋に絡み取るように触れられた感触。
遅すぎたことを思い知る。

その手は、死神の掌。
終焉を誘う導き手。

「死を恐れ、死から逃げ去り、死を克服しようという君。君は、永遠を望むのかい?」
「あ…うう」

なんて…声だろう。
人から、一切の感情を消し去った声とは、これほどまでにおぞましいものなのか。
高槻は何一つ答えることが出来ずにただ、震え上がった。

「僕はこれでもそこそこ長く生きてきた。そして、数え切れないほどの者の姿を見てきた。だけどね――」

耳元で、フッと嗤う声がした。

「君ほど醜悪な者は初めて見る」

―――殺される。

思考が、ただ一つその言葉だけに埋め尽くされる。
だが耳元で囁かれる声はそれを否定した。それどころか蕩けるが如き甘美に囁く。

「大丈夫、殺さないよ。君は殺さない。君には僕が……永遠をあげよう」
「えい…えん?」
「そう、永遠だよ。恒久にして無辺。死のない世界を」

言葉が麻薬のように脳髄に染み渡る。そのとき不意に、高槻は視界が揺らいだのを感じた。
驚く間もなく、フィルターをかけたように目に映る世界が白んでいく。ぼやけていく。

「な、なんだこりゃぁぁ!? なにを! いったいなにをしたぁぁ!?」

風が、空気が、色が、匂いが―――何もかもが消えていく。
五感が消えていくのではない。視覚も聴覚も触覚も味覚も嗅覚も正常に作用している。
でも、感じるべき対象が消えていく。
感じるのはただ自らの血の流れ、血の匂い、鉄錆の味、そして全身を貫く気の狂うような激痛。ただそれだけになっていく。

「言っただろう。永遠をあげると。君が往くそこは、時の無い次元の狭間。故に死も一切訪れない」

ああ、でもその代わり。と、彼は思い出したように付け加えた。

「――そこには何も無いけどね」
「な、なに!?」

不意に身体が軽くなり、高槻は痙攣するように這いつくばり、自分を見下ろす青年を見た。
人の形をした、人ならざる者が其処に居た。

笑っている。悪魔のように微笑っている。それは血も涙もないおぞましい微笑。
かつての彼――蒼血の魔人を知る者たちですら、その笑みを前に平静ではいられなかっただろう。
かつての彼の恐ろしさを知る者ならば、正気を保つ事すら不可能であろう。
氷上シュンのその笑みは、怒り狂った魔人の笑みだった。

常に周囲に悪夢と憎悪を振り撒いてきた高槻という男は、初めて真の絶望の何たるかを知った。

「光も無く、水も無く、踏みしめる大地も無く、呼吸するための大気すら無い絶対無。君はまさに永遠のみを得る」
「あ…ああ」
「死なない。ただそれ以外の何も無い、死の無い絶望の世界で狂う事すら出来ぬまま永遠に彷徨うが良いさ。それが君にはお似合いだ」
「や、やめろおおおおおおおおおおお!!」

原形を無くすまでに崩れ、肉と血に塗れた高槻の顔が恐怖に満ち満ちる。なんて醜い顔。
そんな高槻を見る氷上の微笑みは酷薄なまでに優しく…。

「やめる? やめないよ。やめるものか。これは因果の応報だ。君には死すら生やさしい。殺してなんかやらないよ、絶対にね」
「そんな! 嫌だ、いやだぁぁ!」
「さようなら、僕の友を殺した男よ。無限の地獄で時の流れが潰えるその時まで、永劫に悶え苦しむがいい」
「嫌だ、違う、オれが望む永遠ハそんナンじゃネェんだァ! やめロッ、やメてくれぇぇぇぇぇぇ―――え――」

プツン、とテープが切れたように、高槻の悲鳴は途絶えた。

腐臭と血と悲鳴の余韻だけを残し、何もかもが消え去っている。
もはや、そこには―――いや、この世界の何処にも、その醜悪な肉塊の姿は存在しなかった。

悪意の権化。悪夢を誘う者。【狂犬】と呼ばれた男は、こうして最も怖れる死から逃げ切り、この世から消え去る。

――――斯くして、高槻という名の男は、物語の舞台から退場した。







すべてが消え去った跡、氷上シュンは支えを失ったようによろめいた。脳を突き刺すような激痛。失神しそうな喪失感。心を抉りとられたような虚脱感。

無思慮にとんでもない術を使ってしまった。いや、あれは術というよりこの身体の呪いの副作用のようなもの。
多用すればこの身がどうなるか分からない。あの男と同じように永劫の闇に飲まれるかもしれない。
だがそんなことはどうでもいいことだ。あの男には死という安息は優しすぎる。

氷上は頭痛を振り切るように頭を振り、急ぎ北川のところに駆け寄った。

「北川君!!」

声をかけられ、初めて彼の存在に気が付いたのか。
北川は糸が切れたような仕草で振り返った。
もはや、彼の意識には高槻という存在の欠片も残っていなかったのかもしれない。
高槻の生死など、どうでも良かったのかもしれない。

北川は驚くことすらなく、泣きながら喚く。

「美坂が、美坂が死んじまうよ。あいつみたいに、佳織みたいに。嫌だ、もう絶対に嫌なんだぁぁ」
「くそっ」

毒づきながら、氷上は北川の横に屈み、彼が抱く少女の容態を見て、言葉を失った。
傷口の穿孔は七つ。うち二つが動脈を突き破り、三つが臓器を破壊していた。
どう見繕っても、まだ死んでいない方が不思議なぐらいだった。

だめだ。これは助からない。

ごく自然にその結論が出てしまった事に、氷上は憎悪めいたものを感じた。
虚脱に顔を染め上げながら、氷上は力無く少年を見る。
泣いていた。もう、どうしようも無いほど泣いていた。泣いて、少女を抱き締めていた。

思わず、奥歯を噛締める。歯が砕けそうなぐらい。
この少女が死ねば、また彼は奈落のような絶望に墜されるだろう。
二度もそんな絶望に全身を貫かれる。これ以上の悲劇があるだろうか。
そんな悲劇をもう見たくなかったから。絶対に見たくなかったら、自分は自分に課した縛めを解いたのに。

「許せるものか、絶対に」

口ずさみ、決意に眼差しを染めて、氷上は北川に告げた。

「北川君、彼女を地面に寝かせて」
「ひ、ひかみ?」
「早く!」

思考すら半ば停止した北川は、縋るように言われたとおりに香里を地面に寝かせた。

「たす、かるの、か?」
「僕には彼女を癒す術はない」

シュッ、と息を呑む北川に、氷上は諭すように続ける。

「だけど、これを治せる人が独りいるはずだ」

云われ、北川はハッと一人の少女の姿を思い出した。

「つ、月宮か!?」

頷き、だが氷上は緊張した面持ちを崩さず、鼓動を弱めていく少女を見つめる。

「だが、翼人の少女を連れてくるまで彼女が持たない」
「そんな。美坂ッ」

香里はもう、意識もなく瞼を閉じている。
呼吸は荒く、か細く、小さい。
死が、容赦無く彼女を蝕み続けていた。

僕に出来ることは一つだけ。それに賭けるしかない。

氷上は意を決し、静かに呟いた。

「彼女の時を止める」

氷上の言葉の意味を理解できず、北川は呆けたように彼を見た。

「な、に?」
「正確には傷口部分の時間だけを停止間際まで遅くする。だが……」
「氷上!」
「分かってる。躊躇ってる時間は無いみたいだね」

縋るようにぐしゃぐしゃの顔を向けてくる北川を、氷上は直視できなかった。
正直に言えば、成功するかどうかはまったく想像すらつかない。
リュカの魔核に対して使用したのとは訳が違う。あれは、時間凍結の解凍を考慮しないもの。いわば、やりっ放しだ。これなら、失敗はしない自信があった。
だが、彼女の傷口に対する時間凍結の場合、治療する際に時間を解凍しなければならない。そうしないと、治療も出来ず、凍結部分の周囲から肉体が壊死していく。
しかし、一度止めた時間を解凍するなど、正直出来るものではなかった。困難というレベルの話ではない。不可能なのだ。ならば、時間の流れを究極的に遅くさせる以外に方法はない。一度止めたものを動かすより、遅くなったものを元の速度に戻す方がまだ簡単だ。
だが、凍結ではなく停滞など試したこともなかった。時間に対する制御を維持し続けなければいけない。難易度が桁違いに違う。
そもそも、時間凍結は魔術ではなく、自身の技術ではない。自分の身体と魂に課せられた呪縛の副作用のもの。確かな制御など、望むべくも無い。

だが、それでも―――

それでも、やる以外に道はなかった。
絶望を許さないのなら。二度と何もしないことで後悔をしたくないから。

「彼女がどうなるか、分からない。それでもいいかい?」

北川は一瞬怯えたように瞳を揺らした。
喪失への恐怖。拭い去れない悪夢の記憶。
だが、北川ははっきりと頷いた。

「頼む、頼むッ! 美坂を助けてくれぇッ!」

―――頼む。
その言葉のなんと重いことか。なんと厳しいものか。
もしかしたら、自分はこれまでその言葉を聞きたくないがために、人と深く関わることを避けてきたのかもしれない。そんなことすら思った。
ずっと、人の生き死にを見てきた。だからこそ、命の儚さと重さと、強さを知っている。
ならば今は、その強さに縋ろう。その強さを信じよう。

氷上は自らの内側…肉体、そして精神の内側を蝕む何かを引きずり出す。
それを右手に集中するイメージを張り巡らせる。リュカの時とは違い、薄く薄く繊細に、臆病なほど慎重に。
そして、それをそっと傷口に当てた。そして凍りつかせるのではなく、膜で覆うように傷口に染み渡らせていく。
溢れ出て来る鮮血が、ピタリとその動きを凝固させた。いや、分単位、時間単位で見ればその動きは停止していない。だが、それは停止している事となんら変わりなかった。

「いけ…るかッ!?」













その涙を忘れない。その泣き顔を忘れない。その哀しみを忘れない。その別れを忘れない。
最後の記憶。夢の(はて)

水面(みなも)に浮かぶ木の葉のように意識が揺れる。
指先にまで満ち満ちた安寧。暖かな雪に包まれたような仄かな温もり。

光は無く、ただ暗闇が辺りを満たしている。

これが死なのだろうか。
そう、滲みぼやけた思考の中で思い巡らし、自分の中の何かが否定した。

死はもっと冷たくて、無慈悲なもの。

そう告げた何かが、傍らに励起する。魂から湧き上がるように。
じっと見下ろされる感覚。見下ろしている感覚。
分かたれた二つが、交じり合うような感覚。

天に向かって手を伸ばす。

――戻りたい。
――喪いたくない。
――彼と一緒に…。

それは過ぎた望みなのだろうか。
それは見てはいけない夢だったのか。

(そんなこと、ないわよ。絶対にね)

手をそっと握り締められる感覚。そこから何かが移り変わっていく感覚。

(その想い、忘れないで。それが一番大切なこと…違う?)

―――違わない。
―――忘れない。忘れたくない。

(そう、それでいいわ、それでね。私が望むのはあいつの笑顔。あなたも一緒でしょ?)

―――ええ。

頷くと、自分の中で浮かび上がった何かが寂しげに、それでいて幸せそうに微笑んだように思えた。


それを最後に――――


美坂香里の意識は、安寧の闇の中へと沈んでいった。



……じゅん、くん。








これ以上、離れていたくなかった。冷たい大地になんか寝かせていたくなかった。
眠る少女を抱き起こし、抱き締める。氷上は何も言わない。
再び抱き締める腕の中、彼女の鼓動は弱弱しくも脈動を続ける。
でもそれは、いますぐにでも途絶えてしまいそうなほど儚くて。
北川潤は消えそうな何かを逃がさないように、震えながら美坂香里の身体を力いっぱい抱き締めていた。
それでも心は恐怖に泣き叫ぶ。あの時と同じ。愛する者の失われたあの時とまったく同じ。
傷ついた少女を抱き締める今の瞬間が、例えようも無く怖くて、北川は声も無く泣き続けていた。

「く…そ」

氷上は掠れる声で呪いを漏らした。
停滞させた時間が、すぐさま解けるように元に戻ろうとしていく。再び少女の傷口から紅い液体が滲みはじめる。

ダメなのか。どれほど願っても、悪夢は繰り返すのか。絶望は縛めを解かないのか。
氷上は泣きそうになりながら、それでも自身の中に蔓延る力を振り絞っていた。だが、それも…引き千切れるように途切れ――

その瞬間、氷上は衝撃と驚愕に眼を見開く。
少年の腕の中、少女はビクリと痙攣するように震えた。

「そん…な」

どこか呆然とした氷上の声を、北川は恐怖とともに聞いていた。
すべてを怖れ、否定するように瞼をギュっと瞑って、縋るように腕の中の少女を抱き締める。これでもかというぐらいに抱き締める。
ぬくもりはまだそこに。命の鼓動は未だ途切れず。でもそれは………。


不意に、震える唇を撫でる感触。柔らかなそれは白い指先。
総毛立つような戦慄に、北川は恐る恐る眼を見開いた。

朱に染まった法衣。未だ閉じられた瞼。ただ、白い左手が自分の頬を撫でてくる。

「みさ、か?」

呼びかけに答えるように、少女は静かに瞼を開いた。
心臓を貫かれるような衝撃。北川は思わず言葉を失った。
自分を見つめる眼差しに打ち抜かれて。

一瞬、それが、美坂香里ではないように思えたから。

「また、泣いてるのね。あの時みたいに」

眦を幽かに緩め、その少女はどこか現実感の乏しい、まやかしめいた気配を纏いながら、北川潤を見詰めていた。
そっと、頬を濡らす涙を拭いながら、彼女はこの世界にただ彼だけしか存在しないとでも言うように、北川だけを見詰めていた。
触れ合う指先が、何かを伝える。

「なぜ、泣いているの?」

彼女は、答えを知っているかのように瞳を和ませながら問い掛けた。

「美坂が、美坂が死んじまうって、死んじまうって、だから、オレ…」

問われるままに北川は答え、言葉を切らした。自分の頬を撫でる少女の手をギュッと握り締める。
そんな少年の怯えを癒すように、少女は仄かに微笑む。
そして泣き止まない子供を宥めすかすように彼女は云った。

「大丈夫、大丈夫。この娘は死なないわ。この娘はいなくならないから。あたしみたいにいなくならないから、だからもう泣かないの」
「…え?」

戸惑いの声が、思わず漏れる。
少女の言葉は、自分のことなのに、どこか他人の事を言ってるみたいで。
でも、それに違和感がなくて。

「ねぇ、潤。この娘は、美坂香里はいなくならないよ。でも、あんたはどうなの? 馬鹿なこと、考えてるよね。居なくなろうって、考えてるよね。
でもあんたはさ、本当はどうしたいのかな? 本当に心の奥で望んでる事ッてなんなの?
自分を塗り固めないで見つめて御覧なさい。もう、その絵はそこにあるんでしょ?」
「おまえ…は」

静かに語る彼女の口ぶりは、少年の脳裏に電撃を走らせた。
どこか、此方を子ども扱いしたセリフ。どこか、此方を嗜め、諭すような口調。
スゥと浮かび上がる一人の名前。それがこの場の真実だと、なぜか分かった。理由なんてないけど、でも分かった。
今、自分の抱く少女が、美坂香里じゃないんだと、北川潤には分かってしまった。
だって彼女は自分の―――。

「自分を死人なんて言わないで。あんたは死人なんかじゃないわよ。だって、潤は泣く事が出来るんだから。あんたには、涙を流せる人がいるんだから。
もう、悪夢から覚めてもいいんじゃない? もう、自分の為に生きてもいいんじゃない? あたしが潤に生きてと願ったのは、潤に苦しんで欲しかったからじゃないんだから」

ガタガタと、体の奥底から来る震え。
恐怖でもなく、歓喜でもなく。ただ、茫然と、震えだけが生まれてくる。

かつて、自分に生き抜いてと言い遺した少女は誰だったか。
かつて、誰よりも自分を知り抜いていた少女は誰だったか。

忘れたりなんかしない。

こんな風に、北川潤に向かっていつも思いを語りかけてきた少女の存在を。


「か…佳織、なのか? お前、佳織なのか?」


幼馴染であり、姉であり、最愛の人であった少女。
百年以上前に、自分の腕の中で冷たくなっていった少女。
美坂香里の魂の前世。

彼女の名を、名倉佳織と云った。


優しく彼を見つめる眼差しが、刹那寂寥を帯びた。
慈しむように彼女は答える。

「あたしは浄化の海で消えきらなかった前世の残滓。それが、今ほんの一瞬だけ膨れ上がって、佳織を形成できるだけの力を得てる。
そこの人が時を弄くった影響かしら」

粛然と黙する氷上を一瞥し、佳織は最愛の幼なじみに視線を戻した。

「でも、このあたしは刹那の泡沫。すぐに消えるわ」
「そんなッ!!」

消える。消えるのだ。そう云われて、北川は初めて実感した。
それは震え上がるような戦慄。

あの日、腕の中で冷たくなっていった少女が、今また自分の腕の中にいるのだと。
二度と逢えないはずだった、最愛の少女が此処にいるのだと。

北川潤は今更のように実感した。

それは絶対にあり得ぬ事。でも、今現実のものとしてここにある。

いつしか、止め処も無く涙が流れていることを少年は知る。
瞳から溢れる涙の熱さ。その熱が、少年の想いを解凍した。


「かお、り…佳織佳織佳織ぃ!!」

その残り香をかき集めるように、縋るように、北川は彼女の名前を呼びながら泣きじゃくる。
そんな愛しい少年の髪を梳きながら、名倉佳織は慈愛以外のなにものもない眼差しを少年に与える。

「ねぇ、潤。あたしが今こうして此処に現れたのは、あなたにちゃんとお別れをするためだと思うの」
「お別れ、だと!? そんなもの、そんなもの!」
「必要よ。だって、潤はまだあたしの死に縛られてるんだから。あたしはね、あなたにあたしを忘れて欲しくない。でも、あたしの死だけを見つめて欲しくないの。潤があたしを思い出してくれた時、そこにあたしの死んだ時しかないのは嫌じゃない、それって寂しいじゃない。
あたしたちが過ごした思い出はもっと楽しかったはずでしょう?」

それは、忘れられない幸せな時の流れだった。
両親と、妹と、そして佳織。怒られ、からかい、笑い、遊び、一日が過ぎていく。
ずっと、続くと思っていた変わらぬ日常。

はるか昔に、消え去ってしまった日々。

込み上げる嗚咽を噛み殺し、北川は叫んだ。

「俺は、お前と一緒に居たかった。それだけしか望んでなかったのに! やだよ、もう別れたくなんてない。一緒に居たいんだ、佳織ぃ」
「そうね、あたしも、あたしもよ、潤。でもね、でもそれはもう帰らない過去よ、絶対にね。だから、過去に縛られないで。
ねえ、潤。あんたには、もうあるはずよ。未来があるはずよ。一緒に居たい、そう思う人がちゃんといるでしょう?」

北川の瞳孔が刹那収縮した。硬直したように、少女の面差しを見つめ、凝結する。
云われ、思い浮かべた少女は語るこの娘ではなく……。

「俺は…俺は!!」
「いいの、それでいいの。あたしは、あたしの欠片はこの娘の魂の奥底でずっと見てたんだから、解かってる。まあ、あたしの欠片が見たものの意味を理解できるのは、この佳織が形を保ってる間だけだけどね、ふふ」

刹那、寂寥の篭もった笑いを漏らし、でもすぐにそれを消し去って、少女は告げる。

「ねっ、潤、素直になんなさい。小難しい事考えたり、悩んだり、迷ったり。馬鹿で軽薄で思慮なんか欠片もない潤には全然似合わないのよ。
そんな事ばかりしてたら、あたしが安心して眠れないんだから。ホント、死んでも世話掛けさせられるんだから、ヤになるわ」
「…佳織」

泣いて泣いて涙でぐしょぐしょの顔。泣きはらした子供のような少年の顔に、少女は幽かにクスクスと無邪気な微笑みを見せた。
それは―――いつか失われた日常で、彼女がいつも見せていた素敵な笑顔。北川潤が大好きだった少女の笑顔。

「潤…あたしの知らないあなた。あたしが死んでから、潤がどうなったのかあたしは知らない。なぜ、あれから百年以上経った今の時代に変わらぬあなたが居るのかも知らない。
でもね、そんなことはどうでもいいのよ。ただ、あたしは潤には生きていて欲しい。潤らしく、あたしの大好きだった潤らしく生きていて欲しい。それがあたしの思い、そして願い」
「俺に…俺にまた生きろって言うのか? お前が居ないこの世界に、生きろって云うのか?」

少女は、微笑みを崩す事無く、確かに頷いて見せた。

「あたしはずっと思ってた。あたしが死ぬ時、潤に願った事。生きろと願った事。それはとても残酷な願いだったんじゃないかって。誰も居なくなってしまった後にあなただけを残して、苦しめてしまうんじゃないかって。
でも今は違う。間違ってなかったって、思える。だって、潤、あなたは約束を守ってくれて、そして此処に居る。新しいあなたが居る。だからね潤、この娘のために生きてあげて。この娘にあなたと同じ別れの苦しみを与えないであげて。この娘は…潤のことが大好きなんだから」

本人の口から、そんな事を云われて、北川は頭が真っ白になった。

「約束、したんでしょ? 守ってあげるって。だったら、最後まで、死ぬまでこの娘を守ったげなさい。約束を破るようなヤツ、あたしが許さないわよ」

そう、悪戯っぽく笑って告げた佳織は、不意に笑みを崩し、「はぁ」と何かが途切れたようになまめかしい吐息をついた。
その仕草に、予感めいたものを感じて思わず北川は叫んだ。

「佳織!?」

どこか苦笑じみたものを混じえ、彼女は云った。

「ああ、時間切れみたい。夢の…夢の終わりね」

夢から覚めるといいながら、彼女は眠るように瞼を半分だけ降ろした。

「佳織! まて、待ってくれッ!」
「ねぇ、潤……」
「なんだ!?」
「あたしのこと、まだ好き?」

一瞬、錯乱したように息を呑んだ北川は、だが次の瞬間決然と答えた。

「当たり前だ!」

そのためらいの微塵も無い答えに、少女はまどろみのまま微笑み「ありがとう」と口ずさんだ。
そして、どこか蕩けるような口ぶりで、少女は少年に告げる。

「あたしはね、此処に居るよ。ずっと、あなたの傍に居る。あなたがこの娘の傍に居る限り、あなたの事、ずっと見てるから。夢で見ているから。だから、このお別れはあの時みたいな辛い別れじゃないんだからね」
「……佳織ぃ」
「あは、また泣く。云っておくけど、この娘は…香里はあたしじゃないからね、そのこと、肝に銘じるように。さっきまでみたいにこの娘越しにあたしの事を見てたら、また香里が悲しむんだからね」
「わ、分かってるよ!」
「よろしい…でも、ちょっと妬けるなあ。羨ましいわ、この娘が。潤にこんなに好かれてるんだから」

―――そして、これからも一緒に居られるのだから。

クスリと笑い、少女は重たく閉ざされようとしている瞼をこじ開け、少年を見上げた。
あの時と変わらぬ泣き顔。でも、あの時のような悲痛さの無い大好きな少年の顔。

そっと伸ばした両腕を、首に絡める。
驚く少年の顔が視界一杯に広がり、少女は唇に温かなぬくもりを感じた。
ほんのわずかなその時は、二人にとっては悠久にも感じられ。

やがて、重ねられた唇は、引き剥がされるように二つに分かたれた。

「ふふ。これ、くらいの、役得は、いいわよね」

この身体は自分のものではなく、彼もまた自分のものではないのだけれど。
美坂香里には悪いが、もう一度だけ彼を感じたかった。

ペロリと唇を舐め、少女は笑った。

「舌…入れちゃった」
「あうあう」

目を白黒させて真っ赤になっている少年。
それで良いんだと、一時の夢を得た少女は思う。悲しみと涙の別れは一度だけで充分だから。
悲愴にして悲痛なる別離は、二度としたくなかったから。
この再会は、新たなる悲しみなどにしたくなかったから。
これはきっと、運命の神さまがくれた奇跡なんだから。

夢は幸せなまま、見るものだ。

「潤、あんたの悪夢はあたしが連れてったげる。だから、もう苦しまないで。
ねっ、大丈夫よね。もう、あたしは安心して眠ってもいいのよね」
「大丈夫じゃ、ねえよぉ」
「情けないわねえ。でも信じてるから。あんたがもう逃げたりしないって。ちゃんと、自分とこの娘の想いを受け止めて生きてくって」
「…佳織」

また、ベソベソと涙を流し始めた少年を、少女はどこか満足げに見つめた。だって、その涙に濡れた瞳の光は、確かに意思を宿していたから。
もう、虚ろなんて宿していなかったから。確かに、自分の言葉を聞いてくれたんだって、解かったから。

彼女は告げる。

「これはね、あたしの、最後の、お願い。
大好きな潤への、最後のお願い」

そう云われて、北川は本当にこれが最後なのだと知った。
――夢幻の如き再会の終わり。

本当に短い時間。瞬くほどしかない再会。
刹那の夢の覚める時。

二人の視線は交錯する。絡み合い、溶け合い、混ざり合い。
二人の思いは重なり同化する。

別れはやっぱり辛かった。
別れはやっぱり苦しかった。

哀しくて、寂しくて、涙が止まらなくて。

それでも、どこか、温かかった。


あの時は、あんなにも冷たくて、寒くて、そのまま凍りついてしまいそうだったのに。


少女は歌うように、願いを紡いだ。


「―――生きてね。生き抜いてね。


―――そして


―――幸せになってね」



瞼が、まどろむように閉ざされる。


「…佳織?」


答えはもう、返ってこない。
解かっていたのに、呼びかけて、やっぱり答えは返ってこなくて。
北川は、嗚咽を堪えることなく泣きながら、ずっといつまでも、少女の寝顔を見つめていた。
眠りについて彼女の面差しは、悲しみに満ちたあの時とは違って…………。

















再び眠りについた少女。
奇跡の時間は終わりを告げ、今、瞼を閉じている彼女は紛れもなく美坂香里その人であろう。

その彼女を、黙したままじっと北川は抱き締めていた。
もう、さほどに悲しくも、辛いとも思わない自分を、北川は不思議に思う。
きっと二度と目覚める事の無い佳織との、今度こそ今生の別れ。それなのに、不思議なほどに心穏やか。
それは優しい夢だったからだろうか。それとも、彼女自身が告げたように、自分の中に巣食う悪夢を連れて行ってくれたからなのだろうか。

不意に、視界に影が差す。
隣で、氷上が立ち上がった。

氷上は、どこかを見るでもなく何も無い裾野の荒野に目をやった。

「奇跡というものは、本当にあるんだね」

美坂香里の傷口の時間は、今驚くほどに安定していた。
あの瞬間、まるで自分の繰り手を離れ時間が自ら動きを止めたように思えた。
そして、輪廻によって消されたはずの前世の励起。
運命とは、天秤のようなものなのかもしれない。そう、思う。悪夢だけが続く事は、無いのかも知れない。

「僕が此処に来たのはね、云わなくちゃいけない事があると思ったからなんだ。
あの時とまったく同じように、破滅へと向かってる君にね」

氷上のその瞳に映るのは、累々と転がる死体とその只中に突き立てられた刀の墓標。
絶望という名の過去の風景。

「君は言ったね。自分の名前を知る者は誰もいなくなった。自分を知る者の誰もいなくなった世界。それは死んでいるのと同じだって。
でもね、今の君は違うだろう?」

北川はふと思った。頭の上から降ってくるその声は、記憶の中にある氷上シュンの声調とは少し違っている気がした。
どこか澱みがなく、躊躇いの無い口調。そう、言うなれば信じるものを見出したような。

思わず見上げても、陰に隠れて彼の顔は見えなかった。

「君が抱くその娘は、君の名前を覚えている。君の存在を誰よりも知っている。君のことを、考えている。想ってる。
彼女だけじゃない。君の…北川潤の存在を覚えていてくれる人は他にもたくさんいるんじゃないかな。
ねぇ、北川君。それでも君は自分が死人だと云うのかい? これ以上、君が生きているという証はないんじゃないのか?」

自分が思い描く未来。かつてスレイヤーと呼ばれていた頃、そんなもの、欠片もなかった。
誰一人、自分を知る者がいなくなった世界で、すべてが殺されてしまった世界で、そんなもの描けるはずがなかった。
でも…今は。

「俺は……俺は、此処にいて、いいのか? 本当なら此処に、この時代に居るはずの無い俺が、死んだ人間の俺が、居てもいいのかな。美坂の傍に、いてもいいのかな」
「君の幸せが其処にあるのだとしたら、そうすることこそが彼女の願いだろうと思うよ」

キッパリとどこか突き放したように氷上は言った。でも、その声音は確信に満ちていて……。
不意に氷上は踵を返した。

「氷上?」

答えず、彼は肩を竦めると邪魔者が消え去るように、そっと少年と少女から離れていった。



肌寒く、慟哭するような風の吹く荒野。
ある一人の殺戮者の墓場であったその地で、眠る少女を抱き、少年は彼女の消えないぬくもりを感じていた。

「俺さ、やっと分かったよ、お前のこと、名前で呼べなかった訳」

聞こえないのだと知りつつも、北川は噛締めるように少女にむかって告白する。

「記憶…なくてもさ、ずっと無意識に感じてたんだろうな」

それは、アンビバレンス/二律背反。
かつて名倉佳織という幼馴染を愛し、今美坂香里という少女に恋する自分への矛盾。

過去の自分は目を瞑る。
美坂香里という少女は、自分が愛した少女とは別の存在だとわかっているから。

現在の自分は戸惑う。
自分が恋したのが前世の彼女ではなく、今、ここに在る美坂香里という少女だとわかっているから。


そして、過去の北川潤は香里を拒絶した。彼女は自分の愛した佳織ではないのだと。
現在の北川潤は、記憶無き無意識のままに怖れていた。自分が香里に恋してしまったのは、前世の彼女の影を見たからではないのか。
だから、現在の北川潤も拒絶した。佳織を拒絶したのだ。違う、自分はあくまで美坂香里を好きになったのだと。
相反する前世と現世の自分。

だからこそ、自分は彼女を名で呼べず、美坂と呼ぶ。
自分が愛したのは佳織という少女なのだと。
自分が好きになったのは、前世の幼馴染ではなく、この美坂香里なのだと。

「でもな、分かったんだ、俺。否定しなくても良かったんだよ。拒絶しなくてもいいんだって」

それは、決して相反するものではなかったのだと。
どちらか一方しか認めてはいけないものではなかったのだと。

今なら誇らしげに言える。
北川潤は名倉佳織を愛し、今また美坂香里という少女を好きになったんだって。


「なあ、俺で良いんだな? 良いんだよな。だったらずっと傍にいる。ずっと君の傍にいるよ。もう遅いからな。嫌だって言っても、絶対に引っ付いて離れないぞ 。後悔したってしらないぜ」

消えぬぬくもり。途切れぬ鼓動。そして潰えぬ未来の予感。
そのなんと、素晴らしいことか。そのなんと、優しいことか。


だから、その言葉を世界に刻む。

君の隣に居続ける誓いとして。

嘘偽りの無い、北川潤の本心を。


初めて口にする彼女の名前と共に。



「この世で一番愛してる――香里」
























斯くして風の慟哭は消え去り。


名も無き物語は終幕を迎える。


名前と未来を失いし少年は、少女の腕に捉えられ、先へと歩き出す勇気を得た。


それは、新たなる物語の幕開け。


少年と少女が手を繋ぎ、進み出す物語の幕開け。


もはや離れる事の無い二人の、物語の幕開け。




その始まりを、もう少しだけ――――















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