魔法戦国群星伝





< 最終話/side.K  君の名を囁いて >








手の平を、じっと見てた。
いつまで立っても消えない手。消えない体。消えない自分。
心のどこかで思い込んでいたんだ。
すべてが終わったら、自分も消えるんだって。
でも、消えない。消えてくれない。

それがとても―――哀しくて、情けなくて。


路頭に迷うとは、こんなことを云うのだろうか。
―――なんて、無様なお話。



瞼を閉じる。消えない掌が見えなくなった。
でも、それはこの世から消え去ったわけでもなく、ただの誤魔化し。
誤魔化しに欺瞞を重ねるように、手のひらを閉じた。

何時までもそうしているわけにも行かない。
どこか諦めたように、北川潤は瞳を開き、消えない自分を改めて認める。
消えない自分がいるこの場所を、彼は顔を上げることで視界に入れた。


此処は聖地の裾野。戦場の跡。ある殺戮者の墓場。
かつて、自分が消えた場所。

その只中で、北川潤は地面に腰を降ろし、視界の中に映った彼女を見据えた。

背後に聳える山岳。それ以外に遮るものの無いこの裾野では、空が手の届く場所にある。
すぐ頭上に広がる蒼い空。西の空にけぶる茜色。
その下に、彼女は確かな存在感を以って、其処に居た。

切なげに吹く風、その中を泳ぐウェーブを描く黒髪。キツく結ばれた朱唇。細く、だがしっかりと見開かれた鳶色の双眸。

―――美坂香里。

さっきまで、何かを吐き出すように泣いていた彼女。
世界が終わるその時まで、ずっと泣き続けている。そんな、途方にくれたような迷子のような泣き方だった。

終わらない慟哭。

それは風の泣き声にも似て、少年の伽藍洞な心の中をすり抜けていった。


どれほどの時を泣き明かしたのだろうか。
数時間にも、数分にも思える時。日の傾きを鑑みるに、本当はほんの少しの間だけだったのかも知れない。

どちらにせよ、泣き止むのは一瞬だった。
それまで泣いていたのが嘘のように、彼女は平静さを取り戻した。何事もなかったかのような顔をして、北川に此処でじっとしてろと命じて駆けて行った。
そして今、彼女はまだ意識を取り戻していない詩子たちの様子を見て、応急処置を施してまわっている。
その姿は、芯の崩れない凛とした様子で。

身体中を駆け巡る激痛の残り香を無視しつつそんな姿をぼんやりと見ながら、北川は思い出す。

「涙…か」

初めて見たんだと思う。
彼女が泣いている姿は。

何を泣いていたんだろうか…分からない。
果たして彼女が泣くべき理由があっただろうか。

怖かった? 緊張が解けた?

「…はは」

北川は思わず苦笑した。
在り得ない。そんなことで、美坂香里が泣くものか。泣くはずが無い。
それぐらいのことなら、自分でも知っている。

ずっと彼女を見てたから。だから、彼女がどれほど辛い事、苦しい事に襲われ続けたか、知っているつもりだった。
それでも、彼女はどんな時でも、泣く事はなかった。涙することだけは決してなかった。

まるで泣くことだけは自分に許さないというように。

そして彼女の涙は、多分そんなものではなかったと思う。
それはきっともっと違う理由。
だからこそ、分からない。

「…今更だな、全部今更だ」

いつしか、そんな事を考え込んでいた自分に気がつき、虚ろに笑う。

吹き荒ぶ風に揺れる彼女の髪と背中が見える。
香里が此方に気が付いていないのをいいことに、北川は立ち上がり、埃を払った。

「さて、行くかね」

呟いて、それが随分と間抜けな独り言だと気がついた。
行くって何処へ? いったい何処に行こうというのか。

顔を上げると答えが出た。一歩踏み出すと答えがあった。

そう、遠くへ。誰もいない遠くへ、だ。

空を見上げる。世界で唯一、果ての無い場所を。
死ねば、魂は天に昇るという。それは誰しもが当たり前のように思い描く魂の行方。
真実ではなく、事実ではないとしても、なぜか誰しもがそう考える。
それはきっと、果ての無い場所に馳せる思いの発露。届かぬ死者への寄せる思い。
空とは、天とは、それほどまでに遠いから。

でも此処に、天に昇れなかった魂が此処にある。

地上を彷徨う死人の魂。

憐れであり、無残であり、醜いもの。

その事を恨みに思ってはいない。それどころか感謝している。
何もかもを忘れて天に昇ってしまえるほど、まともな死に方はできなかったのだから。
どうしても、許せないことがあったのだから。

だけど、今は―――憧憬にも似た思いを感じる。


北川は空から視線を引き剥がし、歩き始めた。


遠くへ――。
行き先なんて分からない。ただ死に場所を探しているだけだ。死ぬ場所なんて、何処だっていい。そもそも、自分はもう死んでいる人間なんだから、墓だっていらない。
ただ少なくとも、彼女の――香里の傍にはいられない。
それだけは、魂に刻まれているみたいに強迫観念となっている。

もう、自分が彼女の傍にいる必要なんて微塵も無い。高槻は滅び、自分が狂わせてしまった彼女の運命は正されたのだから、もう自分が傍にいる必要も、自分がこの世に残り続ける理由も無い。
そして何より、既に百年以上前に死んでいるはずの人間が、彼女の隣になどいていいはずがない。
自分もまた歪んだ運命の歯車の一つ。
そうだ――北川潤は、もう遥か昔に死んだ人間なのだから。


その仕草は無意識のものだった。胸元に手をやる。いつの間にか、癖になっていた仕草。
上着の下に感じる硬い感触、冷たい感触。
ハッと、我に返り、北川は顎を引いて胸元を見つめた。思い直し、上着の下のものを引きずり出す。
何の強度も無い鎖に結ばれた、それは安物の、だが丁寧に意匠の施された銀の指輪。
指先で転がし、裏に刻まれた名前を摩る。

あれほど激しい戦いの只中で、この指輪は失われる事も無く、この手の中に残っている。
これだけは持っていこう、そう思った。

これは、自分の想いの結晶だから。過去の北川潤と、現在の北川潤。二人の想いの結晶だから。

――二人のカオリへの。



「その指輪、持ち歩いてたのね」



別に大声でもキツイ声でもなかったと思う。
それなのに、声をかけられた北川潤は、後ろからナイフで刺されたみたいにビクリと身体を痙攣させた。
焦りを得た面差しが強張った此方を向く。思い出したように、手の平の上の銀色を覆い隠すように握り締めた。
だから、一瞬しか目にすることができなかったけれど、でも一瞬で充分だった。
それは幼き日、彼が別れ際に自分に渡そうとしたあの指輪。
記憶に焼き付けられた銀色。見間違うわけもない。

それは―――約束の証だったから。

でも、それを眺めていた彼の横顔は―――。

香里は胸を鷲掴みにされたような痛みを自覚した。
彼の横顔には、微笑みが浮かんでいた。雪のように儚げな。まるで泣いているかのような。見たこともない、寂しい笑い方。
それは見ている此方まで切なさで身を切られるような面差しで。
でも、それより何より。
彼の指輪を見つめる眼差しに目を奪われた。心が縛られてしまった。
香里には何となく分かった、分かってしまったのだ。
その過去を思う眼差しに映る想い出が、自分とのそれだけではないのだと。分かってしまったから。

――心が、痛い。


思い出すのは、瞳の行く先。
彼が自分を見つめる瞳の色を。彼が見つめる視線の先を。

美坂香里は表向き眦一つ動かさず、北川潤を見ながら自覚した。

ああ、自分は今、これ以上無く。


――――怯えてる。


それが意味するところを考える余裕も無く、香里は彼に問い掛けた。

「そこでじっとしてろって言ったでしょ。そんな身体でどこに、行くつもり?」


自分の口から漏れ出したのは、酷薄とすら取れる冷たい音色。
そんな声に彼は反射的にだろうか、いつもみたいにヘラリとした笑みを浮かべて見せた。

「い、いやその。あはは、と、トイレとか?」

香里は頭の中で何かが切れた音を聞いた。
だって、それは余りにも普段通りの仕草で、間の抜けた表情で。だからこそいつもと余りに違っていて、凍えるほどに彼の中のドロリと堆積した闇が浮き出て見えてしまった。
笑顔に浮かぶ陰。声音に潜む闇。
我慢できなかった。沸騰したように怒りが込み上げる。冷静を装うとする自分の中の見栄とか、意地とかいう類のものが弾け飛んだ。

「ふざけないで!!」

気が付けば、自分でも驚くような怒声が轟いた。
北川の笑みが強張る、固まる。
香里は小刻みに震え出した身体を抱かかえ、耐え切れずに俯いて、表情を隠す。
自分でもどんな表情をしているか分からなかった。多分、酷い顔をしていると思う。

北川君が悪い。悪いに決まってる。元から馬鹿なくせに、馬鹿を装うから悪いんだ。
そんなことをするから、色んなものが見えてきてしまう。
見たくなかった? 気が付きたくなかった?
そうじゃない。そうじゃないけど、でも、頭にくる。そして、苦しい。
そんな彼を見ていると、どうしても泣きたくなってしまうんだ。

声が枯れたように北川は何も言えず、俯く香里を凝視していた。

張り詰めた空気の中、沈黙が続く。風が鳴くなかで、二人は彫像のように立ち尽くしていた。
静寂が続いたのは時計の秒針が一回りするほどの時間。それは、決して長くは無い時間だったけれど、二人にとっては長く長く。

やがて、少女の唇が震え、小さく開く。

「あたしは……あたしは、きっと何も知らない」

ピクリ、と北川の肩が凍えたように震えた。
喘ぐように香里は息を吸い込み、そして僅かに口早に続ける。

「あたしは何も知らないわ。あなたに何があったのか。あの高槻ってヤツとどういう関係だったのか。それとあたしがどう関わってるのか。なにも知らない。知らないわよ」

知らないのだ。
問い詰めるでもなく怒るのでもなく、激高しているはずなのにただ淡々と、自分でも驚くほど淡々と、言葉が出てくる。
だって、そんなことは本当はどうだっていいのだから。良くないけど、でもそれが一番大事なことじゃない。

そう、思うと、声が、震えた。

「でもね、きっとそんな事はどうだって良い。あたしが悔しいのはそんな事じゃない。今のあなたが何を考えてるのか分からないから、何をそのなかに抱え込んでるのか何も分からないから。 なんで、そんなひどい顔してるのかだって分からないから。あたしは、あたしは……」

酷く虚ろで、空虚で、孤独な顔。
似合わないことこの上ない。そんなのは北川君じゃない。もっと軽薄で、無神経で、子供っぽくて、真剣さの欠片も無いのが彼だったはずなのに。

俯いたまま、彼女は首を振る。

「あたしは結局、なにも知らない。なにも分からない。でも、それでも……」

光を覆い隠す前髪が、弾けるように跳ね上がり、美坂香里はキッと顔をあげた。

「このまま行かせたら、二度と戻ってこないってことぐらいあたしにだって分かってる!!」
「みさ…か」

美坂香里は睨みつけたのだ。涙の浮かぶ眼差しで。
虚ろに満ちた、彼の眼を。

見てしまえば、歯止めは効かない。
ずっと、そうあの月の夜以来感じていた漠然とした恐怖。幻のように、夢であったかのように消えてしまうという予感。
時を経る度に明度を増していく不安。そして彼の喪失を恐れる自分の自覚。
それらが今、頂点となって此処にある。

怖かった。彼がいなくなるのが。
許せなかった。自分から消えてしまおうとしている北川が。
情けなかった。ずっと、そんな不安から目をそらしていた自分が。彼への感情をふさいでいた自分が。

だから今、此処で吐き出す。
嘘偽り無く、今感じる思いの全てを。
――此処で吐き出す。

「どうしてよ! どうしていなくなろうとしてるのよ! なんで! どうして!?」

泣き叫ぶようでいて、彼女の眼差しは怒りに満ち満ちていた。
縋るようでいて、彼女の叫びは拒絶に満ち溢れていた。

腰の横、握り締めた拳が白く白く。
震える彼女の身体は、北川にはいつも以上に小さく見えた。
強い心の持ち主。挫けぬ意思の持ち主。
でもいつだって肩を張って、意地を張って、虚勢を張って。
でも、本当は硝子のように繊細な彼女。
そんな彼女を見つめながら、北川は酷く虚ろに笑みを浮かべた。
とてつもなく、自分が取るに足らない存在に思えたのだ。

「俺さ、もう全然ダメなんだわ」

右手を胸に当て、力無く俯く。
手を当てた場所は心臓。死に至る絶望の中で、停まりゆくその音を聞いていた。
手を当てた場所は心の位置。殺意、悔悟、呪い、愛憎、そんな負によりこの世に縋りついた怨嗟の塊。
北川は、手のひらに鼓動を聞きながら言う。

「もう、此処が空っぽなんだ。この中に詰まってたもの。全部消えちまった。恨みも、祈りも、願いも、未練も。あいつが死んで、みんななくなっちまった。
美坂、死ぬってどんなものか分かるかな」
「……え?」

突然の問いかけ。脈絡なんて欠片もないのに、香里はゾッと背筋を震わせた。
死ぬ、という言葉。その意味。
なにか恐ろしい深みを覗かされたような気がして。
激情が、スッと冷える。

視線を落とした彼の貌は、亡霊のように青白く。静かに微笑んでいた。
懐かしむように、泣き崩れるように。

「ありゃ、ひどいもんだぜ。それこそ死んでみなきゃ分からないと思うぜ。ホント、心が歪んじまうくらい、ひどいもんだった。俺は、それを思い出しちまった」

意味が分からず、だが彼の言葉の隅々に満ち切った無明の闇に、香里は言葉を失った。
そんな視線が心地よいのか、彼の口端はドンドン歪んでいく。
右手は心臓を引きずり出すかのように胸を掴み、俯き隠れた面差しに闇が満ちていく。

「あれを思い出しちまったら、俺はもう信じられない。自分が生きてるなんて、とてもじゃないけど信じられない。そりゃそうだよな、死んだんだから。
それでもな、俺にはやるべき事があった。墓の下から這いずり出してでもやらなきゃいけない事があった。そのために俺は此処に生まれたんだ。この時代にもう一度刀を握った。亡霊がこの世にあり続けることが出来た。
でも……」

歪んだ笑みが、結び目を解かれたように力の無い虚ろな笑みに戻った。
心臓を掴む右手が、パタリと力無く落ち、彼は嘲るように口ずさんだ。

「でもな、もうそれも終わっちまったんだ。もう、何もなくなっちゃったんだな、これが」

何もなくなった。その言葉を口にして、北川は既視感を覚えた。

虚ろ、虚ろ、何もなくなってしまった時間。
満足感でもなく、達成感でもなく、自分を象っていたものが消えてしまい、自分を形作っていた輪郭が消え失せてしまった、そんな虚ろ。

ああ、思い出した。こんな気持ち、前にも覚えがある。
遥かな昔。そう、自分が【スレイヤー】と呼ばれていた時。
高槻を殺したと、すべてが終わったと、思っていた時。
死に至るまでの、静かな時間。

あの時も、こんな気持ちだった。

「分からない…そんな理由、分からないわよ」

掻き消すように声を絞り出したのは香里。
追想より引き戻され、北川は怯んだように瞼を震わせる。
香里は爪が食い込むほどに、拳を握り締めた。

今の彼の顔に浮かぶもの。何となく分かる。

―――それは死相だ。

そんな顔をして言う言葉と来たら、あたかも自分が死んでいるかのような言い草。

これじゃあまるで、本物の死人みたいじゃない。

それが、恐ろしく真理を突いているのだと認めそうになり、美坂香里は唇を噛んだ。
振り払っても、いくら振り払っても、今の彼が纏う飲み込まれてしまいそうな闇は、もしかしたらと思わされる。
人が、これほどに空虚になれるのか。そう戦慄させられる眼差し、微笑み。
何も無くなった。その言葉の本当の意味は、結局のところ彼以外の何者にも理解できないだろう。だが、その一端に触れるだけでも、その無明は感じることができる。

それはきっと、光を知らぬ闇ではなく、光を喪った闇。

その闇は、決して他者と共有できるはずもなく。理解すらできないのだろう。
これほど哀しくて、辛いものはない。

だから、そんな闇、無くしてしまいたかった。そんな虚ろ、掻き消してしまいたかった。

彼を、暗闇の中から自分の下に引きずり出したかった。

闇を塗りつぶすほどの光、虚ろを満たすほどの希望。
そんなもの、あるのだろうか。そんな光が、果たしてあるのだろうか。
自分にとっての光は、想い出の中に。
美坂香里の無明の道を照らす闇は、彼との想い出の中にあった。

だから、拳を握り締め、少女は叩きつけるように自分の中のそれらを彼に叩きつける。

「約束、守ってくれるんじゃなかったの!? その指輪、約束を守りに来てくれた時に、あたしに渡してくれるんじゃなかったの!? ねぇ、そうでしょ、ジュン君!!」

約束――それは、美坂香里が一番大切にしている想い出。
絆であり、重なる思いであり、共有すべき光だと、思っていたもの。

約束―――それは……。

北川は慄くように思わず指輪を握り締めた。

一度足りとも忘れた事は無い。頭の片隅から消え去ったことはない。
それは、北川潤にとっても、一番大切なものだったから。
大切だったからこそ……


あの暑い夏の日。森の中で、二人は出会った。
そして交わした小さな約束。でも、何よりも大切な約束。
その時の想いは自分にとって誇りだった。約束を果たすんだって、ずっと心に決めていた。

純粋なる意思。曇りなき決意。




でも―――それは―――本当に?






すべての記憶を取り戻した今。北川潤の心は怯えきっている。
どうしようもない疑問が、抑え切れなくて。






もしかしたら――――


そう、もしかしたら……



――――俺が約束を果たそうと思ったのは。




封じられた過去の北川潤の記憶がそうさせたんじゃないのだろうか?





俺が守りたかったのは、美坂香里自身ではなく―――

――――名倉佳織の生まれ変わりだったんじゃないのだろうか?








そして何より――――――

――――北川潤が恋したのは、本当に。



本当に、美坂香里だったのか?







それは絶望にも似た疑問であり、どうしても否定しきれない想像だった。



その答えは、出さぬままに終わるつもりだったのに。
答えを出さないままに、自分を終わらせるつもりだったのに。


怖かった。答えを知るのが怖かったから。

何も知らずに逝きたかったんだ。


「指輪、女の子に渡す意味を知ってから、改めて渡せって言ったよな」
「……ええ、言ったわ」

揺れ動く感情の波を押さえつけるように、香里は大きく息を吸い、抑揚の無い声で答えた。
それはどう聞いても無駄な努力だったけれど、北川はうんと頷き、続けた。

「さすがに、この歳になると無知って訳にもいかなくて。だから、その意味ももう知ってる」
「そう…言ってみなさいよ、その意味」

北川は顔をあげた。
はみかむような面差し。
細めた眼は届くことの無い遠くを見つめ、
そして憧憬にも聞こえる声で答えを告げる。


「それは―――共に歩むべき未来を誓うこと」


それを聞いた瞬間、香里は全身に電撃が走るのを感じた。
――不意打ち。
不意打ちだった。不意打ちになってしまった。
指輪の意味なんて、知っていたはずなのに。それなのに、香里は思わず絶句してしまった。
未来――未来。
共に歩む、未来。

なぜ気がつかなかったんだろう。なぜ、思いつかなかったんだろう。
そうだった。指輪を渡すということは、そういうことだったのだ。

今更のように、自分にどれだけ余裕が失われていたかに気付く。
自分で口走りながら、その約束の意味を考える余裕も無かった。
云われて初めて、それがどういう意味を持っているのかを実感する自分。
その間抜けさ加減にはあきれ果てるしかない。

香里は、顔が熱くなる自分を感じた。
信じられないくらい、体が熱い。信じられないくらい、心が揺れている。

ああ、多分、頬は恥ずかしいぐらいに朱に染まっているのだろう。

だが、その朱に染まった顔色も次の言葉に青ざめた。

「だからこそ、この指輪は渡せない」

真っ白だった意識が、今度は墨汁をぶちまけたみたいに真っ黒に染まった。
多分それは、衝撃。ショックを受けたのだと、しばらく気がつかなかった。

だからこそ――その言葉が頭の中をこだまする。
だからこそ――その意味が心の中をかき回す。

それは、未来を誓えないということ。

目尻が灼熱のように熱くなっていくのに気がついて。
初めて自分が泣きそうになっている事に気がついた。
両膝が震えているのに気がついて。
初めて、全身から力が抜けていくのが分かった。


思わず内心で半笑いを浮かべる。


何を泣きそうになっているのだろう。
どうしてこんなに衝撃を受けているのだろう。
今、自分は悲しいと思っている。多分、今まで生きていた中で一番悲しいと思ってる。

なんで? どうして?

別にいいじゃない。どうだって、いいじゃない。
何を悲しむ理由がある? 何を絶望する必要がある?
別に、彼のことが好きだというわけでも…………。


どこかへと、流れ落ちていこうとしていた思考が引っ掛かって停まった。

堰止めた言葉は、好きという単語。



ああ―――そうだった。


いつものように被ろうとした仮面はバラバラと崩れた。それが仮面であることを知ってしまったが故に。
もう、仮面であることに気がついていたんだ。


いつしか、香里は心の中で慟哭している自分を知った。


そうだった。そうだった。
さっきあたしは確かめたじゃないか。自分の想いを、はっきりと、嘘偽り無く。
怒りの中で。限りない怒りの中で。
確かめたんだ。

誰が自分の心を占めるのかを。
誰が美坂香里のすべてを支えているのかを。

もう、嘘はつかない。
つけるはずがない。

自分の想いの行く先に気が付いてしまった今は、もう。自分の心に嘘はつけない。

吹き荒ぶ氷雪に耐えるように、香里は俯き歯を食い縛った。

そんな彼女のようすに気付く風も無く、北川は噛締めるように続けた。

「俺には、美坂に指輪を渡す資格が無いんだ」

冷たい風が、髪の毛を押し流す。
心の中で弾ける何か。
もう、止めるつもりもなかった。押さえるつもりもなかった。
だって、嘘はつけないから。それが美坂香里らしくないとしても、もう今ここで自分の気持ちに嘘をつくことはできないから。
ただ、思いのままにぶちまける。

「資格なんて、資格なんていらない!! ただ一つ、ただ一つのことさえあれば良いじゃない!」

そう、たった一つだけ。それだけでいいのだ。


「あなたは…北川君はあたしのこと、どう想ってるのよ!」


北川の目が驚きに満ち溢れた。
その眼差しを縋るように睨みつけながら、香里は泣き叫ぶように捲くし立てる。

「言いなさいよ、言いなさいったら!!」
「俺、俺は……」

少年は、慄くように口篭もった。
告げるべき言葉がどうしても見つからない。

何故か、その時、香里には彼の迷いの意味が手にとるように分かっていた。
きっと、感じていたからだろう。彼の眼差しを、ずっと受け止めていたからだろう。
彼の眼差しが見つめる先を、ずっと感じていたからだろう。

頭にきて、怖くて。だから、思わず、近づこうとして、でも足が進まない。足が震えて動かない。
まるで、壁でもあるかのように。結界に阻まれるように。

でも、手が届かなくても、その身を我が腕に抱くことが出来なくても。
声は届く。
思いを乗せて、声は届く。

思いのままにぶちまける。

「こっちを、見なさいよッ!!」

悲鳴のような、叫び。
弾かれた様に顔を上げ、北川は思わず言葉を失った。

頬を伝う一筋の流れ。
輝くそれは星のように儚く綺麗で。

「見てよ……お願いだから、お願いだからあたしを見てよ」

声は笛の音のように静かに流れた。


美坂香里が泣いていた。

ボロボロと、子供のように涙の雫を落としながら、でも真っ直ぐに北川を見つめながら。
絶対に目を離すものかと、睨みつけるようにして、美坂香里は泣いていた。

「ずっと、感じてた。あの、一緒に月を見た夜から。感じてたわ」

もう、涙は止まらない。止める思惟さえ浮かばない。
嘘をつかないと、決めたから。もう、嘘はつけないと思ったから。
だから涙は止まらない。

この涙は、美坂香里の真実の証。

香里は泣きながら、でもそれまでが嘘のように穏やかなほど静かに言葉を紡ぎ出す。
その調べは誰も聞いたことのないほど哀しげで、寂しげで。北川は石にされたように彼女を見つめる。

「あたしを見てるのに、それなのに北川君の眼はあたしを素通りしてるって。誰か違う人を、見てるって。
それが誰かなんてあたしには分からない。でも、でもあたしは美坂香里。美坂香里なのよ! 悔しかった、泣きたかった。知らない誰かが憎かった。あたしは、あなたにあたしを見ていて欲しかったから。あたしだけを見ていて欲しかったから。
でもね、そう感じるようになって初めて知った。初めて分かった。あなたがこれまで何時だって、あたしを見守っててくれたって。莫迦ね、ホント莫迦。
でも、あたしはそれがきっととても嬉しかった。とても安心していられた。気が付かなかった、あたしが一番の莫迦」
「美坂、お前」

北川は、自分の声が掠れていることすら気がつかなかった。
混乱は、錯乱に近いまでに荒れ狂っている。

それは、確かな衝撃だった。だって、少年は思いもしていなかったから。
愚かしくも、その可能性を想像すらしていなかった。
だってそれは少年が見ていた夢で、夢は現実じゃないはずなのに。


そんな言い方、まるで美坂が俺のことを―――――


それは夢だと、思っていたから。




――もう、ダメなのよ。

美坂香里はそう立ち尽くす北川の思考を遮るように言った。
自分を嘲るように、でも、どこか満足したように。
そして、その想いを怖れるように。

「あたし、気付いてしまったから。認めてしまったから。ずっと、意地を張って見ない振りしてたけど。でも、もう……」

もう、想いから目を逸らさない。きっとここで逸らしてしまえば、一番大切なものを喪ってしまうのだと、悟っていたから。

「ダメなのよ。ダメなの、あたし。美坂香里はね、とても弱いの。誰かが傍に居てくれないと、あたしは壊れてしまう。
幸せなことに、あたしにはいつも傍にいてくれる人が居た。水瀬のおじさま。秋子さん、栞、名雪。他にも相沢君や、たくさんの人たち。でもね」

声もなく泣きながら、美坂香里はじっと瞳を逸らさない。

「でも、でもね、一番傍に居てくれたのは、あなただって。ずっと、見守っててくれたのは、あたしの一番奥底で支え続けてくれてたのは北川君だって」
「みさ、か」

この世ならざるものを見てしまったかのように、北川潤は茫然と彼女を呼んだ。
その呼びかけに答えるでもなく、彼女は心を綴る。

「ダメなのよ、もう。北川君が隣に居てくれないと、隣で笑っててくれないと、あたしはあたしで居られないって。美坂香里は、美坂香里で居られないって、気がついてしまったから」
「そんな…こと」

否定する彼の言葉を聞きたくなくて、だから香里は首を振った。振って、振って、遮るように声を荒げる。

「あたしは……あたしはあなたが見てるものなんて知らない! あなたが何を感じてるかなんて知らない! からっぽ? 生きてるって信じられない? 馬鹿よ、大馬鹿よ。あなたは此処にいるじゃない。あたしの目の前に立ってるじゃない。これ以上にあなたが生きてるって証拠がある?
あたしは…あたしは許さない。絶対に許さないから! あたしの前から消えるなんて、絶対に許さないから!」

今の香里にとって、これ以上の恐怖はない。
喪いたくない。絶対に、絶対に。喪う事ほど恐ろしいものは無い。彼を喪う事程。

「美坂、俺は、俺じゃあ…」
「うるさい! 黙りなさい! 北川君の都合なんかどうでもいいの!
あたしはね、誓ったのよ。決めたんだから。傲慢だろうと、独善だろうとなんだっていい。北川君はあたしのもの。あなたはあたしだけのものなんだから! だから誰にも渡さないって。絶対に渡さないって、決めたんだからッ!
相手が誰だろうと絶対に渡さない。例え相手が死だろうが、虚無だろうが、絶望だろうが、絶対に渡さない。逃がさないッ!!」

そのためだったら、何だって出来る。
彼を喪わないためだったら、何だって出来る。
例え、悪魔に魂を売ろうとも。
凍れる炎と呼ばれた美坂香里が、なんて体たらく。たった一人の男に執着しているなんて、なんて無様。
でも構わない。もう、見てくれなんてどうだっていい。
自分の中の猛き炎は今、この想いだけの為に燃え上がっている。激情は、其処に在る。

その想い。それは―――

「だって、だって……あたしは……あたしは北川君の事が…………」

舌が絡み、喉が凍える。
急に、この期に及んで、美坂香里の根底を成す臆病さが顔をもたげた。
素直な気持ち。それこそ、香里という女性から一番程遠い世界。

怒りと慟哭以外の何かに顔を紅く染められ、香里は初めて泣き顔を背ける。
今更のように恥辱が湧き上がる。それでももう、自分を偽るつもりは無かった。自分の素顔を糊塗しないって決めた。
唇を開き、だが慄くように閉ざし、唾を呑み、意を決す。
そして、放心したまま自分を見つめる北川に向かって、想いのすべてを吐露しようとして――――――。










香里は、その瞳を驚愕によって限界まで見開いた。










北川潤にとって、
その刹那は、
永遠のようだった。










顔を逸らしていた香里が、弾かれたように此方を見る。
撃たれた眼差しは、迷いなんか欠片もなくて。ただ、瞳の中に自分だけを映していた。
そう認識した時には、彼女は飛びつくように地を蹴っていた。
抱きつくように体を寄せ、だが抱き締める事無く、温もりを寄せる事無く、此方の胸に置いた両手を渾身の力を篭めて伸ばす。

「…え?」

当然のように後ろに弾き飛ばされた。
何が起こったのか分からなかった。

時がコマ送りで流れて行くなかで、北川は見る。


「…あ」


赤黒い奔流。


「ああ…」



――悪意の色。
――呪いの力。
――悪夢の続き。



「やめ…ろ」


自分の立っていた場所に、横から飛び込んでくる幾条もの赤黒い触手の束を。



「やめろおおおおおおお!!」



北川潤は、声無き声で絶叫した。
叫んでも、叫んでも、取り戻せないものがあるって。留めることができないものがあるって。
そんなことは、嫌というほど知っていた。思い知らされてた。
でも――それでも――
叫んで、喉を切り裂くほどに叫んで。
でも、やはり一瞬は止まらず、時は流れ。


触手の束は、自分の代わりに、この世で一番大切な少女を蹂躙した。




肉を穿つ音が重なって聞こえた。
飛び散る血潮が、紅い華のように咲き誇った。
乱れた前髪に隠れた瞳から、涙の雫が宝石のように零れた。



「み、美坂ああああッ!!」





いつか見た―――それは絶望の刻だった。











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