とても、暖かで。
とても、静かだった。
仄暗い薄闇の中でただ、鼓動だけが聞こえる。
トクントクン、と鼓動が聞こえる。そのリズムは、身体を包む温もりとハーモニーを奏で、心と身体を癒してくれる。
ああ、思い出した。思い出すことが出来た。こんな気持ちのいいまどろみの想い出を。
幼き日、とても怖い夢を見て、泣いているボクを優しく抱き締めて一緒に眠ってくれた人が居た。
あの人は、いつだってボクの事を見て、ボクの言葉を聞いて、ボクの心を受け止めて、微笑んでいてくれた。

―――お母さん。

いつも二人だった。いつも二人きりだった。
でも、幸せだった。幸せだったんだ。お母さんが笑っていて、お父さんも時々訪ねて来ては抱き上げてくれて。
幸せだって疑いもしなかった。

大好きだよ。今でも、大好きだよ、お母さん。

……お母さん。

このまま、想い出に縋るように、この甘美なぬくもりに身を委ねてしまいたい。そんな優しい誘惑を、月宮あゆはゆっくりと脇へと押しやった。

思い出してしまったから。夢の外にある現実を、思い出してしまったから。
もう居なくなってしまったお父さんの事も。
そして、お母さんの事も思い出してしまったから。

だから、お母さんの最後の言葉も当たり前のように思い出す。

目を覚ませば、待ち受けているのは辛い現実。この穏やかなまどろみの中でもそれは分かっている。
でも、お母さんは言ったんだ。辛いことがあっても、負けるなと。強く在れと。
それは、ボクを信じてくれたから。ボクが負けないと信じていてくれたから。
だから、ボクはそれに応えたい。大好きだったお母さんに胸を張れるように。ボクはボクらしく在るんだと、告げる事が出来るように。

優しい夢をありがとう。でも、ボクはもう行くよ。

月宮あゆは、暖かな記憶を思い出させてくれたまどろみにありがとうと言い残し、現に向かって歩き出した。








魔法戦国群星伝






< 最終話/side.A  純白の涙を一滴 >





失われた聖地 聖殿内最奥 孤聖の間






目を開けると、見えたものは西の方角に茜色をまぶしはじめた青空だった。
あゆは目を瞬く。確か、自分がいたのは山の中の空洞だったはずなのに。
でも、空を覆い隠すものは何も無く、それどころか顔をあげてキョロキョロとあたりを見回したあゆは、周囲を囲う壁すらもほぼ失われて青空と茜空に取って変わっているのを見て、混乱した。

と、不意に気付く。
まどろみの中で感じていた安堵感。そう、穏やかな温もり、それが、目を覚ました今もなお、変わらず自分を包んでいる事に気がついて。

「え…と」

そもそも、何故自分は眠っていたのだろうか。記憶が混乱しているらしい。少々動揺しながら、あゆは自分を包む腕をそっとどかし、自分を抱き締めている人を見て―――
すべてを記憶が隆起した。

「奈津子さん!!」

思わず耳元で叫んでしまったのに、相沢奈津子のきつく閉ざされた瞼はピクリとも動かなかった。

そうだ、確かあの人が、舞さんに斬られて、それで、それで、叫んで、真っ白に光って……。

光って、何も分からなくなったのだ。いや、気を失う直前を覚えている。側にいた奈津子さんが自分を抱かかえるようにして青い何かを纏って。

「な、奈津子さんッ!!」

悲鳴が喉の奥から迸る。愕然と見詰めるあゆの瞳に映るのはべっとりと濡れた液体。暗色のワンピースを纏っているためにすぐには気付かなかった。
倒れ伏す彼女の背中は拳大ほどの石の破片が食い込んでいた。衣服には鮮血が染み込みポタポタと床に流れていく。今なお出血は続いていた。

「ボクを、ボクを庇ってくれたの?」

間違いなかった。疑いようも無かった。
気を失ってなお、苦痛は彼女を苛んでいるのだろう。奈津子の整った面差しは苦しげに顰めら、呼吸は短く浅く。

「なんで…」

あゆは震える手をさし伸ばす。

どうしてこの人はこんなにも、ボクの事を構ってくれるのだろう。そう、真っ白になった意識の隅でそう思い、あゆは湧き上がってきた涙を拭きながら首を振った。
そんなことを考えるのは、この人への冒涜だ。奈津子さんは言ってくれたじゃないか。ボクは家族だって。ボクの事を家族だって言ってくれたじゃないか。
そして、奈津子さんはこういうに違いない。
家族を助けるのに、何を躊躇う事があるのだと。

あゆは抱き締めるように彼女の手を両手で包み込んだ。

「奈津子さん奈津子さん、助けるよ、絶対に助けるからねッ」

呪を唱えながら彼女の手をそっと置き、背中に突き刺さった瓦礫に手をやる。
歯を食い縛り、一気に引き抜いた。蓋をされていたかのように血が溢れ出してくる傷口に仄かな光の灯った両手を押し当てる。

「だから、だから死なないでッ!!」

傷は深い。幸いにも白の閃光そのものは、彼女が張り巡らせた異能の結界によってだいぶ威力を削ったようだ。だが、突き刺さった瓦礫はかなり深くにまで食い込んでいた。背骨までは傷つけていないだろうが、それも素人の私見に過ぎない。
異能力を限界以上に使い果たした状態でのこの重傷。そのままにしておけば、時間をおかずに致命的な状態に陥っていただろう。だが、あゆの治癒力は奈津子の傷を迅速に塞いでいった。

「大丈夫、大丈夫だよね、奈津子さん」

なんとか死の気配を振り払う目処が付き、浮かぶ汗とこびり付いた血を拭ったあゆは、肝心な事を思い出した。

「あ! あの黒い人は!?」

慌てて周囲に視線を巡らせる。
あの爆発の直前、自分は重傷を負った東鳩の目つきの悪い王様を癒していたのだ。彼はどうなったのだろう。
探すまでもなかった。すぐ左側にあお向けに横たわっている青年を見つけて安堵の吐息をつく。
どうやら、奈津子さんの結界は彼も保護下に入れていたようだった。まだ、癒しかけだったので傷口は完全には塞がっておらず意識も戻っていないが、少なくとも危険は無い。

よっぽど動揺していたのだろう。安堵したところで、あゆは自分の意識がまったく他のことに向いていなかった事に気が付いた。

「…そ、そうだ! みんなは!? いったいどうなったの!?」

先ほどあたりを見回した時には、半ば呆然としていたために、ほとんどの壁と天井のすべてが失われているという事柄にしか気付かなかった。
だが、改めて落ち着いた眼で周囲を見渡せば、何が巻き起こったのかは一目瞭然だった。

あゆは愕然とした。

壁と天井が吹き飛ばされている。考えれば、それがどれほど凄まじいエネルギーが吹き荒れたのか、彼女にも容易に想像できた。
残っているものは、祭壇だった高台と、裾野の方角…侵入してきた方に積もった瓦礫の山、そして辺りに散らばる天井の残骸や、砕けた床程度のものだ。
また、どこを見ても動いているものは何もいない。あれほど居たグレーターラルヴァの姿も見えない。少なくとも、立っている漆黒の巨体は。ところどころ、瓦礫に混ざって横たわっている黒い物体があるが、それも次々と砂と化していく。
そして、グレーターと戦っていた美汐の式神たちの姿も見当たらなかった。先程の一撃で滅びたのか、それとも攻撃対象であるグレーターが全滅して符へと戻ったのか。

「み、みんなは!?」

あゆは、奈津子の傷がある程度塞がったのを確認して、立ち上がった。
それだけで、視野が広がる。
ただでさえ見晴らしが良くなっているのだ。目当ての人々はすぐさま見つける事が出来た。

瓦礫の中でさえ栄える金髪。魔狼王とかいうオジさんが、佐祐理さんや御音の男の子に被さるように倒れている。傍目にも、血の色は見えず気を失っているだけのように見える。
それから、遥か向こう側には、伊世さんらしき白髪が、残った壁にもたれるように座っていた。その投げ出された足元にはレオタード姿の女の人。
手前には、舞さんが苦しげに息を荒らげて仰向けに倒れ、激しく胸を上下させている。
その反対側では、左手の無い男の人が上半身裸になってうつ伏せに倒れていた。遠めにも、その人の寝そべる床が血に濡れているのが分かった。

「いけない、あの人」

あゆは治癒魔術を使えるものの決して医学知識に詳しい訳では無い。それでも、柏木耕一が流す血液の量はお世辞にも放置するに危険ではないのかと思った。
よろめくように立ち上がる。体の節々が軋むように痛むもののさほどの事ではない。
一番痛む左腕を右手で押さえて耕一の元へと歩み寄りながら、あゆはふと気が付いた。

「祐一くんは、祐一くんはどこ?」

幾ら見渡しても、彼の姿が見つからない。見えなかった。瓦礫の影で姿を捉えられなかったのか、それとも……。
嫌な想像をあゆは頭の中から振り払った。

そうだ、姿が見当たらなかったのは彼だけではない。あの人が、あの人の姿が―――

あゆの足が、ピタリと止まった。
地平へと近づいた太陽から差し込む光。それを遮る長い長い影。
ゆっくりと、顔を上げる。
そこに彼女は浮かんでいた。

「お母さん」

その存在は母ではない。でも、この人の一端が母の欠片であるのだから、あゆは母と呼ぶ以外の呼び名を思い浮かべることが出来なかった。
あゆは彼女の無残な姿に言葉を失う。
十六を数えた神々しい純白の翼はその数を八枚にまで減じ、残った翼もまた羽根を痛め、ささくれ立ち、破れ、無垢なる白さを失っていた。
処女雪の色をした白衣もまた、裾が解れ、胸から下を血の色に染め、そもそもが紅の衣だったかのように凄惨に。
紅の双眸には、つい先程までの滾るような冷たい光が薄れ、鈍くも熱の篭もった灯火が宿っていた。
それは言うなれば、執着の火というべきか。
表情は既に元の無へと戻っているだけに、その眼光だけが栄え、目を奪われる。

それほどまでに、無残な姿へと変貌していながら、だがそれでも、今にも砕けそうな彼女の姿から、美しさはまったく損なわれていなかった。
それまでが、人の姿をした神の如き美しさなのだとしたら、今は生命の輝きを燃やす生者の美しさとでも言うべきなのか。

彼女はふわりと足音も無く、あゆの前に降り立った。

――この器。月宮美由の肉体はもはや限界である。
―――命数は使い果たし、損傷も修復不可能なまでに至ってしまった。


深々と降る雪のように、静かな声音。

彼女の左手が押さえる胸元からは、未だ音もなく血が滲み続けている。大量の血を染み込ませた白衣は、重たげに女の身体に張り付いていた。裾から血の雫が零れ落ちていく。
舞の大斬撃に文字通り両断された身体は、彼女の治癒力をして癒し切れなかったのだろう。

―――シャン、と翼が疲れきったように鳴った。

あゆは、無言で母の姿をしたものを見上げた。不思議と、恐怖は感じない。ただ、胸にナイフを突きたてられたような辛さは消える事無く、哀しさが薄れない。
すっと、絡み合うように自分を見下ろす紅い瞳と視線が交わった。

――我は……汝を我としようと思う。

それは、宣告。だがあゆには、その宣告は彼女自身に向けられているように聞こえた。
あゆはゆっくりと瞼を閉じ、大きく息を吸うと目を開き、まっすぐにその人を見詰めた。

「ボクを、取り込もうというの?」

彼女は喜びも無く、ただ感情を押し殺したような無表情で小さく頷いて見せた。

「そして、自分が望む世界を創ろうというの?」

あゆの否定的な言葉の揺れに、ガディムは告げた。

――汝が我となれば、その望みは汝の望みともなる。

そうかもしれない。
もし、自分もガディムの一部となってしまえば、それだけが縋るべき未来になるのかもしれない。
それでも―――

「それを望むのはボクじゃなくなったものだ」

白き女は否定するでもなく、再び小さく頷いた。
それを誰よりも知る者こそ彼女らであるのだから。
だから、それを認めさせることも、納得させることもするつもりはない。
それがどれほど無為な事なのかを誰よりも知っている者こそ彼女たちであるのだから。
望まず、だがそうなってしまったものが彼女ら。それを理解できるものはただこの世にガディムだけ。
故に彼女らはこの世に孤立し、すべてに絶望したのだ。

ガディムはただ、自分の信じた未来に進む。
それだけが、彼女らの救いであるが故に。

―――例え汝自身が拒めども、汝等は敗れた…敗れたのだ。
―――あゆよ、お前が望みし未来を勝ち取る戦いは潰えたのだ。


言って、ガディムは右手をゆっくりと周囲に巡らせた。
血に濡れた彼女の手が指し示す。ガディムが命を振り絞り、限界を越えて解き放った一撃により倒れ、動かぬ自分の敵を。未来を争う相容れぬ存在たちを。

―――汝等は、敗れたのだ。

少女はその声に、勝利者の傲慢も、歓喜も、高揚も感じ取れなかった。
無垢なまでに色の無い虚ろ。事実を告げる以外に何も無い空白。
その中にただ、一つの欠片が見える。自分が生きているのだという証左を求める渇望。造られた存在意義のためではない、自らの意思の中での生。
それを追い求める眼差しが、自分を見つめている。

だが、あゆはまっすぐに紅の双眸を見詰めながら首を振った。

「まだ、ボクらは負けてない。だって――」

少女は自分の胸に手を当てて、決然と言った。

「ボクがまだ此処にこうして立っている」


ハッ、と息を呑むようにガディムの表情が崩れ、眼が大きく見開かれた。


――小さきあゆよ、汝は……。


「あなたはボクに思い出させてくれたよね。お母さんの言葉を。
だからね、ボクは諦めない。ボクは最後まで目を閉じない、逸らさない。
ボクは決めたから。あなたと戦うと、ボクは決めたから。
あなたを…お母さんを倒すんだって、ボクは決めたんだから」

だから、とあゆは泣き笑いの表情ではっきりと口ずさんだ。

「ボクはボクたちの未来を最後の最後の瞬間まで諦めない」


ひと時、二人の翼持つ女と少女は向き合い、互いを見詰め合った。
片や、残りし八枚の翼を大きく広げ、自らの血で紅く染めた白衣を風に重々しく揺るがせ、鮮血の色をした瞳で娘を見下ろす女。
片や、ただ一枚の翼を胸に抱くように身体に寄せて、他者の血で紅く染めた白衣をはためかせ、温かい黒瞳で母の姿をした女を仰ぎ見る少女。


やがて、女は口を開いた。
その口元には微笑みを浮かべ、紅の双眸を柔らかく和ませ、
それは、もしかしたら、愛する娘の強さを喜ぶ母の面差しだったのかもしれない。

―――小さきあゆよ、我は……我等は……。
―――汝が我等の娘であることを、汝が我等の末裔たることを


血に濡れた紅い唇で、静かに口ずさんだ。

―――誇りに思う。


優しさの余韻。

それが過ぎ去った時、再び、女の顔から雪が溶けるように表情が失われていった。
少女に向かい、手を差し伸べながら言う。


―――だが、汝にもはや我に抗うすべは無い。
―――汝の決意を預けられし白翼の剣はもはや無い。
―――汝の未来を受け取りし人の子はもやは無い。
―――汝はか弱く、儚く、無力である。
―――汝の強き心のみで我を討ち果たすことは叶わぬのだ


痛みを感じるほどに冷ややかな声で彼女は言った。

―――我と共に往こう、小さきあゆよ。
―――我は今、汝の未来を刈り取り、我が未来の糧と為す。



女の白い右手が、あゆの柔らかな髪へと差し込まれた。
そして、左手でそっとあゆが押し出そうとした双手を握り締める。
それだけで、あゆがたたきつけようとした魔導術は弾けて消えた。

自分程度の、しかも初級の魔導術なんて効く訳が無い事ぐらい分かっていた。
でも、自分の精一杯の抵抗がこれほどまでに簡単に打ち消されてしまう。そんな情け容赦もない現実に膝が震える。

それでも、あゆは幽かに涙の浮かんだ眼差しを、間近に迫った母の相貌にじっと向けた。
それは、決して屈さぬ想いの証。最後まで、目を逸らさないと決めたから。

でも、それなのに……。

もはや、間近に迫った紅光に、一片の温もりも窺えなかった。
見詰められるだけで、身体の中から凍りついていくような悪寒が走る。

負けないと決めたのに。諦めないと決めたのに。

氷紅は、あまりにも冷たくて。あまりにも虚ろで。
…力が、はいらない。

わなわなと引き絞った唇が震えた。
身体の奥底から、ガタガタと止められない震えが湧き出てくる。心が、蹲って目を閉じたい、耳を塞ぎたいと泣き叫ぶ。
どれだけ、決意しようとも。

―――恐怖が頭をもたげてしまった。

何も出来ない。どうしても逆らえない。身体が動かない。
心だけが必死に身を捩る。眼差しだけが重い瞼の誘惑を撥ね退ける。

それでも―――

とても、とても、怖い。怖くて、しかたがない。
自分でなくなってしまう、それが怖くてたまらない。身体を押し潰してしまうかのような暗黒。

嫌だ、嫌だ、嫌だ。怖い、怖いよッ。

ガタガタと震える少女の身体を掻き抱くように、女の右手が髪を梳く。左手が手をそっと握る。
大好きだった母親の顔が、仮面を被ったような無表情になって近づいてくる。
彼女が月宮美由だった時には、決して浮かべた事の無い表情。
あゆの一度として見た事の無かった母の顔。

瞬きすらせず見開いた眼から、ポタポタと涙が零れ落ちた。
涙に滲んで、母の顔が歪む。
何故か、涙越しに見えたその面差は、哀しみを宿しているように見えた。

目を逸らさない。負けないのだと、心の中で絶叫する。

重なろうとする唇で口ずさむ。あの人の名前を。
何度も何度も、掠れた声で。空気をも震わせぬ小さな声で。

「祐一くん、祐一くん、祐一くん」

自分が消える、その時まで。
やがて、紅の双眸が視界一杯に広がり……。 ぞっとするような冷たい唇が。
パン、と弾ける意識の中で、月宮あゆは絶叫した。


「―――――祐一くんッ!!」





「ま…てよ」


掠れた声が、聖地に響いた。



ピタリ、と女の唇が、あゆの唇に触れるか否かのところで停止した。
女は名残惜しげにあゆの頬を撫でると、面を上げた。
スラリ、と剣を鞘から抜き放つように紅瞳が細められた。
そして、あゆの肩を持って彼女の身体を反転させ、胸に腕を回して抱きかかえる。
お陰で、すべてが見えた。

少女は息を呑む。呼吸が出来ず、意識が明滅する。

血塗れの――少年が―――瓦礫を押しのけて―――立ち上がった。

足元を、紅の泉へと変えながら。


朱に濡れた半顔を苦しげに歪めて、右手に持った翼の剣を杖代わりに突き立てて、左手を血の湧き出る脇腹に当てて。
相沢祐一は、死と絶望の狭間で爛々と輝く眼差しを此方に向けて立っていた。

その光景は、あゆの想い出を揺り動かす。
かつて過ごした過去の中に、その光景はあった。

幼き日々、雪の降った日、大木の上から遥か遠くを眺めた日。
―――別れの日。
ボクの追っ手と戦って、彼はこんな風に血塗れになりながら立ち上がったのだ。

「そいつを、連れてかせる訳にはいかないんだよ」

(うな)されるように、彼は言う。

「守れなかったんだ。俺は守れなかったんだ。そいつを……あゆを、俺は二度も守れなかったんだ。
情けない話だろ? 俺は、絶対守るって思ったのに、守らなきゃいけなかったのに。守れなかったんだッ!!」

「祐一くん」

堰を切ったように涙が溢れてくる。もう、出尽くしてもおかしくないくらい流れたのに、まだ溢れ出してくる。
祐一は、ゆっくりと突き立てた剣を抜き放ち、血反吐を吐くように言う。

「もう、あんなのは嫌なんだ! もう絶対嫌なんだ! 今度こそ、守る。絶対に。俺は、諦めないぞ。約束したんだ、諦めないって、絶対あゆを連れて帰るって。
俺たちには帰る場所がある。待っててくれる人がいる! だから、だから…あんたにはあゆを連れていかせない!!」

剣を引き摺るようにして歩き出す。此方に向かって歩き出す。

「ガディム、あんたを倒すよ。この剣で、あんたを倒す。このあゆの翼といっしょに、決意といっしょに、あんたを倒す。
あゆ、この剣はお前だ。だから……」
「うん、うん」

みなまで言わせず、あゆは母に抱かれながら何度も何度も頷いた。

あの雪の日、ボクは思った。自分がどうなっても構わないから、彼の事を守りたいと。
自分が傷つくより、死んでしまうより、誰かが、大切な人が居なくなる方が辛かったから。
それは今でも変わらない。
でも、あの時自分を切り裂いて作り出した剣は、今も彼の手の中にある。自分の分身。ボクの翼。『想い出』と名付けられた絆の証。
その翼を持って、彼はボクを助けようとしている。ボクの願いを叶えてくれようとしている。
だから、信じようと思う。一片の疑いも無く、盲信といわれるほどに、今だけは信じようと思う。
彼は負けないという事を。未来を繋げてくれるのだと。
だから、ボクも負けない。死んでも構わないなんて思わない。

ボクは、祐一くんを信じている。

「来て! 祐一くん」


招き入れるように両手を広げる少女を抱きながら、女は悟ったように呟いた。


―――何れにとっても小さきあゆは未来か。
―――だが、我は未来を放さぬ。この娘を抱く腕を放さぬ。
―――人の子よ、汝を滅し、我はこの戦いに区切りを打とう



お前、こんなに重かったんだな。

祐一は声に出さず自分の相棒に語りかけた。
普段は悪い意味での重量感を殆ど感じない『メモリーズ』。羽根のように軽いのだと、思っていた。
それが今、持ち上げる事すら辛い。
子供の頃、初めてこの翼の剣を握った時も、こんなに重さを感じなかった。
足元が定まらず、喉の奥から吐き気がこみ上げてくる。
視界だけがまだはっきりと霞んでいない事だけが救いか。

――――リィン、と剣が励ますように震えた。

「分かってる。分かってるよ、相棒。お前の事、信じてるからな。いっしょに、あいつ助けような。だから、頼むぜ」

鼓動にも似た震動を握った右手に感じながら、顔を上げて祐一は歩き出した。

徐々に近づいてくる二人の姿。二人の母子。
後ろから、娘を抱く母。母に抱かれ、此方を真摯に見つめている少女。
それは挫けそうな情景だった。

我知らず思い巡らしてしまう。

果たして、世界が違えば、その光景は幸せな母子の一ページだったのだろうかと。
ただ愛しい娘を優しく抱き、大好きな母親に包まれて、幸せに微笑む一組の母子の日常にある一つの光景だったのだろうかと。

だが、その想像は在りえぬ虚夢。

祐一は、剣と足を引き摺りながら駆け出した。

この偽りの情景を切り伏せるために。
娘を抱く母親を、殺すために。

すべての悪夢から目覚めるために。




ガディムは(かしず)く騎士に手を差し伸べるように、空いた右手を掲げた。
白き剣を持ちし人の子の動きは、見る影も無く遅い。
文字通り、最後の死力を振り絞って、向かってきているのだろう。

だが、此方も器の限界は既に先程の光爆で通り越している。
後は一度か二度、魔術を使えるか否か。


先刻までと比べれば、泥人形のように遅い動きで、白き翼剣持つ少年が間合いへと踏み込んだ。
掲げた女の右手が、ギャン、と悲鳴をあげて凶器と化した。
四爪が揃えられ、その鋭利な切っ先を突き立てる。

迫り来る稲妻の如き一閃。
避けるか、その考えが一瞬祐一の脳裏を過ぎり、震える膝の感覚にあっさりと捨てた。
死か生か、その他のことを鑑みるほどの余裕は無い。だから、勝って生き残る以外の事は捨てた。

左手を広げ、躊躇いもなく白爪の前に突き出す。
爪の切れ味は呆れるほど鋭く、容赦が無かった。

眼前で血と肉色の華が爆発。

絹糸を裂く、と表現できるほど何の抵抗も無く、左手が手の平から四分五裂に縦に裂けた。
言葉に言い表せない凄まじい激痛が脳髄で爆発し、だが祐一はそれを無視して左の肩を捻った。
爪は、骨と肉に絡み取られ、狙いを祐一の胸から外され、横にずらされる。

必殺の一撃を外され、だがガディムは何の動揺も見せなかった。
少年の右手がグッと後ろに引き絞られるのが見える。剣を突き刺す構え。
そうだ、それしかないだろう。何しろ、此方には小さきあゆを前に抱かかえているのだから。
図らずも、楯という形にしてしまった。だが、それはこの上なく有効だった。
かの少年が狙える場所が必然的に一つに絞られる。
すなわち、頭部。

今の一撃を避けられなかった彼に、背後に回りこむような機動力はもはや残されていない。
後は、最後の一撃を魔力を振り絞った極小圧縮結界で受け止めて、今度こそ右手の爪で仕留める。

顔の前に結界を作り出しながら、白き翼の女は娘と人々の未来が潰える最後の一撃、その行方を悠然とそして蕭然と見守った。
引き絞られ、突き出された白き剣身は――――剣身は――――


その瞬間、女は見た。
自分の腕の中で、少女が信頼しきった眼で少年を見ながら、微笑んだのを。
その微笑みを受けて、少年が幽かに頷いたのを。



その瞬間、女は静かに悟った。
自分が今、この少年と少女によって敗れた事を。










―――――――― トス









響いた音は、想像していたものよりもずっと、優しいものだった。
女は目を細めながら視線を落とす。
どこか陶然と、自分の心臓を貫く真っ白な剣を見下ろした。
翼の女性は、透き通った眼差しで、月宮あゆごと自分を貫いた(・・・・・・・・・・・・)少年を見下ろした。


―――そう…か。


腕から力が抜け落ちて、あゆの腰をがっしりと掴んだ左手が離れた。
あゆの身体が、ゆっくりと前に倒れる。

胸を貫いた翼剣を透過して(・・・・・・・・・・・・)


女は剣に手を添えて慈しむように語りかけた。

―――汝はこの子の翼であったな。
―――汝は、我が娘…あゆの分身であったな。



翼は、主であり、友であり、分身である少女を決して傷つける事はない。

それでも、果たして実際にこの状況でその行為を成す事が出来ようか。

彼らはやったのだと、女はどこか満足な思いと共に頷いた。

あの瞬間の彼らの目を見れば、分かった。
互いに抱く、果てのない信頼を。

ならば、少女は自分を貫く意思に何の恐怖も抱くわけがない。
ならば、少年は繰り出す彼女の翼に何の疑いも抱くわけがない。


剣を胸に突き立て、よろめくガディムの目前で、少年は残った右手で少女を抱きとめた。


「祐一くん!」
「…あゆ」




その光景を見ながら、女は背後に倒れ落ちそうになる身体を辛うじて踏みとどめた。
そして、娘の翼の変化した剣をそっと撫でる。

まだ、生き残る術はある。ガディムとは魂の存在。肉体がなくともこの世に存在する事ができる。
この器から接続を解除し離れれば、まだ何とかなるかもしれない。

だが、造られた本能が無意識に試みた分離はまったく成す事が出来なかった。
理由は解かっている。


―――お前は、もう我に眠れというのだな、娘の翼よ。


どういう理屈なのかはガディムにすら分からない。だが感覚として認識できた。
この翼の剣は、器に魂を縫いとめてしまったのだと。
このまま、眠れと告げているのだと。

その意思に唱和するかのように、背中の翼たちが仄かに白き光を宿し、

――――シャン

と、唄った。



その歌声は、果たして目覚めの歌だったとでも言うのだろうか。

「く……ううっ、くそッ、いったいどうな――――」

額に手をやり身を起こした魔狼王が、ハッと気がついたように辺りを見回し、その光景を目撃して口を噤んだ。
彼を皮切りに、意識を失っていた者たちが目覚めていく。

佐祐理が、舞が、浩平が、浩之が。

意識を取り戻し、起き上がる。
そして一様に物語の終焉を目の当たりにして、静寂の僕となった。






もう、良いのかも知れない。

ガディムは、人々に見守られながら、想像し得ぬほど穏やかな心地の中で、そう思った。

兵器として創られた存在意義にはそもそも未練はない。所詮は造られし意味。悲哀の根源。
自分を最後まで突き動かしたのは、月の宮の巫女達の魂の欠片が悲しみの果てに見出したガディムとしての未来への意思。
自分で見つけ出した存在意義。生きるということ。
それだけが、救いだと思っていた。それは今も間違っていないと考える。

でも、それでも、もう良いのかも知れない。
眠っても、良いのかも知れない。

巫女達の絶望と悲しみと怨嗟の果てに、破滅の具現として生み出された自分が、自分の生きる意味を見出した。
そして、それが為にただひたすらに突き進み、足掻き、全力を振り絞った。本来なら神剣の一撃で滅び去っていたであろう自分。限界を越えた自分。生命を、そう生命を燃やし尽くした自分。
その果てがこの結果であるのならば、悔いはない。
自分の進んだ道は、他者の血と悲しみと怒りが敷き詰められた道だっただろう。それは罪だと認識している。それを受け止める意思を持っている。だが、後悔は無い。
兵器として生み出された自分が、一個の生命として生き抜いたのだと、言い切れるのだから。

そう、自らの意思を持て生き抜いた果てに、力尽きるのであれば、望み未来を叶えられぬのだとしても。
それもまた、一つの終わりなのだと、認めることが出来る。
例え道半ばの終わりであったとしても、虚ろな滅びの果ての滅びという本来の存在の消滅に比べれば、どれほど確かな結末だろう。

そう、これは、いつしか訪れたであろう終焉の中で、決して悪いものではないのではないか。
ガディムは、そう思った。


不意に、自分の身体を抱き締める感触に、女は思考の海から舞い戻った。
その途端、カラリ、と音を立てて翼の剣が抜け落ち、床に転がった。役目を終えたとでも言うように。
そっと、自分を抱き締める少女の頭に手を置きながら訊ねる。

――何を、泣く事があるのだ?
―――小さきあゆよ。



足先から、徐々に光の粒子へと分解されていく女に顔を埋めながら、あゆは答えた。

「辛いから。哀しいから」


――何を、哀しむことがある?
―――何を、嘆くことがある?
―――汝らは未来を勝ち取り、勝利し、敵を倒したというのに?


「それでも―――!!」

女の言葉を掻き消すようにあゆは叫んだ。
ギュッと服を掴み、額を押し当てながら、嗚咽に引き攣る声で、叫んだ。

「例え一欠けらだとしても、あなたはボクのお母さんなんだ!!」


少女の声は、慟哭。

慟哭は蕭々と静寂の中を流れて行く。


――閉ざされていた伊世の瞼が開き、足元に転がる綾香を蹴飛ばしながらじっと一組の母子の視線を向けた。

――まだ痛む脇腹を指で弾き、胡座をかいて座り込んだ浩之が、不機嫌そうに歪んだ顔を手で覆い、指越しにその光景を見つめた。

――覚束ない足で舞の元へと歩み寄り、膝をついた佐祐理は、いきなり舞にしがみつかれ目を見開き、だが何も言わずに声無く慟哭する少女の背中をそっと撫でた。

――ムッツリと唇を引き結んでいた浩平は、袖を握って自分を見上げるみずかに気付き、その小さな頭をそっと抱き寄せる。

――幸いにもすぐ近くに転がっていた自分の左腕を拾い上げた耕一は、血の流れる胸の傷を押さえながら静かな眼差しで終わりゆく光景を見守っていた。

――独り離れた場所に立ったヴォルフは、背を向け、無言のまま空を見上げる。


じっと、最後の別れを見守っていた祐一は、隣に気配を感じて目線を向ける。
ひどく怒ったような顔をした母 奈津子が立っていた。視線が交錯する。彼女は何も言わず、少年もまた無言のまま視線を戻した。


既に膝下まで粒子に変えた月宮美由の姿をした女は、泣きじゃくる少女の髪を優しく梳いていた。
二人を、舞い上がる光の輪舞が包んでいく。


――汝は、我等のために泣いてくれるのだな。

感慨深げに、彼女は呟いた。

ずっと、存在を滅する時は孤独のままに逝くのだと思い込んでいた。
だが今、その滅びに涙してくれる者がいる。

こんな誰でもなくなった自分を母だと最期まで言ってくれる娘がいる。

それは、望外の幸せなのかもしれない。
ガディムという存在が、決して得られぬはずのなかった幸せなのかもしれない。

ガディムの中の美由としての、娘への愛しさが満ち満ちていく。


ならば―――

最期は、彼女の母として逝くのも悪くは無い。
あゆが自らの選んだ未来を手に入れる事を望んだのも、また我なのだから。
我は、違う事無き彼女の母なのだから。


かつて、ガディムに捧げられ、混沌となった十六人の月の宮の巫女たち。
その溶け合い、混ざり合った魂が一つの要素を掻き集める。
それは、悲しみ、嘆き、すべてを怨嗟した彼女たちの最期の想い。誰でもなくなってしまった彼女たちの群体としての意識が一つに重なる。
重なる想いが形を描く。
それは一時の夢であり、ましてや彼女そのもので無いとしても、それは一人の女の魂を描いた。


女は娘の髪を梳く手を止めぬまま、顔を上げた。
透き通るような穏やかで、優しい微笑を浮かべていた。
双眸の紅は、どこか静かで、記憶に刻み込まずには入られないほどに綺麗だった。

その視線を、彼女は奈津子へと向けた。
そして、鈴の音のような声で告げる。


―――貴女に頼むのは筋違いかもしれませんが。
―――この子を頼みます。



一瞬、奈津子の瞳が驚きに見開かれ、次の瞬間本当に怒ったように瞳孔が収縮する。

「あなたは母親としては最低だ。母が自分の子供の未来を他人に託すなんて、本当は許されざることなんだぞ。だが……」

微塵も揺るぎもしない紅瞳を、此方も真っ直ぐに見返し、奈津子は粛然と言った。

「私は、私のすべてを費やして、その子の尊厳を守ると誓おう」


―――ありがとう。


心よりの感謝を示すように瞼を降ろし、そして見開いた彼女は祐一を見た。


―――貴方は此れからもこの子を守ってくれるのですか?
―――これからも、この子の信頼を受け止めてくれるのですか?


「ああ、約束したからな」

肉のオブジェと化した左腕を押さえながら、青ざめた面差しを女に向け、だが祐一ははっきりとした声音で即答した。
そんな少年の答えに、女はどこか懐かしさを抱いた眼差しを向けた。
そして、ふっと目を閉じ、くすぐるように告げる。

―――あまり、この子を泣かさないでやってくださいね

言葉に詰まる祐一に笑みを浮かべた女の姿は、もはや腰に至るまで光と化してしまっている。

「お母さんッ、おかあさん!」

そんな彼女を逃がすまいと抱き締めるあゆ。
分かっているのに。もう、別れは逃れられぬのだと。
この人を殺したのは、自分だと分かっているのに。

それでも、あゆは泣きじゃくりながら彼女から離れる事が出来なかった。


―――こんなに大きくなったのに

言葉と共に、そっと背中に手を回される。
包まれる感覚。記憶を消された時ですら覚えていた、ぬくもりの記憶が今、現実のものとなって自分を包む。

「おかあさんッ!!」

―――いつまでも、あなたは泣き虫なんだから。

「ううっ、うああっ!!」

咄嗟に見上げたあゆが涙に濡れた瞳で見たものは、記憶そのままの母の暖かな微笑み。
限りない愛しみの篭められた微笑み。

―――苦しませてごめんね。哀しませてごめんね。
―――でも、またあなたに逢えてよかった。
―――私はもう、美由じゃないけど、逢えてよかった。



堪えていた何かが、音をたてて千切れとんだ。

「やだ! やっぱりやだよ! いやだいやだ、いかないで、お母さん!!」

今、まさに消えようとしている母をこの世に留めようと、あゆは必死で縋り、しがみつき、懇願をぶつける。
涙でぐしょぐしょになった顔を擦りつける。
そんな娘を優しく抱き締めながら、光の破片にその身を変えながら、彼女は穏やかに告げた。


―――頑張ってね、何があっても負けないでね。
―――あなたには、あなたのことをとても大切に想ってくれる人たちがいる事を忘れないで。



「おかあ―――さんッッ!!」


―――愛してるわ、あゆ。私たちのもう一つの未来。私たちの大切な娘。





ぱぁ、と光の羽根が舞い上がる。

弾けた煌めきとともに、月宮美由の姿は――――光になった。

あゆは呆然と消えてしまった感触に手を広げ、自分を包む光を仰ぐ。
まだ、抱き締められているみたいに温かい。
そんな、仄かな光がいつまでも名残惜しげにあゆを取り巻いていた。



―――――あなたの未来に幸多からん事を。





























いつしか、光は消え去っていった。
もう、彼女がそこにいた痕跡は何も残っては無い。
まるで夢のように。

でも――――。

「あゆ」

蹲る自分に、降り注ぐ優しい声。
振り返らずとも分かる。大好きな。大好きな人の声。

「夢はね、いつだって優しいんだ」

突然、脈絡の無い事を語り出したボクを、祐一くんはただ頷くようにして見守っていてくれた。

「優しいから、目が覚めたときにすべてを忘れさせてくれる。辛い事も哀しい事も、手の届かない場所に包んでくれる。だから……」

振り返る。目の前に祐一くんの顔。膝をつき、じっと覗き込むようにして。
涙でグショグショだろう自分の顔を恥ずかしく思い、顔を赤らめながらボクは口ずさんだ。

「ボクは夢に甘えない。ボクはこれを夢にして逃げないよ。だって、辛くても哀しくても、ボクはもう一度お母さんに会えたんだから」
「そっか」
「忘れない。ボクはずっと忘れないよ。今日、この日の事を。あの人たちの想いを」
「ああ」

それが、あの人達の想いを覚えている事が、自分という個を亡くし、誰でもなくなってしまった月の宮の巫女たちへと、ただ一つの出来ること。
もしかしたら、ボクが歩んだかもしれない運命。その運命に先んじて飲み込まれた巫女たち、そしてお母さんへ同じ月の宮の巫女であるボクがただ一つ出来ること。

―――絶対に忘れないよ。

「だから、だからもう少しだけ泣かせて」

祐一くんは少しだけ辛そうに笑って見せた。

「俺の腕なんざ後回しでいいから、思いっきり泣け。もう一度、笑えるようになるまで、幾らでも、好きなだけ」

――俺はいつまでもお前が泣き止むまで待ってるから。


そんな…

そんな優しい事ばかり言うから、ボクはどうしようもなく心揺さぶられてしまう。
思わず抱きついて、でも傷が痛いはずなのに、祐一くんは避けなくて。

―――ギュッと抱き締めてくれた。


泣きながら、顔をあげると奈津子さんが少し困ったような表情で微笑んでいた。
見渡すと、舞さんがボクより泣きじゃくってて、佐祐理さんが眼を紅くしながら必死に慰めてて。
伊世さんがいて、伊世さんに背負われた綾香さんがいて。そっぽを向いてる黒の王様がいて、そんな仕草に呆れてる御音の男の子と小さな女の子がいて。
お父さんみたいな優しい顔でボクを見てる鬼の人がいて、どこか遠くを見てる金髪の人がいて。


ボクは鼻の奥が痛くなった。胸が動悸で一杯になる。
嗚咽が漏れる。
何故か、溢れる涙はそれまでとは違っている気がした。


「お、おい。あゆ、お前…背中」

不意に、驚いたような祐一くんの声が耳元に響いた。
嗚咽を止められないまま、ボクがキョトンとすると、祐一くんは呆然と呟いた。

「翼、生えてるぞ」
「うぇ?」

―――バサリ、と大きく羽ばたく翼の声。
肩越しに振り返ると、真っ白な羽根が目に飛び込む。
それは失われたはずの左の翼。
足元に転がる『メモリーズ』へと変じたはずの左の翼が、あゆを包み込むように彼女を覆った。


その懐かしい輝き、懐かしいぬくもり、懐かしい匂い。
ああ、そうか。そうなんだね。
ありがとう、お母さん。


あゆは、そっと母の翼を胸に抱き締めた。


純白の涙を一滴。

最後の涙を一滴。


翼に落とし、月宮あゆは微笑んだ。


「ボクは未来に歩いていくよ。だから、見守っててね、お母さん」











どこかで翼の歌が―――


――――聞こえた気がした。





















  こうして、白き翼の物語は一つの終わりを迎えました。

  混沌は一人の少女に想いと希望と未来を託し、永久の眠りについたのです。

  そして再び物語は始まります。

  少女が歩む、未来への物語が。





  ですが、その前に。

  未だ結末を見ぬ物語がもう一つ。

  与える名も無き物語。


  誓うべき未来を見失った独りの少年と。

  自分の想いを在り処を見つけた独りの少女の。

  物語の終わりを此処に










   最終話 ――― 君の名を囁いて






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