「グルルオオオオオオオオオォン!!」

漆黒の魔獣の凄まじい吼声に、震え上がったように森の木々がざわめいた。
四肢に絡みつき、締め上げようとする蛇を振り払ったガディムの神骸は、その漆黒の体躯から暗色の光芒を閃かせた。途端、内側から爆発したように肉が盛り上がり、続いて体格が矯正されるように骨格が拡大、全体のシルエットが数倍に膨れ上がって安定した。
ゆうに元の三倍。およそ15メートルの巨体へと巨大化していた。それは、美汐が駆る八俣遠呂智の全高に匹敵する威容。木々を小枝の如く薙ぎ倒し、鎌首をもたげるオロチでも、もはや神骸を睥睨はできない。
神骸は漲る力を押えかねたように身を小刻みに震わせ、蹲るように身を丸めていた。その背筋が唐突に伸びきり皮膚が破れ、肉の内側から迫り出した背中の黒羽が、その切先まで張り詰める。
途端、引き裂かんばかりに開かれる顎。その奥から湧き出るように漏れ出る闇色の煌めき。

「山地沢風、八法を以て鉄を禁ず、炎を禁ず! 臥爛奉弦(がらんほうげん)! 反護叛烙(はんごはんらく)!」

美汐の鋭い韻が放たれたと同時に、神骸の口から人の身の丈ほどはあろう極大の光条が発射された。
だが、光がオロチに直撃する刹那、グイと前へと頭を伸ばした四匹のオロチが一斉に顎を開く。
軋むような咆哮により、虚空に生まれる正八角形橙色の魔韻紋様。
闇光は紋様に直撃するや、四方八方へと拡散して弾かれる。
一拍の後、飛び散った光が雨のように大地へと降り注ぎ、着弾した地点が一斉に爆音と火柱を巻き上げた。
一瞬にして炎に包まれる聖地西の深森。
煉獄かと見間違う火の粉舞う中で、茜色にその全身を染めあがられながら今度は蛇の八ツ頭がそれぞれ八色の光芒をその口の中に蓄え始めた。

「大権を以て聖裁を下すッ! 黎明にして黄昏たる力を今此処に! 『伐透靭夜(ばっとうじんや)八王滅輝(はちおうめっき)』ッ!」

灼熱の風を諸共せず、天野美汐は袖を振り、一筋に指し示す。
その瞬間、深遠の闇から溢れ出すが如く、八ッ色の光芒が世界へと解き放たれた。
巨大なる八ツ蛇の顎から解き放たれた八光は、轟音を供に螺旋を描いて怨敵へと突き刺さった。
結果、巻き起こった衝撃は音速を突破した。すべてが静寂に包まれ、その只中で地獄が開かれる。
発生した凄まじい爆風が燃えさかる木々の炎を消し飛ばし、続いて襲い掛かった熱波が一端消え去った火焔を再び木々に点火する。

押し寄せる爆風の只中に敢然と佇む少女の姿。白衣の袖が、緋色の袴が狂ったようにはためき、その髪は燃えるように赤くざわめく。
立ち昇る獄炎の向こうにユラユラと透かし見える漆黒の影――神骸を睨みつけ、天野美汐は柳眉を逆立てた。

「滅び去るは何れか。退く事能わずッ、屈する事能わずッ! いざ、勝負ッ!」

瞬間、蛇と怪物の間の空間を幾つもの光芒が交錯し、千切れ飛んだ光の破片がスコールのように降り注ぎ、周囲の森に無差別に爆炎を吹き上げる。
一帯を焦土に変える灼熱の只中で、赤色の壁の向こう、巨大な破壊の権化が二体、幻想のように、悪夢のように、滅びを踊る。








  §  §  §  








全身の感覚が鈍っている。来栖川綾香はぼやけた意識の中で自身の状態をそう判別した。
冷静に判断を下す頭とは別に、自分の身体を思い通りに使役できないもどかしさが苛立ちを増殖させる。
と、不意に、靄のかかっていた意識が幕が取り払われたように覚醒する。混乱する頭に水が注がれるようにして外の情報が流れ込んできた。
薄い布越しに背中から感じる硬質の冷たさ。視界に映るは崩れかけた天井と蒼い空。
仰向けに、無防備に倒れている自分。

思い出した。ベルゼビュートとかいう小さいのに、良いように翻弄された挙句に、一撃を喰らったのだ。

なにを……やってるのよ、あたしはッ!

怒りとも恐怖ともつかない激発。咄嗟に軋む体のバネを利かせて来栖川綾香は跳ね起きた。その頬を掠める風切り音。
間一髪、つい今まで寝そべっていた場所にベルゼビュートと名乗る魔族がその拳を叩き込んでいた。
石床を刳り貫くように手首までめり込ませるほどの拳撃。その小さい体で……
いや、拳に破衝系の術式を付与しているのか。それならば、先程の一撃、ガードしたにも関わらず意識を吹き飛ばされたのも理解できる。
どちらにせよ、その技のキレには瞠目すべきものがあった。

「なーる、葵と同じタイプか」

妹弟子の戦闘スタイルが自然と脳裏に浮かび、目前の魔族と重なる。
呟き、それに云い様にやられていることを思い出しながら、口元を拭った。

「むかつく」

吐き捨て、綾香はようやく動きを止めたベルゼビュートに殴りかかった。
それを見て、馬鹿にしたように黒白の翼が羽ばたく。その残像だけを残し、消えるベルゼビュート。
視界から逃したのはほんの刹那。だが気がつけば足を刈るように地を滑ってくる蹴撃。

―― 疾い、じゃないッ!

咄嗟に踏みつけるように足裏で受け止めるが体勢が揺れた。そこへ伸び上がるように叩き込まれる拳の連打。手甲に覆われた両腕をクロスさせ受け止めるも、光を帯びた小さな拳は凄まじい衝撃を叩き出し、綾香の体躯を後方へと吹き飛ばした。
無論、それで倒れるような綾香ではない。だが――

滑るように着地した綾香は、背後から膨れ上がった殺気に身を震わせた。

――しまったッ!!

其処には狙いすましたように自分を囲み、闇炎を口内に宿すグレーターが三鬼。
いや、まさに待ち構えていたのだろう。あの小生意気なチビにキルゾーンへとまんまと放り込まれたのだ。
避けようにも間に合わず、防ごうにも術は無い。

それでも諦めを知らない綾香の意識が肉体に命令を伝達する。
太腿の筋肉が強引な機動を図ろうとする反応に悲鳴をあげ、ラルヴァの口内で火焔が今放たれんと膨張し―――

――グレーターの首が飛んだ。

制御を失った火焔がクルクルと虚空を舞う頭部を火の玉に変えたその時にはもう、右と中央のグレーターが胸郭部から斜めに断裁されて崩れ落ちていた。そして、左のグレーターの左下腹から長太刀『軋ヶ崎・藤の斬影』の切先が長々と生える。
さながらチーズを切るように、刃が滑る。脇腹に抜けた刃は反されるや閃風と化した。
7等分ほどにバラバラされて崩れ落ちたグレーターの向こうに佇む女がただ独り。藍染めの着流し。身の丈はあろう体液滴る太刀を肩に担ぎ、気怠げに綾香を見下ろす。

斬撃狂(スラッシュ・パラノイア)】上泉伊世。

綾香が何か言おうとして、その直前女剣客の視線が跳ね上がった。
その動きに引き摺られるように、綾香は背後へとトンボを切る。ドガンと爆音を立てて粉砕される石床。その爆発の中から口元を三日月に引き裂いたベルゼビュートが飛び出してきた。
広げた掌には鈍く輝く光の円。躱す間もなく綾香の腹腔へと押し付けられる寸前、隙間に叩き落とされる血滴る長太刀。
予期せぬ接触で光円の安定が破壊。発生した衝撃に綾香とベルゼビュートは双方向に押し流され、距離を広げた。
その二人の間、衝撃波など最初から存在せぬように平然と佇む初老の女剣客。一つに結わえた覚めるような白髪が典雅になびく。

「上泉…伊世、あんたが…」

衝撃に眩む視界に綾香はやっと、自分を助けた女の姿を収めた。
直接会ったことはなかったものの、とある理由から綾香はその女剣客を良く知っていた。
聞いた話に違わぬ斬歓刀術師の名前を口ずさんだ綾香に、伊世は背中を見せたまま嘲笑うように声をかけた。

「無様だね、小娘。疋田の弟子ともあろうものが」
「うっさいわね、お婆ちゃん。ちょっと貧血気味なだけよ。それにあの酔っ払いにまともに何か習った覚えはないわよ」

綾香は辛そうに、だが憤然と答え、立ち上がった。
はっきりしない視覚を頭を振って整える。こめかみを押さえ、綾香は女剣士に一瞥を向け、一矢を放った。

「だいたい、そういうお婆ちゃんだって、剣聖って言う割には太刀筋やら足捌きが鈍いじゃない」
「ふん」

小娘の言葉を鼻で笑い、だが彼女に向けないその面差は苦みばしった自嘲に緩んでいた。
あの一瞬で初めて逢った相手の状態を見抜くその見極めは賞賛に値する。敵を見極める事は、戦いの初手であり最重要といっても過言ではない一手なのだから。素早く、正確に。それこそが大事。
伊世は担いだ太刀の重みを肩に感じながら、忌々しげに口端を釣り上げる。

歳は、取りたくないもんだね。

流石に長時間に渡る連続戦闘は、若くない身には堪える……いやそうではないだろう。雑魚を幾ら斬り捨てようがそうそうへばるほど素直な性格ではない。
主因は魔族の剣士アナンタ・ナラ・シュヴェーダとの死合だ。ギリギリの命のせめぎ合いは例え数分の戦闘とはいえ、異常に体力を消耗する。挙句に『夢想剣』まで使ってしまった。

「一度使っただけで足にキたか。まったく、やんなるね」

このベルゼビュートという魔族、決して弱くはない。アナンタに匹敵すると見た。生憎と今の自分では苦戦は必至だ。普段ならさっさと逃げの一手を打つのだがこの場合は流石にそうはいかない。
伊世はベルゼビュートから視線を逸らさず、だがまるで無視するように深々と溜息をついて、首を回した。

「だからあたしゃ、こういう後ろの無い戦は嫌だって言うんだ。奈津子のやつ、無理やり引っ張りおって」

八つ当たり気味に小さく罵り、剣聖はぶっきらぼうにヨロヨロと立ち上がった綾香に声をかける。

「調子はどうだい、お嬢ちゃん」
「…最悪」

青ざめた顔を片手で押えながら、綾香は不機嫌そうに応えた。
気分は最悪だ。体調の所為もあるが、横合いから助けられるわ、敵にはいい様にやられるわで、ともかく最悪だ。
毛を逆立てた猫のように唸り、綾香はベルゼビュートを睨みつけた。
獣のような眼光に、だがベルゼビュートはまったく怯む事無く嘲りを露骨に滲ませて奇声をあげる。

「きゃはは、はは、死にかけの色ボケ小娘と皺くちゃのちんちくりんババア、二人掛かり? 良いよ、良いよ、ビューが引導渡したげる」
「い、色ボケってなによ、色ボケってぇ!!」「だ、だれが皺くちゃだい!! 眼ん球ついてんか!」

激昂した二人の怒声が唱和して、二人は思わず顔を見合わせた。

(…皺、あるじゃない)(色ボケ…ふんっ、言い得て妙だね)

なにやら互いに神経に障るものを感じてヒクヒクと顔面の筋肉を痙攣させる綾香と伊世。
と、そこに飛び込んで来る嘲笑。表情をまったく動かさぬまま二人の首がクルリとまわる。
ケラケラとばかにしたように嗤うベルゼビュートを視殺せんばかりに睨みつけ、二人は異口同音に呟いた。

「「ぶっ殺す」」

そして先手を取って綾香が有無を言わさぬ調子で伊世に捻じ込んだ。

「お婆ちゃん、一分ちょうだい」
「なに!?」

肩越しに視線を向けた伊世が見たものは、両手足の力を抜いて俯いた来栖川綾香の姿。
荒らぐ呼気は瞬時に整えられ、感情の激発は灼熱を帯びたまま制御下に置かれ全身を循環する。体躯の奥底に漂う気が徐々に溢れ出す。
それまでの感情豊かな調子が嘘のような、まったく抑揚のない声調で彼女は言った。

「一分したら、殺す」

それは、剣聖をして総毛だつような声音だった。
ビュン、と太刀を右手一本で振り下ろし、伊世は不敵な笑みを浮かべた。

…なんだい、大層な事は教えてもらってるじゃないか。

女剣客は焦点を白黒の天使に合わせ、視界と意識の円還に此方を窺うグレーターどもを捉える。

「ふん、魔族一匹にグレーターども、近寄らせるなと? あたしゃ疲れてんだけどね、師匠筋を大切にしようって気がないもんか」

言葉とは裏腹に笑みが切り裂くように切れ上がり、狂気が滲み出す。

「まあいいさ、こういうのも偶にはね」

サラサラと白髪が流れ落ち、女の眼光を覆い隠す。ただ、見えるものは口元。悪魔のように切り裂かれた狂熱の笑み。
背筋も凍るその狂笑に、見下すようなベルゼビュートの嘲笑が消え失せた。

「あんたに残されたチャンスは一分だ。その間があんたが生き残り、そしてこのあたしを殺せる最後の機会だよ……さあ、殺ろうじゃないか」










  §  §  §  











鋭敏化した感覚器がさまざまな情報を大量に流し込んでくる。
視覚が盛り上がった筋肉の震えから動作を読み取り、触覚は大気の還流を捉え、聴覚が呼気と鼓動を感知する。
異形と化した柏木耕一は引き絞られた弓のような体勢からピクリとも動かずに、魔人アリオクを静かに見据えていた。
彼の周囲にはグレーターの残骸が無数に散らばっている。今の自分に手を触れようとした愚か者たちの末路だ。
自分で空恐ろしくなるほどに意識が冷たく、静やか。
エルクゥとは、灼熱であり、狂であり、暴虐そのもの。この姿になった時、常に心は高揚の熱に冒され、戦いの狂喜に魅せられていた。
故に、エルクゥと化した自分がこれほどまでに冷静で居られる事に驚愕する。
そして、醒めた思考であるが故にエルクゥ化した自分の本当のポンテンシャルというものを初めてはっきりと自覚し、自嘲した。

自分がこれまで、狂気にどれほど振り回され、無駄に力を零していたかを理解して。

…まったく、師匠の言った通りだな。

数ヶ月前、綾香に紹介を受けて教えを乞うた武術家 疋田千十朗がデロデロに酔っ払いながら最初に言った一言を思い出す。

『力ってもんはよ、揮うもんでゃにゃーてよ、御するもんなんだわ。御せねえと破壊する事は出来ても倒す事はできやしねえ。オメー、ブチ壊してぇんじゃにゃあて倒してゃあ相手がいるんだろ?
自分を制して無駄な部分を削っていきな。したら、自分てもんが見えてくらあな。そう、尖がった自分の切ッ先ってもんがよ』

切っ先が見えたというには余りにおこがましい。だが、これまで闇雲に溢れ出す力を揮うだけだった事に比べれば、自分を御し、認識しようとしている今は世界が一変したと言えるほどの革新を得た。
それは霧のようにあやふやだったものが、今一振りの刀となって我が手の内に収められているような感覚。
その切っ先は見えずとも、明らかに敵――アリオクの喉笛へと静かに向けられている。

今、耕一は静かな意識の中で感じていた。本能に引きずられた殺戮の狂喜ではなく、せめぎ合う戦いの冷たい興奮を。

多手はいらない。
互いに一撃は必殺が必至。

鋼を切り裂く鋭利な爪を冴え冴えと聳えさせた右腕を弓のように引き絞り、低く低く身を落とす異形の鬼。
白と黒の翼を羽根の一枚に至るまで背後に鋭角に伸ばし、魔骨の斧を地に擦るように構え、前傾に姿勢を固める獅子頭の獣人。

二人の魔人は、彫像と化したように戦場の中で静止していた。














魔法戦国群星伝






< 第八十八話 輝ける白の沈黙 >





失われた聖地 聖殿内最奥 孤聖の間






さながら波一つ無い静かな湖面に佇むように、その女は浮かんでいた。
魔物たちのざわめきの中で、彼の者の背に集いたる十六の翼は静やかに旋律を奏でる。その鈴の音に似た音色は、ただひたすらに神々しく、物哀しい。
瞼を閉ざした彼女の面差しに感情は浮かばない。それでも、彼女の面差しは見る者に哀切を感じさせずにおれない。

その哀切が何に向けられたものなのか、それを知る者は彼女を含めてこの世には存在しないのかもしれない。


しなやかに左右に伸ばされた女の白き掌の上には、翼とまったく同じ色の純白の光が輝いていた。

彼女に太刀向ける三人の男女は、煌めきの眩しさに、眦を細く細く引き絞る。
それは弓の弦を引くが如く。


そして瞼は開かれた。


真紅の双眸/白光の炸裂/三人の散開


無数の白き光の線が孤聖の間を蹂躙した。
穿たれる焼痕、両断されるグレーター、爆光に満たされる祭壇。
無音の静謐は、瞬時にして奏音の静謐へと転換した。

その中心に佇む純白の天使。

熱風が翼をあおり、白光が彼女の面差を白く焼く。
四方を白光と轟音の円檻に覆われたガディムの横顔に不意に影が差した。

紅色の双眸が天空を仰ぐ。
その瞳に映りこむ、それは一羽の黒い鷹。
外套を翼が如く翻し、高く高く漆黒の剣を振りかぶる黒衣の皇帝。

猛禽の凶眼が獲物へと焦点を合わせた。


英雄と謳われた青年――藤田浩之にとって、これは数え三度目のガディムとの対峙であった。
一度目を暴風、二度目を業火に例えるならば、今目の前にいる人の姿をしたガディムはさながら氷刃。
静謐にして微塵の揺らぎすらなく、立ち入るだけで切り刻まれそうな氷の刃。霧氷の嵐。

氷の気配に冷やされるように、ガディムが真の姿を表した時、浩之が宿していた高揚は消え去った。
あるのはただ色も無く熱も無く、冷ややかなまでに凍れる固い使命感。
だが、同じく彼女に剣を向ける二人、相沢祐一と川澄舞の如き悲壮感は無い。ただ、哀れだとは思う。この場に居る誰にも咎がある訳でもない。にも関わらず母と子が相打つという悪夢。
あくまで関わりの薄い浩之ではあったが、それでもこの不快感は拭えない。

「むかつきやがる」

既に滅びたであろうこの悲劇を生み出したる過去の翼人。そして尚も生贄を捧げつづけた愚か者たち。殺せるものなら八つ裂きにしてやりたいと思う。
犯してはならない領域、生命の尊厳を彼らは犯し、冒涜したのだから。
だが、彼らは手の届く場所にはおらず、目の前には自らの未来を賭した戦いがあるだけ。

ビィンッ、と弦を弾くような響き。漆黒の剣身に漲る波動。
身体を駆け巡る魔力を迸らせながら、浩之はすべての感情を押し込めて、剣を叩き下ろした。

魔刃百景(マジンヒャッケイ)繚乱黒忌(リョウランコッキ)ッ!」

大地へと向けられたその切先に膨れ上がる、それは黒洞。
次の瞬間、風船が破裂するように黒き球体が爆散し、飛び散った飛沫の悉くが漆黒の三日月と化してガディムへと降り注いだ。
一瞬にしてガディムの純白の姿が漆黒の奔流に飲み込まれる。
聯撃する破砕音。炸裂音が狂騒し、砕けた石床の破片が四方に飛び散る。

だが―――

感じたそれは戦慄。生存本能の雄叫び。
浩之が自分の眼前に『エクストリーム』を掲げる。瞬間、漆黒の奔流が鮮やかなまでに縦に切り裂かれた。
奔流を断ち割って襲い掛かってきたのは一筋の純白。
それは浩之の眉間までの道筋を正確に辿り、その過程で剣身に遮られ、起爆した。

虚空に爆裂の華が咲く。

爆煙の中から弾丸のように飛び出してくる人影。
その人影は空中でボロ屑と成り果てた外套を脱ぎ捨てる。そして剣を突き立てるように着地すると同時に、床を豆腐のように切り裂きながら『エクストリーム』を振り上げる。

「しゃら…くせぇんだよッ! くたばれッ、魔刃殺羽(マジンザッパ)ぁぁぁ!!」

バンッ、と爆ぜる空間。瞬間、開放された力の余波が暴れ狂った。放り投げられた外套の残骸が粉微塵に粉砕され、浩之の全身から血飛沫が吹き上がる。
そして生まれる巨大な暗黒。
見るからに、先ほどまでとは桁違いの威力を秘めるであろう事が見て取れる、凄まじい滾りを撒き散らす波動がガディム目掛けて解き放たれた。

激闘に舞い上がる粉塵が波動に吹き散らされ、左右に割れる。


―――ただ、それだけだった。

全身に裂傷を負い、膝をついた浩之は思わず顔を顰めた。

「…マジかよ」

平然と―――

粉塵が吹き払われたその奥で、平然とガディムは佇んでいた。
身の丈の倍はあろうかという巨大な魔刃は、ガディムの直前で静止していた。
そのたおやかな白手に、愛でられるように受け止められて。

撃ち手自身にすらダメージを与えた波動は、白き女になんの痛痒も与えていない。
刃の直下の石床が悲鳴をあげて砕け抉れていく様を見れば、その威力がまったく消え去っていないと分かる。
それにも関わらず、ガディムは平然と魔刃を掴み取っていた。

無表情に自分が受け止めた巨大な暗黒を見上げていたガディムの柳眉がピクリと動く。
不意に撓るガディムの手首。
途端、静止していた魔刃が女の右手へと飛翔した。

唸りをあげて飛ぶ魔刃の行く手には、側面から切り込んでくる黒衣の少女――川澄舞。

迫り来る破壊。だが、舞は眉一つ動かすことなく僅かに半歩横に身をずらす。
だが、紙一重で避ける事は、魔刃の余波を被るという事。
渦巻く波動にジャケットが引き裂かれ、黒髪を結わえていた紐が千切れとび、白い頬に三筋の深い裂傷が穿たれる。
それでも彼女の表情は揺らがず、真摯とも言える眼差しは真っ直ぐにガディムに向けられたまま微動だにしなかった。
魔刃が岩壁にぶち当たる爆裂音を背に、川澄舞は純白の女の間合へと滑り込んだ。

間近に見た、その女性の面差しは本当に綺麗だった。
舞は思う。
その表情が笑みを宿したならば、どれほど見る者に安らぎとぬくもりを与えるのだろう。
しかし、その在り得ただろう想像はもはや叶わぬ虚ろの夢。
そしてその微笑みを向けられるべき娘――あゆは決断したのだ。もはやこの世から消え去ったその微笑みではなく、自分が信じる未来を選ぶのだと。ならば、自分に躊躇う事は許されない。
再びせりあがる悲しみを叩き潰し、川澄舞は血の気失せるほどに引き締めた唇をほどいた。

――絶技・柳月(リュウゲツ)

その冷たくも決意に満ちた囀りを、果たしてガディムは聞き届けたであろうか。

ダム、と舞の右足が杭のように地面に打ち付けられる。踏み込み。重心固定。その時にはもう、しなやかなる閃光となった『神薙』五太刀。そこから斬撃はさらに加速。
僅か二秒を越す間も無く、十八を越える斬撃が叩き込まれ―――

そのすべてが、虚空に閃いた掌ほどの光の六芒形に防がれた。

火花散るコンマ以下の攻防の中で、舞は戦慄とともにその正体を看過した。
――物理結界。
あらゆる物理的破壊を防ぐ結界。ガディムが最初に使用していた斬撃も何もかも防いでしまう代物だ。
だが、恐るべきはそれではない。最初のものは全周囲に恒常的に張り巡らされていたが、今のは刹那的にしかも掌ほどの小さな結界を張っている。時間と範囲を極限する事で、長期間の儀式により構築した結界に匹敵する強度を得ているのだろう。
それだけに脅威だった。この太刀筋を見極め、その軌道上に構築したというのでなければ、こんな結界など何の意味も無いからだ。

――強いッ。

漂白された意識の中で、舞は素直に認める。
このガディムは純粋な肉弾戦闘においてすら、自分たちに匹敵する技能を有していると。
さきほどまでの、図体ばかりでかいだけの怪物とは桁違いだ。

視界の端で、芸術品のように美しく伸びた女の爪が閃き、不意に飛び込んできた閃光と交錯する。
閃光は、横合いから叩き込まれた白い剣の一撃。爪は祐一の一太刀を受け止め、絡め、弾き飛ばす。
そして手首を返し、上を向いた掌の上に生み出した光礫を、間合を取ろうとする舞と祐一に浴びせ掛けた。

舞は咄嗟に障壁を作り、祐一は剣を閃光のようにしならせて至近からの光礫の悉くを叩き落す。

だが剣を振り斬った体勢で祐一は見た。
高く高く掲げた女の右手に集う烈光を。

「足止めかッ」

光礫の雨は、彼らの動きを止める布石。それを見抜けなかった祐一が自分への罵りの唸りをあげると同時に光が瞬いた。
ガディムの右手の輝きから幾筋もの光線が迸り、孤聖の間を縦横無尽に駆け巡り、舐め尽くす。
哀れにも主の放った光線が身体を通ったラルヴァたちが肉体を紙のように裁断されて燃え上がる。
線が駆け巡った跡から爆炎が噴き上がり、広間の気温を一気に引き上げた。

間一髪躱した祐一たちであったが、吹き上がる火焔にガディムの姿を見失う。
あらゆる感覚器が擾乱する空間に麻痺させられ、気配すら窺えない。

「上ッ!」

叫んだのは舞。
見上げた祐一が見たものは、恒星のように輝く十六の翼。掲げられたたおやかな両手の上で、花咲くように蒼白く光る烈光の三角錐。


――終わりだ。去ね、儚き者たちよ。

神託の如きガディムの宣言。
だが、それを真っ向から否定する命が一つ。

「終わりはそっちだッ、ガディムッ!」

迸る漆黒の闇が、輝ける光翼の後ろへと飛び出した。
剣を振りかぶるその姿は獲物を捉えた黒き鷹。藤田浩之の猛禽の眼が勝利への確信を宿していた。

気配を読み取れなかったのはガディムも同じ。上空からの俯瞰で祐一たちを捉えたのは良かったが、浩之を見逃していたのは致命的だった。
これ以上無い不意打ち。完全に背後を殺った。

「これで最後だぁ!!」

叫びが法剣『エクストリーム』の咆哮とシンフォニーを奏でる。
まるで漆黒の火焔が纏わりついたように、魔力の波動が剣身に宿る。
――『魔刃顕斬(マジンケンザン)臨界封禍(リンカイフウカ)
内在精製させる魔力を通常出力の数倍を一挙の発動し、剣身に附帯させる機構。異常なオーヴァードライブは剣の機能を一時的にクラッシュさせるが、その威力は触れた物質を元素レベルから分解抹消し、術式構成を破壊する。

純白の光を喰い潰すように、漆黒の輝きが光跡を描く。黒輝の閃撃の先は無防備に向けられた背中。



――――シャン



その旋律は静謐に、怖気るほどに清涼で。

猛々しい法剣の咆哮は、不意に奏でられたその音色に掻き消された。
その旋律は涼やかなる鈴の音/翼の歌。

「………ゴボッ」

浩之は胸の奥から湧き出してくる鉄の味のする液体を堪える事が出来ず、口と鼻から噴きだした。

「…クソ、ったれがぁぁぁ」

法剣は翼を三枚霧散させたところで停止していた。
そして、浩之の腹腔を切り裂き、串刺した硬質化した白翼が付着した血を払うようにバサリと羽ばたく。
青年の四肢から力が抜け、糸の切れた人形のように高見から落下する。


「藤田ぁ!!」

一部始終を目撃した祐一の絶叫。
叫びも、一拍の攻防も最初から無かったかのように、ガディムは静かに呟いた。

――死を告げる御使いの囀りよ。

振り下ろした両手の前で輝く蒼光。内側から膨張する光。そして破裂へと至るプロセス。
満天の星空を思わせる数え切れないほどの煌めきが迸り、次の瞬間その悉くが先を争うように祐一目掛けて襲い掛かった。


「避けて、祐一!」

云って、だが舞はそれが不可能な事を肌で悟っていた。光の軌跡は吸い込まれるように祐一を指向している。あの不可解な軌道は恐らくは光の一条一条すべてが追尾の術式を内包している。
加えて祐一の体勢――停止した状態からあの光の奔流をすべて避けるだけの距離を稼ぐだけの機動速度は得られず、また光線の速度もその結論を強固にさせる。すべての状況が回避不能と舞に断じさせた。

それでも、現実に抗うように舞は叫んだ。

舞の叫びを聞き、迫りくる光を見て、祐一はあえて舞の言葉を無視した。
否、無視どころか反逆した。
避けるのではなく、自分目掛けて収束する星の流れの中、前方――ガディムに向かって自ら駆け出したのだ。
いったん、全面に広く分散した星光たちは、ブラックホールに吸い込まれる光のように、白翼の剣持つ魔剣士に殺到する。

「祐一ぃッ!!」

名を呼ぶ舞に、その時確かに祐一は視線を投げかけ――
視線もろとも祐一の姿を光が押し包んだ。







  §  §  §  







そこはつい先ほどまで鬱蒼とした針葉樹の森だった。
だが今は、ただ赤と朱と紅の踊る火焔の庭。

この世に炎の中で生き抜ける生命は数少なく、故にこのすべてを焼き尽くす大地の只中に対峙する二つの巨獣は狂気であった。
そして、その片方。八ツ頭の蛇の一頭が上に佇む少女もまたこの世の狂気の一つであるのやもしれぬ。

想像を絶する破壊の具現者たちの戦い。物質は彼らの戯れに耐えれるはずもなく、僅か短時間の衝突は、既に二つの巨獣の肉体を歪ませている。
戦場の周囲には、切り落とされ、ねじ切られた大蛇の首が二つ転がり、火焔の侵蝕を受けている。蛇の本体にもまたハリネズミのように無数の黒い杭が突き刺さっていた。
一方の漆黒の魔獣もまた皮膜の羽根の片方は焼け落ち、もう片方も根元から食い千切られていた。その白銀の眼の一つは潰れ、脇腹には蛇の顎の形をした空洞が穿たれている。
そして、大蛇を使役する少女もまた、エネルギーの衝突の余波を受け、その身を酷く傷つけていた。神聖にして機能的な戦装束は綻び破れ、淡い赤の髪は乱れきっている。
ただ、眼光だけがギラギラと凍てつくように燃えていた。

(もはや双方に余力は無し。残るは一撃のみ、ですか)

その結論を出したのは向こうも同じであったようだった。
ガディムの神骸が大きく両手を広げ、鋭利な牙並ぶ顎を開口する。両手に生み出される赤紫の巨大な球電。そこから迸った紫電が連結し、大きく広げられた顎の前で徐々に増幅されていく。

「ここで負ける訳にはいかないのです。お前を此処から生きて返す訳にはいかないのです」

美汐は鉛のように重い身体を凛と伸ばしながら宣誓のように呟く。
今、ここ聖地の山頂では戦いは佳境へと入っている事だろう。そこにこの魔獣の乱入を許してしまえばどうなるか、赤子でも分かる論理だ。
故に、存在を賭してこの魔獣をこの場にて屠り去らねばならないのだ。その肉と魂の一片も残さずに。
決意と共に美汐は右手を横へと振った。

「天貫きし破条/空砕きし殲刃/星断ちし滅洸 
   創世の蛇、女禍よ。眷属たる我が蛇の鎌首にその力集え。
      其は神鳴る一撃/其は界滅の剣/黒き鉄/陽炎の一閃」

美汐の詠う韻律に導かれるように、残された六ツ頭が長く高く咆哮を奏でる。

――リン。

魔獣たちの咆哮も、燃えさかる炎の弾ける轟きも消し去るように、美汐の手首に結ばれた鈴が鳴った。
そして光が生まれる。
大蛇の目前に発生した光点は、やがて虚空を走り出し、巨大にして壮麗なる法陣を描いていった。
その間、およそ15秒。
法陣は完成した途端、粉微塵に爆散。光の雪が火の粉と絡むその中に、ソレは現れた。
巨大な――剣。
大蛇の体躯ほどもあろうかという巨大な剣が虚空へと浮かんでいた。


「創世の果ては滅亡。其れ界滅の剣の名と一撃を以て、すべてを滅ぼさん。砕き、壊し、殲滅せよ―――」

美汐の両手が叩きつけられるように眼前で組まれた。
リンと響く鈴の音とともに美汐が叫ぶ。

「ただ一閃を以って滅せよ! 滅せよ! 滅せよ!! 其が一撃が名を我は呼ぶ―――
      ―――其が神撃が名は『天叢雲(アメノムラクモ)』であるッ!!」

剣と電球が放たれたのは寸分違わぬ同刻。
二つのエネルギーは二体の魔獣の中間点で衝突した。
異なるエネルギー体の接触による干渉場の発生。さらなる高熱と衝撃が噴出。だが、エネルギーのせめぎ合いは僅か0.46秒で決着した。
赤紫の巨大電球は狂嵐的な魔力場の過負荷に耐え切れず魔術的形而拘束を滅茶苦茶に分解され四散。
次の瞬間、剣型の滅壊エネルギー体は張り巡らされた魔術結界を紙のように突き破り―――漆黒の魔獣の胸郭を貫通したところで機動を停止。同時に術式トリガーが引かれ自壊プロセスへと移行。標的との融合消滅を敢行した。
すなわち―――

幾百の白蛇に絡みつかれたように神骸の漆黒の体躯が一瞬にして蒼白の光芒に飲み込まれた。まるで真っ白な繭に包まれたように神骸の姿が見えなくなる。
その瞬間、白光する繭は縮退し、空間ごと抉り取るようにして消失した。

一瞬、無明の球体が残り、空白と化したその空間に大気と炎が流れ込んでいく。

ガディムの神骸の、漆黒の巨体はその破片すら見当たらず。
それはまさに、跡形も残らぬ消滅だった。


右手を横に大きく広げたまま、美汐はどこか呆然と何もかも消え失せた空間を見詰めていた。
やがて、右手が力無く落ち、放心が解ける。

「終わり、ましたね」

呟き、美汐は初めて実感した。
自らの終局、そして肉体と精神の限界を。

(私の役割も、私の戦いも、終わりました。
後は……)

少女は力無くガックリと膝をつきながら、上空を振り仰いだ。
山頂付近から迸る明滅。戦いの余波が此処からも望めた。

不意に、美汐を襲う浮遊感。
力を使い果たし、現出の維持が不能となった八俣遠呂智が透き通るようにして存在を薄らげていく。
足場を失った美汐は当たり前のように虚空へと投げ出された。
辿り着くべき下界は、いまや燃えさかる火炎の踊る煉獄。
だが、彼女には既に指一本動かす力も残っていない。
美汐はどこか心地よさすら感じる浮遊感に身を任せながらゆっくりと意識を闇へと溶け込ませた。



ザザ――と草原に風が走るにして、炎が割れた。
頭からまっさかさまに落下する美汐の身体がフワリと浮かぶ。
熱と重力から遮断された彼女の身体はゆっくりと羽毛のように舞い降り、ある女性の腕の中に収まった。
平然と、灼熱の世界の只中に佇んでいた女性は、少女の疲労し切った寝顔を見て、そっと微笑む。

「お疲れさまでした、美汐ちゃん。今は、ゆっくりお眠りなさい」

そして、彼女―――水瀬秋子は遥か聖地の山頂を見上げた。
すべてのラルヴァは公爵軍の修羅の如き突撃で蹴散らされ、ガディムの一つの映し身たる神骸もまた今、美汐の手で滅び去った。
そして今、あそこでは最後の戦いが終わろうとしている。

「悲しみが途切れる事は無い。尽きる事も無い。ただあるものは癒し」

見上げる秋子の眼差しはただひたすらに透明で、あらゆる色を失っていた。

「覚めないはずの夢の、覚める時がきました」












  §  §  §  










魔力とは、そもそもあらゆる生物に生来から備わる力の根源。
その魔力を媒体に呪/韻で魔の法則に干渉し、現象を具現化させるものを魔術。魔力を意思力でそのまま変質させ、力となすものを超能力という。
だが、生来備わる力であるが故に、あえて外的要素を用いずに魔力を操作し、効果的に作用させようという概念が存在した。
自らの肉体を自在に操るように、自らの魔力をも我が身の流れに組み込もうとする概念。
その考え方を実あるものとして成立させた者達が、武術家と呼ばれる者達。

今、来栖川綾香が嵩じているものも、その思想の一つの具現。
特殊な呼吸法のみで体内魔力の循環を加速させ、肉体を一時的に活性化させる練気法。
だが、それは飛びッきりの外法だった。
なにより、実戦で役に立たない。戦場の只中で一分近くも無防備な状態に置かれるのだ。使用する機会はまず存在しない。
加えて、肉体に増幅としかいえない作用をもたらすこの練気法は、当然の如く筋肉から内臓器官に至るまで想像を絶する過負荷を与える。それでいて、活性化の時間は僅か一分に満たない。
それでも、来栖川綾香は敢えてこの練気法『灰禅(かいぜん)』を使った。これ以外に、自分の寝ぼけきった肉体を醒まさせる方法を思いつかなかった。
来栖川綾香が全力を振り絞ったのだと自分に対して胸を張れる方法を、他に知らなかった。

チャンスはまさに一瞬。

凪のように穏やかだった気配が、一気に狂乱した。綾香の長く艶やかな髪が踊るように舞い上がり、漂う粉塵が慄くように彼女の周囲から逃げ惑った。
閉ざされた瞼がカッと見開かれる。

その覚醒は、振り返らずとも嫌と言うほど感じ取れた。
怒涛のようなベルゼビュートの連撃を巧みに捌いていた上泉伊世の口元が皮肉げに歪む。
至近から放たれた光線を『藤の斬影』でいなし、続いて脇腹を喰い裂くように突き出された貫手を無造作に掴み取り、伊世は勢いを加速させるように掴んだ手首を引っ張りながら、足を払った。

「一分経ったよ!」

つんのめって体勢を崩したベルゼビュートは慌てて翼をはためかせ、身を起こす。
その瞬間、半神半魔の小さき天使の双眸は、確かに一陣の旋風を映した。
恐慌にも似た戦慄を押し殺し、ベルゼビュートは絶叫する。

「あんた如きがビューを滅ぼせると思っているの! 小娘ぇぇ!」
「当たり前じゃない。なにいってんのよ、このチビ」

即答だった。何の疑いもなかった。自明だと言わんばかりに。

一瞬でトップスピードに乗った綾香のしなやかな肉体は、瞬く間すらも与えずに顔を引き攣らせるベルゼビュートの間合いを侵し尽くした。
その動きは滑らかで澱みなく、総毛立つほどに峻烈かつ美麗。もはや、一抹の鈍さも窺えない。
それでも怯む事無く、ベルゼビュートは嵐のような光手を繰り出した。
その時にはもう、綾香の姿は眼前から消失していた。
標的を失い、前のめりになるベルゼビュートの顔面に、不意に現れる女の白魚のような指。
それが、ベルゼビュートが最後に見た視覚映像だった。

たった一歩…ただの一歩身体を横に滑らせただけでベルゼビュートの死角に入り込んだ綾香は、そのまま交差するように身体をのめらせ、後背に残した左手を魔族の顔面へと叩きつけた。

―――グシャリ。

柔らかい何かが潰れる音。
張り裂ける悲鳴。

「おお」

その光景を見て、上泉伊世は思わず歓声をあげた。

アイアンクロー。顔面を握りつぶすように片手で掴む事をそう呼ぶ事がある。だが、綾香のそれは徹底的な殺人拳だった。
ティーカップに添えられるのが相応しいというべき細く白い彼女の人差し指と中指は、今や指剣となり――――ベルゼビュートの眼孔へと抉り込まれていた。
激痛に暴れ狂うベルゼビュートの体躯を、綾香は二本の指を双眸に食い込ませたまま、高々と左手一本で持ち上げる。
そして螺旋を描くが如き龍気の軌跡が綾香の周囲に踊った。

「トドメよッ、さっさと逝きなさい!」

凶暴な追悼句が放たれると同時に、ダンと踏み出した右足の下の石床が真円状にひび割れ窪んだ。
繰り出された右手の掌は踏み込みと同時。その一撃を『餓龍掌(がりゅうしょう)』と呼称する。
一撃の軌道上に吊り上げられたベルゼビュートの水月に、龍の顎と化した右掌は叩き込まれた。

壮絶な炸裂音。
小柄な体躯が千切れんばかりにくの字に折れ曲がる。
直接体内に打ち込まれた衝撃は、内部を一瞬にして液状化するまでに破壊した。

……やがて痙攣するように羽根先まで伸びきっていた白と黒の翼がクタリとしな垂れる。
ピクリとも動かなくなった魔族を、綾香は無造作に放り捨てた。木偶のように地面へと転がったベルゼビュートは、次の瞬間空洞と化した双眸、そして口、鼻、両耳から凄まじい量の鮮血を噴き出した。
その小柄な体躯にそれほど詰まっていたのかと絶句するほどの量の血液、体液、そして内臓だったものがぶちまけられる。
数秒も経たず、不意にその体液は可燃物だったとでもいうかのように炎を吹き上げた。間を置かずベルゼビュートの身体は青白い炎に包まれて、瞬く間に燃え尽きてしまった。

「さよなら、生意気なおチビちゃん」

チロチロと燃える残り火を見下ろしながら感情が消え失せた声で綾香は冷たく言い捨てた。
その身体が突然糸が切れたように崩れ落ちる。それを片手で素早く抱きとめた伊世は、綾香が完全に白目を向いて気を失っているのを確かめて、呆れたように吐息をついた。

「まったく、無茶をする小娘だ」

ただでさえ、血が足りない状態で肉体に過負荷を与えればどうなるか、容易に想像できただろうに。少々、無防備が過ぎる。
グッタリと弛緩した彼女の身体を床に横たえ、女剣士は立ち上がった。
その彼女の横顔に、突如眩い光が差し込んだ。

「ムッ!?」












  §  §  §  














そこはまさに戦場から隔離された異界であり、結界であった。
対峙する二人の魔人。その静謐にして恐ろしいまでに鬼気が荒れ狂う氷絶の領域にはグレーターも立ち入れない。
時を凍らせたような空間。その永劫に続くであろう静寂の氷を叩き割ったきっかけは、遥か横合いから轟いた轟音だった。

その瞬間、柏木耕一は頭頂から足先に至るまで、その全身が思い通りに動いたような気がした。そう、あらゆる制約と限界から解き放たれた無限を手にしたかのように。
身体は軽く、それでいて確かに感じる力の滾り、重み。
限界を越えて凝縮されたあまねく力が、一点を目掛けて全解放された。

自分の力。刃の切っ先のイメージ。それをそのまま右手へと乗せて、柏木耕一は一つの階梯へと至った一撃を繰り出した。


二つの閃光が正面から交錯。
遅れて響く風鳴りと、空気の爆砕音。切り裂かれた空気が渦を巻き、刹那粉塵を巻き上げた。


耕一の、エルクゥ化した巨体がグラリと揺れる。その傾いだ背後にボトリと天高く舞い上がっていた何かが落ちた。
その物体は小さく弾み、転がって停止した。オブジェのようなそれは―――鬼の左腕。
肉体はそこで初めて自らの喪失に気付いたのだろうか。二の腕の中心から斜めに走った切断面から血が迸る。与えられた斬痕はそれだけではなかった。
腕の切断面から連なり、胸郭が真一文字の割れ、血の滝を溢れさす。

だが、鬼神の凶悪な口元に浮かぶものは、その形相に違わぬ悪夢のような笑みだった。

その笑みの向こう側に、遅れて何かがくるくると回転しながら地面へと突き刺さった。
白く禍禍しきそれは、折れたアリオクの斧の穂先。

「紙一重、ダッタナ」

耕一は、残った右手に掴んだ物体を顔の前まで持ち上げて語りかけた。

「…是非モ無シ」

物体――交差際に胴体から引き千切られた獅子頭のアリオクの首は不明瞭な言葉でそう言い遺すと、眠るように瞼を閉じた。
ドシン、と耕一の背後で、アリオクの首無しの胴体が前のめりに倒れる音が響く。

耕一は内側から燃え出したアリオクの首をその場に丁重に置き、立ち上がろうとして膝をついた。
胸に手を当て、鬼面で苦笑する。まさに紙一重だった。斧の一閃は見事に急所を切り裂きかけていた。

動けるか?

耕一の側面から、凄まじい光景が襲ったのは彼が自問したその瞬間だった。














  §  §  §  













時として、人という種族は化物を生み出す。





ガディムは妖族・魔族の間で厳然たる事実として認識されるその言葉の現実を此処に見た。
告死天使(アズライール)の嘆き』と銘打つ光線群その数八十八条。前方八十度角全域から殺到した八十八の閃光。

天頂からの急降下から、底辺からの緩上昇。左右最大78度角からの急湾曲から、真正面からの直線軌道。
前方のありとあらゆる方角から4秒の誤差を以って集中殺到する閃光の奔流。
その必殺の光を前にして、祐一の身体が幽かに沈む。
トンと爪先が床を叩いた。

その見たこともない歩法に舞の瞼が戦慄いた。

フワリ、と綿毛のように魔剣士の身体が浮かぶ。
ユラリと陽炎のように揺らめく姿。

―――その瞬間。

閃光群の約30%が目標物体存在位置へと到達した。残り70%は散布界設定通りに目標周辺5メートル圏内を通過。回避可能予測領域を完全にカバー。
どう避けようとも蜂の巣必死の完璧な面制圧攻撃だった。

そして―ーー

回避不能のはずの八十八の閃光は、その一閃たりとも祐一の肉体に掠り傷一つつける事無く……。
自ら閃光の奔流の中に頭から突っ込んだ相沢祐一の背後で盛大な爆音が轟く。標的に掠りもしなかった閃光群は、次々と何もない石床に着弾し、爆煙と破片を巻き上げた。

――あれは!?

物理的に在り得ない光景。
一部始終を目撃した舞は息を呑む。

(――まさか、空間転移? いや物質透過、亜空間跳躍……違う、0.3秒単位で位相をずらしたというか)

紛れもない驚愕に、女の仮面のような表情が幽かに揺れた。

「…その技、天剣にして魔術にあらず。現世(うつよ)を踏み外し、幽世(かくりよ)へと踏み込まん」

舞は思わず口ずさむ。

内在魔力の呼吸法による練鍛と特殊歩法、加え特異な体捌き。
これらを以て、(うつつ)より外れ、自らを夢想(ムソウ)と化し、あらゆる頚木から解き放たれ間合いを支配するという神技。

舞闘/武踏の極致。深遠なる陰冥へと踏み入る絶歩。

「あれが、夢想剣」

立ち昇る破壊の残滓を背に再び駆け出す祐一を見て、先程彼が此方に向けた眼差しの意を悟った川澄舞は、精神を統一させるべく瞼を閉じた。
念を集束させながら、剣を滑らせ眼前に寝そべらせ、左人差し指と中指を揃え、額に押し当てる。

「……我が魔討の瘴血によりて、神絶の月光、此処に目覚めん」

ポゥ、と舞の額に光が灯る。途端、結び目の解かれた舞の髪が、重力からも解かれたように舞い上がった。
そして眼前に掲げられた『神薙』の刃が、少女の左頬を頬を滑った。光灯る左指剣で頬を滴る血を拭い、神剣の剣身に走らせる。
途端、神剣が血を啜るようにぎらつく銀光を帯びた。

少女の眼が開かれる。
輝く剣のその奥で、少女の瞳が黒く静かに口ずさむ。

「……神薙(かんなぎ)抜剣(ばっけん)









―――位相斜行。魔を介さずに境界を踏み越えるか。
―――しかしそれほどの技、幾度も使い続けられるか、人の子よ!


詠い、ガディムは再度右手を掲げた。
掌より一メートルほどの発光する槍が生まれる。掌を振り下ろし、此方目掛けて疾走する祐一に向けるや、激光槍は光芒と共に増殖。 瞬時に六十四本を数え、差し向けた掌前方に円状に展開した。

その激光槍を放たんとした刹那、ガディムの純白の翼、その残る総ての羽根が一斉に逆立った。
上下左右全包囲からの凄まじいプレッシャー。ガディムは起動過程の術式を強制キャンセル。四散する激光槍群の残滓を残し、無事な羽根を一閃。身を捻りながら下方に向けて緊急回避。
防壁を展開する暇すらなかった。
頭の中に長い針を突き立てられるような高周波が掻き鳴らされる。
間一髪だった。巻き込まれた翼の先端が半物質化を解かれ、粒子と化して飛び散る。
墜落するように地面へと滑り降りたガディムの頭上で、光学的にでたらめに歪曲された光景が現出し、何かがひしゃげる音がした。

――局地空間圧縮ッ! その状態でなお仕掛けるか、世界の楔(ワールド・ウェッジ)ッ!!

シンフォニーを奏でるように魔術を紡ぎつづける魔狼王と佐祐理の後ろで、瞼を閉じトランスしている浩平の口端が僅かに歪んだ。

感嘆と敬意を篭めた罵声を零しながらも、ガディムはそれが彼の成し得る最後の足掻きと理解した。
意識を迫り来る最優先脅威体へと集約する。自分を間合いの内側に収めようという相沢祐一へと。

距離、七メートル。
ガディムが祐一に焦点を合わせた瞬間、だが逆に祐一の姿がまどろむように視覚から掻き消えた。同時に聴覚・触覚・魔力の全外部認識器官からも祐一をロスト。
完全なる全存在情報の喪失。

―――『夢想剣』

全くと言っていいほど間隔を置かない『夢想剣』の連発。
後先を考えぬ、だがこれ以上ない必殺への連鎖。

夢想境地より振るわれる其が死手は、標的に触れるまで気配すらも認識できず、斬られた事すら気付かずに絶命する。

それは何者をも逃れられぬはずの一撃。

しかし、混沌の王たる女の紅瞳を微塵も動かさず。
祐一が夢想剣を仕掛け、ガディムが彼の存在を見失った瞬間、彼女は驚きもせず無表情に右手を振り仰いだ。
途端、翼が眩く光りを発し、全方位にむけて不可視の波動が放たれた。
それは何の破壊ももたらさぬ不可視のドーム。それが女を中心として音もなく静かに幾重にも全周に拡がる。

相沢祐一の存在情報ロストから時間にして僅か1.08秒後。
何の前触れもなくガディムの身体が反転した。右後方へと向き直りながら、右手を広げ、肩口に差し出す。

――戟音。

女の右手に仄かに宿る圧縮結界。それに受け止められた純白の剣。
驚きに目を見開く魔剣士の姿。


これこそ――――

奥義身法『夢想剣』が破られた瞬間だった。


魔力波索敵(アクティブ・ソナー)の応用!? 意識界を拡大して位相空間の幽かな変動を捉えた挙句に未来位置を算出(はじきだ)したのかッ!? この人は一度見ただけでッ。この一瞬で――ッ)

祐一の武人としての魂が戦慄に震え上がった。
――夢想剣。
それは現実世界から半歩ずれることで存在を夢幻夢想と化し、存在情報を自在に消失させる位相空間移動身法。
だが振るう一閃は現のモノ。太刀筋さえ見極めれば、留める事は不可能ではない。
しかし、現実に出来るかといえば、どれほどの者が実際にそれを成し得ようか。

強さとは、魔力の強さのみにあらず。其は大きけれど一つの要素に過ぎず。強きものとは戦いにおいての強者をいう。
魔界において畏怖される【混沌の王】ガディムの真髄を、祐一は今此処で認めさせられた。

それでも―――

相沢祐一という少年もまた、戦いを支配する一人の化物であった。
奥義が破られたとして、それは単なる戦いという絵の中の一筆。安易にそれを最後の手とはしていない。
切り札は最後まで見せるものではないと『魔剣(エビル・セイヴァー)』は本能と経験と教唆で知り抜いている。
そして、切り札とはあえて自分が持たずとも良いという事を。
戦いのすべては布石。

飛車を取られたとしても、それは王を討つがための方策とすべし。


祐一は、自分を完全に掌握したガディムの左爆掌が炸裂する刹那、二度目の『夢想剣』を使う前に編み上げていた魔術を起動した。

「魔導剣『晴嵐(セイラン)』!!」

爆掌が身をよじった祐一の脇腹を肉ごと消し飛ばす。だが、ガディムもまた全身を音もなく巻き付いた真空の風に拘束されて、一瞬動きを止めた。
衝撃に数メートル弾き飛ばされ、血反吐を吐きながら、祐一は絶叫した。

「やれぇぇぇぇぇッッ! まぁぁいいい!!」

そして……縛風に封じられたガディムは、その双眸に神秘を映す。

結び目を失い、深夜の翼の如く大きく広がる漆黒の髪。
夜空を駆け抜ける一陣の閃光の如き銀光纏う一振りの神剣―――銘を『神薙』

――それは遥かなウテナより。

其が少女は魔を討つ者――其が剣士の名を川澄舞と人は呼ぶ。

時の静止を思わせる神秘の情景が揺れた。
不意に彼女の周囲の大気が歪み、黒髪の幼子の姿をした何かが幾人も現れる。幻影の子供たちは、その無邪気な笑みを白銀の光と化すや、『神薙』へと飲み込まれた。

ド――――ンッ

腹の底に響くような衝撃。其を発したるは銀の神剣。そして剣身より遥かに伸びたる白銀の光刃。
その光は漆黒の夜に冷たく輝く月を思わせる輝き。
孤高にして冷厳。愚者を見下ろし、悲劇を見守る無情の煌き。

  其れこそは川澄の血と名と意思を持て放たれる
      魔を討ち滅ぼし神々をも切り裂く――――魔討神滅の一閃。


光を掲げ、振りかぶり、川澄舞は、冴え冴えとした声を斬りつけた。

殺神絶技(サツジンゼツギ)死慈斬月(シジザンゲツ)ッ!」

高々と宙を舞ったまま、白銀に輝く光剣を川澄舞は何もない虚空に向けて斬りつけた。


銀閃が弧を描き、軌跡を残す……








――ただ、それだけだった。





……何事も、起きなかった。

剣から斬撃破が放たれることも、大気が割れ真空となることもなかった。
果たして、彼女が切り裂いたものは音そのものだとでも言うように、彼女たちの周囲に静寂の幕が落とされた。

静けさに包まれたフィールドの中で、フワリ、と舞が剣を降りぬいた型で無音にて着地する。
祐一は口元を拭い、脇腹を抑えながら身を起こした。
半死半生で倒れ伏す藤田浩之を必死で治癒していたあゆは、仄かに光る両手を傷口に当てながら、ただまんじりともせず母であり、母でない者を見詰めていた。

白の女の身体を拘束していた風が消し飛ぶ。
女は、拘束が外れたというのに動く事無くじっと佇んでいた。 そして、紅の眼差しで祐一を、そして彼の遥か後ろに居る娘を、どこか呆然と見つめていた。


それは―――ガディムたる者が初めて見せた表情の明確な変化。


永遠に続くかと思える静穏。
それを破ったのは――パン、と破裂するような音。女の背中から光の粒子が迸る。
翼の四散。数枚の翼が文字通り光の粒子となって消し飛ぶ。
その現象に驚く間もなかった。
女の肩口から腰に至る斜めに走る銀線。それはすぐさま紅線へと変わった。
女がゆっくりと、自分の身体を見下ろす。

―――真紅が虚空にリングを描いた。

その瞬間、真っ赤な鮮血が女の身体の前後から、円を描いて迸った。

同時に―――

――――ズガッ。

そんな音が聞こえた。

音は世界を狂わせる。
世界がズレていた。
轟音、震動、そして床から壁を伝い崩落を免れた天井にまで走る銀線に沿ってズレる世界。
空漠とした虚ろの空間。そんな孤聖の間の風景の一部が、轟音と共にズレていく。
鏡のような鮮やか以外の何者でもない切断面を現しつつ、斬られた世界が壊れていく。
それは正気を疑うような、凄絶なる光景だった。

「や、山ごと、斬っただと!?」

魔狼王の呟きが、状況を的確に言い表わしていた。

死を以って慈悲を与える――其は月をも断ち斬る殺神の一太刀。

川澄舞の一撃は聖地山頂、その南東部をガディムごと斬り捨てた。
やがて切断された山の頂きの一部はバランスを崩し、孤聖の間の約五分の一が山岳の奈落へと、十数鬼のグレーターを中に残したまま雪崩れ落ちていった。
払われる暗色、吹き込む外気。降り注ぐ光。
そもそもが広大であり、また一部の壁や天井が崩れながらもなお、どこか閉塞感を与えていた空間が一挙にひらける。
聖地と謳われ、忌まれたその山の概観はだいぶ変容しただろう。

見晴らしの良くなったその断面の線上で、ガディムは呆然と身体を抱き抱えていた。

――あ…あああ

血が、止まらない。当然だ、彼女の身体は完全に切断されている。
川澄舞の一斬は、あらゆる一撃を防ぎきるはずの圧縮物理結界を易々と斬り裂いた。その一閃を、肉体強度的には普通の人間と変わらぬガディムが耐えれるはずもない。

それでも―――
――――彼女は。

――あああ…ああああああああああッ!!!

「お母さんッ」

迸る、それは咆哮。
迫り来る死に抗う、生きとし生ける者としての正しい姿。
生命ある者としての、あるべき姿。

それまで、敢然と揺るぐ事の無かったガディムの感情が嵐のように揺れていた。
だが、それは決して醜くは無い。その姿は醜悪ではない。

その姿はむしろ―――
――――― 美しい。

その燃え上がる生命に、意識ある者は言葉を失い、ただ見惚れた。

温かく灯る光を宿した両手で全身を抱き締めながら、ガディムは叫んだ。

―――まだだッ! まだ我は滅びぬ!
―――我は諦めぬッ! 我が命の灯火はまだ消えてはいない!
―――我等が虚ろが、我等が悲しみが、我等が想いが、まだ、まだッ!
―――我等が未来はまだ、尽きてはいないッ!!



無残に綻びた、純白の翼が大きく大きく広げられた。
すべてを包み込むように、輝きながら。
光は一瞬、途絶え――――――



―――――尽きてはいないのだぁぁぁぁぁッ!!




――――――次の瞬間、爆発した。




「い、いかん!! 結界を――――」


魔狼王の叫びは、すべてを発する事無く広がる白に飲み込まれた。



――――沈黙の白(サイレント・ホワイト)




限界を越えた白の滅びが、孤聖の間を満たし……




―――すべてを






























 …白き翼の物語、その最終話へ




  あとがき



八岐「やっとやっとの八十八話」
栞「PCが死亡したりやら、大変でしたもんね。感慨もひとしおです」
八岐「そだね。お陰で随分と間が空いてしまいました」
栞「でも、次は早く出来るんですよね」
八岐「鋭意努力という事で」
栞「……噛みますよ」
八岐「か、噛むってな、なにそれ!?」
栞「えへへ、なんとなくです」
八岐「……(汗) 冗談ですよ、何とか間隔を空けずに仕上げるつもりです」
栞「あゆさん編はもう出来てますもんね」
八岐「うむ、後はもう一つの最終話の仕上げとエピローグ。座して待っていただきたい」
栞「ところで後書きは今回で最後だって噂を聞いたんですけど」
八岐「誰から?」
栞「八岐さんです」
八岐「……ねえ栞ちゃんよう、それってそこはかとなく変だぞ」
栞「え…ええっと、変は個性とも言いますし、えへへ」
八岐「訳解からん。まあいいや、後書きも一応これで最後かな。最終回には似合わんしね」
栞「似合わないですかねえ」
八岐「まあ、もしかしたらエピローグの後にもう一度くらいまとめでやるかもしらんけどね」
栞「私のメイン舞台ですし、あった方が嬉しいです……って、自分で後書きがメイン舞台なんて言ってしまうと精神的ダメージが…(涙」
八岐「ご愁傷様です。それではみなさん、残りあと僅かですが最後までお付き合いくださるとありがたいです」
栞「ではみなさま、ごきげんよ〜」




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