背中に広がるその純白の翼ゆえだろうか。
決して大柄には見えぬ、比するなら小柄と云うほかないであろうその女の体躯は、だが見る者に仰ぎ見るような圧迫感を与えた。
それは、ガディムと呼んでいた相手が、つい先ほどまでの巨大な漆黒の異形で在った時と何ら変わらぬ、いやそれよりも明らかに強大な重圧。
意志薄弱な者がその気配にさらされたなら、無意識の内に跪き、許しを乞うてしまいかねない威容であり、粛々とした神々しさ。
今なら分かる。彼の存在が神と称されたのかを。
これを神と呼ばずして、いったい何を神と呼ぶのか。
ガディムとは、その目的を以て神に崇め奉られたのではなく、その存在を以て神の位を得たのだ。

そして、今ならば納得できる。
思えば、純白の女性の背後に蹲る漆黒の異形は、余りにもその力量が低かった。
すべての物理力を弾く防壁、そしてすべての魔術を無効化させた異世界侵蝕。漆黒の巨体を守るこの二つの幕が、苦戦の要因だ。それさえなければ、戦いはもはや一方的なものになったかもしれない。
だからこそ、今この姿を目の当たりにした時納得できる。
彼の存在が魔界にて五指に数えられる存在なのだと。むしろ、これが頂点に位置しないことの方に戦慄する。

斯くしてガディムは降誕した。
真白き羽根を背中に抱き、漆黒の骸を背後に据え置き、純白の女は紅の瞳を以て倒すべき障害と、その身に抱くべき娘を見やっていた。









魔法戦国群星伝






< 第八十六話 我が願い、我が思い >





失われた聖地 聖殿内最奥 孤聖の間







月宮あゆのあげた悲痛な声は、その場にいた全員の耳朶を打ち、その身を拘束した。

柏木耕一が驚いたように眼を広げ、天野美汐が息を呑む。
折原浩平が普段の恍けた気配を消失させ、ひどく凄絶な視線を片翼の少女たちに向ける。
その浩平の腕をつかみながら、みずかがその映し身を陽炎みたく霞ませつつその幼い面差しに枯れたような哀しみを浮かべた。
刹那、何かを言わんとするように大きく口を開けた川澄舞は、次の瞬間何も発する事無く歯軋りとともに唇を結ぶ。

藤田浩之が悪鬼としか思えない凶悪な顔つきとなり、舌打ちをした。
その傍らで、妖刀の切っ先の如く双眸を細めた来栖川綾香が握った拳を軋ませる。
上泉伊世は傍らに立ち尽くす女を一瞥し、瞼を閉じた。
相沢奈津子は、表情の消えた貌をまっすぐにあゆと純白の女に向けたまま静止していた。

誰もが、唐突に開示された新たなる事態に、次に移すべき行動を見失った。

「ソウルズ・クリーチャー、こんなものを完成させていたのか」

金の魔族が厭と怒をないまぜにしたような声で、囁く。
その声は誰の耳にも入る事無く、未だ響く羽の音の余韻に溶け込んでいった。

そして倉田佐祐理が呆然と呟きをもらす。

「そんな…あゆさんのお母さんは、確か八年近く前にガディムに贄として捧げられたって。それが、どうして……」
「あゆの母親の身体を器として使ってるって事かよ。何てことしやがるんだ」

憎悪も露わに、祐一は低く唸った。

「その姿なら、あゆの母親の姿ならこっちが攻撃しにくいって分かってるんだ。大概のやり口には文句言うつもりもないけど、これはあんまりにも卑怯だろうがッ」

怒りのあまり感情の擦り切れた声が、あゆの頭の中にこだました。
涙は途切れず、眦がひりつくように痛い。何もかもを否定したがるように意識が擦れ、頭痛が波のように襲う。
それでも祐一の言葉はあゆの耳へとしっかりと飛び込んできた。

「違う、違うッ!」

激しく震えた自分の声とも思えない声が飛び出た。それがあまりに切り裂くような声だったからだろうか。祐一が不意打ちを受けたように驚いている。
その表情を歪む視界の端に捉えながら、あゆはよろめくように前へと踏み出した。母の姿をした者の下へと。
まるで裸で氷河へと放り出されたように身体がガタガタと震える。震えを止められない。

「あゆ!」

背後から右腕を掴まれ、あゆは前へ進む事を止めた。そこで初めて自分が歩いていたことに気がつく。

何をしているんだろう…いや、なにをしたいんだろう。

分からなかった。分からなかったけど、でもそれでも何かを求めていた。
心を寄せるようにあゆは自由に動く左手を、さし伸ばした。紅色の双眸が、じっと自分を見つめていることに、形容しがたい感情が波立つ。

「あゆ、待てッ。あれはお前のお母さんじゃないんだぞ!」

言ってから、祐一が苦しげに息を止める気配が背中越しに伝わってくる。
あゆには彼の心が手にとるように分かった。水が染み込んでくるみたいに分かった。
深い深い自戒。自分がどんなに残酷なことを告げたのかを理解しているのだ。だから、自分を責めている。そんな優しい心。そして、それでもなお告げねばならないと決意している強い心。

まるで苦痛に呻くように祐一は叫んだ。

「あれはお前のお母さんの姿をしてるだけで、中身は別物なんだよ! だから、あゆ、あれはお前の―――」

あゆはゆっくりと祐一を振り返った。自分の顔を見て、祐一が思わず息を呑む姿を目の当たりにする。
涙に濡れる自分の顔。彼を見つめる自分の眼差しにいったい何を見たのだろうか。彼はまるで心臓を射貫かれたように此方を見ていた。
祐一の瞳の中に、あゆは自分の眼差しを見た。
瞳の中に立っているのは、波間に揺れるように佇む少女。
だが、その少女の眼差しには確かな理性の光が宿っていた。目を背けたい現実を拒絶するでもなく、理性を混濁させるでもなく。
ただ目の前の現実を見据え、その上で奈落のような悲痛な悲しみを漂わせている。

あぁ――と、あゆはか細く悲鳴を漏らした。

このまま、何もかも投げ捨ててしまえればどんなにいいだろう。
今、この瞬間が夢の中であればどんなにいいだろう。

そんな思いが迸り、だが拡がる事無く消えていく。

思いは思い/ユメはユメ。

自分を失うことは出来なかった。絶望に気が狂うことも出来なかった。悲しみは自分を破壊できなかった。
だから言わなければならない。言う事で、現実を認めなければならない。

だから、あゆは首を横に振った。
はっきりと振るった。

「ゆう、いちくん……違うんだ、違うんだよ。姿だけじゃない。器だけじゃないんだ。ボクには分かる、それに翼が教えてくれる。あれは、あの人は間違いなく――」

喉が詰まり、一筋の涙が新たに流れ星のように落ちた。
それでもあゆはこの悪夢を認めるために、その言葉を泣き叫んだ。

「――お母さんそのものなんだよぉッ」


幾ら……。
幾ら信じたくなくても、信じられなくても、事実には逆らえない時がある。
目を逸らす事が罪だというのだろうか。現実から逃避する事が罪だというのだろうか。
ならば、あまりにも摂理は心有るモノたちに厳しすぎる。
現実を直視せざるを得ない時、人は摂理の厳しさを知るのだというのか。


あゆの放った声音の重さ。その眼差しの痛み。
それらに打たれ、祐一は否定の言葉を思い浮かべることすら出来ず、我知らず掴んでいた少女の腕を放した。

悪夢を現実として解き放つ言葉を放ったあゆは、自らの言葉に刺し貫かれたように呆然と喘いだ。
ジリジリと火で炙られたように失われた翼が痛む。
言って…しまった。認めてしまった。でも、でも……。
あゆは呆然と自分の手のひらを見下ろした。
現実を認めた上で、自分が何をすべきなのかを、まるで凍り付いてしまったように考えることができなかった。
だから、からっぽの人形のようにただ祐一を見上げ、そして目を潤ませて母を振り返る。

「そうなんでしょう、お母さん」

縋るような、問いかけ。
誰の耳にも、その声は否定してくれることを願っているようにしか聞えなかった。
そして、その声の主が自らの希望が叶わないことを、これ以上なく確信していることが嫌というほど分からざるを得ない、そんな悲痛な声だった。

ガディムはさながら微睡むように瞼を降ろした。


――我の意思が汝の母のものであるか、我の心が汝の母のものであるか。
――我はその問いかけに答えること吝かにあらず。
――されど小さきあゆよ。汝はそれを確かめ何とするか。



純白の翼が静かに上下し、幽かに涼やかな音を奏でた。

――汝はその問いの解を得ることで、如何とするや

あゆの体がビクリと痙攣した。
まさに、それは刃物そのままの鋭利さをもつ問いかけだったから。

ガディムが自分の母親だと知ったとして、目の前に提示された現実だと認めたとして、自分はどうするのか。どうすればいいのか。
喉をコクリと鳴らす。
そんなこと、分かるはずなかった。分かりたくなかった。

それでも、選択は否応無く思い浮かんでくる。

――例えば、放棄。

それは母の下へと自分を委ねる――身も魂もガディムに捧げる、という選択。

だがあゆはそんな事を思った自分を叩き伏すように、内心で激しく首を振った。

そんな事、出来るはずがない。それは世界に背を向けるということ。祐一くんたちに背を向けるということなんだから。そんな選択をすることなんて出来ない。

ボクを守ると言ってくれた祐一くん。
ボクを家族と言ってくれた奈津子さんと祐馬おじさん。
ボクと友達として接してくれたカノンのみんな。
自らの命を賭してボクの未来を繋ごうとしてくれたお父さん。
そして、自らの身と魂を糧として、ボクに未来と出逢いを与えてくれた――お母さん。
月宮あゆという存在を捨てるということは、これらの人々に対する裏切りになる。

なにより、自分は自分でありたい。自分として、祐一くんと、この人たちと生きていきたい。
それが月宮あゆの望み。月宮あゆの選んだ未来。

でも、じゃあ、それだったら。

あゆは心を蹂躙する激痛に身悶えた。
掻き毟るように、両手で自分を掻き抱く。

そう……浮かぶのは、もう一つの選択肢。

それは――絶望。


ボクはお母さんと―――
―――戦わないといけないということになる。


「そんなこと、したくない。でき、ないよぉ」

純白の片翼があゆの身体を抱き締めるように覆う。それでも温もりを失った雛鳥のように身体を震わせながら、あゆは泣き叫んだ。

「ボクにはどうすればいいかなんて分かんないよぉ!!」


「なん…なんだよ。何言ってんだよ、さっきから!!」

あゆの頭上から降り注ぐ怒号。それまで言葉を失っていた祐一の怒りの篭もった叫び。
でもそれは、怒りを向けるべき所在を見失った迷走の迸り。

「あゆ、お前なに無茶苦茶なこと言ってるんだよ。ガディムが、お前の母親そのものだって? ふざけるな。そんなはずないだろうが!」

翼の剣『メモリーズ』に篭められた記憶が解放された時、祐一は自らの閉じられた記憶と同時にあゆの封じられた記憶をも共有した。
それは他人の記憶だ。はっきりとは覚えていない。それでも、確かに残ったものはある。確かに心に焼きついた想いがある。
それはあゆの両親の想い。娘に抱いた限りない愛情。娘の身と心を何よりも思いやった優しい想い。
焼きついて離れないのだ。

「おかしいじゃないか。おかしいだろうが! お前の母親は、お前を贄の運命から解き放つためにお前を逃がしたんだろ?
それなのに、なんで今お前を贄として取り込もうとしてるんだよ。しかも、自分がガディムになって? 訳が分からない。矛盾してる。無茶苦茶だ。お前の言ってることは無茶苦茶だ!」
「でも、それでも、あれはお母さんなんだッ!」

振り向きもせず、彼女は地面に叩きつけるように絶叫した。
その叫びは鋭利で、祐一の激情を一撃で断ち切った。

開きかけた口からはもはや音は出ず、ただ噛み千切るように食い縛られる。

「ばか…やろう」

分かっていた。
そう、祐一にも分かっていたのだ。彼女の言葉が真実だということを。もはや、肌で感じ取ってしまっていたのだ。
否定の叫びは、叫ぶことで真実を覆そうとする愚かな試み。だが、言わずにはおれない心からの叫び。この無茶苦茶で納得できない現実への抵抗。
でも、やはり言ったところで何も変わらず、この狂った訳の分からない現実は揺るぎもしない。

それでも許せなくて。
この、あゆを痛めつけ、苦しめ、奈落へ突き落とそうとする現実が許せなくて。
行き場のない怒りを八つ当たりに叩きつけた。

「なんでだよ、なんでだ! なんで否定しないんだ、ガディム!!」
「それが一面の真実だからだ、少年……相沢祐一よ」

答えは純白の天使からではなく、頭上から投げかけられた。 咄嗟に上を振り仰ぐと、ストンと空から降り立つ人影を認める。
金色の魔族――魔狼王ヴォルフ・デラ・フェンリル。
いつの間にか、壇上の階段から此方へと跳んでいた彼は、フワリと人間たちの中に舞い下りると、忌々しげに見事な金髪を掻き揚げながら、諭すように告げた。

「聖魂統合体ガディム、まさかこういうカタチだったとはな。正直、想像すらしていなかったが、その翼人のお嬢さんとガディムの言葉でようやく理解できた」
「なんだよ、どういう意味だよ、それはぁ!」

まだ怒りの収まらない祐一が、反射的に問い掛けてくる。

「其は個である事を失い、全となる」

答えるでもなく呟き、魔狼王はガディムを見やった。
紅玉の瞳と月色の双眸が交差する。

「お前はその少女の母親であり、また同時に違う者である。そうだな、ガディム」


―――シャン と翼たちが震えた。


――然り。

純白の天使は、鈴を鳴らすような声で返答した。
金色の魔族は憂鬱げに一つ、溜息を落とした。
やはり、意味の分からないのだろう。突き刺すように祐一が注視してくるのを魔狼王は感じた。
そして、祐一だけでなく、蹲っている月宮あゆや、その他の人間たち、そして当のガディムもまた耳を傾ける気配を察しながら呟くように言う。

「ガディムとは複合魂型魔造生命機構。ガディムとは翼人の造った兵器。とまあ、そんな感じで俺も色々とガディムの話は伝え聞いた。その時、俺はてっきり出力機関化させた魂を複数注入することで力を増大させていく代物――有魂型魔造生命体の化物だと思っていたんだがな」

嘆息を一つ落とし、自らの中で絡み切った解答を解きほぐすように彼は続ける。

「有魂型魔造生命ってのはな、契約という呪によって現世に束縛固定した魂を、さらに魔術的にカスタマイズして、製造した器に込めることで生み出すんだ。
そして誕生したモノは魂と器の適合調整によってその力が決定される。幾ら魂器双方のポンテンシャルが高くても、調整が上手くいかなかったらろくなモノは誕生しない。
この微妙な調整が難しい。知識や技能、センスだけでなく運なんて不確実なものに因るところがある。だから、まず常識のある輩なら魔造生命なんてものに手は染めない…幾ら魔力や知識があってもな。なにせ、成功する方が珍しいんだ。これじゃあ只でさえ希少な契約魂を溝に捨てるようなものだからな。
たった一個の魂だけでもこの始末だ。それだというのに、それを複数同時に一つの器に収めるとなると、気が遠くなる。しかも、複数の魂を同時挿入したからといって数に比例した強力な化物が出来るかどうかといえば、そういう話でもないのだよ。ひどく非効率的なんだ、普通はな。
あえて利点を探すなら、理論上は上限が無いということか。有魂型魔造生命は誕生した時点でその力はほぼ決定されてしまう。だが、ガディムは魂を追加的に挿入していくことでさらに力を増していく形のようだ。翼人は超長期的…そう、数千年単位での展望を立ててガディムを製作し、また呆れた事にそれに成功しやがった。と、そう考えていたんだが……」
「違った、のですか?」

美汐の問いかけに、魔狼王はガディムを見据えたまま頷いた。

「実物をみれば、間違っていたとしか言えないな。
有魂型は肉体に一つの魂を込めることで、一つの生命体として存在を開始する。 だが、無理やり複数の魂を一つの器に押し詰めれば、魂は生命の根底を為すモノとしての意味を破壊されてしまうのだよ。てっきり、魂を単なる出力機関にまで変質させて詰め込んでいるのかと思っていたんだが……。
話を戻すと、複数の魂を無理矢理に一つの器に押し込んで出来上がるのは、もはや魂と呼べないもの…言わば魂の残骸しかその内に秘めていない存在だ。それはいびつで、異常で、異様なモノだ。そしてそんなものはな、生命とは言わないのだよ。それはただの木偶、システムに過ぎないものとしか言いようが無いんだ。
そうなった場合、魂の主……この場合は翼人の巫女の記憶や想いの残滓は微塵も残りはしない。無理もない、魂で在ったものが壊れて全く違うものに変わってしまうのだからな。
だが、その翼人の少女はあれが母だと言う。そしてあれがかもし出す気配もまたガディムが生命体であることを俺に疑わせない。
それは魂が破壊されていないという事だ。つまりはガディムが俺の想像していたものとは違うことを意味している」
「じゃあ、ガディムってのはいったい何なんだよ」

噛み付くような祐一の問いかけに、ヴォルフは特に迷う風もなく即答した。

「これは推測だが……まず間違いあるまい。
恐らくは、ガディムとは言わば肉体を持たぬ存在――霊的な概念存在だ」
「霊的な、概念存在?」
「この場合はその魂魄だけを以って完結している存在だよ。
そもそも魔造生命だけではなく、すべての生命体にとって魂と肉体は不可分であり、片方が喪われればその存在であることを停止せざるを得なくなるものなんだ。意思も人格も思考もその二つが揃っていてこそ保つ事が出来る。
だが、俺が観るにガディムは違う。魂魄だけで生命体として現世に存在を維持できるんだ。肉体が無くてもな。故に、自らの肉体を変える事が出来る。それが単なる器に過ぎないからだ。
そして、最も力を発揮することが出来る器こそ、魂と最も深く繋がりを持つ肉体……即ち贄となった翼人の身体か。
そもそも翼人の肉体は人間種とさほど強度的には変わらない。よほど特殊な魔術を使わねば、持って四百年程度。故に器を変える必要があるのだろうな。
また、本来の器が持つポンテンシャルを遥かに上回る混合魂を内包するんだ。ただ内に秘めているだけなら影響はないだろうが、いざ力を行使した場合翼人の器が持たないのだろう。多分、急激に器たる肉体の命数を消費するんだ。
その真っ黒なデカ物、よく出来た生体機構だ。そいつをガディムとして操ることで、極力自分の力を発露させないようにしてきたんだな。多分、ギリギリまで本当の器を表に出さなかったのはその所為だ。お陰で完璧に錯誤してしまったよ。
それに、今のガディムの器がそのお嬢さんの母親である理由は、其処らへんに帰結するんだろうな。
前の器の命数が尽きかけていたかして、彼女の母親の身体に乗り換えたのだろう。折角新しくした器だ。早々に消費し尽くしてしまうのも勿体無い。それでその漆黒の異形で戦う事に拘ったのだろうが……。
まあ、そのデカ物のことはどうでもいいさ。論点は魂魄生命。
すなわち、だ。翼人どもは複合的に混合した魂を壊すことなく、いや壊すどころかその混合魂そのものをどうにかして一個の生命存在として造り出す事に成功した。この推論は間違ってるか、ガディム」

女はやや感嘆したように瞬きし、即答した。

――相違は無い。流石は魔界に冠たる存在学の権威ということか。
――汝は違う事なき解答に至っている



「ちょっと待てよ、それがどうしてそいつがあゆの母親だってことに繋がるんだよ」
「急くな、少年。結論だけを述べても意味が無い時がある。ちゃんと説明しよう。当人のお墨付きだ、恐らく間違いはあるまい」

そう云って祐一を宥め、魔狼王は月の眼差しを伏せながら続けた。

「複数の混合された魂。本来は魂とは呼べぬものに変質してしまう術式。それは同時に劣化であり、魂のポンテンシャルを決定的に下げてしまう結果となる。最初に言った、多数の魂を使っても、その数相応にパワーアップするものではないって話はこれだ。
いかな複数の魂を使用するとはいえ、劣化し多少強力な出力機関でしかなくなった魂の残骸では魔界を含む世界を浄化するに充分な力を得るまで、どれほどの魂を捧げなければならないか分かったものではない。翼人が数千年のスパンで計画を立てたと思ったのはそれが理由だ。だが、連中、そこまで気が長いわけでもなかったようだな」
「それは…そこまでの時間をかけずに済む方法を見つけたってことか?」
「そうなるな。つまり、翼人は変質を抑えたまま多数の魂を一つの魂へと変化させることに成功した、と考えていいだろう。さっき云った混合魂だけで独立した生命存在の創造ってヤツだ。正直、偶然に偶然が連鎖した結果としか思えんがな。
だがそうする事で、変質した魂を使用するのと比べて、桁外れに少ない最少数の魂で充分な力を発揮できることとなる。魂の持つポンテンシャルを劣化させずに済むんだからな」

しかしだな、と魔族は低く唸った。
その声がおぞましいものに触れたように嫌悪に塗れた。

「考えてもみろ……。肉体から独立した魂だけの生命体。つまりは肉体の無い存在であり、魂だけで意識を持つ存在―――狂気そのものだ。
そんなモノがまともな意識を保てるわけが無い。しかもだ、その魂は多数の魂を混合して一つの魂へと統一されているんだ。魂という意味を維持したまま…すなわちそれぞれの魂の主である巫女の存在を維持したまま、だ。
分かるか、この意味が?」

魔族は呪いの言葉を吐くように語る。

「複数であると同時に単一である。ガディムとは、それまで魂を捧げさせられた幾多の巫女たちそれぞれそのものであると同時に、そのいずれでもないモノなんだ。
巫女たちそれぞれの意識、思考、想いや記憶が壊されず、失われずにそのまま維持されている。それでいて、巫女たちはもはや自分ではないんだ。
すなわち、ガディムとはそのお嬢さんの母親であると同時に、母親ではないモノという事になる。
それがさきに『一面の真実』と言った意味なのだよ」

祐一は、魔狼王の話をすべて聞き遂げると、しばし言葉を失い立ち尽くす。
やがて呆けたように唇を痙攣させると、「ハハ」と泣くように笑った。

「そんなの、もうあゆの母親じゃないじゃないか」
「だが、あれを構成する一部は紛れもなく彼女の母親だ。あれは彼女の母の心を持っている」
「ココロ? 心、だと? そんな……バカな話があるかよ」

祐一は、どうしようもなく打ちひしがれ、膝を付いているあゆを見やった。
彼女の抱いているであろう奈落のような絶望を思い、祐一はギリリと奥歯を軋ませた。

「じゃあなんで! なんで、ガディムがあゆを取り込もうとするんだよ。なんで、世界を壊そうとするんだよ」

俯き、地面に叩きつけるように叫ぶ。そして、祐一は殴りかかるように面を上げて怒鳴った。

「あんたはあゆの母親なんだろうが!?」

最後の言葉は、ガディムに向けたものだった。
だが、ガディムは微塵たりとも微動しない。ただ、翼だけが涼やかなる音を奏で続けているだけ。
口を開いたのは、魔狼王だった。

「ガディムには個が無い。それはあえて形容するなら群体生命とでも言うしかない代物だ。群体は一部の意思には反応しない。群体は群体としての論理でしか動かない。それは我々が常識で考える論理とはまったく世界を異にしたものだ。
ここにいる者たちの多くは組織という群体に身を置く者だから、良く分かるだろう。組織とは時に組織を構成する者たちの意思を無視して動く事があるという事を。ガディムとは、それを極端にしたようなものだ。なにしろ、組織には構成する者たちの個があるというのに、ガディムにはそれすらない。すべてが混じり合っているのだからな。それを、個である俺たちのような存在が、そのすべてを理解しきれるものではない」

噛みしめた奥歯がギリリと鳴った。
趣旨は分かる。だが、祐一は納得できなかった。そんな理由だけじゃ、このどうしようもなく行き場を失った溶岩のような感情は納得しようとしないのだから。
とぐろを巻く噴飯を感じ取ったのか、祐一の瞳を一瞥して、金色の魔王は重ねるように言葉を綴った。

「無論、理由はそれだけではない、少年。
ガディムとは個が無く、全でしかない生命。群体である生命は存在するが、群体である知的生命など存在しない。個を持たず、なおかつ多数の自分を一つの自己として持つ知的生命。そんなものが在るわけが無い。この世に存在しないものであり、存在してはいけないものなんだ。
だが、其れが存在してしまった。この世に出現してしまった。だがな…だが、そんなモノは結局は『なんでもないモノ』でしかないのだよ」

この魔界でも有数の策略家であり、狂的なモノを内に秘めた探求者であり、また偽悪趣味の変人であるヴォルフ・デラ・フェンリル。
だが、本質的にはお人好しな部分を多々持つこの魔王は、この所業を成した者たちに確かに怒りを抱いていた。
彼は憂鬱そのものの口調で言う。

「それらはガディムの材料として魂を捧げさせられた、幾多の月の宮の巫女たちそれぞれ、そしてそのもので在りながら、同時に彼女たちとはまったく違うもの。
『誰でもないもの』/『何者でもないもの』/『なんでもないもの』
……それを何と言うか、分かるかね?」

魔王は一言で吐き捨てた。


「――それは『混沌』と言うんだ」


―――シャン、と羽根が鳴った。

「この世にあまねく全ての存在には意味がある。人にも、魔にも、妖にも、魔獣にも、草木や微生物に至るまですべての存在にだ。
人であるということ。魔族であるということ。鳥であるということ。魚であるということ。
だが『なんでもないもの』には存在する意味はない。なぜなら、それはまさに『なんでもないもの』だからだ。
『なんでもないもの/混沌』などというものが、この世に存在し続けることが出来るわけが無い。存在する意味を持たないモノは自壊することで消滅するしかないんだ」


――だが、我等は我として確かに此処に存在する。


後を引き継ぐように言葉を繋いだのは【混沌の王】と呼ばれる女だった。

――翼人たちは『混沌』に一つの意味を与えた。否、刻み込んだ。
――その意味であり存在意義こそ『世界の浄化』であった。
――『世界の浄化』という存在意味を与えられた我であり我等であった『混沌』は、ガディムと為りこの世に存在し続ける理由を得た。
――だが、それは『世界の浄化』を遂行し続けなければ存在できないという事実の裏返しである。
――無論、『世界の浄化』を遂行するに疑問も無く拒絶も無く忌避もない。
――我はそういう存在であるからだ。
――それだというのに、いつしかガディムは絶望を始めた。
――何故なら、我は我であると同時に我等であったのだ。
――我等…すなわち我という意味を得た混沌を形成する月の宮の巫女たちが絶望し始めた。
――愛する者と、家族と、そして生きるという事を、すべて理不尽な形で断ち切られ。
――自分の形を失った果てで得た意味が『世界の浄化』…つまりは「あらゆる世界の破壊」。


――シャン、と翼がひとつ哭く。


――未来を喪いし、すべての月の宮の巫女の魂は絶望している。
――その深淵を汝らは知るや?
――その哀しみを汝らは解するや?
――我を織りなす我等の虚無は我が内に。故に我たる『ガディム』は嘆き悲しむ。
――それではあまりにも、我等が憐れでしかないが故に。
――すべての喪失の果てが新たなる消滅だという事実は、あまりにも憐れで悲しすぎる故に。
――我は我の意味に疑問を抱かねど、ただそれが為にだけ存在することを拒否したのだ。


ガディムは空を見上げ、陽光に眩しむように目を細めた。


――そしてガディムは見つけるに至る。
――存在の意味ではなく、生きる意味を。
――それが新たなる世界の創世。
――我等は世界を滅ぼすモノ。ならば、せめて滅びの果てに世界を創りださん。
――我等ガディムという悪夢を生み出した翼人たちの手による創世でなく。
――破滅をもたらす自らの手をもって世界を新たに創世せん。
――それがガディムの生の意味。それがガディムの描く未来。
――それが我等の儚き救い。

ガディムはゆっくりと、その視線を祐一へと向けた。
得たいの知れぬ思いを抱き、祐一は背筋を震わせた。
その眼差しが、あまりに無機質で、怨嗟に満ち溢れていたが故に。

――人の子よ、我等は呪うているのだ。
――我等に絶望を甘受させたるこの世のすべてを。
――我等に虚無を与えし、この世のすべてを。
――其処に理は無く、ただ妄執だけがある。
――我を動かすものは、存在の意味と、すべてへの怨嗟と、自らのささやかなる救いのみ。
――それが魔狼王が云う処の一つにして全たる群体の意思。それが我…ガディム。

そして最後に魔狼が告げる。

「少年よ、如何に彼女の母親の心があろうとも、もはやガディムが止まることはないのだ。
破滅こそが存在であるために。創世こそが彼女らの意思であるために。
其処に失われた個が介在する余地は無いのだ」

祐一は、そしてそこに居た皆が絶句するしかなかった。
混ざるとはどういう事なのだろうか。
個で無くなるという事がどういうものなのか。
理解しきれるものではない。だが、その具現が其処に在る。

すべてが不条理で――
すべてが無残で――
すべてが哀れ――

それらを現す一つの単語を祐一は知っていた。


―――それは悪夢というのだと、祐一は知っていた。


何もかもが、あまりに……

「…酷すぎるッ」



それまで、黙って話を聴くだけだった藤田浩之が、深く深く吐息を一つ落とし、無言のまま突き立てていた剣を引き抜いた。

…我ながら、最悪な面があるな。

あっさりと決断を下せる、そんな自分を浩之はあまり好んではいない。
割り切れずとも、躊躇無く動ける自分を、浩之はあまり好いてはいない。
憂鬱な眼差しを剣身に向け、顔をあげようとした時、影が差した。
気が付けば、剣を握る手に透き通るような白い手が添えられていた。

「綾香?」

いつの間にか寄り添っていた黒髪の少女は、やや哀しげな光を瞳に浮かべ、そっと頷く。

「あたしは…ここに居るわよ」

あなたの選ぶ場所は、あなた独りではないのだと。
これはそんな思いの言葉。

「…ありがとよ」

浩之は感謝するように幽かに眼を和ますと、大きく深呼吸するように息を吸う。
そして、敢然と揺るぎない声で告げた。

「月宮あゆ! 悪いが、ガディムは倒させてもらうぞ!」

それは、お前の母を殺すという宣言だった。

「藤田、お前!」
「相沢ッ」

声をあげかけた祐一を、止めたのは浩平だった。
祐一は噛みつかんばかりに振り返り、そして激情を消し飛ばされた。
それまでの飄々とした気配が嘘のような、凄惨極まりない浩平の貌を目の当たりにして。
それは彼がそれまで絶対表に出さなかった、地獄を見てきた人間の貌だった。

「あれが彼女の母親だろうがなんだろうが、倒すしかないのなら、やらなきゃならんのよ。迷うのはわかるぜ。俺がお前の立場だったら…例えばあれが長森の母親だったとしたら、お前とおんなじように迷うだろうな。
だが、薄情な立場で言わせてもらうなら、躊躇えば死ぬぞ。俺たちだけじゃない。俺たちを待ってる連中までがだ。冷たいよな、俺だってそう思うぜ。だが、躊躇うことは許されないんだよ、この場合」
「でも、それじゃあ余りにあゆが可哀想すぎる!!」

言葉を失った祐一の変わりに叫んだのは舞だった。

「お母さんを殺すなんて」

その姿はさながら蕭々と降る氷雨の中に立ち尽くすようで。
舞は声をすり減らした。

「そんなの、ひどすぎる」

「…舞」

佐祐理は親友の顔を見て、ただ名前を呼ぶ事しか出来なかった。

佐祐理の考えは浩平たちと全く同じだ。引き換えにすべきものが大きすぎる。決断は下さねばならない。
でも、それでも、まるで我が事のようにボロボロと泣いている舞に、それを告げるだけの勇気が無いことを、佐祐理は自覚し唇を噛み締めた。


「こんな事態に、なるなんてな」

柏木耕一は思わず呪うように呟いた。
今更のように、つい先程までの自分たちがどれだけ気楽であったかを思い知らされた。
それが如何なる危機であろうと、この大陸を守るという決して敗北の許されない戦いだったとしても、どれほど強大な敵を倒さなくてはならなかったのだとしても……。

――気楽だったのだ、自分たちは。

なにしろ、そこには迷いも躊躇いも疑いもなかったから。
倒さなくてはならない敵を倒すだけ。それだけだったのだから。

――なんて、単純で、素晴らしいお話。


耕一は、いや此処に居る者たちすべてが今初めて実感していた。
ガディムもまた、過去と今と未来を持つ一つの生命だということを。
それまでは『魔王』『破壊の神』そして単なる『敵』というシルエットでしかなかったものが、今はっきりとした形と中身を見せて其処に立っていた。
それを認めてしまった今、世界に仇なす魔王を倒す英雄譚は終わりを告げ、単なる血生臭い戦争へと移行してしまった。
無論、それは単なる気持ちの問題である。彼らは皆、ある意味本物の戦争屋であり、人間同士の血みどろの戦いを嫌というほど経験しているのだから。
それでも、いやだからこそ、彼らはこの転換を苦痛に感じた。
疑いなき正義のままに剣を振るうという心地良くも夢のような時間は終わりを告げたのだ。

それでも諦めきれず、祐一は藁に縋るように魔狼王に訊ねる。

「助けられないのかよ! あゆのお母さんを助けてやれないのかよ! もう、取り戻せないのか!」

魔族はこの上なく冷徹だった。

「無理だ、諦めろ。死人を生き返らせることですらまず起こり得ない奇跡。かつて俺は一人の死人を生き返らせたことがある。だが、それは肉体と魂の両方を完全な形で確保できたからだ。 それですら、恐らく二度と成功はしまいよ。ましてや、あのガディムは多数の魂が完全に混合してしまっている。結合でも癒着でもなく混合だ。
例えば、帝都の水と中崎の水と雪門の水を混ぜ合わせた水を、また再びそれぞれの水に戻せるか? 
それと同じことなのだ。ガディムをもう一度別々の魂に分けるなどということは、如何なる魔術でも如何なる力でも絶対に不可能だ」

魔狼王は楔を打つように繰り返した。

「すべての悪夢を振り払えるのだと自惚れるなよ、少年。万能なる者など存在せず、神ですらもすべての不幸を消し去ることは出来ない。
現実は常に冷厳で、微動だにしない。この世には決してできない事がある。それを覆す事は、奇跡ですらも不可能なのだ。奇跡とは、為し得る範囲でしか起こりえないものなのだから」

分かっている。そんなことは分かってる。
自分が無力だと。
どれほど力を蓄えようと、出来ないことがあるのだということを。
相沢祐一は、嫌という程にこの身と、ココロと、想い出に刻み込んでいるのだから。

ソレデモ、ココロハ、ハゲシク、キシム。


「ぐああああああーッ」

祐一は修羅の形相となり、手にした剣を床へと叩きつけた。
切り裂かれた石床が、悲鳴をあげて欠片を飛ばす。

――悔しさは消えない。
――多分、一生消えることはない。
――そして、この罪も。

それでも、耐えなければならない。
そして受け止めなければならないのだ。


しばし、何かを押し殺すように小刻みに体を震わせていた祐一は、やがてグッと顔をあげた。

そして少年は云う。

「舞、もう泣くな。終わるまで、もう泣くな」
「ゆう、いち?」
「終わったら、泣いてもいいから。頼むから、今は泣かないでくれ」

云った少年の顔は蒼ざめつつも、もはや揺ぐ事無き光を宿していた。
それは決断を下した男の顔だった。
すべての罪科を受け止める覚悟を決めた男の顔だった。

それでも、少年の声はまるで泣き叫んでいるような声で。


舞は必死に歯を食い縛り、涙を堪え、ジャケットで顔を拭った。
泣いていいのは、自分ではないから。
自分の役割は泣くことではないから。自分の役割は、魔を討ち剣を振るう事なのだから。
それが、どれほど辛くて、悲しくても。本当に悲しいのは自分じゃないのだから。
今、此処で自分は泣いてはいけないのだと、舞は歯を食い縛った。


ザパン、と岸壁に波がぶち当たるような音とともに、彼らの背後で蒼き飛沫が立ち上がった。蒼い、蒼空の如き蒼い羽衣。
その下で、血の滴る拳を握った女が、怨嗟の言葉を吐き捨てる。

「何が神室の力か。何が異能の力か。何の役にも立ちはしないじゃないか。
結局、私にはあの子を哀しませぬことしか出来ない。あの子を泣かせることしか出来ない。その上、我が子にあんな決意をさせて。何て…無力ッ」
「奈津子」
「分かっている、老師。秋子ですら無理であろう事を、この私が成し得るはずもない。分かっているのだ! それでも私は悔しい。あの子の涙を晴らせない事が私は悔しい」

それでも、相沢奈津子はその麗美な貌をしっかとあげ、決然と口を開く。

「だが、あの子が失われることはもっと許せない。あの子を、私はもう二度と失いたくない。例え、この思いが傲慢だとしても、あの子に終生恨まれるのだとしても、私はあの子を、あゆちゃんを……」

――守るのだと、彼女は云った。


懐より取り出だしたる呪符の束をじっと見ながら、天野美汐は呪を紡ぐように口ずさむ。

「何もかもが悲劇。運命とは斯くも呪わしきものなのでしょうか。それとも私たちが愚かなのでしょうか。
分かりません。私には分かりません。その命題を私が解く事は無いでしょう。私に出来るのは、ただ呪を紡ぐだけ。ただ、符を繰るだけ。
それは逃避かもしれません。それは悪行なのかもしれません。ですが……」

バサリ、と激しく音を立てて広げられた彼女の両手には、仄かに光る紋様の描かれた呪符が扇状に開かれる。

「今戦うことが、違う事無き私の意思です!」


「あゆ……俺は」

覚悟を決めてなお、祐一は躊躇い、言葉を詰まらせた。
それは恥ずべき事ではない。それは人の正しい在り方。

悄然と、膝を付きながら、でもあゆは理性を閉ざすことなくすべてを聞いていた。
自分の母がどうなったのかも。何故、こんなことになってしまったのかも。そして、もはや戦いは避けられないのだということも。
何より、祐一たちが心を決めてしまった事も。そして、それが世界のためであり、また同時に自分のためだということも。
哀しかった。あゆは哀しくて、嬉しかった。感情がない混ぜになり、混沌となる。このまま、自分も混沌になってしまえばとすら思う。

でも、ボクは……ボクは……

このまま、蹲っていてはダメなのだと、分かっていた。
ただ、ここで耳を塞いでいれば、例えどちらが勝ったとしても答えは勝手に出てくれる。
ここでじっとしていれば、この辛い現実を真正面から見据えずにすむ。
ただ、流されるままにこの悪夢をやり過ごす事が出来るのだ。

でも、それはやっちゃいけないこと。
絶対にやってはいけないこと。

――そんなことをしてしまったら、これからもう、ボクは祐一くんたちをマトモに見れなくなる。
――そんなことをしてしまったら、ボクはもう一生自分の足で立てなくなる。

今、まさに決断を告げようとしている祐一。
だが、その言葉を言わせてはいけないのだ。彼に言わせてはいけないのだ。

それは自分で決めなければならないことだから。
そして自分の意志を示さなければならないのだ。

そうしなければ、ボクは弱いから、弱くて卑怯だから、きっと恨んでしまう。
あの大好きな人たちを心のどこかで恨んでしまう。
悪夢のすべてを押し付けたくせに。ボクの悪夢で皆を苦しめるのだというのに。それなのに、ボクは心のどこかで被害者面をしてしまうだろう。
それは人として、心有る者として、最悪のこと。
そして、同時に優しいあの少年は、自ら下した決断を、正しいと理解しつつ一生大きな罪として抱いていくだろう。
ボクの顔を見るたびに、ボクの声を聞くたびに、その傷痕を疼かせるだろう。

だから、祐一に言わせてはいけない。
だから、決めなければならない、示さねばならない。
―――自分の意志を。

分かっている。そんなことは分かっている。
でも……それでも……。

あゆはポロポロと涙を落とす。


――ボクのココロはボロボロで
――ボクは立ち上がることすらできない。
――ボクは泣くことしかできない。
――ボクのどこを探しても、何の力も残ってない。
――みんな涙と一緒に流れ出てしまった。



―――ボクにはもう、考える力すら残っていない。



――――シャン


響く音。
奏でる音。

それは―――翼の歌う歌。

その音色が、まるで自分に降り注いできたような気がして、あゆは我知らずその俯きたる面をあげた。
映るのは紅の双眸。母の面影。
自分の母であり、そうでない者が、じっと自分を見つめていた。

「おかあ…さん」

呼びかけても、応えは返ってこないのだと、思っていた。
なぜなら、あれはもう、母でありながら、母ではないのだから。

それなのに――


――小さきあゆよ、汝は最後の刻までそのようにして虚ろであるのか。

「…え?」

応えは返ってきた。


「あんたは!?」

思わず声を張り上げた祐一の肩を誰かがグイと引き寄せ、止める。
誰だと振り返れば、それは金色の魔族。
ヴォルフ・デラ・フェンリルはその月瞳をじっと彼に見据え、おもむろに首を横に振った。

彼らを他所に、ガディムは問うた。
静かに娘に問い掛けた。

――汝は最後の刻までそのようにしてすべてに目を塞ごうというのか。

応えが返ってきたのが信じられなくて、だから呆然として、でもあゆは我知らずその問いに答える。

「ボクは弱いから……ボクには何も決められない。ボクには何も決める勇気がない。ボクは…ダメなんだ。もう、何もする力が出ないんだ」

――忘れたのか、小さきあゆよ。汝は忘れたというのか?
――かつて、月宮美由は汝に告げたはずだ。言い遺したはずだ。
――強く在れと、汝に告げたではないか。
――これからも、必ず汝は幾度も辛き目に遭おう。それでもなお強く在れと。
――月宮美由は汝と約束を交わしたのではなかったのか?

あゆは―――
涙を零すことすら忘れ、呆然と問いかける。

「あなたは……何を云いたいの? あなたはガディムなのに、ボクに何を望んでいるの!?」

――我はガディム。幾多の月の宮の巫女が一つになりし者。
――汝の母たる月宮美由もまた、我を織りなす一部である。
――我は月宮美由であると同時に、月宮美由にあらざるもの。
――我は汝を我が内に招き入れ、汝もまた我となり、共に世界を改める事が我の望み。
――しかし、汝の健やかなるを望み、汝の幸せなる未来を望むもまた我なのである。

「そんなの、矛盾してる」

――然り。我は矛盾しているのだ。
――だが、矛盾こそ個が無く全でしか無い我の意味であり、混沌の形。
――また、矛盾は世界の真理の一つでもある。

あゆは改めて悟った。

かの存在は、確かにもはや母でありながら、母では無い存在なのかもしれない。
でも、それは裏返しなのだとあゆは実感した。
このヒトは母で無い存在であると同時に、紛れも無く母である存在なのだと。

ガディムは告げる。

――小さきあゆよ。我は汝が我が元に来るを望む。
――我はこの場に並み居る我が未来の敵を根絶し、新世を始めることに微塵の疑いを持たぬ。
――故に汝の望む未来を刈り取ることに、なんらの躊躇も抱かぬ。
――だが、同時に汝が我と戦い、自らの望む未来を勝ち取ることもまた渇望しているのだ。
――それもまた、我の望みであるが故に。

――さあ、我等が娘よ、選ぶが良い。

――自らの未来を我に与え、汝もまた我となるか。また、自らの未来を戦いて勝ち取るかを。
――しかれども、我は許さぬ。汝が座して、未来を他者に委ねることを。
――月宮美由たる我は、そのような汝を許さぬだろう。

「お、母さん……ボクは……ボクはぁ!」

――受け止めるが良い、我等が娘よ。
――解するが良い、小さきあゆよ。
――我にとって、汝は未来である。
――だが我は……我である月宮美由は、汝にとりてただ振り返る過去であるのだと。
――我は汝にとりて、もはや想い出であるのだと、理解せよ、受け止めよ。

しばし、無言でかのヒトを見詰めていたあゆは、重たげに口を開いた。
その声には抑揚が欠け、それだけに悲痛の色が透けて見えた。

「あなたは、ボクにあなたを倒せというのですか?」

――然り、そして否。
――矛盾である。矛盾である。
――ガディムである我は生きることを望み、滅びを拒絶する。
――汝等に滅ぼされることを、我は決然と拒否する。
――だが、我等が娘よ。
――汝の母である我は、汝が汝として生きる事を望むが故に、我を倒すこともまた我の望みであるのだ。

その瞬間、弾かれたようにあゆは激発した。

「ボクにお母さんを殺せっていうの!?」



―――シャン


翼が羽ばたき、純白の女は冷然としたまま最後の言葉を―――


――それが月宮美由である我が示せる最後の指針であり」


そしてガディムの紅の瞳が、刹那だけ優しさを宿した。






――私の娘であるあなたに示せる、最後の愛なのです。









…泣いた。




泣いて泣いて、それでも涙は止まらない。
それでも泣きながら立ち上がる。
泣きながら顔をあげる。
泣きながら母を見る。


瞳に映るのはお母さん。
もう、お母さんじゃなくなってしまったけれど、でもそれでもボクのお母さん。
大好きな、大好きなお母さん。

「祐一くん!」
「…あゆ」

泣きながら、名前を呼ぶとすぐに応えてくれた。
泣いているのはボクなのに、彼は自分が泣いているようにボクの名前を呼んだ。
ボクは弱いけれど、立ち上がった。
ボクは泣いたままだけど、立ち上がれた。



――ありがとう、お母さん。
――大好きだよ、お母さん。



だから、ボクは決断します。



「ボクは…戦いますっ。あのヒトと、戦いますっ」


「あゆ、お前」

泣きながら、振り返ると、祐一くんがすぐ其処にいた。立っていた。
すぐ側にいてくれて、とても嬉しかった。
立ち上がったけれど、崩れ落ちてしまいそうなボクを支えてくれるみたいで、本当に嬉しかった。

「ボク自身に戦う力はないけど、ボクの意思はみんなと一緒。
ボクは目を塞ぎません。ボクは耳を塞ぎません。だって、これがボクの決意であり、意思だから。
それから祐一くん、君の持つ剣はボクの分身。だからね、君が戦うということは、ボクもまた戦うということにしていいかな?
ごめんね、ホントにごめんね。ボクは戦えないから、きっと戦えても最後の最後で迷ってしまうから。
だから、ボクの代わりに戦ってくれますか?
こんな酷い事を頼むボクを許してくれますか?」

「ああ、ああッ! 当たり前だ、この莫迦」

「うん、うん、ありがとう。ねえ、それからね、祐一くん、ボクの思いを君に預けてもいいかな。
とても、重たくて、苦しいだろうけど。とても祐一くんには酷いことだけど、ボクの決意を君に預けてもいいかな?」

「なんだ? 云って、みろ。聞いてやるから云ってみろ」


あゆは、笑おうとして失敗して、

それでも必至に微笑みながら、

泣きながら、

泣きじゃくりながら、。

それでも確かな声で、

確かな意思で……




―――決意を/想いを、告げた。










「ボクのお母さんを……倒してくださいっっ!!」






溢れ出てくるのは、涙。
堪えきれないのは、涙。
必死に耐えていたのに、耐えようと思っていたのに、堰を切ったように零れてくるものを止めることができず。
だから、祐一は空を見上げ、掠れる声で、血を吐くように――


「わかったッ!!」


――応えた。




ガディムは微笑む。
女神の如く、優しく微笑む。

――さあ、改めてはじめよう、我等が娘よ。そして人間たちよ。
――未来を勝ち取るための戦いを。汝等が汝等で在らんために。
――我もまた、我の未来を勝ち取るため、我たらんがために、全知全能をもって汝等を駆逐せん。


数億の鈴が一斉に鳴り響くようにして、十六枚ある純白の翼が大きく羽ばたいた。
舞い踊る羽根の吹雪。
そして、轟音が鳴り響く。轟く場所は祭壇の上。打ち開かれる異界の門。
祭壇の上に現れし、空間の波紋より堰を切るように溢れ出す、それは漆黒の眷属たち。

「グレーター!? 魔界から呼び寄せたのか!?」

魔狼王の叫びに応ずるように、グレーターラルヴァが喚声をかき鳴らす。さながら、重厚なる音楽を奏でるように。そこに、純白の羽根が奏でる涼やかなる歌声が重なり、賛美歌の如く響き出す。
漆黒が満ち溢れ、その只中にぽっかりと純白が浮かぶ。
暗黒の中に、ただ一つの光が栄える。

それは、神々しいまでに美しい光景だった。
滅びという名の、美しさだった。


満ちあふれる賛美歌に、唱和するように『メモリーズ』が光っていた。
そのほのかな温もりを感じながら、祐一はあゆの翼を構える。



その温もりは、まるで涙のように熱かった。










  あとがき




栞「奇跡は起こらないから奇跡っていうんですよ」
八岐「今回も大幅に容量オーヴァーなので、この辺で」
栞「って、私の前振りはぁ!?」
八岐「おわり」



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