魔法戦国群星伝






< 第八十五話 True pure white >





失われた聖地 聖殿内最奥 孤聖の間






つい先程までは落ち着きのある意匠が掘られた壮麗なる石柱であったものの残骸がそこかしこに転がっている。
虚ろともいえる静寂が満ちていた空隙であった≪孤聖の間≫
今や、その只中では戦闘という名の猛々しい音楽が奏でられ、神聖とも呼べる静謐さは掻き消えていた。
そしてこの時、戦いの猛き調べは最高潮へと到達した。


膨大なる電気量で発生したローレンツ力により超音速にまで加速された真鋼製の弾丸。
それは当たり前のように、音の壁を突破し、周囲の空間を致命的なまでに粉砕した。
浩平が咄嗟に空間断層型障壁を形成しなければ、全員が吹き飛ばされていたに違いない。特に体力が極端に低下した綾香や、揚力的には最高値を発揮する月宮あゆなど、面白いように舞い飛んだだろう。
如何に他に有効な手段が見当たらなかったからといって、ろくに試した事もない秘奥義を行き当たりばったりで使ってしまえば、予期しない事態は必然的に巻き起こる。
いや、この場合浩平が何らかの対処をすると考えていたのかもしれない。他者の行動を計算するしたたかさを祐一は持っていた。
ならば最初から頼んでおけばいいという話もあるが、云わずともやるだろうと考えかねないのもまた祐一の横着さとして想像しうる。

斯くして発射された弾丸は七つ。
海を割るようにして大気を貫いていった超音速弾は、一弾とも的を外すことなく符の爆華が咲き誇る不可視の障壁へと接触した。

如何に強靭な防壁といえど、これに耐えられるほど非常識なものではない。

暴れ狂う衝撃波の余韻の中で、彼らは確かに聞き届けた。

魔王を守りし不可視の鎧がステンドグラスのように崩れ落ちる……その美しいとすら云える旋律を。


漆黒の巨体から空間を打ちのめさんばかりの凄まじい咆哮が解き放たれた。

驚愕/怒り/苦痛

だがその声調の中にはそれらの険しい感情は微塵も無かった。
ただ吼えるという以外の意味を持たない、無垢なる吼声。
その轟きに肌を痺れさせながら、皆はようやく靄の中に魔王の姿を捉え見る。

「や…った?」

岩のように重い意識と、不調故か体の奥底から這い上がっていく吐き気に耐えながら、綾香は目を細め朱唇を震わせた。

始まりの時には、荘厳とすら表現できた漆黒にして異形の巨体。
今、その巨体に明確過ぎるほどの巨大な損傷が穿たれていた。

障壁を破壊した弾丸は七つ。そして、ガディムの巨体を貫いた弾丸は二つ。
一発は左肩を貫通。秘奥義『震電』の威力は堅牢なる障壁を突破してなお、その異常とも云える破壊力を維持していた。
僅か親指ほどの弾頭でありながら、左肩より生え聳えていた大蛇の鎌首はその根元から消し飛ばされ、その熱量と運動エネルギーにより肉片も残さず消滅していた。
もはや、左肩に残るのは半月状の空白のみ。
そして、同様の空白がガディムの右肘の部分に存在した。無論、その先にあった巨木の如き右腕はこの世から消滅している。

ガディムはすべての不条理を消し飛ばさんとでもするように、天空を仰ぎ、ただ永遠と連なる吼声をあげていた。
傷つき、手負いとなった魔王がそこにいた。

それでもなお、深手を負ってなお、混沌の王の炯眼は輝きをさらに増し、紅の闇を宿している。
敗北を認めぬ不屈ではない。生への執念でもない。
その類の感情を、この生命体は有してはいない。いや、厳密には有していないのでなく、明確化し認識する術を失っていたのだ。
だからこそ、尚を戦おうとするガディムの行動は、ただ目的のために邁進する…その意味ではやはり執念なのかもしれない。怨念なのかもしれない。

そして、意味も意思も無い咆哮が、突如法理に訴える呪唱咆哮へと発ち変わる。

羽虫のような異音が迸り虚空が歪む。器械召喚。歪みより現れたるは無数の黒杭。
音速とまではいかないものの、黒杭の束は弓矢を上回る速度で降り注ぐ。
皆が身を躍らせて杭をかわし、障壁を張り巡らせて防ぐ中で、一人の男が無造作に黒杭の雨の中に分け入った。

「あんまり足掻くと見苦しいぜ」

苦笑を滲ませるように口ずさみ、どちらかといえば大柄な体躯を軽やかに翻して、柏木耕一は疾駆。
そして唸りを上げて飛来する黒杭の一本をいとも簡単に掴み止めるや、手にした杭を棍に見立ててしなやかに振り回し飛来する杭を弾きつつ、一気にガディムに迫る。その勢いたるや圧巻。
途切れぬ咆哮により途切れぬ豪雨と化していた黒杭の嵐を突破する鬼の接近に、ガディムは咆哮の音色を変える。
青白い炎のともに燃え上がったのは、ガディムの左掌。
鉄をも溶かす火炎の雪崩を振り薙ごうとしたガディムの掌は、だが突然襲った衝撃に後方へと弾かれた。
見れば、掌の中心を穿つ黒杭が。
手にした杭をジャペリンの如く投じた耕一は、留まることなく地を蹴る足の筋肉を爆ぜさせた。
杭打たれた手を構わず叩き付けてくるガディムの腕を掻い潜り、その肘が伸び切ったところを見計らって逆立ち気味に下から蹴りを叩きつける。
『飛竜蹴弾』の名を持つ蹴り技とほぼ同じ軌道を描いた蹴撃は、タイミングとベクトル、それらすべてが見事に噛み合わさった一撃となり、半ば千切れるような形で力無く垂れ下がるガディムの左腕として答えを出した。

さらに高く高く吼え盛るガディム。
それは悲鳴ではなく呪唱。
その呪唱は耕一に対する攻撃呪文ではなく、自らの身に襲い来る魔術の嵐への防御呪文。
耕一は背中越しに迫る圧迫感に振り返り、頬を引き攣らせた。

「っとわっ、まるで千鶴さんのように容赦無くぅ!?」

自分を巻き込まれかねない攻撃に、不穏当な発言をしつつ慌てて飛び退る耕一。それを見計らったかのように、浩之の放った魔力刃と美汐の符が招くカマイタチ、そして佐祐理の唱えた火焔の渦が一斉にガディムへと降り注ぐ。
さすがのガディムもこれには苦しげに唸らざるをえなかった。
特に隙間無く襲い掛かってくる漆黒の三日月。一撃一撃はまだ耐え忍ぶに充分な威力だが、それが僅かな乱れも無く一点に集中して飛来してくるのだ。狙うは眉間ただ一つ。
自然と魔術防壁の密度を一点に収束せざるを得なくなる。となれば、併せて浴びせかかってくる斬風と焦熱への対処が疎かにならざるをえない。

魔術の暴風が一旦停止した時、そこに佇むガディムの巨体からは仄かに煙が立ち昇り、肉と血が焼ける匂い、そして全身の裂傷から滴る鮮血が石床を濡らし始めていた。

ガディムは肺腑に在ったものをすべて吐き出すように、深く深く息を吐いた。洞穴に吹き抜ける風を思わせる轟き。
身悶えるように、背中の一六翼が震える。
沈黙し、ただ粛然とそこに在るだけの魔王。
満身創痍――つい数分前まで世界を睥睨するが如く、轟然と佇んでいた浄化の王。心臓を握りつぶさんばかりの威圧感をかもし出していた巨体は、今や儚さすら感じさせる。
どこか憐れみすら覚えるその存在を仰ぎながら、川澄舞は凪のように静まっている自らの心に気付く。

…底は、見えた。

恐らく、この場に居る誰もが同じ結論に至っただろう。そう考えながら、舞はぶら下げた『神薙』を握りなおした。
そして、改めてそこに立つ異形を見上げた。

底は見えた。結末も見えた。
もはや、この神を名乗る存在に脅威は見当たらない。
すべての力を防ぎきる魔の障壁は崩壊し、遍く理を変質させた異世界の創造すらも大盟約世界の降臨により無効化された。
そこに居るのは、もはや単なる強大なる魔物に過ぎない。
それが唱える術式は脅威ではなく、それが招く事象は防ぐに困難ではない。その巨体は今や被弾面が広いという以外の意味を持たず、その動きは見切るにあまりに易しい。
その力は、並みの者たちが相手ならば尚慄然たる恐怖の的であろう。だがこの場に集った人という種の究極とも言える戦闘能力者たちにとって、もはやこのガディムは倒せる敵でしかなかった。

無敵の鎧を失ったこの神は、それほどまでに底辺を見せてしまっていた。
それはメッキが剥れたというに相応しい印象。

だが…
舞はこの現状を不可解とすら考える自分に気がついた。
何が不可解であるのか、すぐさま不鮮明だった思考を整理し、結論を得る。
その疑問は至極簡単だった。

―――この程度で魔界でもトップクラスの魔王なのか?

無論、魔界とはその程度の世界なのかもしれない。
また、この漆黒の魔王がこれまで周囲に対してハッタリを成功させていたのかもしれない。
考えうる答えは幾つも浮かぶ。
それでも、何かが釈然としなかった。
それは、戦闘を生来の営みとしてきた血族としての勘か、それとも川澄舞という稀代の剣士の経験に基づく訝みか。

だが、もはやガディムからなんの脅威も感じられないことも確かだった。

この場において、誰の目にも勝者と敗者は明確だった。


「祐一くん、大丈夫?」

怒涛のように巻き起こった戦いの暴風が途絶える。
台風の目のような一時の静寂を見計らい、月宮あゆは我に返ったように祐一に駆け寄った。

祐一のやや伸びた髪の毛はザンバラに乱れ、外套のそこ彼処から仄かな白煙が立ち昇っていた。
だが、あれだけの規模の電撃を操り、至近距離で凄まじい衝撃波が発生した事を考えれば、この少年の平然とした姿たるや、言語を絶する。
祐一は乱れ切った髪を撫で付けつつ、『メモリーズ』を剣へと戻して床に突き立てたところで、迫ってくるあゆに気がついた。

「おう、無茶した割には何ともないぞ。ところであゆ、あんまり近づくと……」

祐一の言葉を皆まで聞かず、あゆは祐一の伸ばした手を掴もうとして―――


―――バチン

「ウグゥゥ」

感電した。


「ああ、だから触らない方が良いって言おうと思ったんだが。今の俺って電気が溜まってるから、静電気が凄いぞ」
「うぐぅ、痺れたぁ」

ピリピリと痙攣してる右手を左手で抑えながら、半泣きで情けない声をあげるあゆ。
その哀れみを誘うあゆの姿に、祐一はフムと一つまばたき。
そしておもむろに、わきわきと掌を開閉しつつ、手を差し伸べた。

「ほれ、ビリビリビリ〜」
「うぐぅっ、触らないでー」

しばらくそうやって、怪しげな手つきで逃げ腰のあゆをからかっていた祐一だったが、やがて再び剣を引き抜く。

「うぐー、なんか扱いに納得がいかないんだけどなぁ」

ヘタリ込みつつブチブチと何事か唸っているあゆを無視して、祐一は剣の切っ先を石床に引っかくように緩やかにぶら下げ、悠然とガディムを仰いだ。

「さて、そろそろ年貢の納め時じゃないか?」

神を名乗るものに対しての、あまりにも不敬なる言葉。
だが、ギロリと翼の剣を持つ少年へと向けられた紅の視線には、怒りは無かった。
否、そもそも初めからこの混沌の王は、なんらの感情も見せてはいない。

傷つき、威容を損なって尚、何の乱れも無い無感動な声音で、ガディムは問い掛けてきた。


――翼の剣…そして魔を征する技――
――このようにして使いこなすとは想像もしえなかった――
――少年よ、汝は何を思い、その翼を担い、この力を身に付けたのだ――



血と死と狂気が渦巻く戦場には、場違いなほどの静かな問いかけ。
自らの深手も、必敗の窮地もまるで認識していないように、ガディムの言葉に動揺は無い。
この孤高なる神には、苦痛も恐怖も、何もないのであろうか。

そんな思いを抱きながら、祐一はやや俯くようにして自分を突き刺してくる紅の視線から顔を逸らし、淡々と答える。

「悔恨と決意、まあそんなところだな」

多くは語らない。その必要は無い。
ハッとしたように傍らの少女から感じた小さく息の途切れる感触、そしてまだどこか全身を走る痺れに、祐一は俯きながらジワリと苦笑を浮かべた。
力は所詮、力に過ぎない。そこに価値ある意味を持たせるのに、意志と決意こそが必要なのだと気がつかされた。
力を持つだけでは何も解決しないのだと。挫けぬ意思を以て揮ってこその力なのだと、教えられた。
信じぬき、諦めないことこそ重要なのだと、一人の少女に教えられたのだ。

祐一は地面を切り裂くように剣を一振りし、小さく息を整えた。

帰るべきは彼女の元へ。
帰るべき場所を守るといってくれた彼女の元へ。
始まりはそれからだ。
自分が二人の少女に抱く想い。その在りうるべき形を確かめる前に、まずスタートラインに立たねばならない。
今隣に居てくれるこの少女――あゆと共に、帰りを待っていてくれる名雪の元に。

毅然と面持ちをあげる。
彼方を見定めるように、祐一はガディムを見据え、手を差し伸べるように告げた。

「さあ、そろそろ終わらそうぜ。明日を遮る闇よ」


一斉に、黒翼は広がる。

その羽ばたきの音色とともに伝わるものは、深く染みとおるような声調。
自嘲めいた笑い声。


――クク、クククククッ、即ち我は汝等にとっての未来への障害か――


それは、この漆黒の王が初めて明確に垣間見せた感情だった。

誰もが、突然垣間見せられた混沌の王の感情に驚くなかで、ただ祐一だけが当たり前のように応じる。

「お前の存在意義ってヤツが俺たちの住む世界を滅ぼそうっていうんだ。お前の存在自体が未来への障害だって云わざるえないだろう?」


――然り――
――汝の語る通り、我は汝等の未来への障害――
――だが、少年よ、汝は理解しているか――
――汝等もまた我の未来の障害の一つであるのだという事を――



「解かってるさ、それぐらいはな。お前のすべてを否定するほど自惚れちゃいないさ。
でもな、ガディム。お前にとっては、自分以外のすべてが障害なんじゃないのか?」

どこか、寂寥を滲ませながら云う少年に、ガディムは炯々と輝く紅眼を綻ばすように細めた。


――それが我等が選びし道である――
――だが、人の子よ――
――それはまた、我がこの次元に存在を始めた時からの我に唯一与えられた意義であった――



「同情でも欲しいのか」


鳴動のような声音に苦笑じみた響きが滲む。

――辛辣であるな、人の子よ――
――だが我は我のみを認めるもの――
――我に同情は必要無く、また何らの意味も在らざるや――
――然れども少年よ、重ねて一つ我は問う――
――汝が望む未来こそ、小さきあゆの選ぶ未来だというか?――


微かに目尻を鋭くし、ガディムを睨み返した祐一は、無言で傍らの少女を振り返った。
ずっと此方をみていたのだろうか。すぐ手を伸ばせば届く処に彼女は居る。
交差する互いの視線。糸を絡めるようにじっと見据える。
あゆの瞳に映るのは、揺るぐ事なき意思の光。煌々と闇を照らす想いの灯火。
小さく、だが確かに微笑み頷いてくるあゆに応え、祐一は静かに告げる。

「そうだ」


混沌の王は、ただ言葉も無く―――嗤った。


その嘲笑は誰に向けての嘲りなのか。


やがて、冬が遠のくようにして声無き嗤いは消えていった。
独りごちるように、ガディムの声が響く。


――我は幾つもの手を労した――
――それでも機は、失われたか――
――ならば、決断せねばならぬ――
――如何なる道筋を辿るのかを――



嗤いを収め、呟くガディムのその声には、何故か絶望も疲労も虚脱も無く。

――こいつ、まさか!?

不意に青年皇帝の凶悪な双眸がさらにキリキリと険悪さを増した。
その無機質な声音に、ハッとガディムの中にある一つの選択に気がついたのは藤田浩之だった。

浩之にとって、ガディムと相対するのは二度目。
そして、一度目はどうであったのか。その記憶と結果を引き出せば、導き出される結論は否応もなく一つしかなかった。
唸るように声をあげる。

「野郎、また魔界に逃げるつもりか!?」
「なにぃ!?」

鼻に掛かったような浩平の驚愕を聞きながら、同じくガディムとの戦いを経験していた綾香が苛立たしげに舌打ちする。

「そういや、前回はまんまと逃げられたんだっけ」

およそ四年前の第一次魔王大乱。
当時はその力の殆んどを封じられたまま、この世界に現れ暴虐を奮ったガディム。
それを追い詰めつつ、むざむざと逃がしてしまった過去を思い出す。

いや、逃がしてしまったというより、あえて無理をしなかったというべきか。

追い返せば、それで良し。
そう考えた結果が此れだった。

「ちょっと…さすがに、今回ばかりは逃がすわけにはいかないわよ」

前回はあえて無理をして討ち果たす必要を感じなかった。
ガディムは宮廷魔術師団の召喚実験の失敗により現れた者。それ以上の認識がなかったからだが、今こうして再侵攻を企ててきた結果と、破壊と浄化という受け入れられぬ目的を知ってしまった以上、此処で逃がしてしまう事は将来に対しての重大な禍根となるだろう。

ざわめき立つ人間たちを見下ろしながら、ガディムは吐息を漏らすように呟く。


――それもまた、在りうるべき道筋の一つなるか――


魔界へと撤退するのは簡単だ。
ガディムはゆっくりとその首を動かした。
魔界へと繋がるゲートは此処にある。人間たちがこのフロアへと侵入してくるまで自らがまどろみの中に居た場所。
この広大な空間を世界に見立て、そのすべてを睥睨するために高く神の座を奉るように造られた壇上。
其処に、世界を穿ち、魔界へと通じる門が在る。
凪の水面を思わせる穏やかに揺らぐ空間の扉。

だが、その異界への門がある壇上を仰ぎ見たガディムは、刹那紅眸を収縮させ、遠来よりきたる旧友を目の当たりにしたように「ほぅ」と吐息を漏らした。


「残念だが混沌の王よ、貴公にその選択肢――魔界に退がるという道筋は無いぞ」

天上より降り注ぐかのように――
決して大きくない、だがこのあまりに広い空間の隅々にまで良く通る、そんな声が轟いた。

声のした方、皆は見上げ、そして見つける。


神が在るべき祭壇の上には、一人の男が居た。

崩れ落ちた岩壁、その瓦礫を男はまるで玉座のように座りこなしていた。
そして、良く出来た芝居を観賞するように、その男は悠然と眼下を睥睨していた。
男の長くたゆたう髪は透き通るような金髪。その光輝に満ちた双眸は蒼月の如き金色。
孤狼のように鋭利な面差しを持つその男を、ガディムは当然のごとく見知っていた。


――汝は魔狼王…何故此処に――


満ちたる月の王は世界の支配者の如く優雅にその身を起こすと、朧のように薄らと嗤う。

「凍れる湖面と謳われるほどに感情を見せぬと噂される、その貴公が驚く様を見るのは愉快だな、ガディムよ」

「フェンリルの旦那!? あんた、なんで此処に!?」

思わずガディムと同様の問いを、ガディムとは質の違う驚愕で張りあげる藤田浩之へと向けた魔狼王の表情は、つい刹那の前と違い、酷く子供じみた笑みを浮かべていた。

「なに、大した事じゃない。私用だよ、皇帝。いや、公用と言うべきか、魔界の一領主としてのな」
「ちょ、ちょっと待って下さい。あなたは誰なのですか!?」

明らかに人とは違う存在の出現。だが、ガディムと東鳩帝国の者たちには既知たるその様子に、天野美汐は不審げな声をあげた。明らかに敵対する様子は見えないが、あまりにも正体不明の不審人物である。自然と警戒の念を抱かざるを得ない。
金色の男はフムと頷き、改めて告げる。

「そういえば、初めて会う者達も多いな。ならば改めて名乗ろう。我が名は魔狼王ヴォルフ・デラ・フェンリル。魔界に在る十八の魔王の一欠片であり、今は――」

ニヤリと笑い、魔狼王は云った。

「東鳩帝国は来栖川芹香嬢に召喚された身よ」

「な、なにぃ!? お、お前ら、魔王なんてものを召喚してやがったのか!?」
「……ま、まあな」

それがどれだけとんでもない事なのかそれなりに自覚していた浩之は、声を裏返した祐一に答えながらもシラリと視線をそれとなく逸らす。
その視線がちょうど、此方を見つめていた倉田佐祐理と交わった。
「あははーっ」と実に朗らかで怪しげな微笑みを投げて寄越す佐祐理。

あー、これは終わった後チクチクと突かれそうだな、オイ。
知られるにしてももうちょっとやり方ってものがあったんだが。

藤田浩之はあっさりと外交的カードを他国に与えてしまった事に、ヒョイヒョイと姿を現した魔狼王を少し恨んだ。

一方祐一の方も、思わず声を張り上げたものの、ふと思い返してみれば魔狼王という名に聞き覚えがないでもない。

確か…前に会ったカゲロヒって魔族が魔狼王の配下とか何とか言ってたような……

その時の会話を明瞭に思い出す前に、ガディムの冷たい重低音が響き渡り、祐一の内なる思考は中断した。


――なるほど魔狼王よ、汝がこの世界に居る訳は理解した――
――だが、召喚されたる身なれば、魔界とは違い力は揮えまい――
――また、この場に汝が来る理由も理解出来ぬ――
――汝の目的は如何に――



ヴォルフはヒョイと肩を竦めると、悠然と壇上を降りながら語り始める。

「魔界でも貴公の出自、種族、目的、すべてが謎だった。まあ、それ自体は珍しくもないんだがな。
ところがだ、謎が謎のままならば良かったんだが、さっきも云った通り俺は彼らの所に厄介になってたものでな。貴公の正体、俺にも伝わってしまったという訳だ」

ガディムの黒翼が僅かに蠢く。

「まさか翼人どもの世界浄化システムだとはな。元々貴様には色々と意趣はあったんだが、魔界全体を脅かすというネタを手に入れてしまった以上、俺が黙って見逃すと思うか?」


――魔狼王、汝如何なる手を打ったか――


ヴォルフ・デラ・フェンリルはその歩を止め、芝居がかった仕草で纏う漆黒の外套を翻し、実に楽しげに答えを出した。

「貴公の存在意義であるという世界の浄化…いずれ魔界をも殲滅するであろうその目的。貴公の領域を攻めるには充分にして正当なる理由になるとは思わないか?」

ほぅ、とガディムが目を瞬いた。

「情報は既に魔界中に撒いた。早々と貴公と相互防共協定を結んでいた共工とテスカポリトカは同盟を破棄したぞ。聞いた話ではクーフーリンにカルキがもう動き出してるみたいだな、連中にも軍を進める良い口実になったんだろう」


――魔狼王、汝がそれだけで済ますまい――
――汝が動くとなれば、其処に他者の意思に任せた漠然たる過程などあるまいや――
――冷徹なる汝は、常に徹底的。自らの手の内ですべてを動かし繰り終える――
――此度の汝の目的は魔界における我が影響力の完全排除か。ならば汝の打ちたる手は……そうか――



一つの仮定に至ったのか、ガディムは淡々と、だが深々と感嘆の混じいる吐息をついた。


――魔狼王よ、汝、魔界の粛清者たる鮮華…真理の吸血姫を動かしたか――


魔狼王は口端を歪めた。

「吸血姫ルミラ・ディ・デュラル、自らの力の比重を弁えた腰の重いお嬢だが、流石に今回明らかにした貴公の存在は見逃せなかったようだな。ウチの軍勢、全部預けるといったら何とか了解してくれたよ。
今頃、蚩尤公とガンダルヴァも同調して軍勢を進めているはずだ。因みに界龍の御大にも今回の件に関しては黙認するように言質は取ってある。今や、魔界のほぼ総てが貴公の敵と相成った訳だ」


――我の素性を知ってからさほどの期間はなかったはず――
――この僅かな間に其処まで手を回したか――
――魔界において、やはり侮れぬは汝であるか――



「お褒めに預かり光栄の至りだな。さて、ガディムよ、姫が動いたとなれば魔界ではそれは存在否定と同意義だ。如何に伸張型の魔造生命機構である貴公とはいえ、現状の力ではお嬢とは抗し得ないだろう。それでもあえて魔界に戻るかね?」
「あのー、質問よろしいですか?」
「なんだね、お嬢さん」

魔王同士の会話に平然と口を挟んだのは倉田佐祐理。だが、ヴォルフは特に気分を害したようすもなく、朗らかに促す。
対して佐祐理もまた、実に朗らかに問い掛けた。

「それって、云わずにさっさと魔界に帰ってもらえば、そちらの方で楽に決着つけて貰えたんじゃないでしょうかーっ?」
「ふむ、実に的確な意見だな」

苦笑を浮かべながら同意を示したヴォルフは、だが、と先を続けた。

「見ていた限り、お前さん方でも充分に決着は付ける事ができそうなんじゃないか? 他者に結末を委ねようという考え方は怠惰で宜しくないぞ、今回の当事者たるはお前さん方なのだからな」
「はぇー、当事者と言われればそうですねぇ」

苦笑を浮かべながら、佐祐理は頷く。

「うぐぅ、見てたんなら手伝ってくれてもいいのに」
「生憎だが、今の俺はさほどの力はないものでね。魔力が使えない状態なら尚更だ。それにそこまで手伝う義理も無いしな」

肩を竦めて、不満げなあゆの言葉をさらりと流し、ヴォルフ・デラ・フェンリルは再び混沌の王を見やった。

「魔界における貴公の領域は既に失われたも同然。貴公不在の中でラルヴァ如きがどれほどの数存在しようとも塵芥だ。尤も、貴公とその配下の魔族全員が揃っていようと、五名の魔王の同時侵攻を受ければ結果は変わらんか。
とはいえ、この場においても貴公の滅びは免れん。貴公が仕組んだ≪灰燼の卵≫も既に排除されたしな」
「ちょっと、それ本当なの!?」

喜色の混じった綾香の声に、魔狼王は右手を軽く振って答える。

「俺の配下が影を通じて報告してきた。どうやら両方ともぶっ壊したみたいだぞ」

それを聞き、祐一は思わず安堵の呼気を漏らした。

名雪のヤツ、やってくれたか。

彼女は約束を守ってくれた。帰るべき場所を守るという約束を。

「なら、こっちもさっさと約束、果たさないとな」

一方の折原浩平も、不意に他の連中が心配になったのか、さっきまでそちらの方に居たらしいみずかに訊ねる。

「なあ、さっき瑞佳に頼まれたって言ってたけど、あいつら大丈夫なのか?」
「うん、みんな元気だよ」

それからね、とみずかは浩平に微笑みかけた。

「司も、戻ってくれたよ。みんなの下に、茜の所に。笑顔を取り戻してくれたよ」

浩平は、咄嗟に何かを云おうとして言葉に詰まり、そのままにやけるように俯いて、髪の毛をガシガシと掻き毟って一言だけ云った。

「そっか」

…まったく、もったいぶりやがって。

帰ったら一発ぶん殴る。そう実に理不尽な決意を固め、浩平は口元を綻ばせた。



――≪灰燼の卵≫もまた失われたか――


この大陸を破滅させる切札が防がれた、その衝撃をまったく感じさせない淡々とした呟きに、皆は面持ちを上げ、ガディムを仰ぐ。
すべての破滅を受け入れるように、ガディムはどこか静謐に佇んでいた。


――かの破滅の因子、安易には滅する事が出来ぬはずだが、成し遂げたとはな――
――そして、今この場においても……――
――マーリンの剣の契約者のみならず、世界の楔、そして天使の翼の担い手――
――よくもこれだけの者たちが一同に集ったもの――
――世界よ、これも汝の導きか――


問われたみずかは静かに、だがどこか誇らしげに否定する。

「わたしにそんな因果を定める力は無いよ」


――ならば、運命は常に我を嫌悪するという事か――
――本来ならば、我が魔の鎧と我が世界による理の変革――
――この二つの要素を以て、この我でも敗北の律は存在し得ぬはずであった――
――だがそれも今となっては無意味か――



幽かに嗤いを滲ませて、ガディムの双眸が魔狼王を捉えた。


――≪灰燼の卵≫による破壊が行なわれぬのならば、我が魔界へと退がる必要も無い――
――ならば、この場より退がる必要も無い――
――選ぶべき道は一つ――
――魔界における安住を失う事などさほどの意味も無い――
――すべてを此処から創めれば良いのだから――
――今は姫君に、龍の王に抗し得ぬと云ったか、魔狼王よ――
――だが、それは正しくもあり否でもある――



ガディムは、スラリと短剣でも抜くようにしてあゆを見据えた。
紅の視線に刺し貫かれ、ビクリとあゆの翼が跳ね上がる。


――小さきあゆよ、汝を招き入れる事で我は更なる力を得る――
――その時、我は至上の極致へと達するであろう――
――我を創りし者どもの目論見通りに――



皆は喉元に刃物を突きつけられたように息を呑む。
無感情なはずのカディムの言葉に、この上ない底無しの憎悪を感じて。
その憎悪の矛先はいったい何処に向けられたものなのか。

紅の双眸はこの場にいる者たちを巡った。


――そして魔狼王よ、汝はこの者たちが我を滅するに充分と告げた――
――それもまた、正しくもあり否でもある――
――知るがよい、すべての命在る者たちよ――
――我はただ、邁進するのみ――
――我はただ、我である事を遂行するのみ――
――我は破壊のために生み出され、我は創世を志す――
――汝等は我が未来の障壁――
――砕かねばならぬ禍根と認めるものなり――
――ならば、我は全力を持て、汝等を破壊する――
――そして、世界を浄化し、我が手の内に――
――其れが為には我が器の命数を使い果たすもまた已む無し!!――



憤怒でも無い、惑乱でも無い、ましてや自棄では在り得ない。
鳴動は、開幕を告げる鐘楼の如く余韻を漂わせる。

誰一人の例外なく無意識の内に、すべての本能とすべての理性が認識する。
それは、状況が次なる階梯へと至るを示す、幕開けの音叉なのだと。

次の瞬間、天裂き大地を叩き割るを願うように浄化の王は咆哮した。


――我等が果て無き絶望と虚無の名を此処に告げる!――
――我等が儚き救いと在るべき意味の名を此処に告げる!――
――謹聴せよ、生きとし生ける者どもよ!!――
――我こそ真なるガディムである!!――


傷つきしガディムの周囲に澱んだ闇が、一瞬にして浄滅した。
その巨大なる黒翼が一斉に打ち震え、黒輝と化した漆黒の羽根が散る。

それはさながら、冥暗の花吹雪。

暗色の羽根が踊り狂うその只中で、一六ある黒翼の悉くが飛び散る羽根と変化し、消滅する。
換わりと云わんばかりに、漆黒の巨体にズルリと生え聳えたのは、蝙蝠の如き皮膜の羽根。一対二翼の巨大な皮膜。
そして、滅びを迎える巨星の如く、混沌の王の双眸が一際強く輝いた。

―――血塗られた紅色

その瞬間、魔狼王ヴォルフ・デラ・フェンリルの余裕めいた表情が、困惑へと移り、驚愕を経て苦渋へと転化した。

「これが…しまった! そうか、俺としたことがッ」


そして―――

「うぐぅッ!!」

あゆの翼を構成する白い羽根、その総てが泣き喚くように総毛立ち、あゆは激痛の走った翼の根元を抑えて蹲った。

「あゆッ」

慌てて手を差し伸べようとした祐一。だが、その右手から発せられた強烈な白光に祐一は思わず低く唸り声をあげる。そして光りつつ、狂ったように暴れ出した剣を見て叫んだ。

「メモリーズ!?」

「きゃう!」

そしてまた、悲鳴をあげる少女が一人。

「み、みずか、どうした!?」

不意によろめいたみずかの姿が一瞬掠れたのを見て、浩平は焦ったようにその手を握る。
蒼ざめた少女の唇から、切羽詰った恐れが漏れる。

「いけない、これこそが理を歪める者、世界を滅ぼす者、わたしを消し去る者――あなたたちが、そうだと云うの!?」


――然り、我等こそがガディム――


ワンッ、と大気を震わせた、それは清音。

その声を聞いた瞬間、その場に居た全員が戦慄とともに震え上がった。


その声音は鈴音の如く涼やかに。
聖女の如く神々しく。
天地の調べのように静穏に響き渡った。

それまでの異形の神より発せられていた低く重い大地を震わす鳴動のような響きではない。

それは遥けき天空に広がりし、清涼なる大空の如き澄み渡った清音であった。


無意識に、ガディムの側に居た耕一と浩之が飛び退り、慄くように間を広げる。

爆発的に膨張する危機感。
まったく同様に連鎖する、それは恐怖。
桁外れの力持つ存在に対する生命としての慄き。



――拙い拙い拙い拙い!! これは絶対に拙い!

本能だけが喚きたてる中で、だが柏木耕一は飛び退く以上の行動を何一つ起こせなかった。


――いけない! このままでは絶対にいけない!! 動いてッ、動いて、私の体!!

どれほど願い、叱咤しようとも、だがピクリとも動こうとしない自らの足と体に川澄舞の心は焦燥に焼け焦げる。


誰もが同様の切迫に犯される中で、神経のすべてが氷結したかのように、まったく身動き一つ取れなかった。


それは、神が降りたる聖なる一刻であるが故に。


――――――そして、其れは現れいずる。


――シャン

億の鈴が、同時に鳴ったかのような調べ。


――シャン

吹き荒ぶ風の音も、身動ぎによる衣擦れの音も、漏れ出る呼気の音ですらも、いつの間にか消え去っていた。


――シャン

それは絶対無音の静寂領域。
その只中に、ただこの音だけが響いていた。


――シャン

月宮あゆは知っている。
この瞑音を知っている。
微睡みの中で聞いた、この心震える旋律を。


不意に、ガディムの双眸から煌々と輝いていた紅の光が途絶えた。
双眸より光失われ、力無く項垂れるその姿は、誰の目にも骸を連想させる。
生気が喪われた漆黒の巨体。
だが、誰も引き絞られきった緊張を緩める事など出来なかった。
さらなる悪寒が彼らを駆け巡る。

それは予感。
それは確信。


そして――――

期を同じくして新たなる光芒が産まれた。


その位置は、漆黒の巨体―ガディムの胸郭部。

生まれたる光輝の色は純白。
冷めるような白色であり、雪のような光芒。

「ああ」

その呆けたような感嘆の呟きを漏らしたのは、倉田佐祐理か天野美汐か。
そのいずれでもあったかもしれない。

彼女らが見た。

その双眸に焼き付けた。

漆黒の闇より出でし、白くたおやかな手首の形を。


そして、身動ぎも出来ずに見届ける。


その光景はさながら、暗黒に閉ざされた世界からの光の生誕。

ガディムの胸郭より伸びたる人の腕。
やがて、その漆黒の肉の中から、光と共に現れいずる。
それは人のしなやかなる両足。
光よりも白く、肌よりも白い、それは踝まで翻る柔らげな白衣。
その胸部を押し上げる緩やかな丘陵が、その体躯が女性である事を示していた。

そう―――混沌の王の内より現れし、その者は一人の女性。


誰もが言葉を失うなかで、ガディムの中より現れた女は、フワリと大地にその素足を触れた。


――シャン

再びあの鈴の音が鳴る。
闇より生まれし光に満ちた、この虚ろなる空隙の中に。

その鈴の音は粛然と、そして燦然と響き渡る。

その時、初めて彼らは知った。
その奇跡の如き美しき音色が、羽根震わせる羽ばたきの旋律なのだと。

女の背には、純白の翼が在った。
数えずともわかる、その数は八対にして一六の白翼。
翼はあまりにも美しい旋律を奏でながら、ゆるゆるとその身を虚空に泳がせていた。

余りにも神聖。
余りにも高貴。

その光景は、さながら天使の降誕の如く。
その光景は、まさに奇跡の具現の如く。



それはまさに――――

――― 一六翼真の純白(トゥルー・ピュアホワイト)



その羽根の余りに現実離れした美しさに、誰しもが心奪われる。
彼らは初めて知ったのだ。

―――即ち。

美しさとは、恐怖そのものなのだと云う事を。



いつの間にか身悶えするように白光を発していた『メモリーズ』は、低く唸り声を発するように光を仄かな白色へと変じていた。
激しく動悸する心臓を自覚しながら呆然とその女を凝視していた祐一は、ふと一つの事柄に思い至る。

何故だ? 俺は……このヒトを知ってる気がする。

一六の翼を背負ったその女性は、慈愛を具象したような柔らかな面差し。生命を愛でるようなたおやかな白手。草むらを歩くが如き無垢なる素足。
その肩までそよぐ栗色の髪の毛は絹糸のようで、雪のように白い彼女の中で一際その大人びた愛らしさを強調させていた。

会ったことはない、絶対に。じゃあ…なんでだ!? なんで俺はこのヒトを見知っている気がする!?

その悪夢のような答えは、すぐさま傍らの少女から発せられた。


「そ…んな」
「あゆ?」

今更のように隣に居た月宮あゆの存在を思い出す。彼女のあまりに震えきった、だが恐怖ではない激情に揺れる声に祐一は振り返る。

「こんな、こんなのって…ないよ。どうして…どうしてだよ、いやだ…いやだ、なんでこんな、こんなッッ!!」

掻き毟るように両手で顔を多い、その指の隙間から溢れるように涙が伝う。
今まさに糸が切れようとしている人形のように、膝から力が失われ、愕然と少女は立ち尽くしていた。
言葉にならない言葉がその唇から漏れ、掌に覆われた双眸は、だが哀れなほどに見開かれ、凍りついたように純白の翼の女を見つめていた。
一時たりとも見逃さぬように、瞬きすら失われ。


「あ、あゆ、どうした! しっかり――」

裸で真冬の海に投げ出されたようにガタガタと震えるあゆを、思わず抱き締め、落ち着かせようと一歩踏み出た相沢祐一。


「これは――!? あゆちゃ―――」

魔族の残党たちを蹴散らし終え、いきなり膨れ上がった桁外れの力の波動を感じ、慌てて上泉伊世とともにこの神の降りたる広間に舞い戻った相沢奈津子。


そして、この場にいた全員が、あゆの絶叫を聞き、声を失い凍りついた。


「うそだ、嘘だ嘘だ嘘だぁぁぁ! ドウシテ? ナンデ? ボクたちは魔王と戦ってるんだよ? なのに、なんで此処に…ボクたちの前に居るの?」


月宮あゆは泣き叫ぶままにその名を呼んだ。


「嫌だ、嫌だよ、こんなのってないよぉ!


――――お母さぁぁんッ!!」






かつて――――


かつて、娘をその過酷なる運命から解き放つために、我が身を投げ打った女性が居た。
母として生き、母として消えた女性が居た。

彼女の名を―――月宮美由といった。





娘の叫びを静かに受け止め、月宮美由の姿をした者は凍りのように冷たく、だが諭すように告げる。


――我は世界を破壊する者――
――我は世界を改める者――
――我は世界を創造する者――
――我等こそは聖魂統合体ガディム――
――我等が娘、小さきあゆよ――
――我は汝の母たるか――
――その答えは然りであり、また否である――
――その事実を心せよ――
――そして受け止めるのだ――
――我こそがガディムであると――



月宮美由/ガディムの閉じられた瞼が帳をあげるように開かれる。
そこより光るは紅玉の如き紅の闇。

真なるガディムは冷たい雪を誘うように、静やかに宣誓した。


――さあ、改めて此処より始める――
――滅びと創造への征途を――
――我が絶望と虚無を癒し、儚き救いを求める為に――
――我が真名、ガディムの名の下に!!――






―――遥か古より連綿と続いた、翼在るモノたちの物語は。
―――この瞬間、最後の階梯へと至る。


時に盟約歴1096年。
…冬風に春の気配が滲み出した日の事であった。


 …続く






  あとがき


八岐「残すところ後数話。そしてとうとう最後の展開へと入りました」
栞「はぁぁ、キましたねえ、これは」
八岐「ある人に言われました。この作品の悲劇のヒロインは香里だと思われがちだけど、実はあゆの方が悲劇のヒロインなんだと」
栞「そうですよね……避けられちゃいましたし」
八岐「え? い、いや、それは…」
栞「ヒョイ、ですもんね」
八岐「……その意味でも悲劇のヒロインだといえばその通りなんですが(汗」
栞「さて、物語りも本当にクライマックス」
八岐「あと少しとなりましたが、最後までお付き合いいただけるよう頑張ります」
栞「それでは、この辺で〜」
八岐「失礼しまーす」





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